ことばに出会うのが
ぼくの旅であったから
どこにも
もう
行かないでよい
うつくしい
はずであった
この星の
うえで
なつかしく
慕わしい人ばかりの
はずだった
人間たちの世で
気ままな詩選を自分の愉しみのために。制作年代も意図も問わず、まちまちに。
主はこう言われる。
わたしは、あなたの若いときの真心、
花嫁のときの愛、
種蒔かれぬ地、荒れ野での従順を思い起こす。
エレミヤ書 2-2
リルケ(Rainer Maria Rilke)の
詩の
むかし
読んだ日本語訳を
読むことは
すごく若かった頃のじぶんのこころに
会い直すこと
まだ
じぶんのこころを掴むのに
まったく
言葉を
持ちあわせていなかった頃の
じぶんのこころに
たとえば
あの有名な短詩
「薔薇 おお 純粋な矛盾」
(Rose, oh, reiner Widerspruch)
を
富士川英郎の
訳で
薔薇 おお 純粋な矛盾 よろこびよ
このようにおびただしい瞼の奥で なにびとの眠りでもない
という
また
「心の頂きにさらされて」
(Ausgesetzt auf
den Bergen des Herzens)
を
これも
富士川英郎の
訳で
心の頂きにさらされて 見よ あそこになんと小さく
言葉の最後の村落が それからもっと高いところに
これもまたなんと小さく 感情の
最後の農園が お前にそれが見えるか
心の頂きにさらされて?ーー手の下の
岩地 ここではたぶん
二、三の花が咲く 無言の絶壁から
一本の無意識な草花が歌いながら咲いて出る
けれども知る者は? ああ 知りはじめ
そしていま沈黙する者は一―心の頂きにさらされて?
ここではたぶん すこやかな意識をもった
多くの動物が 多くの確かな山の獣が
徘徊し 出没する そして純粋拒否の頂きをめぐって
大きな 憂いを知らぬ鳥が飛んでいるーーああしかし
うち捨てられた者はーーここの心の頂きのうえに?……
ドイツ語など
まったくわからぬ
十代の
わかいわかい日本人が
これらを読んで
なぜともわからず
こころを昂ぶらせて
はじめて
リルケという名を
まだ魂というほど奥底ではなくとも
こころの
ずいぶん深いところに
刻んで
なにか大変なものに触れた
と信じ
この大変なものを
まわりの人にも知らせたいと
あわてるような気に
なって
そんな頃の
じぶんのこころに
会い直すこと
ごくわずかの
友と
(その頃は「友」と思っていた
それゆえに
それだけのゆえに
「友」であった
「友」と)
「いいね、リルケ」
「リルケは、いいね」
などと
宙に
言葉を浮かして
みていた
頃の
じぶんのこころに
まだ
この詩などは
それほど
切実には読んでいなかった
小さな夢のような
やわらかく愚かであった
頃の
じぶんのこころに
時間の流沙よ 幸福に祝福された建物でさえ
静かに 絶え間なく 消え去っていく
ああ いつも吹き流れていく人生よ 早くもばらばらに聳え立っている
もはや屋根を戴いていない円柱よ
けれども没落 それはもっと悲しいものだろうか ほのかな光を
降りそそぎながら 水の鏡に落ちてくる噴水の落下より?
ああ 私たちは無常の歯の間にはさまれていよう
その静観の表情のなかに私たちがまったく溶けこむように
(富士川英郎訳)
酒場だが
そこそこ立派な建物だ
といえる
太い木材を使った建築で
二階の席には
手すりに寄りかかって飲んでいる客もいる
座れる席は
いくらも見つかるが
ほぼ
満員と見えた
一階でも
二階でも
客たちはみな
すでに
ずいぶん飲んでいる
ようだった
身を前に倒し気味にして
コップやグラスを握っている者もいたし
元気そうに胸を張って
飲み続けている者もいたが
かなり寄っているのがわかった
だれか探しているかのように
ゆっくりと
進んだり
止まったり
時には後退したりしながら
わたしひとり
一滴も飲んでおらず
もちろん酔ってもおらず
歩きまわっていた
座って飲んでいる者も
立ったまま飲んでいる者も
飲み疲れて
テーブルに肘をついて休んでいる者も
歩いていくわたしを見ると
なぜこいつだけは酔っていないのか?と
いくらか
視線に敵意を帯びさせた
とはいえ
だれもみな
酔ってちからの芯が萎えていたので
恐れる必要はなかった
そろそろ
わたしもなにか飲もうか?
