2026年6月8日月曜日

ぴっち ぴっち ちゃっぷ ちゃっぷ

 

 

   都に雨の降るごとく
   わが心にも涙ふる。
   心の底ににじみいる
   このわびしさは何ならむ。

歌ったのは

ヴェルレーヌだったか

 

訳は

鈴木信太郎だったか

 

そうして


   大地に屋根に降りしきる
   雨のひびきのしめやかさ。
   うらさびわたる心には
   おお 雨の音 雨の歌。

続くのだったか

 

しかし

雨と都とわびしさを

ぼくときたら

結びつけたことはなかったし

外に降る雨を

こころに降る涙と接合したことも

なかった

 

どちらかといえば

わが北原白秋おじさんの発明した

 

ぴっち ぴっち ちゃっぷ ちゃっぷ

らん らん らん *

 

のほうが

雨にはぴったり来た

 

北原白秋おじさんの後に生まれた

にっぽんのガキを

バカにするでないぞよ

 

ヴェルレーヌなんかより

北原白秋おじさんのほうが

どう見たって

上なのだ

 

あめあめ ふれふれ

かあさんの

じゃのめでおむかえ

うれしいな

 

なのだ

 

 ぴっち ぴっち ちゃっぷ ちゃっぷ

らん らん らん

 

なのだ

 

 

 

 

 

*あめふり

https://www.youtube.com/watch?v=gDYcUk2GmNk&list=RDgDYcUk2GmNk&start_radio=1

 

https://www.youtube.com/watch?v=sj0JM3_KWyk&list=RDsj0JM3_KWyk&start_radio=1

 

https://www.youtube.com/watch?v=HJKUPlil5_Q&list=RDHJKUPlil5_Q&start_radio=1




世の中や人生のなかに来るのとは違う明日へ


 

 

関東地方も

梅雨に

入ったそうな

 

梅雨と呼ぶのも

悪くないが

雨季とか

雨期と呼んでみたくもある

 

雨期

という言葉の好きだった女詩人と

むかし

親しかったこともある

 

傘さして

雨のなかを

ああ

なんとたくさんの女たちと

そぞろ歩いたことか

 

荷物が多くなければ

雨中の散策も

わるくないもの

あまりに雨が吹きつければ

それはそれ

面倒だが

梅雨の頃の雨は

吹きつけるような雨でもないし

 

大きな公園の

亭の下へ雨やどりすれば

どの女とも

たちまち別世界が立つようで

若さと

人生のさかりとは

そのまま

夢の蔓を繁茂させていく草に

似ていた

 

大樹の下で

雨のあたらないベンチでも見つかれば

ちょっと座って

むかしなら誰でも持っていた

両切りの

強い煙草に火を付けて

ゆっくりと一本

吸ったりしたものだった

 

吸っているあいだの

遠く

近くの

雨の音を

聖なる音のように

聴きながら

世の中や

人生のなかに来るのとは違う

明日を

思い見ようとしたりした

 

そうして

一本を

吸い終わると

立ち上がり

歩き出したものだ

 

世の中や

人生のなかに来るのとは違う

明日へ

 

 

 

2026年6月7日日曜日

文字を知って間もない頃には



 

なにか書くということに

あまりに多大の意義を帯びさせようとする人々には

わたしの場合

賛成はできない

 

たとえば

海を前にして

あるいは大河のほとりで

ノートにも

画帳にも

なにも書かず

描かずに

ただ視界をひらいていることの快さを

じゅうぶんに経験してきたから

 

しかし

言葉を記そうとすることに

意義がないとも

思わない

 

言葉を記していこうとすると

すぐに意味を

文字で構成していこうとしてしまうのに

だれもが気づくだろう

 

「なにか食べたくなってきた…」

などという

自然な欲求の文字化なら

文字ならべも無邪気なものだが

多くの場合

もっと意味のある内容を

意義ある文字ならべをしよう

などと

思いは凝りはじめていく

 

「なにか食べたくなってきた…」

などは

書かなくてもいいだろう

もっと書く意義のあることを

価値のある内容を

どうせなら

文字では記すべきだ

などという命令が

意識の奥から

圧力をかけてくる

 

こうして

文字ならべは堕落していく

 

書くことは

前もって

あらかじめ

腐敗していく

 

書くことも

文字ならべも

それがはじまる最初から

意味や

価値や

さらには

高尚さや品格や

新しさや

驚きや

表象の帯びるべき(と妄想される)普遍性などに

支配させてしまう

 

おお

かわいそうに! 「書くこと」よ!

