2026年9月1日火曜日

ようするに現代一般日本人している


 

 

今度は

アメリカのグランドキャニオンでも大洪水だそうだ

20人ぐらいが行方不明だという

 

それにしても

ネパールと中国チベット自治区のあそこ

ヒマラヤ山岳地帯で起きた土石流災害のあまりの巨大さは

昔の人たちならば

神の怒りだとでも言ったことだろう

 

事態が大きすぎて

人命救助だとか復旧努力だとか

そういうやり直しの人的行為にしばらくは

心も思考も結びつきようがない

 

いくらか土砂を堀り起こして

数えるほどの遺体を見つけ出してみても

もっと深い土砂の底には

はるかにたくさんの遺体が埋まっているはずで

あの広範囲の土砂や岩や瓦礫を除いて

行方不明者をみんな探し出そうとしてもできるはずがない

ある程度は行方不明者を探してみるにしても

どのあたりかでやはり諦めて

あの広大な一帯や河を国際的な霊園と見なしたほうが

いいのではないか

と思う

 

そうして

水のちから

泥のちから

氷河のちから

ものが崩れていく時のちから

岩や瓦礫のちから

などに

あらためて畏敬の念を持ち直して

素直にそれらに従いながら

それらをほんの少し巧みに避けながら

小さな人間はこの地上で生きのびていこうと

思い直すのがいいだろう

 

さすがに

インターネット上のニュースも

テレビや新聞のニュースも

ヒマラヤ山岳地帯で起きた土石流災害のことは

ずいぶん伝えているのに

不思議なことには

話す人も

ちょっと会う人も

メールしあう人も

だれひとり

人類史上のこの大事件を

口にしないのだ

 

奇妙なことだと思う

 

あれはひどかったですねえ

こわいですねえ

などと

言っても意味のないような言葉を

言いあうことさえしないで

まるで

なにもなかったかのように

日々のその人の業務をしたり

生活上の必要事をこなしたりしているだけなのだ

 

これが

奇妙なことだと

ぼくは思う

 

あれはひどかったですねえ

こわいですねえ

ほんとにひどいですねえ

どうしたらいいんでしょう?

わたしたちもあんなのに巻き込まれたら

どうしましょう?

などと

日々のその人の業務をしたり

生活上の必要事をこなしたりしながら

言っても直接は被害者の助けにならないようなことを

言っても意味のないような言葉を

言いあうことも

すごく大事なのではないかと

ぼくは思う

 

日本の千葉でも

石川県や富山県や

福井県でも

大雨で大水害が起こったが

日々の業務をしたり

生活上の必要事をこなしたりしながら

だれもなにも言わないのだ

言っても直接は被害者の助けにならないようなことだからか

言っても意味のないような言葉だからか

部外者が興味本位に騒いでいるように見えるのは

よくないと思ってのことだからか

あれはひどかったですねえ

こわいですねえ

ほんとにひどいですねえ

どうしたらいいんでしょう?

わたしたちもあんなのに巻き込まれたら

どうしましょう?

などと言わずに

まるで

なにもなかったかのように

日々の業務をしたり

生活上の必要事をこなしたりしている

 

ようするに

現代一般日本人している

 



人生の夏の終わりも

 

 

きのう

温度の低いところでは

23度ぐらいだったようだ

 

暮れてから外に出てみると

すこしひやりとして

ずいぶん心地よかった

 

すっかり秋だ

とはまだ言えない感じだが

すっかり終わったのだ

もう夏は

 

人生の夏の終わりも

心地よいだろうか これほど?

 

暮れてから外に出てみると

すこしひやりとして

ずいぶん心地いいだろうか?

 

人生も




2026年8月29日土曜日

シチリア島のプラトン

 

 

 

“Every family has bad memories.”

The Godfather Coda: The Death of Michael Corleone

1990,2020.

 

 

 

 

フランシス・フォード・コッポラ(Francis Ford Coppola)

『ゴッドファーザー(The Godfather )』シリーズ3編を見直した

 

『ゴッドファーザーPARTⅢ』は2020年に再編集され

『ゴッドファーザー 最終章 マイケル・コルレオーネの最期』

(The Godfather Coda: The Death of Michael Corleone)

として

新ヴァージョンが公開されたが

こちらの新編は見ていなかったので

2020年時点におけるコッポラの『ゴッドファーザー』シリーズの結論を

受けとめ直す結果となった

 

『ゴッドファーザー 最終章 マイケル・コルレオーネの最期』の終わりは

複数の殺しがふんだんに盛り込まれ

映画のアクション性の効果は強く出されていたが

すこし盛り込み過ぎかもしれない

なにより映画内に流す最後の音楽を

ピエトロ・マスカーニ(Pietro Mascagni)

『カヴァレリア・ルスティカーナ(Cavalleria Rusticana)』の

間奏曲にしたところが

現代の映画の音楽使用法としては

ちょっと安易なような

すこし甘ったるいものとして受けとめられないでもなかった

 

