2026年5月31日日曜日

ことば


 

 

子、川の上に在りて曰く、

逝く者は斯くの如きか。昼夜を舎かず。

   孔子

 

子在川上曰、逝者如斯夫、舎晝夜。

   孔子

 

 

 

 

ことばなんか

ただの

ことばだ

 

ことばにすぎない

 

たしかに

そうも言える

 

しかし

ことばと呼びうることばに

多く出会えるか

出会えないか

 

これにより

ことばではないもの

こころとか

精神とか

たましいとか

意志とか

そんなものは

確実に

変わっていくのも

たしかだ

 

見たか

見なかったか

 

偶然

読んだか

読まなかったか

 

次のようなことばを

馬鹿にしては

いけないよ

若者よ


 

大隈言道

「人はよくもいへ

あしくもいへ

うけいひがたし。

ただ己に恥づ。」

 

葉隠

「不仕合せの時

草臥るる者は

益に立たざるなり。」

 

吉田松陰

「呉々も

人を哀しまんよりは

自ら勤むること肝要に御座候。」

 

吉田松陰

「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。

生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。」

 

榎本武揚

「捨華取実」

 

松尾芭蕉 『笈の小文』

「其貫通する物は一なり。

しかも風雅におけるもの、

造化にしたがひ四時を友とす。

見る処、花にあらずといふ事なし。

像(かたち)花にあらざる時は夷狄にひとし、

心花にあらざる時は鳥獣に類す。

夷狄を出、鳥獣を離れて、

造化にしたがひ

造化にかへれとなり。」

 

 

 

 

寺院


  

神霊の修行者ならば

そう自覚したり

それに近い自覚を持つひとならば

からだが寺院

だと

だれもが思うだろう

わかっているだろう

 

だから

寺院にふさわしく

からだを整え

清潔にすべきだと

わかっているだろう

 

さて

からだが寺院ならば

時間も空間も寺院

ではないか

 

時間と空間に

さらになにかがプラスされた

現実

と呼ばれるものも

寺院

ではないか

 

そして

おそらく

無も

空も

寺院であろう

 

寺院

などという発想を

しないことも寺院であろうし

寺院か

寺院でないか

まよったり

定めがたかったりするのも

寺院であろう

 

目を開けても寺院であり

目を閉じても寺院であろう

 

見え

聞こえる世界が

寺院であり

見えること

聞こえることが

寺院であろう

 

ならば

見えないとき

聞こえないときも

寺院であり

見えないこと

聞こえないことも

寺院であろう

 

 


そういう意味でならば


 

 

「あゝ 今おれは彼に会ってる、確かに会ってる、今は」

        木下順二

 

 

 

「愛している」

と言う

 

これを聞いたり

言われたり

言うのを見たりする

 

困ってしまう

 

よくわからないのだ

この人たちが言う

「愛している」

という

表現の意味が

 

「好きだ」

とか

「大好きだ」

では

いけないのか?

 

ことに

ヨーロッパ人やアメリカ人は

頻繁に

「愛している」

と言う

 

もう

大安売りだ

 

夏になってきて

川のほとりに立つ

蚊柱のように

「愛している」の

総攻撃だ

雲集だ

大発生だ

 

アマゾンのインディオ

ヤノマミ族は

「愛している」という意味あいで

「わたしはあなたの存在に染められた」

とか

「あなたの一部がわたしのなかに入り込み

住みついて

だんだん大きくなっている」

とか

言うらしい

 

「愛している」が

そういう意味なのならば

わからないでもない

使えないでもない

 

そういう意味でならば

そのひとの「存在に染められた」

と感じたひとたちや

そのひとの「一部がわたしのなかに入り込み

住みついて

だんだん大きくなって」いった

と感じたひとたちに

遅ればせに

ほんとに

あまりに遅すぎではあるけれども

「愛している」

いま

言えるような気がする

 

 

 


ただよく眠れ


 


よく眠るためにのみ

時間と思いと生活のすべてを

組織せよ

 

思いのなかへ

このように

声が聞こえる気がする

ときがある

 

よく眠ったときだけ

思いに入ってこられる通信があり

思いつきがあり

発想があって

それらこそが明日

いちばん大事

それらこそがすべてを

切り開く

 

そう伝えられて

しばらく

思いのどこかに

残り続けている気がする

ときがある

 

ただ

よく眠れ

 

すべて

それで解決する

 

すべて

それで最良に進む

 

ふとした

思いの切れ目や

なにかへの注意の途切れ目に

こんな助言が

残っている気がする

ときがある

 

 

 


そして時間も

 


 

     時間よ止まれ!

     おまえは美しい!

