2024年3月28日木曜日

この冥き遊星に人と生れて

 


 

このあいだ話したフランス人の青年は

ピンクの桜はいいけれども

白い桜はあまり好きではないと言っていた

赤の勝った緋寒桜や河津桜のほうが

いいというのだろう

 

それもわかる

 

わたしも二十代はじめまでは

ソメイヨシノにはまったくの不感症で

公園でいっぱい咲いていても

ああ、咲いているな

としか思わなかったのを

ほんとうによく覚えている

 

小林秀雄の『本居宣長』のハードカバー本は

1978年発行だったが

見返しに咲いた山桜の絵を配していて

宣長の短歌

しきしまの大和心を人とはば朝日に匂う山桜花

にあわせた装幀となっていたが

あれを見た際にも

やっぱり桜か…

と思っただけだった

 

山桜とソメイヨシノでは雰囲気はまったく異なり

そんな差異からも

美の細かな味わいは感じとれるのだが

二十代までのわたしにおいては

そうした感性さえもあまりに未発達だった

美術には耽溺していたつもりなのに

この欠落はいったいなんだろう?

西洋ふうの美への傾きのせいとも思えるが

歳を重ねた今となっては

若年というものの本質的欠落のせい

と見てしまいたい気もする

 

わたしにソメイヨシノの美を教えたのは

大学時代から惹きつけられた歌舞伎の舞台と

鈴木清順の映画だった

歌舞伎では盛大に花吹雪が舞う演出もあるが

静かなお屋敷内の場などで

ふと天井から一枚二枚が舞い落ちてくることもある

劇場内ならではのあの光景にわたしは

この世というもの成り立ちぐあいの象徴を見た

舞台上の物語の進行と関係なしに

舞い落ちてきてしまう無関係な紙片の美に

宿命や偶然といったものの権化をあわせ感じて

えも言われぬ衝撃を受けたものだった

 

そうしたふいの紙片の落下の美に

鈴木清順はみごとなまでに敏感な映画監督で

歌舞伎の粋を1980年代に映像にすれば

どうにも避けようもなく

『ツィゴイネルワイゼン』のようになるだろうと思わせ

代々木に作られた仮映画小屋のシネマプラセットに

わたしは三度も『ツィゴイネルワイゼン』を見に行った

一度などは激しい雨降りをプラスチックだか

ビニールだかの屋根に受けながら雨音の下で鑑賞した

桜やソメイヨシノへのわたしの開眼というのは

歌舞伎と『ツィゴイネルワイゼン』への陶酔の中から

はっきりと後天的なものとして形成されたものだ

 

歌舞伎も『ツィゴイネルワイゼン』も

わたしのように切実に見たことのない青年に

桜もソメイヨシノもわかるわけがない

わたしにとっての歌舞伎や

『ツィゴイネルワイゼン』のようなものを通せば

彼にもわかる時は来るだろう

それまでわからなくてもいいし

わからないあいだには他のものをわかるだろう

美的体験の個体差といったものは

いかようにも多様で異なっていてよい

美の受け取りかたの定番がなくてもいいし

そうした定番に行き着かなくてもいい

色があり

かたちがあり

花を咲かせた枝の揺れがあり

散る花びらの絶え間ない運動があって

それらに心を奪われるひとときがあれば

いわば万人共感が瞬時に発生する

「あなたがキリストである証拠はなにか?」

と弟子トマスがイエスに問うた時

「それは動きと停止とである」

とイエスは答えたが

この問答を借りて

日本文化が日本文化である要とはなにか?

と問うてみれば

満開時の桜の静まりと

散る時の無限とも思わせられる運動性とであろう

といった答えをわたしは用意する

静まりと運動性との

そのどちらかということではなく

両方でなければならない

 

桜という現象の謎にことばで肉薄しようとした人々の

こころみには

春の来るたびごとに

何度も触れ直さねばなるまい

 

ここに

とりいそぎの

即興五十七首撰を

 

 

 

背信の古傷なめて冬過ぎて春は桜とまた言ひてをり  

築地正子

 

花咲かば告げよと言ひし山守の来る音すなり馬に鞍おけ

源頼政

 

面影に花の姿をさきだてて幾重越え来ぬ峰の白雲

藤原俊成

 

隅田川堤の桜さくころよ花のにしきをきて帰るらん  

正岡子規

 

うすべにに葉はいちはやく萌えいでて咲かむとすなり山ざくら花  

若山牧水

 

見わたせば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりけり  

素性

 

葛城や高間の桜咲きにけり立田の奥にかかる白雲

寂蓮

 

咲きのかぎり咲きたるさくらおのづからとどまりかねてゆらげるごとし 

三ヶ島葭子

 

あじきなく春はいのちの惜しきかな花ぞこの世のほだしなりける

和泉式部

 

