2026年7月19日日曜日

フーテンの寅んぷ


 

 

なにか

わざわざ言葉で記そう

とすると

今の世の中では

困ったこと

嫌なこと

煩わしいことばかり

つまりは

問題であることばかり

記そう

としがちだが

 

どうして

「蒸し暑かった!」

ざっとまとめて思い返して

終わろうとしてしまう

夏の一日に

たしかに息もつまるほど

蒸した時間もあれば

ふいに楽になって

涼しい風さえ

すこし吹いてきたような時間も

そういえばあった!

と思い出し直そうとしつつ

わずかながら

ぽつぽつ

簡便な言葉で

記したりしようと

しないのだろう?

 

エコロジー思想など

どこ吹く風とばかりに

日本の夏の店々は

冷房をがんがんにかけて

そればかりか

入り口も豪勢に大きく開け放って

舗道を行く人びとにも

冷気をたっぷり分けてくれていて

そんなクーラーや電力の無駄遣いを

ちょっと不愉快に

わたしなど感じてしまうのだが

それでも

それでも

気温が32度を超えて

雷をもたらす雨雲で

たっぷりと湿度が充填された空気の中

きれいきれいに見せた商店の並ぶところを歩いて

外にあふれ出している

別世界の冷気に包まれてみると

「ああ、これはこれで

ニッポンの夏の

今ふうの風物詩!」

魂を奪われてしまいかねない

始末

 

ま、ホルムズ海峡が

今以上に完全に使えなくなるまでは

 

フーテンの寅んぷが

がんばって

石油使用を人類に抑えさせようと

暴れまくっているから

世界のエコロジストたちは

大喜びの

2026年の夏でござ~い!

 

とはいうものの

 

奮闘努力の甲斐もなく

きょうも涙の

きょうも涙の陽が落ちる

陽が落ちる *

 

 

 

*映画『男はつらいよ 寅次郎と殿様』(第19作)

https://www.youtube.com/watch?v=ddtj5bI22EQ

 

*男はつらいよ 主題歌 (歌詞付き)

https://www.youtube.com/watch?v=qjd-4rrX1K8

 


2026年7月18日土曜日

小説!


 

 

むかし

小説を書く

ということしか望んでいなかった

 

いまもそうだが

 

とはいえ

 

文学

といえば

小説

しか視野に入ってこない人々の繁茂する

視界狭窄の時代に

文学

の側に根を下ろした者は

むしろ

小説

だけは避けたい

思うものだろう

 

消費財として文庫の書棚に

多量に並ぶ

小説

の一冊に時間を溶かすよりも

ロートレアモンにつきあい続けるほうが

どう見たって

文学

であろうし

藤原定家に没頭し続けるほうが

稀少な言語表現の

無限の探訪者

らしい

 

セルバンテスや

ドストエフスキーや

マルケスや

ヘンリー・ジェイムズや

コンラッドや

プルーストに

ならないのならば

なれないのならば

 

女優にもなれざりしかば冬沼にかもめ撃たるる音聴きており

(寺山修司)

 

いまや

大量生産財であり

消費財である

小説

にこだわるのは

ただの

時代錯誤か

情弱

というべきだろう

 

ロートレアモン研究からはじまった

ル・クレジオが

小説

と銘打ちながら

『逃亡の書』や『戦争』や『巨人たち』や『洪水』や

さらには『むこう側への旅』など

散文形式の詩小説の極北を書き上げたのも

むべなるかな

むべなるかな

である

 

晩年のロラン・バルトが

小説創作

へむかって

コレージュ・ド・フランスで

まったく小説的でない

あれやこれやの文学ネタ彷徨を行ったのも

それこそがむしろ

1980年までの沸騰した時代の

小説

だったように見え

むべなるかな

むべなるかな

である

 

ロラン・バルトよりも

クロード・シモンや

ロベール・パンジェや

ジャン・エシュノーズたちのほうが

小説

っぽく装う

のが

うまかったが

彼らの

小説

大量生産消費財としての

小説

を並べる棚

としての

ニッポンの文庫売り場の棚には

たぶん

未来永劫

ほとんど載せられることはなく

あくまで

海外文学

という

珍味の棚に

わずかに載せられるばかり

だろう

 

さて

ところで

 