かわいそうに! 「文字ならべ」よ!

 

文字を知って間もない頃には

おまえたち

文字を

あんなに気ままに

できるかぎり自由に

チラシの裏の白紙や画用紙に

書き散らして

大人が強いてくるなんの意味にも

意義にも

価値にも

つき合わせずに

「書くこと」を純粋に近く「書くこと」として

紙の上に展開させたものだったのに!

 

人生識字憂患始
(人生 字を識るは 憂患のはじめ)

 

蘇軾が

このように

『石蒼舒醉墨堂』*という七言古詩の冒頭に書いたのは

間違っていた

 

過去の人間たちによって作られた文字は

後から生まれてきた者たちには

いわば野の草や路傍の石や岩のようなもので

その形象を楽しんだり

かたちを真似て線を引いてみたり

書き並べてみたりすべきもの

それ自体はおもしろい遊び道具で

けっして「憂患のはじめ」となるわけではない

「憂患」は

それらの遊び道具に

ずいぶん狭い運用規則を課すところから

生じてくる

 

饒舌な詩人で

饒舌詩の名人だった蘇軾のこの詩では

冒頭の句よりも

むしろ

十七行目のあたりからが

おもしろい


我書意造本無法  我が書は意造にして 本 法無し

點畫信手煩推求  点画 手に信せて 推求を煩わす

胡為議論獨見假  胡為(なんす)れぞ 議論 独り仮されて

隻字片紙皆藏收  隻字 片紙 皆藏收せらる

不減鍾張君自足  鍾・張に減ぜざるは 君自ら足れり

下方羅趙我亦優  下 羅・趙に方(くら)ぶれば 我も亦優ならん

不須臨池更苦學  須(もち)いず 池に臨んで更に苦学することを

完取絹素充衾裯  絹素を完取して 衾(きんちゅう)に充てよ

 

わたしの書ときたら勝手な崩し書きで技法の基本から外れている。

一点一画、でたらめ書きで、どう解したものかと人を悩ませる。

それをどうしたわけか評価などしていただき、

一字の切れ端まで収集して下さっている。

きみは鍾繇・張芝にひけをとらない腕前、

わたしも羅暉・趙襲ぐらいになら負けはしないかな。

まあ、池のそばで張芝がそうしたように

池の水が黒くなるまで字を練習する必要などは

いまさらあるまい。

白絹はそのまま取っておいて、布団の表にでもしたらいいだろう。

 

 

1069年頃の作だが

たびたびの不遇に遭いながらも

強靱な楽天さで

天性のユーモアを振りまき続けた蘇軾の文字ならべからは

千年近い後のいまでも

ずんずんとエネルギーが来る

 

なに?

それはちゃんと

蘇軾が

文字ならべを意味に従えさせたからだって?

「書くこと」を意義の配下に服従させたからだって?

 

そうかもしれないが

そうしてもなお

文字たちを元気いっぱいに躍動させ

「書くこと」を

とりあえずの形式のなかで

できうるかぎり

自由に

踊らせ得たからだった

 

……と

しておこうか

 

 

 

 

 

 

 

*石蒼舒酔墨堂   蘇軾

 