そう思いながら
ともに飲むのによさそうな女を
さがした
男と女で
いっしょに飲むのだけが
しきたりのようになっている店なのだ
そろそろ
飲もうか?
だれと飲もうか?
なにを飲もうか?
そう思いながら
ひとりでいる女をさがして
歩き続けるのだが
飲んだところで酔わないだろう
酔ったことがないのだ
飲んでも
酔ったことがない
飲む時はいつも
飲むのにつかれてやめるか
飽きてやめる
酔うことはない
どうして人びとが
こんな容易に
酔うことができるのか
わからない
……かなり長いこと見ていた
夢の
話である
僕はそれでもよかつた。
いま、自分たち人間のはかなさを
こんなに心にしみて
感じてゐられるだけでよかつた。
堀辰雄 『大和路』
現代の日本の文章はたいてい冷たく
嫌いである
小説の文章も基本的に冷たいし
SNSやネットのさまざまな文も冷たい
この「冷たさ」を
どのようなものかと確定し
どこからこの「冷たさ」が来るのか
と長々と考察してみたい気もするが
そういうことは未来の批評家たちに任せよう
もっと「冷たさ」に満ちた文章で
怜悧に解き明かしてくれるだろう
つらつら
こんなことを思いながら
ふと
堀辰雄を開いてみる
たとえば
1943年3月の「斑雪(はだれ)」
『信濃路』の中の一篇*
その冒頭
「冬になって、雪がふつたら、すぐ知らせて下さい。そのときはきつと一人ででもやつて來ますから。……」
その山の村にとうとう居残つて冬を越すことになったK君夫妻に僕はその秋のなかばその村を立ち去るとき、さう云ひ残していつた。
「……けさほどから急に雪がふりだしてゐますの。この分では大ぶ積りさうですので、主人が早くお知らせした方がいいと申しますから、これからこの手紙をもつて雪のなかを郵便局まで一走りいたします」ーー萬里子さんからさう云ってよこしたのは、もう十二月も末近かつた。
僕はまへから雪の信濃路を見たがってゐた學生のM君を誘つたり、一しょに往く筈だつた妻の都合が悪かつたりして、すこし出かけるのに手間どり、妻だけ二三日あとから來させることにして、漸つとその小さな冬の旅に出たのは、それから四五日たつてからのことだつた。……
ゆふがたに著いたその山の村には、敷日まへの雪はもう殆ど消え、林の中などにところどころわづかに雪らしいものが残ってゐるきりだつた。
そんな一つの林の奥に、K君たちが冬ごもりをしてゐる山小屋がある。
「まあ、よくいらつしゃいました」その小屋の中から飛びだしてきて僕たちを出むかへた萬里子さんは一とほり挨拶がすむと、さも困つたやうに大きい目をしてまじまじと僕の方を見ながら言つた。「ーーでも、もうすっかり雪がなくなってしまってゐて。なんだか……」
「いやあ、なんぞはどうでもいいですよ。」
僕はあわてて手をふりながら、それを遮つた。
「こなひだの雪は午前中ふつたきりでしたの。大ぶ積つたことは積りましたけれど、午後から日があたつて見る見るとけていつてしまふので、あんな手紙なんか出してしまつて、気が気でありませんでしたわ。――でも、まだあそこいらには少しばかり残つてゐますの。」
もう薄暗くなり出してるる林の奥のはうにまだいくらか残雪が何かの文様のやうにみえるのを、萬里子さんはすこし気まり悪さうにして示した。
僕はもうそんなものはどうでもよかつたが、すつかり葉が落ちて林の中がどこまでも透いてみえたりするのを珍らしさうに見てゐるM君におつきあひして、その儘しばらく三人でそこに立つて見てゐた。そのうち小屋のかげからボブが飛び出してきた。
「ボブ、駄目よ…・・・」萬里子さんはその人なつこい犬が泥足でもつて僕のはうに飛びかからうとするのを、すばやく捕まへた。
ぼくが思う現代日本語の
たいていの文章の
嫌な「冷たさ」が
堀辰雄のこの文章にはない
それは
なんであろうか?
堀辰雄の文章にはなにが残っていて
現代の日本語の文章は
なにを失ってしまったのか?
ときどき読み返してみると
堀辰雄の文章はけっして名文ではなく
うまくない
読点を付けずにこんなに繋げてしまうんだ
と
驚かされることもある
まさか
彼が親しんだプルーストの文章の
真似ではあるまい
それにしても
堀辰雄の文章のこの味わいは
なんだろう?