世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし

在原業平

 

さくらばな陽に泡立つを見守りゐるこの冥き遊星に人と生れて

山中智恵子

 

よきものは一つにて足る高々と老木の桜咲き照れる庭

窪田章一郎

 

清水へ祗園をよぎる花月夜こよひ逢ふ人みな美くしき  

与謝野晶子

 

何となく君に待たるるここちして出でし花野の夕月夜かな  

与謝野晶子

 

春の夜に小雨そぼ降る大原や花に狐の出でてなく寺 

与謝野晶子

 

さざ浪や志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな

よみ人しらず (千載)

 

吉野山梢の花を見し日より心は身にも添はずなりにき

西行

 

咲けばちる咲かねば恋し山桜思ひ絶えせぬ花のうへかな

中務


山ぐちの桜昏れつゝほの白き道の空には、鳴く鳥も()ず  

釈迢空

 

もろともにあはれとおもへ山桜花よりほかにしる人もなし

行尊

 

日はさせど飢ゑゐるごとき心にてすこしつめたく桜さくなり  

藤井常世

 

夜ざくらを見つつ思ほゆ人の世に暗くただ一つある〈非常口〉 

高野公彦

 

花の色に光さしそふ春の夜ぞ木の間の月は見るべかりける

上西門院兵衛

 

花の上にしばしうつろふ夕づく日入るともなしに影きえにけり  

永福門院

 

風かよふ寝ざめの袖の花の香にかをる枕の春の夜の夢

藤原俊成女

 

〈女は大地〉かかる矜持のつまらなさ昼桜湯はさやさやと澄み

米川千嘉子

 

今しばし死までの時間あるごとくこの世にあはれ花の咲く駅

小中英之

 

死の後にゆき遭ふごとき寂かさに水に映りて桜立ちゐき

河野裕子

 

今日にして白金のいのちすててゆくさくらさくらの夕べの深さ

松平盟子

 

あはれしづかな東洋の春ガリレオの望遠鏡にはなびらながれ  

永井陽子

 

いにしへの奈良の都の八重桜今日九重ににほひぬるかな 

伊勢大輔(たいふ)

 

やどりして春の山べに寝たる夜は夢のうちにも花ぞちりける

紀貫之

 

ひさかたの光のどけき春の日にしづ(ごころ)なく花のちるらむ  

紀友則

 

散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と咲く小夜嵐

三島由紀夫 辞世

 

山里の春の夕ぐれ来て見ればいりあひの鐘に花ぞちりける

能因

 

咲き急ぎ散りいそぐ花を見てあればあやまちすらもひたすらなりし

藤井常世

 

雪とのみふるだにあるを桜花いかにちれとか風の吹くらむ

凡河内躬恒

 

「キバ」「キバ」とふたり八重歯をむき出せば花降りかかる髪の背中に  

穂村弘

 

またや見む交野のみ野の桜がり花の雪ちる春のあけぼの

藤原俊成

 

み吉野の高嶺の桜ちりにけり嵐もしろき春のあけぼの

後鳥羽院

 

弘法寺の桜ちるなか吊鐘は音をたくはへしんかんとあり 

高野公彦

 

桜ちる木下風は寒むからで空にしられぬ雪ぞ降りける

紀貫之

 

駒並めていざ見にゆかむふるさとは雪とのみこそ花はちるらめ

よみ人しらず (古今)

 

年をへて花の鏡となる水はちりかかるをや曇るといふらむ

伊勢

 

花さそふ比良の山風吹きにけり漕ぎ行く舟のあと見ゆるまで

宮内卿

 

山川を苗代水にまかすれば田面(たのも)にうきて花ぞ流るる

阿仏尼

 

桜花ちらばちらなむちらずとてふるさと人の来ても見なくに

惟喬親王

 

春雨の降るは涙か桜花ちるを惜しまぬ人しなければ

大伴黒主

 

花はちりその色となくながむればむなしき空に春雨ぞ降る

式子内親王

 

みづからをいきどほりつつなだめつつ花の終りをとほく眺めつ

小中英之

 

たれこめて春のゆくへも知らぬまに待ちし桜も移ろひにけり

藤原因香

 

さくらさくらさくら咲き初め咲き終りなにもなかったかのような公

俵万智

 

花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに

小野小町

 

残りなくちるぞめでたき桜花ありて世の中はてのうければ

よみ人しらず (古今)

 

花散りて葉いまだ萌えぬ小桜の赤きうてなにふる雨やまず

正岡子規

 

花散りて実をもつ前の木は暗し目つぶれば天にとどく闇ある  

馬場あき子

 

さくらんぼいまださ青に光るこそ悲しかりけれ花散りしのち

北原白秋

 

 




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