人生識字憂患始  人生 字を識るは 憂患の始め

姓名粗記可以休  姓名 粗(ほ)ぼ 記すれば 以て休(や)む可し

何用草書誇神速  何ぞ用いん 草書の神速を誇るを

開卷怳令人愁  卷を開けば怳(しょうきょう)として人をして愁えしむ

我嘗好之毎自笑  我嘗て之を好み 毎(つね)に自ら笑う

君有此病何能瘳  君に此の病有り 何ぞ能く瘳(いや)さんや

自言其中有至樂  自ら言う 其の中に至楽有りて

適意無異逍遙遊  意に適すること逍遙の遊に異ること無しと

近者作堂名醉墨  近者(ちかごろ) 堂を作りて醉墨と名づく

如飲美酒消百憂  美酒を飲んで百憂を消するが如しと

乃知柳子語不妄  乃ち知る 柳子の語の妄ならざることを

病嗜土炭如珍羞  病んで土炭を嗜んで珍羞の如しとす

君於此藝亦云至  君 此芸に於いて 亦た至れりと云う

堆牆敗筆如山丘  牆に堆(つ)める敗筆は山丘の如し

興來一揮百紙盡  興来って一たび揮えば 百紙盡く

駿馬倏忽踏九州  駿馬 倏忽(しゅっこつ)として 九州を踏む

我書意造本無法  我が書は意造にして 本 法無し

點畫信手煩推求  点画 手に信せて 推求を煩わす

胡為議論獨見假  胡為(なんす)れぞ 議論 独り仮されて

隻字片紙皆藏收  隻字 片紙 皆藏收せらる

不減鍾張君自足  鍾・張に減ぜざるは 君自ら足れり

下方羅趙我亦優  下 羅・趙に方(くら)ぶれば 我も亦優ならん

不須臨池更苦學  須(もち)いず 池に臨んで更に苦学することを

完取絹素充衾  絹素を完取して 衾(きんちゅう)に充てよ

 

人生、文字なんか覚えるから憂いも苦しみも始まってしまうのだ。

項羽が言うように自分の姓名が書けるぐらいにしておけばいいのに

神速を誇って草書をさらさら書いたからといってどうなるというのか。

巻を開いても何と書いてあるのかわかりづらく人を悩ませたりして。

とはいえ、われながら笑ってしまうほどわたしも書が好きで、

きみときたらもう病気といってもいいほどで治しようがないね。

この楽しみにかなうものはないなどと言っているし

自由無礙の理想郷(荘子)に遊んでいるようだとさえ言う。

最近、書斎を作って酔墨堂と名づけたのも、

美酒を飲んで心配事を洗い流すのと同じだからというじゃないか。

そうしてみると、柳宗元の言葉もでたらめではないね。

土や炭を食べてご馳走のように感じる病気があるというが

きみがこの芸術に打ち込んだのもその極地だよ。

使い古した筆がそこの垣根に山丘のごとく積まれているし、

興に乗って一度筆をふるえば百枚も書き尽くしてしまう。

まるで駿馬が一瞬にして全国を駆けめぐるようだ。

わたしの書ときたら勝手な崩し書きで技法の基本から外れている。

一点一画、でたらめ書きで、どう解したものかと人を悩ませる。

それをどうしたわけか評価などしていただき、

一字の切れ端まで収集して下さっている。

きみは鍾繇・張芝にひけをとらない腕前、

わたしも羅暉・趙襲ぐらいになら負けはしないかな。

まあ、池のそばで張芝がそうしたように

池の水が黒くなるまで字を練習する必要などは

いまさらあるまい。

白絹はそのまま取っておいて、布団の表にでもしたらいいだろう。

 

 

 

 


2026年6月4日木曜日

窮極の空虚の岸辺


 

 

紙媒体の上で

電子画面の上で

音響媒体の中で

人声から人声と伝わっていく場で

過剰に激しく飛び交い続ける

ニュース、思い、思いつき、メモ、批判、批難、不平、考察、

慨嘆、悲憤慷慨、皮肉、ユーモア、嘲り……

 

それらを目にし

耳に

していると

誰もが認める大舞台として

まるで「世界」というものが本当にあって

そこでは

人体や人心や知性や精神や霊を

喜怒哀楽させ

動揺させ

時には傷つけ

死に至らせる大小の出来事が

絶え間なく発生しているかのようなのだが

はたして

「世界」

など本当にあるのか?

あると言われ

あると信じ込まれている「世界」とは

どういう意味での「世界」なのか?

 

などと

問うまでもなく

個々の人体に乗っている

というか

帯びさせられている

意識たちにとって

たぶん最も切実な問題は

「世界」よりも

かれらの人体や思考用言語が属している集団の

おそろしいまで偏った特異性であり

その特異性がかれらの意識に仕掛けてくる強固な枠づけであり

抑圧であり

懐柔であり

溶解であり

腐敗化であり……

 

思っているところへ

たとえば

1986年の時点でのフェリックス・ガタリの

東京体験

を思い出してみる*

 