そう思いながら
時どき
ページを開き
繰り
考え込むのではないが
ちょっと瞑想に似た時間を過ごしたり
してしまう
この文章の終わりのほうで
堀辰雄は
セガンテーニを思い出しながら
こんなことを書いている
そんな調子でいくら歩いていつても、野遷山が原は盡きさうもない。もうかれこれ一時間ぐらゐは歩いてゐるだらう。腹もへつてきてゐるし、もうおしやべりをする元氣もなく、二人とも泥だらけになつた靴をただ重さうに運んでゐるきりになつた。――さうして僕はもう口には出さずに、昔小さな本で讀んだことのあるセガンティニの美しい生涯などを考へつづけてゐた。セガンティニには、アルプスの高原の自然のなかにーーいはば人間の住める自然のぎりぎりの限界のやうなところに人間を置いて描いてゐるやうな繪が多いが、その繪がどれもこれも妙に人なつこい。人間の世界から離れれば離れるほど、そしてそこに描かれてあるアルプスの風景がいよいよきびしければきびしいほどセガンティニの繪のもつてゐる人なつこさはいよいよ切實になってくる。――そこにセガンティニの繪の寫眞を見ただけでも、僕たちが何か心を動かされるものがありはすまいか。……さうだ、僕がさつき草原に立つた木をしみじみと見てゐるうちに、ふいと何か思ひ出せさうで思ひ出せずにゐたもの、そのために知らず知らず心を一ぱいにさせてゐたもの、それはそんな木の或る恰好ばかりではなしに、かういふ高原のなかに生を得てゐるすべての小さな生きもののもつてゐる深い味なのだ。それらのものは、ちよつと見ると、何か近づきがたいやうな孤獨の相を帯びてみえるけれど、それらのものほど人なつこいものはないのだ。それほど切實に、存在の本質にあくがれてゐるものはないのだ。……
「いよいよ切實になってくる」
「人なつこさ」
を堀辰雄はここで語っているけれども
これは
読み手のほうでわかったつもりになっている
「人なつこさ」という言葉のふつうの意味を
いったん外して考えないといけないような「人なつこさ」だ
「ふいと何か思ひ出せさうで思ひ出せずにゐたもの」
「そのために知らず知らず心を一ぱいにさせてゐたもの」
「それはそんな木の或る恰好ばかりではなしに、
かういふ高原のなかに生を得てゐるすべての
小さな生きもののもつてゐる深い味なのだ」
などと表現を並べながら
「ちよつと見ると、
何か近づきがたいやうな孤獨の相を帯びてみえるけれど、
それらのものほど人なつこいものはない」
と進めていき
「それほど切實に、存在の本質にあくがれてゐる」とまで
さらに堀辰雄は進めていっている
ふつう
ここでこれを「人なつこさ」とは
呼ばないだろう
他の言葉で
言おうとしたほうが
いい
ところが堀辰雄は
ここで
「人なつこさ」
などと
言うのだ
わかりやすいようでいて
非常にむずかしい
堀辰雄の微妙さがこういうところから
来る
つねに忙しく働き続けの知が
それゆえに
取り逃がしていて
忘却しているとさえいえそうなもの
それでいて
知の裏側につねに充溢していて
「心を一ぱいにさせて」いて
「切實に、存在の本質にあくがれてゐる」もの
これを
「人なつこさ」
と
呼ぶような
考えの進め方や
書き方を
たぶん
冷たい文章の現代は
忘れて
しまっている
*堀辰雄 『大和路・信濃路』 (人文書院、昭和二十九年)
今度は
アメリカのグランドキャニオンでも大洪水だそうだ
20人ぐらいが行方不明だという
それにしても
ネパールと中国チベット自治区のあそこ
ヒマラヤ山岳地帯で起きた土石流災害のあまりの巨大さは
昔の人たちならば
神の怒りだとでも言ったことだろう
事態が大きすぎて
人命救助だとか復旧努力だとか
そういうやり直しの人的行為にしばらくは
心も思考も結びつきようがない
いくらか土砂を堀り起こして
数えるほどの遺体を見つけ出してみても
もっと深い土砂の底には
はるかにたくさんの遺体が埋まっているはずで
あの広範囲の土砂や岩や瓦礫を除いて
行方不明者をみんな探し出そうとしてもできるはずがない
ある程度は行方不明者を探してみるにしても
どのあたりかでやはり諦めて
あの広大な一帯や河を国際的な霊園と見なしたほうが
いいのではないか
と思う
そうして
水のちから
泥のちから
氷河のちから
ものが崩れていく時のちから
岩や瓦礫のちから
などに
あらためて畏敬の念を持ち直して
素直にそれらに従いながら
それらをほんの少し巧みに避けながら
小さな人間はこの地上で生きのびていこうと
思い直すのがいいだろう
さすがに
インターネット上のニュースも
テレビや新聞のニュースも
ヒマラヤ山岳地帯で起きた土石流災害のことは
ずいぶん伝えているのに
不思議なことには
話す人も
ちょっと会う人も
メールしあう人も
だれひとり
人類史上のこの大事件を
口にしないのだ
奇妙なことだと思う
あれはひどかったですねえ
こわいですねえ
などと
言っても意味のないような言葉を
言いあうことさえしないで
まるで
なにもなかったかのように
日々のその人の業務をしたり
生活上の必要事をこなしたりしているだけなのだ
これが
奇妙なことだと
ぼくは思う
あれはひどかったですねえ
こわいですねえ
ほんとにひどいですねえ
どうしたらいいんでしょう?
