2026年5月1日金曜日

大富豪になっても「家」や「屋根」や「壁」のしがらみに

 

 

 

 

「やなことばっかり」

         小津安二郎 『東京物語』(1953)

 

 

 

 

 

メラニア・トランプ自身が製作した

『メラニア』を

見たことがあった

https://www.youtube.com/watch?v=HaMqP3v9its

 

 

大富豪の妻になったモデルが

ふたたび

大統領の妻になっていく時を追った

ドキュメンタリー映画で

もちろん

計算づくの

トランプ広告映画だが

それでも

ふだんは見られない大富豪の生活環境が

認知戦の現場とはいえ

ちょっとでも見られ

つまらなくはなかった

 

しかし

なんと哀れな!

と思いもし

がっかりもさせられた

 

あれだけの有名人にして

あれだけの大富豪にして

なんと

いかに豪華で大きく快適であろうとも

「家」の中に暮らし

「屋根」の下に多くの時間を過ごし

「壁」に囲まれて存在している

だけの

ことだった!

 

トランプ程度の富裕さや

権力では

「家」や「屋根」や「壁」と無縁に存在することはできず

ましてや

「存在」「生存」「ある」から外れることも

できないのが

ありありと見えた

 

「家」の中に暮らすことはさびしい

「屋根」の下に雨雪を避けることはわびしい

「壁」で風から守られることはむなしい

 

大富豪になっても

「家」や「屋根」や「壁」のしがらみに囚われているのならば

大富豪になる意味はまったくない

 

アメリカの爆撃によって

イラン南部の女子小学校で殺された

168人の児童たちなら

すでに

「存在」「生存」「ある」から外れることができた

 

この世の至福は

「存在」「生存」「ある」から外れることに尽きる

 

もっとも

やがて襲いかかる

人界の

因縁の

縁起の

津波の揺れ戻しで

きっと

「存在」「生存」「ある」から外れることができるだろう

メラニアも

トランプも

 

思い出される

小津安二郎の『東京物語』の

終わりに近い部分の

紀子のせりふ

 

「やなことばっかり」



https://www.youtube.com/watch?v=R65wTHVUCGk

 

https://www.youtube.com/watch?v=O-Rli20oPO8

 

https://www.youtube.com/watch?v=1RV-bnqQdPw&t=570s

 

https://www.youtube.com/watch?v=hOcA2eV6WCg&t=5870s

 

 

 



そんなところに居続けて

 

  

 

美しさへむかって書こう

とすると

かならず

なにか

物を提示しようとしたり

描写しようとしたり

してしまう

 

物を

めぐって

言葉は踊る

舞う

 

しかし

言葉は虚なので

そこに

描き出される物は

虚でしかない

 

言葉の受け手の

想像が踊り

舞う

 

そんなところに居続けて

いいの?

 

いつまでも?





2026年4月30日木曜日

「彼は」

 

 

 

「夢を見た」

記すこと



 「彼は夢を見た」

記すこと


ちがい

 

「彼は」

なにをつけ加えるのだろう?

 

自分でない

過去の無数の人たちが作り加え続けた

完全に他人のもの

言葉

 

そういう言葉で

記すのならば

「彼は」

とつけ加えて

内容さえもいっそう他人化することでこそ

魔術的な引き寄せを

一気に行うことができる

のではないか?

 

少なくとも

言葉に乗せようとする「内容」は

わたしにとって

すでに

圧倒的に

他者であるから

「彼は」という

他者性の刻印を押しておくことは

すこぶる

正確な行為である

 




スートラ

 

 

 

小さなことのようだが

発見だった

 

大乗仏教の重要経典ができていった頃の

短い要文の「スートラ」は

韻律を持たず

ただ短い散文であったという

 

『空の論理〈中觀〉』で

梶山雄一が上山春平に語っていた*

 

古い短い文は

ともすれば

みな韻文だったのではないか

と思い込みがちになるが

ナーガールジュナとニヤーヤ学派との論争を収めた

『ニヤーヤ・スートラ』の頃に

すでに韻文でない短文によって

空をめぐる思考が記され

検討され

論争されていたと知るのは

「詩」に傾きそうになる短文のあり方として

重要と思われる

 

韻文でないことによって

「詩」は

思考そのものの超詩となり

非詩となることで

はじめて

真詩への可能性を獲得しうる

 

 



 


*仏教の思想『空の論理〈中觀〉』(梶山雄一+上山春平、角川ソフィア文庫、1997)、第二部「中觀思想の立場」(対談・梶山雄一+上山春平)、p.241




ほんとうの無や空を

 

  

だという

 

だという

 

しかし

わたしには

それらは


という漢字に見え

音を伴った言葉に見え

概念に見える


という漢字に見え

音を伴った言葉に見え

概念に見える

 

つまり

ではなく

ではない

 

ほんとうの

無や

空を

もたらしてあげようか?

 

地上に?

 

きみに?

 

あなたたちに?