『カヴァレリア・ルスティカーナ』は

作り始めたマスカーニが

なかばまで書いてみたものの

よく思えずに原稿をゴミ箱に捨ててしまった

といわれる

妻がそれを見つけて

書き続けて完成させるように

励ましたらしい

ゴミ箱から妻が拾わなければ

最高の間奏曲といわれるこれも

今のように

方々で演奏されることはなかっただろうし

『ゴッドファーザー 最終章』の音楽も

べつのものになっていただろう

 

名演ばかりで

選択する必要さえないものの

Semyon Bychkovの演奏などは

好きなほうだ

 

Mascagni - Cavalleria rusticana - Intermezzo Sinfonico | Semyon Bychkov | WDR Sinfonieorchester

https://www.youtube.com/watch?v=qggeBAL7Yrc

 

あえて

ヴァイオリンだけで演奏するのもいいもので

ブレイズヘアの弓代星空の演奏など

なかなかいい味を出している

 

『カヴァレリア・ルスティカーナ』より間奏曲 マスカーニ Cavalleria Rusticana "Intermezzo" Pietro Mascagni【弓代星空】

https://www.youtube.com/watch?v=t10T5WTzK2I

 

しかし

個人的にもっとも好きなのは

リム・ケクティジャム(林克昌Lim Kek-tjiang 1928-2017)が

台湾の長栄交響楽団を振った時の演奏である

イタリアのマスカーニの曲が台湾で最高度の演奏をされるのは

なかなか興味深いことでもある

台湾を代表する指揮者のリム・ケクティジャムは

長栄交響楽団(Evergreen Symphony Orchestra)

初代音楽監督でもあった

 

Pietro Mascagni: Cavalleria rusticana - Intermezzo

林克昌Lim Kek-tjiang

https://www.youtube.com/watch?v=7OvsVSWB4TI

 

 

マスカーニは音楽の天才で

20歳前から交響曲もオペラもカンタータも作っていたが

27歳の時の1890年に『カヴァレリア・ルスティカーナ』を作曲し

世間はこれ一曲で彼のイメージを固定させてしまった

そこがいくらか不幸ではあったが

ともあれ作曲家としても指揮者としても大成功し

ロッシーニ音楽院院長にも就任したのだから

幸福な音楽家であったというべきだろう

 

マスカーニの不幸は

人生の最後に

非音楽的なところで

世俗的名誉を求めたところで訪れてくる

スカラ座の監督の座を狙った彼は

ファシスト党政権が誕生したところでムッソリーニに接近する

イタリアが降伏した際に

マスカーニの全財産は没収され

81歳になっていた彼は

1945年8月2日に

不名誉のうちにローマのホテルで死去する

 

友人でもありライバルでもあったプッチーニ(Puccini)

ヘビースモーカーであったために罹った喉頭癌の手術後

合併症で1924年に65歳で急死していたのを思い出すと

長生きはしたものの

はたしてマスカーニの晩年は幸せだったのか

どうか

考えさせられないでもないが

こういうところまでこちらの意識に取り込みながら

『ゴッドファーザー 最終章 マイケル・コルレオーネの最期』を見ると

映画の最後の場面で

マスカーニの『カヴァレリア・ルスティカーナ』の

間奏曲を出してくるところに

遠い夢のような

甘くもあれば

苦くもある

やさしくも痛切な味わいを

あらためて感じさせられるものでもある

 

 

ところで

『ゴッドファーザー』三部作にわたって

最も中心的な存在マイケルを演じたアル・パチーノ(Al Pacino)

シシリア島Siciliaからの移民の末裔で

あの映画の主役に抜擢された運命のようなものも

背後で動いているように思える

 

シチリア島には

フラットキャップの帽子があって

島を象徴するものとされているが

これがなんと

コッポラ帽(Coppola cap)と呼ばれている

coppolaというのは

英語のcapが転じてできた語らしいが

シチリア島出身者の子孫でもないフランシス・フォード・コッポラが

あえて『ゴッドファーザー』三部作を作ることになっていく

別の面の宿命のようなものも

ちょっと感じてしまう

 

 

シチリア島との

現代の映画俳優や映画監督の関わりなど

さほど意味のない単なるゴシップに過ぎないとは言えるが

古代ギリシャの哲学者のプラトン(Πλάτων)

シチリア島と大いに関わりがあったのを思い出しておくのは

なかなか面白い

 

BC387年のこと

40歳のプラトンははじめてシチリア島(当時はシケリア島)を訪れ

シュラクサイの僭主のディオニュシオス1世から歓待された

僭主の義弟で20歳だったディオンはプラトンに感銘を受けたようで

多大の影響を受けたといわれる

僭主のディオニュシオス1世とも政治論をしたようだが

僭主政についての意見を求められた際

たぶん馬鹿正直に批判をしてしまったのだろう

ディオニュシオス1世の不興を買い

奴隷として売り飛ばされそうになった

というのは有名な話

 