わたしたちもあんなのに巻き込まれたら
どうしましょう?
などと
日々のその人の業務をしたり
生活上の必要事をこなしたりしながら
言っても直接は被害者の助けにならないようなことを
言っても意味のないような言葉を
言いあうことも
すごく大事なのではないかと
ぼくは思う
日本の千葉でも
石川県や富山県や
福井県でも
大雨で大水害が起こったが
日々の業務をしたり
生活上の必要事をこなしたりしながら
だれもなにも言わないのだ
言っても直接は被害者の助けにならないようなことだからか
言っても意味のないような言葉だからか
部外者が興味本位に騒いでいるように見えるのは
よくないと思ってのことだからか
あれはひどかったですねえ
こわいですねえ
ほんとにひどいですねえ
どうしたらいいんでしょう?
わたしたちもあんなのに巻き込まれたら
どうしましょう?
などと言わずに
まるで
なにもなかったかのように
日々の業務をしたり
生活上の必要事をこなしたりしている
ようするに
現代一般日本人している
きのう
温度の低いところでは
23度ぐらいだったようだ
暮れてから外に出てみると
すこしひやりとして
ずいぶん心地よかった
すっかり秋だ
とはまだ言えない感じだが
すっかり終わったのだ
もう夏は
人生の夏の終わりも
心地よいだろうか これほど?
暮れてから外に出てみると
すこしひやりとして
ずいぶん心地いいだろうか?
人生も
“Every family has bad memories.”
The Godfather Coda: The Death of Michael
Corleone
1990,2020.
フランシス・フォード・コッポラ(Francis Ford Coppola)の
『ゴッドファーザー(The Godfather )』シリーズ3編を見直した
『ゴッドファーザーPARTⅢ』は2020年に再編集され
『ゴッドファーザー 最終章 マイケル・コルレオーネの最期』
(The Godfather Coda: The Death of Michael
Corleone)
として
新ヴァージョンが公開されたが
こちらの新編は見ていなかったので
2020年時点におけるコッポラの『ゴッドファーザー』シリーズの結論を
受けとめ直す結果となった
『ゴッドファーザー 最終章 マイケル・コルレオーネの最期』の終わりは
複数の殺しがふんだんに盛り込まれ
映画のアクション性の効果は強く出されていたが
すこし盛り込み過ぎかもしれない
なにより映画内に流す最後の音楽を
ピエトロ・マスカーニ(Pietro Mascagni)の
『カヴァレリア・ルスティカーナ(Cavalleria Rusticana)』の
間奏曲にしたところが
現代の映画の音楽使用法としては
ちょっと安易なような
すこし甘ったるいものとして受けとめられないでもなかった
『カヴァレリア・ルスティカーナ』は
作り始めたマスカーニが
なかばまで書いてみたものの
よく思えずに原稿をゴミ箱に捨ててしまった
といわれる
妻がそれを見つけて
書き続けて完成させるように
励ましたらしい
ゴミ箱から妻が拾わなければ
最高の間奏曲といわれるこれも
今のように
方々で演奏されることはなかっただろうし
『ゴッドファーザー 最終章』の音楽も
べつのものになっていただろう
名演ばかりで
選択する必要さえないものの
Semyon Bychkovの演奏などは
好きなほうだ
Mascagni - Cavalleria rusticana - Intermezzo Sinfonico | Semyon Bychkov |
WDR Sinfonieorchester
https://www.youtube.com/watch?v=qggeBAL7Yrc
あえて
ヴァイオリンだけで演奏するのもいいもので
ブレイズヘアの弓代星空の演奏など
なかなかいい味を出している
『カヴァレリア・ルスティカーナ』より間奏曲 マスカーニ Cavalleria Rusticana "Intermezzo" Pietro Mascagni【弓代星空】
https://www.youtube.com/watch?v=t10T5WTzK2I
しかし
個人的にもっとも好きなのは
リム・ケクティジャム(林克昌Lim
Kek-tjiang 1928-2017)が
台湾の長栄交響楽団を振った時の演奏である
