2024年9月23日月曜日

歴史観的義務


 


 

「この国」に自分の家がある。

「この国」はどうも、自分の国ではないらしい。

   しかし、「この国」にしか自分の家はない。

   リービ英雄 『満州エクスプレス』

 

 


 

 

日本人の10才の男の子が

中国南部・広東省深圳市で刺されて死んだが

もちろん

SNS上では大騒ぎとなっていた

 

 

日本人側の書き込みでは

中国人は日本人を敵視していて

機会あれば傷つけたり殺そうとしたりしている

といった意味のものが多かったし

中国で行われている反日洗脳としての

反日教育の実情を挙げているものもあった

昔の抗日戦争期を扱った映画には

日本軍が残虐なしかたで中国人を殺すシーンがふんだんに盛り込まれ

それを小学校で生徒たちに見せるのだから

日本人なるものの本質は映画に見られるように残虐で

けっして油断してはならない

いずれは殲滅し尽くさねばならないと

幼い中国人たちは自然と教育されていく

だから日本人は中国人に油断してはならない云々と

そういった論調のSNSも多かった

元駐オーストラリア大使の山上信吾なども

今回の事件が中国における長年の「反日教育」の結果とし

「ひとりの日本人児童の貴重な命を奪った」とXに書き込んでいる

 

 

これにたいして中国のSNSでも

日本人の男の子を殺した犯人を讃えるものが多かったとか

逆に哀悼の意を表わしている中国人も多かったとか

そうかと思うと

深圳市に住んでいた日本人によれば

反日の雰囲気を感じたことは一度もないとか

いろいろな書き込みがいっぱい出ていて

本気で真相を知ろうとするならば

少なくとも日本人側と中国人側の数百ほどの書き込みを集めて

しっかりと内容を読んでみた上で数値化してみないと

最低限の正確さは得られない状態と見えた

 

 

どこの国籍の10才の男の子であれ

腹を刃物で刺されて死に至ってしまえば悲惨な大事件というべきで

これは日本人であろうが中国人であろうが違いはない

中国での反日教育なるものがどの程度のものか実地で見ていないけれど

反日教育のようなものが実施されてきた現代の中国で

10才の日本人の男の子が殺されたとなれば

中国で為されている反日教育のせいだとか

空気の中に漂う反日の風潮のせいだ

と言いたがる日本人が現象としては出て来がちになる

しかしそれでは日本国内で日本人の男の子が

同じように日本人から刺されて死ぬような事件はないのかと言えば

あり得るわけだし現にいろいろな犯罪事件が起き続けている

日本で外国人の男の子が殺されるケースもあるだろう

中国人に日本人の男の子が殺されたのは事実だとしても

だからといって「日本」と「中国」を敵対させてよいことにはならないし

このふたつの観念をぶつけてもなにかうまく解決するわけでもない

これは思考の手続きに関わることだからだ

 

 

もちろん6月にも東部・蘇州市で

日本人の母子が刃物で襲われる事件があったのは覚えているし

北東部・吉林省ではアメリカ人の大学講師4人が

やはり刃物で襲撃される事件があったのも覚えている

これらをあわせて見直そうとすれば

やはり中国人の心にある排外的な気持ちが犯罪を引き起こしている

と考えてみたくなりはする

とはいえこれではあまりに少ない事件数であって

中国人一般に殺人に至るまでの排外的な気持ちや

同じように殺人を引き起こすまでの反日感情が浸透しているとはいえない

 

 

今回の事件が起きた918日はちょうど柳条湖事件の日で

中国側から見れば「国恥日」である

関東軍高級参謀板垣征四郎大佐と

関東軍作戦主任参謀石原莞爾中佐が首謀し

関東軍の一部隊である奉天虎石台駐留の独立守備第二大隊第三中隊付の

河本末守中尉ら数名の日本軍人が

1931918

中華民国遼寧省瀋陽市北方約7.5キロメートルにある柳条湖付近

南満州鉄道の線路を爆破によって破壊した

満州侵略を正当化するための謀略による偽装爆破で

日本国内においてさえ第二次世界大戦が終わるまでは

張学良ら東北軍による犯行と信じられていた

中国との14年にわたる戦争の引き金となった事件だった

 

 

10才の日本人の男の子を刃物で刺した中国人は

当然ながら柳条湖事件を意識していただろうし

みずから中国なるものの国体に成り変わったつもりで

日本人の男の子に突き刺した刃先に

柳条湖事件への復讐の念を込めていた可能性はありうる

93年前の「中華民国」に対する「大日本帝国」軍人による謀略なのに

なにを愚かなことを!