捉えがたい侵犯の曲折の果ての、

窮極の空虚の岸辺における拒絶と放棄。

視線に漂う誇りと優しさと暴力。

女性的・母性的諸価値がいたるところに存在しながら、

しかし厳重このうえなく囲い込まれ抑圧されているという逆説。

そうした抑圧のこれみよがしの姿。

 

ガタリは抽象的にこのように語り

あまりの抽象性のゆえに

これをどう理解するべきかと

読者は戸惑わざるを得ないのだが

彼の哲学的言説はとりわけ詩の言葉で語られるので

読者の側のチャンネルがピタリと合えば

稲妻のように理解が落ちて来る

 

なんと見事な

日本観察であり

東京透視であろうか

 

「世界」から日本を見に来る人々が

なんと感じようと

なんと見たがろうと

日本は「厳重このうえなく囲い込まれ抑圧されている」場であり

「女性的・母性的諸価値がいたるところに存在」しているかのようでも

それらはつねに「暴力」でしかない

そして

なんと無限にまき散らされた「空虚」「空虚」「空虚」であることか!

「窮極の空虚の岸辺における拒絶と放棄」とは

なんと正確に見抜いたことか!

 

日本脱出したし皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも

 

と歌った塚本邦雄のように

なぜ日本人の多くが日本を脱出したいのか

この答えにガタリの詩的考察は正確に焦点を当てている

 

「空虚」であることによってのみ

全的に「虚無」を受け入れることによってのみ

そうして精神的な絶対をけっして持たず

方向を持つ自我を完全放棄することによってのみ

駅ビルの商業空間やテーマパークにおけるような

ひたすらな消費者としてのみの安全と安寧と安閑さが

日本列島では保証されるのだが

それをガタリは「窮極の空虚の岸辺」と見事に言い切っている

 

日本列島で「平和に」「やすらかに」暮らしていく人々に

もっともふさわしい短歌として

おそらく奇妙に受けとられるだろうが

乳ガンとの闘病を歌って戦後の現代短歌を拓いた中条ふみ子の歌が

どうしても思い出されてならない時がある

 

彼女の死んだ昭和の荒れた戦後風景と

似ても似つかぬはずの令和時代のいまの時空間に

いくつか

彼女の歌を思い出しておきたい気がする

というのも

中条ふみ子が浮き上がらせようとした対象こそ

日本列島とここに立ち込める深い霧に囲い込まれた意識たちのみが

ありありと感知できる

日本という優しいガンの正体だったのではないかと

思われるからだ

 

 

失ひしわれの乳房に似し丘あり冬は枯れたる花が飾らむ

 

きられたる乳房(くろ)ずむことなかれ葬りをいそぐ雪ふりしきる

 

無き筈の乳房いたむとかなしめる夜々もあやめはふくらみやまず

 

身に副へる何の悲哀か螺旋階段登りつめれば降りる外なし

 

ゆつくりと膝を折りて倒れたる遊びの如き終末も見え

 

冬の皺よせゐる海よ今少し生きて己れの無残を見むか

 

 

 

 

*フェリックス・ガタリ『誇らしげな東京』

in フェリックス・ガタリ『機械状エロス 日本へのまなざし』(ギャリー・ジェノスコ+ジェイ・ヘトリック編、杉村昌昭+村澤真保呂訳、河出書房新社、2024

 

Machinic Eros : Writings on Japan by Félix Guattari (Edited by Gary Genosko and jay Hetrick, Univocal, 2015)

 

 

2026年6月3日水曜日

あなたは驚く

 

 

 

気づくと

街で見かけるひとびとが

みな

かわいらしくみえて

あなたは驚く

 

シャツのなかの肌に

じかに鼻でも寄せれば

きっと汗くさいに違いない

たっぷり贅肉の付いた男たちも

 

なにについても

いくらでも不平を浴びせそうな

不機嫌が顔にあらわに出た

中年の女たちも

 

まるでからっぽの脳だけを

あたまのなかに入れてあるだけのような

鳥類のつめたい目をした

こころの薄そうな若者たちも

 

あの贅肉にも

体臭にも

偏狭さや不機嫌さにも

点のようなつめたそうな目にも

なんと

容易な扱いようが

ちゃんとあって

どれもがやわらかく

やさしくなって

すすんで触れたくなるように

抱きしめたくさえなるように

すごく親わしく

かわいらしくなる

と気づいて

あなたは驚く