下北沢駅は
ながく
最寄り駅のひとつとして使った
怪談芸人のシークエンスはやともは
下北沢で道にまよい
ひとのいない奇妙な住宅街に入り込んだ
グーグルマップを調べても
ちゃんと表示されず
しばらく迷い続けるうちに
ふいに商店街に出た
下北沢も
世田谷代田も
梅ヶ丘も
東北沢も
池の上も
駒場東大前も
どこも
さんざん歩きまわった
馴染みのあるところ
シークエンスはやともが迷ったあたりも
だいたい想像がつく
猛暑のなかをさまよったり
寒さが身に沁みてくるような冬場に
散策して歩きまわったうちの
ひとつ
シークエンスはやともが言うような
異様な経験には
遭遇したことはなかったが
どこか
ヘンな雰囲気があちこちに漂う街なのは
よくわかる
ひさしぶりに
地図をひらいて
下北沢を俯瞰してみた
そうして
シークエンスはやともが語る怪異譚とは
まったく関係がないのだが
ある奇妙なことに
いまさらながらに気づいた
下北沢が
異様なほど多くの教会に
囲まれているのだ
北のほうには
頌栄教会や世田谷教会がある
西北には下北沢教会
南西には代田5丁目に都民教会
代田2丁目には代田教会
環七を渡ったむこうの代田4丁目には中原教会
南東には富士見丘教会
さらに南に行くと東京聖三一教会
池の上と駒場東大前のあいだの駒場エデン教会までは
数える必要はないだろうし
東北沢のほうの代々木上原教会も
加えて数え上げる必要はないだろうが
それでも下北沢周辺の教会群を囲むかたちで
それらが存在しているのは見てとれる
さんざん歩きまわって
隅々まで見知った下北沢周辺の地図を見ながら
これらの教会の数は
いったいどういうことなのだろう?
と今にして思う
どの教会の前も歩いたことあり
とりわけ
池の上に住んでいた頃は
下北沢のピーコックやナチュラルハウスに買い物に出て
歩いて池の上に帰ってくるので
時には回り道をして
頌栄教会や世田谷教会のほうへ逸れて
小さな非日常の散歩をしてみることもあった
いちど
下北沢駅近くで
重い荷物に難儀している老婦人を助けて
そのひとの家までいっしょに運んでいってやったことがあったが
その場所も
頌栄教会や世田谷教会に近い北沢1丁目だった
老婦人は小さな家にひとりで住んでいて
じぶんも歳だから
あなたのような親切なひとにこの家を譲りたい
などと言ってくれたが
その後そこを訪ねることは二度となかった
どうして再訪しなかったのだろう?
などと今は思うが
理由はもう覚えていない
ただ非常に忙しい気分だった頃で
住まいから15分や20分で行けそうな場所でも
わざわざ再訪する余裕がなかったのだろう
若い頃の
孤独なちっぽけな地元旅の記憶が
下北沢を中心とする地図を見ていると
無限に思い出されてくる
この下北沢について
吉増剛造は
ああ
下北沢裂くべし、下北沢不吉、日常久しく恐怖が芽生え
る、なぜ下北沢、なぜ
と書いた
これをはじめて読んだ時
わたしの頭に浮かんだ場所は
下北沢駅わきの
ピーコックの前に残っていた
北沢2丁目24番地のションベン横丁のような暗い商店街で
戦後のバラック作りの商店街の名残のような一画であり
毎日のように下北沢に買い物に来ていても
ほとんど踏み入っていくことのなかった一画だった
「下北沢駅前食品市場」という名で
ひとによっては馴染みの店もあったのだろうが
ここで売られているような乾物だの雑貨だの漬物だのは
ほぼピーコックで調達できてしまうので
わざわざ入っては行かなかった
吉増剛造は
下北沢に住んだり
さらに
線路を越えて代田に移り住んだりした
萩原朔太郎のにおいを辿って
下北沢を見ているので
朔太郎の下北沢新座敷と代田の家とのあいだにある
小田急線下北沢2号踏切のことを踏まえて
不吉
と書いたのかもしれない
この踏切のわきには地蔵があって
石碑に
同じ家の子どもが踏切で続けて亡くなった
と刻まれている
吉増剛造は
こう書いてもいる
引っ越した二つの住居の新屋敷寄りの中間点に、この踏切はある。
くわえて
昔はこの踏切のあたりで
電車から振り落とされる乗客があった
下り電車は下北沢駅を出ると
下北沢2号踏切あたりでカーブに差しかかる
昔は電車のドアが手動であったため
カーブに差しかかった電車のドアが開いている場合もあれば
開いてしまう場合もある