小説

小説

小説

とばかり視界狭窄し続ける言語界だが

小説

には決定的な弱点がある

 

個別案件しか扱わないことだ

 

特定の名を付けられた

特定の人物たちが設定され

キャラクター付けされ

生活状況が設定され

夢も希望も身体的特徴も人間関係も設定されて

まあ

作者さんたちにおかれましては

ご苦労さま

ことではある

 

個別案件だけ

個別事象だけ

 

けっして普遍は主人公にならない

一般も

全体も

主人公にはならない

 

まあ

小説

であって

大説

じゃないのは

そういうことなのさ

坪内逍遙センセや二葉亭四迷センセなら

説き直してくれるかもしれぬ

北村透谷センセも

もうちょっと長生きしてたら

小説のこのあたりの超弱点について

ジュンジュンと語ってくれたかもしれない

 

それにしても

個別案件だけ

個別事象だけ

 

それって

かなりダメダメじゃない?

 

やっぱり

思う

 

どうしたって

人物再登場法を使って

バルザックみたいに「人間喜劇」体系をやりながら

補完したくなるだろうし

ゾラみたいに「ルーゴン・マッカール叢書」したくもなる

そうしないと

小説

に埋め込まれた

個別案件だけ

個別事象だけ

という弱点の乗り越えは

できない

 

とはいえ

もう

大量の小説群の山を盛りあげるのも

情報過多

モノ氾濫の現代では

流行らない

 

ファン・ルルフォの『ペドロ・パラモ』みたいに

薄めに

もったいつけずに

風が運ぶお話のように

ペラッと語っちゃう

ような

のも

やっぱり

いいんじゃないかな

思える

 

薄さや

軽さが

なんたって

正義

なのだよ

 

 

 


「次はハワイ、ハワイでございます。」


 

 

郊外電車が動きはじめ

ボックス席でひとり

外をゆっくり流れ出すホームを

見ている

 

男の子が

―といっても

もう中高生ぐらいに見える子が

手のひらを列車にむけて

小さめだが

振り続けていた

 

なにをしているのだろう?

とはじめ思ったが

走り出していく電車に

わかれの気持ちでか

手を振っているとわかった

 

電車が好きな子なのか?

目の前の電車が走り出すと

手を振りたくなってしまうのだろうか?

 

もう昔むかしのことになるが

学生だった頃

住んでいた場所の最寄り駅を通る電車に

知恵遅れの子がよく現われて

電車のなかを歩きまわり

むこうの車両に行ったかと思うと

また戻ってきて

今度はべつの車両へ行ったりし

そうして

また戻ってきたりしていた

 

けっこうはっきりした声で

「次はハワイ、ハワイでございます。

お降りのかたは

お忘れ物のないように

お気をつけください」

と車内に

告げて歩きまわるのだ

 

ちょっとおかしいのはすぐにわかるが

こんなアナウンスをして

電車内を行き来するだけなので

乗客たちは特に気にも留めず

好きなように歩きまわらせていた

 

本人はけっこう真剣にアナウンスしている

見ているとこっけいで

子どもや小中学生の女の子などは

ちょっと笑ったりしていたが

もちろん哀れさも誘う光景ではあった

 

この子が乗っており

ほかの乗客たちも乗っている電車が

ハワイになど

もちろん行くわけがない

ハワイになど

着けるわけがない

 

だが

こんなことを思ったり

乗りあわせている誰かに

仮に口にしたりしたとすれば

なにか途方もなく

不粋なことのように思えたし

さらには

間違ったことのようにさえ

思えた

 

むしろ

この知恵遅れの子が言っているように

「次はハワイ、ハワイでございます。」

と思ったり

つぶやいたりするほうが

よほど

ふさわしいことのように思えた

 

昔むかしの

この知恵遅れの子のことを思い出して

いま

確認できる気がするのは

わたしにとってのコミュニケーションとは

むしろ

このようなことだ

という

こと

 

「次はハワイ、ハワイでございます。

お降りのかたは

お忘れ物のないように

お気をつけください」

という

知恵遅れの子のアナウンスを

このまま

いつまでも

あらしめておくこと

 

そして

この響きを

耳から入って来るにまかせ

唱和したりさえ

すること




2026年7月16日木曜日

じぶんにむけて ほんとうに きちんと


 