プラトンはその後

60歳の時

ディオニュシオス1世が倒れてディオニュシオス2世が王となった時にも

二度目のシケリア島訪問も行っており

さらに

62歳の時

ディオニュシオス2世に招かれて

もう一度

シケリア島訪問をしている

 

プラトンに心酔していたディオンが

師の政治哲学に沿うように

ディオニュシオス2世を動かそうとしたようだが

うまく行くことはなく

ディオンとディオニュシオス2世は政治的な確執に入っていく

これにプラトンも巻き込まれるかたちになり

彼が70歳になったBC357年には

ディオニュシオス2世と戦うべくディオンはシケリア遠征を行う

 

プラトンが80歳で死ぬのは

BC347年だが

こうした古代ギリシャの出来事を思い出すと

『ゴッドファーザー』三部作は

いっそう

味わいを増してくるように

見える

 

 


2026年8月28日金曜日

September さよならの国


 

 

9月といえば

思い出す

 

こんな歌

 

バルバラの

「セプタンブル(Septembre)」

 

「9月」

という題名だが

「なんてきれいな時(quel joli temps)

という副題がついてもいる

https://www.youtube.com/watch?v=el5Mm0oRmi0

 

これは

すごく若い頃

フランス語を学び出して

まだ間もない頃

ラジオのフランス語講座で

はじめて聴いた

 

この歌を選んで

ラジオで流してくれた先生は

林田遼右か

安田悦子では

なかったか

 

9月の別れを歌っているのに

それまで聴き知っていた

他のシャンソンとは

ずいぶん違う

軽いタッチの曲想が新鮮で

心に残り

9月になるたび

思い出す

 

日本のポップスでは

竹内まりやの「September」も

あった

 

https://www.youtube.com/watch?v=3wkxIBBP7Vg

 

https://www.youtube.com/watch?v=3Nd6tQHvgiI

 

1979年のこの歌も

軽快なタッチで9月のわかれを歌い

人生のすべての場面が

気の利いた編集をされたテレビCMのように聞かされる

竹内まりや節を

よく

出していた

 

博報堂の雑誌「広告」に

北中正和が書いた

「松任谷由実が切り開いた中産階級ポップス領域を、

ひとまわり若い希望にした癒しの新人。

アメリカ留学の経験を生かしたカラッとした個性で人気を集めている」

という評を見て

なるほど

そういうものかな

と思わされた

「中産階級ポップス領域」という

冷徹で皮肉な表現が

面白かった

 

竹内まりやの「September」は

松本隆の作詞だけあって

あちこち

言葉が効いていた

 

あれこれ

安手に薄い短い夢を見続けたい

中産階級の若者にふさわしい程度の

華やかさの

軽快な曲に乗って

わかりやすく

簡単だが

効き目のみごとな言葉が

繰り出されていた

 

September そしてあなたは

September 秋に変わった

わたしひとりが傷つくことが 残されたやさしさね

September そして九月は

September さよならの国

トリコロールの海辺の服も 二度と着ることはない

 

それにしても

September さよならの国」

とは

よく言ったものだなあ

感心させられる

 

わたしにとっては

Septemberはむしろ

いつも

新しい出会いの国

だった

けれども

 

 


立秋大学!

 

 

 

8月7日のことだから

もう

済んでしまっているのだけれど

立秋

という日がある

 

日本の古い暦では

この日から

秋がはじまってしまう

 

日本でなくても

東アジアでは

むかし

これは共有されていた

 

古い暦の感覚は

現在でも

奇妙なほど正確なところがあって

立秋の頃には

まだ暑くて

夏のどまんなかのようでも

暑さの奥で

空気感の裏側で

しっかりと秋が入り込んできているのが

感じられる

 

暑さが続いているから夏

ではなくて

暑さが続いていても

もう

という感じが

ただ空気の中にいるだけで

ただ空を見上げるだけで

ただ遠くの景色を眺めるだけで

なんとなく

わかってしまう

それを

あと支えしてくれるのが

旧暦

なのだ

 

立春も

立夏も

立冬も

どれも感慨ぶかいのだけれど

立秋というのは

あじわいにおいて

いちばん感慨ぶかい

 

ヘンな言い方に聞こえるかもしれないが

いつからか

立秋大学

ということを

思うようになった

 

立秋大学に入る

 

立秋大学が始まる

 

なにか

べつの区切りの季節に

入っていく

であるかのように

 

それで

毎年

8月7日頃になると

 

ああ! 

立秋大学!

立秋大学が始まる!

 

などと

つぶやいてしまうのだ

ひとり

 

たった

ひとりで

 

 

 

 


しあわせ


  


しあわせ

ということについて

語る人が

いる

 

語っても

かまわない

 

だが

しあわせ

について語り出すと

どんな時にしあわせか?

という方向へ

流れて

いきやすい

 

それを

目にするたび

耳にするたび

しあわせ

ということばは

癖のある

こむずかしい

狭量な

あまりしあわせでない

ことばだな

感じる

 

辿っていく

思いの道の種類や数の選択肢が

少なすぎる

ちょっと

ふしあわせな

ことば

 

しあわせ