        ゲーテ 『ファウスト』 

 

 

 

きょうの夜明け

ところどころ雲が覆っているが

北東の空は

細く線状になったグレーや紫の雲のあいだに

オレンジや赤の色あいがグラデーションになって

美しかった

 

夜明けもさまざまだが

だいたいは美しく

夕景も同様にさまざまに

美しい

 

きょうは満月になるようだが

どんな月も

見えれば美しく

見えなくても

雲ごしに洩れるひかりは美しい

 

地には

美しいみどり

土も石も美しく

山の稜線も

ビル群の石柱のような影も

美しく

気づき直してみれば

空間というものそのものが

なんと美しかったことか!

 

そして

目に見えず

触われもしない

とされている時間も

じつは

わたしの意識しきれぬわたし

そのものとして

わたしの把握しきれぬ思いの流れ

そのものとして

なんと

美しかったか!

 

 


ぱくぱく


 

五木寛之の

『忘れ得ぬ人  忘れ得ぬ言葉』*

Kindle版で読んでいた

 

藤澤武夫の章を読んでいた

 

世界のホンダの

技術面はもちろん

本田宗一郎だったわけだが

彼が手を結んだ

藤澤武夫に

販売や営業など

経営面は一任されていた

 

このふたりの二人三脚があってこそ

世界のホンダになった

五木寛之は書いている

 

藤澤武夫は

陽の当たる場所に出ることは

けっしてなく

「黒子に徹した」とも

五木寛之は書いている

 

藤澤武夫は

副社長の地位を退いてからは

芸術や文化に情熱を寄せ

若い学生のように

特に最近の小説などに熱中していた

という

 

藤澤武夫にも

五木寛之にも

ぜんぜん関係ないことなのだが

この文章中の

「黒子に徹した藤澤武夫」

という表現を見ながら

しきりに

「黒柳徹子」が

思い浮かんでならなかった

 

どうしてだろう?

しばらく考えるうちに

 

わかった!

 

「黒柳徹子」に使われている文字が

「黒子に徹した藤澤武夫」には

ほとんど

使われていて

こちらの意識の底で

勝手に

アナグラムが

始まってしまっていたのだ

 

いつもこうだから

わたしが読書する時は

なにかと

時間を食ってしまう

 

「黒子に徹した藤澤武夫」

ないのは「柳」だけ

 

「柳」はないけれど

「黒子に徹した藤澤武夫」

「藤」はある

 

じゃあ

「黒藤徹子」

とか

「黒子に徹した柳澤武夫」

とか

できちゃうなあ!

 

アナグラムを

超えて

日本語ことば遊びが

また

わたしの頭のなかで

勝手に

はじまっていく

 

いつもこうだから

わたしが読書する時は

いよいよ

無限に

時間を食っていく

 

ぱくぱく

 

 

 

*五木寛之『忘れ得ぬ人  忘れ得ぬ言葉』(新潮社、2025

 

 


なので捨てちゃえば?


 

 

若いひとの短歌を見ていたら

 

一日を家でごろごろ過ごしつつ何もしないを幸せと知る

と作ってきた人がいた

 

風情がないとか

格式がないとか

すてきな心持ちを歌おうとしていないとか

そういうところは

まあ

どうでもよろしい

 

儲りもしないのに

いまどき

短歌という器を使って

日本語あそびをしようとしているところを

まずは認めるべきだから

 

だいたい

正岡子規などは

この傾向で短歌のやわらかな成長を加速させたのだし

江戸時代の短歌や狂歌には

すてきにタラッとしたのがわんさとある

短歌に限らないが

ピューリタンの影響かしらん

明治に入ってヘンに気張り過ぎたのが良くないのだ

ニッポンのダラダラ感を

もっと

基底文化として

認め直さにゃならんのよ

 

ところで

この若いひとの短歌では

最後の

「何もしないを幸せと知る」が

あたしとしちゃ

気にかかる

 

「知る」って言うと

自己認識だし

自己分析だし

そういうことができているゾヨ

と表現するのも

それはそれ

やり方次第では面白くなるが

「何もしないを幸せと知る」と言われたのを読むと

他人としては

このひと

自分の知性や自己認識力を鼻にかけてる?

気取ってる?

なんか冷たい感じ?

とも受け取ってしまう

 

論文とか

ちょっと気取ってやろうというブログ文とか

マウントとったろ系コメントとかなら

そういうのもひとつのお飾りとしていいんでしょうが

短歌ってのは

なんせ

「歌」だからね

聞いたり読んだりするひとの感情に

ばんばん

じわじわ

ひっそり

訴えるものでもあるので

自己分析できてま~す!

自己認識ちゃんとできてま~す!

と見せる「~と知る」は

使っちゃうと

かえって逆効果になることも多い

 

なので

捨てちゃえば?

 

放棄しちゃえば?

 

たとえば


一日を家でごろごろ過ごしつつ なにもしないよ な~んにもしない

 

ぐらいに

しといたら?

 

思っちゃう

 

自己認識や

自己分析や

さらに

状況分析や

表象効果評価まで

ひろく

含めた上で

最終表現を導こうとすれば

自己分析できてま~す!

自己認識ちゃんとできてま~す!

と見せてしまう表現は

もちろん

捨てる

判断に行き着くもの