ラストチャンスでは本気でやるしかない。

ウィリアム・S・バロウズ 『ウエスタン・ランド』

 

 

 

ぼくより若いひとたちを

世界でも

いちばん短い詩形のひとつへ

ちょっと導いてみて

 

最後に

こう

余談してみた

 

 

人間は、ある程度以上の年齢になってくると

過去の若かった自分というものが

たびたびふり返って思い出すべきテーマのひとつになってきます。

自分というものが考えるべき対象となり

オブジェとなります。

 

過去の自分についての見方も

知っていたいろいろな人たちについての見方も

年齢を重ねていくたびに

驚くほど変化していきます。

 

そんな時に

若い頃に作っておいた短歌は

貴重な資料とも

いろいろ思い出すための起爆剤ともなってくれるでしょう。

 

短歌だけでなく

短い文でもかまいません。

 

どんなかたちでも

近い未来の自分や遠い未来の自分のために

また

自分より後の時代の人たちのために

少しでも書き残しておいて

保存しておくのをお勧めします。

 

 

そう

若いひとたちよ

 

むずかしいことの多い書くことにおいて

ことばとのつきあいにおいて

大事なのは

なにより

じぶんにむけて

書くことだ

 

近い未来のじぶんへ

 

遠い未来のじぶんへ

 

そうして

たぶん

いろいろな過去のときの

じぶんへ

 

きみは

じぶんにむけて

書いたか?

 

じぶんにむけて

ほんとうに

きちんと

送りたいようなことばを選んで

表現を工夫して

書いたか?

 

それこそが

大事なこと

 

それこそが

忘れられがちなこと




それこそが


 

 

詩のかたちを借りて

書けるかな?

ちょっとは近づけるかな?

詩のほうへ?

 

そう思って

レンタカーならぬ

レンタシー

レンタ詩―

いっぱいしてみたので

まるで

シジンかなにかのように

ぼくを見る人も

いるかもしれない

けれど

 

ぼくは詩人たちに

がっかり

した

 

みな

なにかになろうとして

詩人に

なろうとして

その時代時代で

その時点時点で

詩っぽい

ものを

書いているだけだった

 

そうして

集まっては

褒めあって

仲間っぽくして

たいてい

そう高くない喫茶店や

そう高くならないように飲むバーで

夜が更けはじめるまで

相手を否定しかねないような詩論なんかしないで

どうでもいい雑談をして

いかにもニホンシャカイって感じで

なごやかに

ふわふわして

時間をとろかしていった

 

ぼくはそういう

詩人たちに

がっかり

した

 

ぼく

 

喫茶店や

バーや

安酒屋でのざわめきも

きらめきも

もうもうの煙草も

みんな

すっかり消え去って

それらの主だった詩人たちも

いまでは

たぶん

墓の中や

老人介護施設や

水を飲むのにも震える腕で

安アパートの

ささくれ立った古畳の上で

ひとり

 

シャルル・トレネのシャンソンの

「詩人の魂(L'âme des poètes)」は

 

Longtemps, longtemps, longtemps

Après que les poètes ont disparu

Leurs chansons courent encore

dans les rues

 

ずうっと ずうっと ずうっと

詩人たちが消え去ってしまったあと

かれらの歌はまだ流れ続けている

道々に

 

と歌うけれど

ぼくが会った詩人たち

ぼくががっかりした詩人たちは

 

消え去って

ながいことになります

ながいことになります

なが~いことになります

 

という

感じ

 

時間が経つ

とは

こういうことなのだ

 

過ぎ去る

というのは

ああ

こういうことなのだ

 

ほんとにぼくは

どれほど

痛切に

学んできたことだろう

 

若かった人が

中年になり

老い

すぐに死なないまでも

フェードアウトしていってしまう

消えていってしまう

 

ほんとにぼくは

どれほど

たくさんたくさん

感じとってきただろう

感じないふりをしてきただろう

 

まるで

永遠というものがあると

まるで

不易というものがあると

思い込もうとするかのようなふりを

してきたことだろう

 

それこそが

まさに

そのものだったと

けっこう

はやくに気づいていたのに

まだ

気づかないかのようなふりを

しようと

してきたことだろう

 

永遠とか

不易とか

こそが

 

それこそが

 

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=cEMxhO8Obeo

 

https://www.youtube.com/watch?v=flI-OH-rOOM