ほんのちいさな出来事でも
どこから見るか
どことどこを
クローズアップし
どこは削除し
そうすることで
大小説にもなれば
ひと晩の楽しみ程度の
火曜サスペンス劇場にもなれば
走り書きのような
短い詩編にもなりうる
どこから見るか
どことどこを
クローズアップし
どこは削除し
それさえ
奇跡のように
うまくできれば
むりのない
入り込みやすい語り口でも
深く複雑な
人間たちの闇とともに
雲間の切れ目の
蒼空のような
地上で望みうる唯一の希望も
描き出すことができる
ほんのちいさな出来事でも
ほんのちいさな出来事でも
どこから見るか
どことどこを
クローズアップし
どこは削除し
そうすることで
大小説にもなれば
ひと晩の楽しみ程度の
火曜サスペンス劇場にもなれば
走り書きのような
短い詩編にもなりうる
どこから見るか
どことどこを
クローズアップし
どこは削除し
それさえ
奇跡のように
うまくできれば
むりのない
入り込みやすい語り口でも
深く複雑な
人間たちの闇とともに
雲間の切れ目の
蒼空のような
地上で望みうる唯一の希望も
描き出すことができる
ほんのちいさな出来事でも
いつも通る道を
ちょっと
かえて
よく知らない細い通りを行ったら
ツユクサが
群生しているところがあって
ああ
いいものを見た
もうちょっと行くと
エノコログサの
群れて生えているところもあって
ああ
いいものを見た
いつも通る道の鉄柵には
ヤブガラシが
もういっぱいに繁茂していて
緑だったり
オレンジだったりする
あの蕾の色のまざりぐあいが
見れば
見るほど
おもしろみのある
けっこうな
かわいさだ
詩歌を書くひとたちと
つき合いが
けっこう
あった時期もある
痛々しかった
じぶんが書くものが
すぐに
しっかり
読まれるのを望んでいるひとが
ほんとに多かった
痛々しかった
すぐに
しっかり
ひとに読まれるのなど
望んだりしたら
じぶんが書きたいことを
じぶんが好きなように
さらには
じぶんの好き嫌いもはるかに超越した
じぶんにもわからないもの
としての詩歌など
とてもではないが
書き続けられるものではない
だれか
ひとりでも
他人が書けるようなものを書くのなら
詩歌に価値はないが
そういう詩歌は
だれ
ひとり
共感も理解もしてくれない
ものになる
可能性が
ひじょうに高い
詩歌は
共感や理解をしてくれる
たった数人にむけて
だけ
つねに
書かれている
たった数人にむけて
しかも
数千年の長い歳月のなかでの
たった数人
じぶんが書くものが
すぐに
しっかり
読まれるのを望んでいるひとは
青年期から中年期に
移るにつれて
書かなくなってゆき
中年期から老年期に入る頃に
かならず
まったく
書かなくなる
人生
いろいろ
だが
中年期から老年期にこそ
さらには
老年期から超老年期にこそ
書くべきこと
書いてもらいたいことが
ほんとうは
いっぱいになる
若い頃のへんな気負いや
目立ちたがりも消えて
その頃には
なにを言おうと
いい旨みがことばのはしばしに
にじみ出す
老馬老豚老牛老鶏からでも
味のある
出汁が出てくる
書けよ!
書き続けろよ!
老いびとよ!
老いさらばえた人びとよ!
眠りは死である
生きているという経験をしたいのなら
眠ってはいけない
こんなことを言えば
健康学や
医学の見地からは
もちろん愚かにしか見えない
眠りは健康を支える基盤であり
覚醒時の活動パフォーマンスのレベルを高める
必須の要素だから
しかし
生まれて成長した人間が生きていることの
窮極の意義を
巷に溢れるチープな人生価値論の説くように
もし地上での活動経験や
一社会での地位や財の獲得や
動物のような生殖活動や
趣味や趣向への没入などに見出すならば
眠っている時間は必要悪の損失時間ということになるので
全力を尽くして
可能なかぎり削っていかないといけない
という理屈に
どうしても至っていく
眠りを
それ自体での固有の意義ある経験として捉えるためには
社会的活動だけでなく
地上での生存や存在自体にこそ
最重要の意義がある
という価値観に転換していかないといけない
ただ在る
意識がなくても在る
肉体的に呼吸をしている
血液が流れており
さまざまな生体反応が起こり続けている
それだけで価値がある
そういう見方や
価値観の定め方を全的に受け入れないと
眠りの価値は
根本からは認められない
そういう価値観が定まれば
意識を失って寝たきりになっているひとの生きようの
価値なども
しっかり定まってくる
認知症が進んで
じぶんがだれかもわからなくなったひとの存在も
それだけで
価値がある
と
なってくる
だから
逆説的に
眠りは死である
と
言っておきたくなるのだ
この偏狭な人界では
逆説を
進めておこう
覚醒時の活動もまた死である
と
スーパーマーケットから
夜なか
帰ってくるとき
スズカケの木の
枯れてきた葉っぱのどこかで
まあ
ほんとうにいい声で
秋の虫が
ころころ りんりん
ころころ りんりん
鳴いていました
鈴をころがすように
とか
玉をころがすように
とか
虫のいい音を
言ってみたりしますが
ほんとうに
そんなふうに言いたい声で
ころころ りんりん
ころころ りんりん
鳴いていました
足を止めて
しばらく聞いていたくなるような…
といった表現も
おはなしやものがたりでは
目にします
よし
おはなしやものがたりのように
今夜のこの機会を
してしまおう
そう思って
ほんとうに足を止めて
しばらく
聞き入ってみました
ころころ りんりん
ころころ りんりん
ころころ りんりん
ころころ りんりん
なので
おはなしやものがたりのように
ほんとうに
なってしまった
今夜です
ほんとうに
今夜は
おはなしやものがたり
そうして
末永く
しあわせに暮らしました
とさ
こんな呼びかけがあったらいいのに
という
呼びかけのなかでも
いちばんの
呼びかけのひとつは
さあ
9月も
もう終わりに近くなりました
いま
お住まいのあたりで
いちばん美しい花はなんですか?