と現代の一般的な生活感覚からは思うことが多いだろうが

そう思うことが「多いだろう」というだけのことで

どんな時代にもどんな状況下であっても

必ずそこから洩れたり逸れたりする意識の持ち主というものがある

『罪と罰』のラスコーリニコフや金閣寺を焼いた若き学僧林承賢は

そうした意識の流れに乗って動いていった例といえる

こういう人間たちにとって過去はつねに共時性のもとに

ありありと現在として生きられている

柳条湖事件は2024918日に起こった事件でもあり

起こりつつある事件でもあれば起ころうとしている事件でもあって

これを起こさないためには日本人の身体に襲撃を加えねばならなかった

キリスト教においてパンがキリストの肉となり

ワインがキリストの血となるように

どこの誰であってもいいひとりの日本人の肉体が

柳条湖事件を起こしつつある「大日本帝国」そのものとなるはずだった

わかるでしょ、日本人なら?

だって「象徴」、大好きだものね

と中国人刺殺者は思ったかもしれない

 

 

93年前に遡ってみたのだから

ついでにもうちょっと中国を遡ってみようか

 

 

民衆の反乱が続き白蓮教徒の乱なども起こって

18世紀には清は混乱状態にあったが

19世紀に入って30年代にアヘン貿易の取り締まりに乗り出すと

植民地化の機会を窺っていたイギリスはアヘン戦争を仕掛け

1842年の南京条約で香港を奪い取り

不平等な条件のもとに五つの港を開港させた

アメリカとフランスも同様に清に開国を迫り

1844年には清は屈服する

 

 

こうした帝国主義諸国の圧力で民衆の負担は増大し

1851年に太平天国の乱という大蜂起が起こる

上帝会という宗教結社を作った洪秀全が

土地の均分や男女平等や租税軽減などを実現すべく

理想の国である太平天国を作ろうと呼びかけたもので

満州族の清を滅ぼして漢民族の国を作ろうと「滅満興漢」を掲げて

1853年に南京を占領して天京(テンキン)とした

清は1864年にイギリス軍の応援を求めてこれを鎮圧するに至ったが

蘇州では8000人を虐殺し

最後の天京攻防戦の後には20万人を虐殺した

こうした内戦のかたわら1856年には

イギリス船籍アロー号の国旗が

清の官憲によって引き下ろされたことに端を発するアロー戦争が起

1860年に北京が占領されて北京条約が結ばれる

イギリスやフランスが不平等な条約を結ばせて清に食い込んだのを見て

さらにロシアやドイツや日本も清を侵蝕しつつあった

 

 

ロシアは17世紀にシベリア開拓を進めて

1689年にネルチンスク条約を結んで通商を開いていたが

1858年にアイグン条約を結んで黒竜江以北を獲得し

1860年には北京条約で沿海州を手に入れて

ウラジオストークに港を開いた

 

 

日本は1874年に台湾に出兵し

1875年には朝鮮に侵入して

甚だしい不平等条約である日朝修好条規を結んで朝鮮を開国させた

1894年に農民蜂起の東学党の乱が起こると

これを機会にふたたび朝鮮に出兵し

同様に農民蜂起を鎮圧しに出兵してきた清と衝突して日清戦争となった

この戦争に勝った日本は台湾や遼東半島を獲得するが

ロシアとドイツとフランスから三国干渉を受け遼東半島を清に返還する

しかしその遼東半島をロシアが租借することになり

ドイツも1898年には宣教師殺害事件を口実に膠州湾を租借

イギリスとフランスも威海衛や九竜半島や広州湾を租借した

鉄道の利権もこれらの国々によって分割された

アメリカは中国に対しては出遅れたが

1899年に門戸開放や機会均等を要求し

中国領土や利権の仕切り直しを執拗に求める

 

 

