2026年8月8日土曜日

心も意識ももともと空

 

 

『祖堂集』は

現存する最古の禅宗史書とされ

五代南唐の保大十年

すなわち

952年に編集されている

 

編者は

泉州招慶院の

静・筠二禅徳による

 

禅が

シャカ以降のさまざまな仏教の展開の後に

ひとつの宗派として出現したのではなく

そもそも

シャカを含む過去の七人の仏から始まっているもので

シャカから始まる仏教よりも

さらに古く

淵源から流れ出してきているもの

と提示しているのが

この書の特徴で

インドや中国の祖師たちを経て

編者の時代までの256人の問答を収めている

 

この『祖堂集』の冒頭には

「七仏」

という章があるが

ここが面白い

 

いかにも素直に

この世のすべてや

この世の生のむなしさが

語られている

 

禅も

仏教も

そもそもは

やはり

この世のあまりのむなしさや

変転のはやさ

出現と消滅のめまぐるしさを前にして

また

そのなかに逃れようもなく身を置いての

驚きと

おそれと

おののきと

無力感から

始まったのだろう

と思わされる

 

シャカに至るまでの

六人の仏たちの歌「幻人のうた」を

簡単に見ておこう*

 

 

第一ビバシ仏(偏眼仏)

わが身は

もともと無相のところより生を受けていて

あたかも幻人が

さまざまの形像を現わし出しているのにひとしい。
幻人は心も意識ももともと空である。

罪も福もすべて空で、

何もとどめようがない。

 

第二シキ仏(肉髻をもつ覚者)

もろもろの善心を起しても、もとより幻にすぎず、

もろもろの悪業をつくってもやはり幻である。
わが身はうたかたのごとく、

心は風のごとくで、

幻人が現わしだしたものには、

根もなければ実体もない。

第三ビシャフ仏(遍一切自在仏)
地水火風の四つを仮りて、わが身となし、

心ももともと無生で、対象にかかわり合って存在するにすぎぬ。
対象が無くなると、心もまた消えて、

罪も福も、幻のように現われてはまた滅する。

 

第四クルソン(所応断仏)

わが身に実体はないと知ることが、仏を見ることであり、

心は幻にすぎぬと知ることが、仏を知れる人である。
肉身も精神現象も、もともと空しいものだと悟れる人こそ、

まさしく仏と別なき人である。

 

第五コナーガマナ仏(金色仙仏)

仏は肉身を見ないでも、仏であると知られる。
真に知があればよいので、そのほかに仏はない。
知恵あるものは罪業の空なることを知って、

心やすらかに生死を怖れることがない。

 

第六カッサパ仏(飲光仏)

生きとし生けるものは、本性がすべて清浄である。
はじめから無生であるから、滅すべきものはない。
この身そのものが幻のように生じたもので、

幻の変化のなかには、罪も福もない。


第七釈迦牟尼仏(シャカ族出身の聖者)

幻の変化には、原因もなければ生ずることもない、

それらはすべて自然であって、

そんなふうに見えているにすぎぬ。
存在はすべて、

自から幻のように変化して生まれたのでないものはない

のであり、

幻の変化は生まれたものでないから、

何の畏れるべきものもない。

 

 

『祖堂集』冒頭の

これら

「七仏」の歌を読んでいると

旧約聖書の

あの「コヘレトの言葉」の響きが

すぐに

思い出されるだろう

 

文化的な接触が

どこかであったに違いない

 

シルクロードを通じて

伝わってきた「コヘレトの言葉」を

『祖堂集』の編者たちは知っていたかもしれないし

もっと古くに

仏教世界と旧約聖書世界は

文化的に相互に認識しあっていたかもしれない

 

「コヘレトの言葉」を

これも

はじまりの部分だけだが

抄出して

思い出し直しておこう

 

 

コヘレトは言う。

なんという空しさ

なんという空しさ、すべては空しい。

 

太陽の下、人は労苦するが

すべての労苦も何になろう。

一代が過ぎればまた一代が起こり

永遠に耐えるのは大地。

(……)

 

何もかも、もの憂い。

語り尽くすこともできず

目は見飽きることなく

耳は聞いても満たされない。

かつてあったことは、これからもあり

かつて起こったことは、これからも起こる。

太陽の下、新しいものは何ひとつない。

見よ、これこそ新しい、と言ってみても

それもまた、永遠の昔からあり

この時代の前にもあった。

昔のことに心を留めるものはない。

これから先にあることも

その後の世にはだれも心に留めはしまい。

(……)

わたしの心は知恵と知識を深く見極めたが、

熱心に求めて知ったことは、

結局、知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎないということだ。

これも風を追うようなことだと悟った。

知恵が深まれば悩みも深まり

知識が増せば痛みも増す。

(……)

 

 

 

*『禅語録』(世界の名著18、中央公論社、1978)の柳田聖山訳によった。




美しい秋のはじまり


 

 

87日は

はやくも立秋だった

 