そのために乗客が振り落とされ
大怪我をしたり死んだりする
さらに
この下北沢2号踏切脇にあった
工事用具置き場では
戦後
首吊り自殺が相次いだ
下北沢2号踏切の西にある
下北沢3号踏切も
不吉な踏切だったという
勾配がきつく
カーブで見通しが悪いので
線路にひとが立ち入った際には
電車が止まりにくい
複数の轢死者が出たという
萩原朔太郎は
代田の駒沢線61号鉄塔の下に
みずからデザインした和洋折衷の家を建て
下北沢から引っ越して住んだ
土地が安かったから
というより
好んで鉄塔の下に住むのを決めたらしい
鉄塔に合わせて
鋭く尖がった三角屋根にした
昭和9年に発行された詩集「氷島」は
駒沢線61号鉄塔下の
この家で編まれた
萩原朔太郎の終焉の地でもある
駒沢線61号鉄塔は
現在の住所では
世田谷区代田2丁目4−10にある
この住所を見直して
付近の地図を眺めてみると
約12年ほど
世田谷区代田1丁目7-14に住み続けたわたしにとって
朔太郎の終の住処がどれほど近かったか
今さらながらに感じられ
驚かされる
しかも
早稲田大学の大学院博士課程に通ったり
それと重なって
早稲田大学文学部の文芸専修の助手を勤めた期間
わたしは下北沢駅よりも
世田谷代田駅を使うことにしていたので
代田1丁目の花見堂小学校前や代田南地区会館や天理教会前を通っ
梅ヶ丘通りに出て
信濃屋の前から代田の丘の急勾配を上がったり
圓乗院のほうから急勾配を上がったりして
世田谷代田駅に向かったものだった
どちらの道を上がるにしても
代田2丁目4−10の鉄塔はつねに視野に入る
当時は
その鉄塔がまさか
萩原朔太郎終焉の地とは思わなかったので
特別に注意もしなかったが
毎日のように間近を身体的にかすめつつ
わたしの日々は送られていっていた
吉増剛造は
文芸読本「萩原朔太郎」に
萩原朔太郎を慕って
「下北沢あたりを、
と書いており
「朔太郎はいまもなお生きている、わたしにとっては『氷島』
とも書いていた
その吉増剛造に
早稲田の文芸専修の講演会に来てもらいたい
と頼んで
詩人の吉田文憲に仲介してもらって
話に来てもらうようにこぎつけたわたしは
1998年12月12日土曜日
文芸専修助手として
吉増剛造を文芸専修講演会に迎えたが
この日も
わたしはもちろん
萩原朔太郎終焉の地である
代田2丁目4−10の鉄塔を視野に入れながら
代田の丘の急坂を上り
世田谷代田駅まで向かったものだった
詩人の新井豊美や林浩平なども
わざわざ聞きに来た講演会が終わった後
早稲田大学文学部戸山校舎の前から
吉増剛造はわたしをタクシーに引き込み
そのままふたりで渋谷に向かった
駒形どじょうに入ろうと言うので向かったが
ちょうど満員になっていたので
「それじゃあ、ちょっと簡単で申し訳ないけれど」
と東急Bunkamuraの
ドゥ・マゴに連れていかれた
「ぼくは労働者だからビールを飲むんだ」
と吉増剛造は言って
ビールをとり
もちろん
ワインやつまみもとって
持ってきた店員に
軽い口調で「サンキュー」と言った
これが吉増剛造調なんだな
とわたしは思った
2時間半ほど話し
わたしの詩の文体を褒められ
書いていくのを励まされたりしてから
「これから駒場に借りている部屋にいくから」
という吉増剛造と
ドゥ・マゴを出た
Bunkamuraの前で
今しばらくの立ち話をして
吉増剛造は
松濤美術館方面へ歩いて行くことになるが
その前に
左手の円山町界隈を指し示し
「こっちに行くとアブナイほう、ね」
と笑った
「ぼくはこっちのほう、駒場のほうへ」
と言って
歩き出した
吉増剛造と分かれたわたしは
書店Book1stに寄って捜し物をしたが
フランス語の参考書を探しに来ていた高校2年生の水野早乙美と
偶然話すことになり
そのままロッテリアに向かって
フランス語の学び方を教えることになる
吉増剛造の言う「アブナイほう」へ
行ったわけでは
なく
清純なロッテリアの夜
だった
*吉増剛造詩集「黄金詩編」(思潮社)
**吉増剛造「猫町界隈」イメージの冒険1 地図不思議な旅 (河出書房新社 昭和53年)
***文芸読本「萩原朔太郎」河出書房新社 昭和51年)
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