いちばんかわいい花はなんですか?
いちばん色のあざやかな花はなんですか?
いちばん変わっている花はなんですか?
というような
呼びかけ
全世界のいろいろなところの人たちが
写真やみじかい動画で
これらの質問に答えてくれたら
花いっぱいの
秋の地球のほんとうの雰囲気が
もうちょっと
分かちあえるのだけど
じぶんが住んでいないところの
9月の花々も
こころのなかでは
じぶんのものに
できるのだけれども
じぶんが住んでいるところの
9月の花々も
世界じゅうの人たちのこころに
共有して
もらえるのだけれども
ある大学の教員室に居たら
授業に出席してこない学生たちに手を焼いた
(大学生相手だというのに)
漢字や読解を教えたりする国語の先生が
言っていた
バイトで授業に来れないのは
仕事があるから来れない
と学生は言うんです
でも
授業に出席するのも
学生には仕事のはずではないか?
どうしてバイトという仕事には行って
授業という仕事には出ないんだ?
おかしいではないか?
そう言い聞かせました
馬鹿だなあ
この先生
と
思った
授業に来てもらいたくて
学生を授業に来させるような理屈を言いたいのはわかるが
小学生相手に言うわけでもなし
「授業に出る」のが「仕事」であるはずはないだろう
古い言い方で「本分」と言うとか
学生という立場にある者がなすべきこと
と言ってみるとか
そういうのならわかるが
「授業に出る」ことは「仕事」ではない
その立場にある者がしなければならないこととして
「授業に出る」ことと「仕事」とのあいだの
同構造のようなものを抽出して言ってみたいのだろうが
考えれば考えるほど
このふたつのあいだには大きな相違がある
そもそも
「授業に出る」ためには
高額な授業料をあらかじめ学生側から支払ってある
学生たちは「授業に出る」権利を買ってある
買ってあるものを有効に使おうが
使わないでおこうが
それは学生たちの勝手
もちろん
あらかじめ払ってある授業料では
単位取得権までは購入できてないので
「授業に出る」ことや試験などの評価にパスすることなしでは
単位はもらえない可能性もある
そこの部分では教員側の権利が行使される
「授業に出る」ということをめぐって
教員側が学生に言うべきことは
あらかじめ払っている高額な授業料に見合った権利行使をしなさい
それはけっして「仕事」なんかではないけれど
せっかく買ってある権利なのだし
支払った財を然るべくしっかりと運用することにしなさい
というようなことのはずだ
バイトという「仕事」は
「授業に出る」という行為とはまったく違う
バイトの「仕事」に行くという権利は
あらかじめこちらから支払いをして購入したものではない
「仕事」に行くのは労働法的に契約されたことであり
結んだ契約による義務の発生を受け入れたことになり
契約を守るためには「仕事」に行かなければならない
「仕事」に行くという契約を守り
然るべき「仕事」をすれば賃金がこちらに支払われる
購入という言葉にこだわれば
むしろ労働力を購入するのは雇い主側ということにもなる
バイトという「仕事」に行く
という行為は
ほかにもいかようにも分析や考察を広げられる行為で
授業料のあらかじめの支払いによって買われた権利を行使しての
「授業に出る」行為とは
みだりに比較されていいようなものではない
この国語の先生は
たぶん
マルクスもまったく読んでいないだろうし
その他の経済思想や
法律論なども読んだことがないだろうし
初期のマルクスが生成してくるベースのヘーゲル哲学や
その他のドイツ観念論や
もちろんホッブスやロックやルソーなども
フランス革命のイデオローグたちの
微細で複雑な政治思想も
読んだことがないのだろうなあ
と思わざるを得なかった
ろくな哲学的思弁を構築できない教師なら
学生たちにはたんに
「授業に出てこないと単位は上げられないよ」
とだけ言えばいいのである
調子に乗って
それ以上のヘンな理屈を言いはじめると
国語程度の論理構造から出たことのない連中は
かならず賢さを装ったバカ論理を作り出す
この大学の偏差値は
受験情報によれば35~40である
商学部の偏差値は37.5
法学部の偏差値は40
新設の現代教養学部の偏差値は35だそうな
ま
最低である
この大学については
話すべきことは無限にあり
いずれ
一大娯楽物語として
ながながと
語ろうと思っている
教員側や
運営側
理事側の内実を
あまりに
知りすぎているゆえに
ところが
おなじ大学でも
なぜか
わたしの法学部の教室には
2年生にして
日商簿記2級や行政書士試験に合格している学生がいたり
学士編入して医学部に行きたいとか
公認会計士を目指している
という者もいる
ま
たいしたものである
法学部の偏差値は40だが
大学は奨学金をもらって
家に近いところに通い
(低位レベル校に行けば
並み以上の学力の学生は
奨学生になれるので
授業料の節約ができる)
身につける勉強は専門の学校や
大学外部のコースに通って学ぶ
というサバサバした考え方の学生たちも
じつは増えてきている
そういう学生たちは
偏差値35~40の大学であっても
反応がとてもいいし
よく学んでいる
多種多様な
いろいろな意味で
日本の大学は
完全崩壊してきており
ならば
教える側も
学ぶ側も
大学の枠をぶっ壊したつき合い方をしたほうが
いい頃合いに
なってきている