暦で決まっているものに

はやいも

遅いもないのだが

まだまだ暑さの盛りが続き

世間でも

暑い暑いと

口癖のように

くり返しているところへ

立秋

という字を

カレンダーに見ると

やはり

「はやくも」

という思いが立つ

 

夕暮れ

買い物に出て

整備された小公園の道を

西にむかって歩いていると

味のある雲が

いくつか

西空に浮いていた

 

繊維の細かい金属タワシを

やわらかく

ほぐし気味にして

いくつか

天に放り上げたようで

尨犬の子のような

まるまるとした

かわいさがあった

 

歩いていく小道の

両脇からは

まだ緑色の鮮やかなカエデが

行くひとの上に被さってきていて

このカエデの葉々の隙に

暗くなっていきかけている西空や

ほぐした金属タワシのような

雲のいくつかが

いっしょに見えているのが

格別の趣を

醸し出していて

思いもしなかったところで

美しい秋のはじまりに出会えたと

嬉しかった

 

 


2026年8月7日金曜日

現実の場所がそのまま真理

 

 

 

僧肇は

『不真空論』の中で

 

真理を離れて現実の場所があるのではなくて

現実の場所がそのまま真理であり

すべてが自己の主体である。

さもなければ、いったいそれは誰なのだ?*

 

と言っている

 

これは

エゴを最大限に巨大化せよ

との

妄想の勧めではない

 

現実のあらゆる場所をすべて真理とし

すべてを自己の主体とする

というのは

逆に

徹底したエゴ的自己の消滅をあらわす

 

エゴが真理を発見していって

発見された真理を自己の武器とするのではなく

完全消滅したエゴが

それまで自分の領していた場所をすべて

真理に明け渡す

 

この『不真空論』を受けて

臨済は

こう説いている

 

修行者よ、仏教の真理は、努め励みようもない。

まったくあたりまえで、なんということもないものだからだ。

糞をひったり尿をたれたり

衣服をつけたり飯を食ったり

疲れたら眠る。

「愚かな奴はわたしを笑うが、えらい人はちゃんとわかっている」

と古人も言っている。

「外面的な努力をするのは、すべてばかな男のことだ」と。

君たちは

とにかくまず

どこにあっても主人公となれ。

そうすれば

君たちの立っているところがすべて真理となる。

どんな相手がやってきても

君たちを引きまわすことはできない。

前世の煩悩の残りかす(余習)や

無間地獄に堕ちねばならぬ五種の重罪さえも

自然に解脱の大海となる *

 

「どこにあっても主人公となれ。

そうすれば

君たちの立っているところがすべて真理となる」

というのは

原文では

有名な

「随処作主立処皆真」

となる

 

「平常心是道」や

「即心即仏」などの名言で知られる

馬祖道一の始めた馬祖禅は

ごくふつうの日常生活そのものを真理とし

悟りとする中国禅として

臨済を以て頂点に達したが

「糞をひったり尿をたれたり

衣服をつけたり飯を食ったり

疲れたら眠る」ことを

そのまま真理とし

そのまま悟りとする当時の中国禅の精華は

第二次大戦後の枠組みが溶解し

さらには植民地主義のヨーロッパ精神の完全瓦解が

仕掛けられている現代において

各地の富も権力も持たない個々人を支えうる拠点となりうるだろう

(たとえキリスト教誤解の狂信者のアメリカや

古代イスラエルの予言者たちを完全誤解している例の連中たちによる

地球支配の策略下における枠組み破壊企画の最中であっても)

 

時代が変わっても

中国文化の根底を流れる現実重視の性質から来るのだろうが

馬祖以後の中国禅は

山林の瞑想などを良しとせず

むしろ

形式的な瞑想や行道はことさらに業を作り

あたりまえの人間の真実を損うものとして退けた

臨済は

このようにも言う

 

君たち各地の修行者は

よく

「修行があり、証悟がある」と言う。
しかし

誤まってはならない。

 

たとえ修行し得るものがあるとしても

すべては生死の業に過ぎない。

 

君たちはよく

「六波羅蜜の行を修め、もろもろの万種の善行を積む」

と言うが

わたしの見るところでは

すべて業を増しているだけのことである。

 

仏を求め法を学ぶのは

そのまま地獄行きの業を作ることに他ならない。

菩薩の境地を求めるのも

やはり業を作り

経典を読み仏教の文献を調べることも

やはり業作りである。

 

仏も祖師も無事の人である。

無事とは依りところとなる実体や物質(vastu)がないこと

なにが起こってもふだんと変わりなく過ごす境地のことである。

 

煩悩の生活や計算された意図的な行為が業を作るのはわかりやすいが

その反対の悩みのない清らかな生活であれ

何も求めない行為であれ

君たちにとっては清浄という新しい業となるだけのことである。

 

職業坊主のなかには

飯をたらふく食った後にさっそく坐禅瞑想し

ひたすら妄念をおさえて起こさぬようにし

喧噪を嫌って静けさを求める連中がいるが

まったく以て

それは外道のやりかたと言うべきである。

 

祖師も言っている。

「君たちがもし、心を止めて静けさを内省し

心をあげて対象を観察し、

心をおさめて内に鎮め

心をおさえて禅定に入るなら

そんな連中は

みな

業作りの者たちである」と。

 

ほかでもない

今このようにわたしの説法に聴き入っている君たちは

いったいどのように

“それ”を修行し

“それ”を証悟し

“それ”を飾りたてようとするのだ?