イタリアのマスカーニの曲が台湾で最高度の演奏をされるのは
なかなか興味深いことでもある
台湾を代表する指揮者のリム・ケクティジャムは
長栄交響楽団(Evergreen
Symphony Orchestra)の
初代音楽監督でもあった
Pietro Mascagni: Cavalleria rusticana - Intermezzo
林克昌Lim Kek-tjiang
https://www.youtube.com/watch?v=7OvsVSWB4TI
マスカーニは音楽の天才で
20歳前から交響曲もオペラもカンタータも作っていたが
27歳の時の1890年に『カヴァレリア・ルスティカーナ』を作曲し
世間はこれ一曲で彼のイメージを固定させてしまった
そこがいくらか不幸ではあったが
ともあれ作曲家としても指揮者としても大成功し
ロッシーニ音楽院院長にも就任したのだから
幸福な音楽家であったというべきだろう
マスカーニの不幸は
人生の最後に
非音楽的なところで
世俗的名誉を求めたところで訪れてくる
スカラ座の監督の座を狙った彼は
ファシスト党政権が誕生したところでムッソリーニに接近する
イタリアが降伏した際に
マスカーニの全財産は没収され
81歳になっていた彼は
1945年8月2日に
不名誉のうちにローマのホテルで死去する
友人でもありライバルでもあったプッチーニ(Puccini)が
ヘビースモーカーであったために罹った喉頭癌の手術後
合併症で1924年に65歳で急死していたのを思い出すと
長生きはしたものの
はたしてマスカーニの晩年は幸せだったのか
どうか
考えさせられないでもないが
こういうところまでこちらの意識に取り込みながら
『ゴッドファーザー 最終章 マイケル・コルレオーネの最期』を見ると
映画の最後の場面で
マスカーニの『カヴァレリア・ルスティカーナ』の
間奏曲を出してくるところに
遠い夢のような
甘くもあれば
苦くもある
やさしくも痛切な味わいを
あらためて感じさせられるものでもある
ところで
『ゴッドファーザー』三部作にわたって
最も中心的な存在マイケルを演じたアル・パチーノ(Al Pacino)は
シシリア島(Sicilia)からの移民の末裔で
あの映画の主役に抜擢された運命のようなものも
背後で動いているように思える
シチリア島には
フラットキャップの帽子があって
島を象徴するものとされているが
これがなんと
コッポラ帽(Coppola cap)と呼ばれている
coppolaというのは
英語のcapが転じてできた語らしいが
シチリア島出身者の子孫でもないフランシス・フォード・コッポラが
あえて『ゴッドファーザー』三部作を作ることになっていく
別の面の宿命のようなものも
ちょっと感じてしまう
シチリア島との
現代の映画俳優や映画監督の関わりなど
さほど意味のない単なるゴシップに過ぎないとは言えるが
古代ギリシャの哲学者のプラトン(Πλάτων)が
シチリア島と大いに関わりがあったのを思い出しておくのは
なかなか面白い
BC387年のこと
40歳のプラトンははじめてシチリア島(当時はシケリア島)を訪れ
シュラクサイの僭主のディオニュシオス1世から歓待された
僭主の義弟で20歳だったディオンはプラトンに感銘を受けたようで
多大の影響を受けたといわれる
僭主のディオニュシオス1世とも政治論をしたようだが
僭主政についての意見を求められた際
たぶん馬鹿正直に批判をしてしまったのだろう
ディオニュシオス1世の不興を買い
奴隷として売り飛ばされそうになった
というのは有名な話
プラトンはその後
60歳の時
ディオニュシオス1世が倒れてディオニュシオス2世が王となった時にも
二度目のシケリア島訪問も行っており
さらに
62歳の時
ディオニュシオス2世に招かれて
もう一度
シケリア島訪問をしている
プラトンに心酔していたディオンが
師の政治哲学に沿うように
ディオニュシオス2世を動かそうとしたようだが
うまく行くことはなく
ディオンとディオニュシオス2世は政治的な確執に入っていく
これにプラトンも巻き込まれるかたちになり
彼が70歳になったBC357年には
ディオニュシオス2世と戦うべくディオンはシケリア遠征を行う
プラトンが80歳で死ぬのは
BC347年だが
こうした古代ギリシャの出来事を思い出すと
『ゴッドファーザー』三部作は
いっそう
味わいを増してくるように
見える