 





2026年4月24日金曜日

第三者視点

 

 

映画を見る

 

デレク・ジャーマンの『ブルー』(1993)などと違って

ふつうの

ストーリー仕込みの映画を見る

いうことは

https://www.youtube.com/watch?v=Tc7jvNuKYHM

 

第三者視点だけを持つ

ことであり

第三者視点となることだけを押しつけられる

ことである

 

(いや、他のことも

いくらでも

言える

言える

とは思うが

ここに思念や思考の困難さがある

「他のこと」を

できるだけ多く

思考のラインの中に受けとめようとすると

思考のラインは崩壊する

崩壊してよいのだし

崩壊を呼び込むことこそが誠実なのだが

この狭量な世界では

単純明快な思考の川の維持が

求められ続ける)

 

第三者視点というのは

あるひとつの光景に対しては

ほとんど神の視点

と言えるかもしれない


事態のさなかにある当事者たちが

絶対に獲得できない

自分自身のその時の外貌に対する視点


当事者たちは

自分のその時の姿を

外から見ることは絶対にできないから


そんな視点を

つかのまでも持てる

(「持てる」もひとつの幻想だとしても)

だけでも

映画には独特の価値がある

 

思えば

美術、芸術、アートなるものの数々は

どれも

第三者視点の発生装置であり

この一点においてどれもが共通項を持つ


作品に対する際

鑑賞者はみな

第三者視点を強制される


作者でさえ

制作後の作品に対しては

第三者視点を以て対するしかない


作品はつねに

みずからが作品となった後の

作者の介入権を

峻拒するから


パゾリーニの『奇跡の丘』(1964)

思い出される

https://www.youtube.com/watch?v=U63s0kZ1nVc

 

イエスが逮捕された時

ペテロはイエスを否認する

人々から

「お前はあの男の弟子だっただろう?」

と詰問され

ペテロは否認する


パゾリーニのカメラは

逃げていくペテロを追い

誰もいない細道にまで逃げのびて

涙を流しはじめ

壁に凭れかかって

悔恨から崩れ落ちるペテロを撮り

そこから

徐々にカメラを引き

距離を取って

ただ壁の下に崩れ落ち

ただ泣いている男として

ペテロを撮り続ける

 

第三者視点は

いわば愛そのものだ

 

助けもしない

助言もしない

 

しかし

誰であってもいいような姿で

誰かがなんらかの姿をとっているのを

見続ける

 

場合によっては

名への配慮もいらない

立場への認識もいらない

過去も経緯もいらない

 

ある人体が

ある姿で

ある場所に

その時

いる

 

第三者視点は

すべてを

平等に

そのように見る

 

そのようにだけ

見る

 

その瞬間の姿への

ありようへの

愛だ

 

 

 

それでも雨はよろこび


 

 

ぼくは、ぼくに似た魂を求めていたが、見つけられずにいた。

  ロートレアモン伯爵『マルドロールの歌』、第2

 

Je cherchais une âme qui me ressemblât,

et je ne pouvais pas la trouver.

 Comte de Lautréamont

 Les Chants de Maldoror, Chant deuxième.

 

 

 

 

雨がつよくなっていた。

夜も遅くなり、22時を過ぎていた。

(「夜も更けて」と彼は書きたくなったが、

「更け」た夜とは何時頃のことだろう?

22時は「夜更け」だろうか?)

 

出て行くのは躊躇われたが、少し買っておきたいものがあった。

日課のようにしている4ℓの浄水汲みもしたかった。

 

外に出て、歩き出し、傘にしとどに降り来る雨を受けてみると、

強い雨の中に出て、よかった、と思った。

その気持ちを表わすために、

「出てきてよかった」

「やはり雨はいいものだ」

「夜の闇の中に降り来る雨はさらによい」

などと意識の中で作文してみたが、

これらの日本語作文は、

雨のよろこびを表わすにはもちろん陳腐過ぎ、

ちょっと愚かな感じの行為だ、

と彼は思った。

 

何年も前からよく思うように、

雨は「自分」というものと「自分でないもの」の壁を除き、

世界のうちの「自分でないもの」と一体に成った

かのように彼に強く感じさせる。

その感覚を彼は愛した。

 

7分ほどでスーパーマーケットに着き、

水汲みやわずかの買い物をすませて、

また雨の中を戻っていく。

 

ビニール傘は大きめのものを開いているが、

それでも足元から腿あたりまで雨で濡れ、

背中に背負っているリュックサックの上部も濡れていた。

それでも雨はよろこびだ

と彼は

作文まではせずとも思いを軽く軽く固めた。

単語を主語と助詞と形容動詞の順にしっかりと繋ぎ止めはせず、

それでも雨はよろこびだ

というのにほぼ近い意味の

まだまだぼんやりした塊のままにして

意識の中での軽い概念の浮遊を快く思った

 

数日前よりも気温が少し落ち

厚手のジャケットを着ていても暑く感じない

春の夜22時半になろうとする頃の

強い本降りの雨の中

暗闇の中を歩いて行く

なんという

よろこび

 

(「暗闇」といっても、都会に住んでいるので、

ほうぼうに街頭があり、

自動販売機のあかりもいくつもあれば、

都会の常夜灯でありオアシスであるコンビニのあかりも

一区画ごとにあるので、

「暗闇」が居座るはずの場所は

さまざまなヴァリエーションの濃淡の「薄闇」でしか

ないのだが……

と彼はいつも言い添えておきたく思うし、

注釈しておきたくも思うが、

そんな余言を加えたとしても、

いったい誰に向けられるべきだろうか、

誰が受けとめてくれるだろうか、

『ナジャ』を書いた頃のアンドレ・ブルトンでもなければ

あるいは『マルドロールの歌』のロートレアモンでもなければ

パリについての散文詩を書いたジャック・レダでもなければ

『パリの田舎者』を書いたルイ・アラゴンでもなければ

あるいはあるいは

日本でならば

『日和下駄』や『墨東奇譚』の永井荷風でないならば

などと

彼の意識の中で

強い塊にまではならないものの

無限に観念の玉が出来続けていく)