こうした危急存亡の事態の中で中国では

ヨーロッパ文明を取り入れて近代化を図ろうとする洋務派も出たが

排外主義勢力のほうが力を持ち

1900年に「扶清滅洋」をスローガンとする義和団の蜂起が発生して

北京の外国大使館を包囲するが

ヨーロッパ各国は共同出兵して北京を占領し

1901年に清は屈服して巨額の賠償金を払わさせられ

外国軍の駐屯も認めることになった

この後では清朝反対運動が激化することになり

民族独立と民権尊重と民生安定の三民主義を唱える孫文が

中国同盟会を1905年に東京府池袋で組織して

清朝打倒を呼びかけることになる

日本留学中の蒋介石とも池袋で会ったという

 

 

1911年の鉄道国有化問題から広がった暴動で

ほとんどの省が清朝から独立し

19121月に反清朝派が南京に集まって中華民国樹立が宣言さ

孫文は臨時大総統となった

これを倒すべく清は袁世凱の軍隊を派遣するが

袁世凱は中華民国と取り引きをしてしまい

自分が大総統となる条件で清朝の皇帝を退位させてしまう

この辛亥革命によって清朝は滅亡したのだが

袁世凱は必要なはずのさまざまな改革を阻み

各地に軍閥が起こって戦いあう事態となっていく

 

 

ここまでザッと見てくれば

後は20年ほどで柳条湖事件に至ることになるのだが

それにしても

あの広大な中国大陸における

長い長い時間にわたる

なんという民族的主権の喪失であろうか

なんという長期間のアイデンティティーの喪失であろうか

このことをわずかながらも見た上で

関東軍が謀略した柳条湖事件も満州国建国も

見直し考え直すのは

日本人に課せられた歴史観的義務というべきものだろう

ひとは一瞬たりとも

なんらかの歴史観や世界観を持たないかぎりは

自己の精神の現在を生きることはできない

歴史観的義務と言ったのは

歴史観を持つ上での必要最低限の手続きということである

 

 

人間はある程度以上歳を重ねると

地球上のどこの文化であれ

国であれ

国民であれ

黙って見つめてみれば

自分がたまたま属してきた文化や

国や

国民を見るのと同じように

親しさを感じ

愛おしくもなってくるものではないか

ひょっとしたら

自分が属していたのかもしれない文化や

国や

国民として

あり得たかもしれない祖国として

故郷として

すべての文化や国や国民は見えてくるものではないか

地上のどこにも

まこと同じような苦労があり

喜びがあり

生活の工夫があり

悲しみがあり

嘆きがあり

夢があり

希望があるものだと

どこの文化や国や国民を見ても

あたりまえに思い描くものではないのか

 

 

乱世につぐ乱世の末に

植民地時代の欧米の帝国主義の餌食にされ尽くした中国の歴史を

ほんのすこしでもふり返ると

柳条湖事件から90年経った程度で

地球上で最大の力を持つ国家に現在なっていることが

人類史観察者の目には

驚くべき慶事と映り

壮観でさえある

たかが100年もしないうちに

これほどまでに様相は変わってしまうものであり

世界は変わってしまう

と知るのは

この地上で学べることの中でも

最大のことのひとつと見なしていいだろう

わたしたちは

ヘロドトスやトゥキュディデスの認識を共有するのだ

 

 

クラシック好きのわたしは

世界のどんな国であれ

そこでなされる演奏を聴けば

自分の国がそこにもある

と感じてしまう

音楽はどんな言語よりも雄弁な共通語であり

ひとつの音楽作品に

その国の演奏家や指揮者や

聴衆がどのように向きあっているか

振舞っているか

それを見れば

そこにわたしの国がある

いま居る場所が滅びてもそこに行って暮らすことができる

と確信している

 

 

中国におけるクラシック音楽受容のありようは

たとえば現代作曲家マックス・リヒター(Max Richter)の

November”を

ヴァイオリンのMari Samuelsen

Long Yuが指揮する上海交響楽団とがどう演奏したかを聴けば

一目瞭然にわかる

つまり現代中国社会の質の高さは

一目瞭然にわかる

ということだ

https://www.youtube.com/watch?v=0jinOTQ9BaU

 

 




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