 

“それ”はけっして修行して得るものでもなければ

飾りたてたからといって

本当に得られるようなものでもない。

 

“それ”自らに飾らせるに任せるなら

一切のものが

ただちに飾り上げられることにもなるだろうが。

 

君たちは

とにかく誤ってはいけない。*

 

 

「清浄という新しい業」を

作るだけのこと

という指摘は

よくよく聞いておいたほうがいい

 

「清浄」も「煩悩」も

「仏」も「凡夫」も

「善」も「悪」も

思念の中の澱みに浮かぶ泡沫に

過ぎない

 

 


 

*引用文は『仏教の思想7 無の探求〈中国禅〉』(柳田聖山・梅原猛、角川書店、1969)によっているが、表現を改変した箇所もある。

 



ただ己に恥づ


 

 

江戸時代後期の歌人

大隈言道の『こぞのちり』に

こうある

 

人はよくもいへあしくもいへ、

うけひきがたし。

ただ己に恥づ

 

「人」という世間や世評を捨て

「ただ己に恥づ」

という

行動基準の拠点づくりに至るのは

日本の精神性の典型といえる

 

精神拠点として

仏教や儒教や神道を

さらには

それらの混合実験から凝縮された武士道を

用いる者たちも

日本には多かったが

大隈言道は

「己」だけを基準としているところに

日本精神の

最終地点を体現している

 

とはいえ

「恥づ」という確認体制を用いているところに

脆弱さをわたしは見る

 

 

あらゆる「恥」は

内化された「世間」を基盤とするゆえ

捨て去るべきである

 

「世間」は悪であり

それをベースとして生まれた評価基準は

すべて「悪」でしかない

 

「ただ己に恥づ」

と言わず

「ただ、瞬間瞬間にふさわしく動く」

とでも言っておけば

よかっただろう

 

ところで

明治時代に入ってからの

明治天皇の短歌

 

目に見えぬ神にむかひてはぢざるは人の心のまことなりけり

 

などを読むと

大隈言道の精神のありかの

継承を感じる

 

「恥」とか

「はぢ」などは

もっと軽く受け取って

気分の少しでもいいほうへ内部を向かわすための

観測装置としていた

と思っておけばいいのかもしれない

 

 

 


2026年8月5日水曜日

誰にも教えない


 

 

地震予測をする人たちが

Xにいる

 

728日の熊本地震を

予測していた人のアカウントは

凍結されたらしい

 

非科学的だとか

恐怖を煽るとか

SNSの世界では

いろいろ批判されるし

利害関係もいろいろある

 

予測できたり

予知できたりしても

SNSには言わなければいいのに

と思う

 

危険を知らせたほうが

多くの人が助かる

などと思って

告知をするのだとしたら

甘い

 

災害で死ななければいない人たち

怪我をしたり

苦難に遭わないといけない人たちも

たくさんいるので

他人の運命に介入してはいけないのだ

 

今回の熊本地震は

わたしも予知していた

 

前日の夜から朝まで

足の裏がすごく熱くて

自身のなんらかの病気の発症を疑ったほどだったが

この足裏の燃えるような感覚は

何度か繰り返し経験してきていたので

たぶん大きな地震が起きるだろうと思っていた

 

地震が起きた時

やっぱり来た

と思った

 

ただ

場所は当てられない

 

とはいえ

今回の地震は

自分の身体の予知能力を確信するのに

役立った

 

何年もかけて

だんだんと確信するに至った

地震前の感覚は

これだ

 

1  すさまじいダルさと眠気。

   外出時はなんとか持ち堪えようとするが

家にいる時は座っていることもできなくなり

寝てしまう

無理に座っていても

いつのまにか意識がなくなって

眠ってしまいがち。

 

2  頭の中での猛烈な圧力の高まり

 

3  足裏のすさまじい熱さ

ほんとうに

焼けるような

 

きのう84日も

このうちの1の症状がひどかった

 

個人的には

熊本以上の大災害が近い感じがする

 

もう

救助どころではないような

その地域を諦めるほかない規模の

地震だけには限らなそうだが

大きな災害

 

今日や明日ではなく

もうちょっと

 

でも

遠くない

 

他人の運命には

いっさい介入しないつもりだし

それどころか

人類の運命にも

地球の未来にも介入しないつもりなので

SNSなどには

いっさい書き込まないし

まわりの人たちにもしゃべらない

 

これまで通り

起こったら起こったで

「ああ、やっぱり」と

自分だけで確認する

 

本当の予知や予感というのは

こういうこと

こういうもの

 

誰にも教えない

 

え?

教えているじゃないか、って?

 

これは詩形式

あくまで

フィクション

という逃げ道がある形式