2026年3月23日月曜日

『吾輩はカモである(Duck Soup)』

 

 

319日の高市・トランプ会談で

テレビ朝日の千々岩森生記者がした質問に

トランプが機知に富んだ返答をしたというので

記事を見直して見たが

見事なほどにトランプがエラーを犯していて

噴飯ものだった

 

千々岩森生記者の質問は

アメリカによるイラン攻撃について

「日本とアメリカは非常に友好的な関係にありますが、

なぜ、イランを攻撃する前に

ヨーロッパや日本などアジアの同盟国に

戦争のことを知らせなかったのですか?

私たち日本人は非常に困惑しています」

というようなものだったらしい

(「らしい」と加えるのは

昨今

ニュース映像や記事でさえも

AIによる捏造ものが増加し過ぎているため)

 

この問いに対してトランプは

「あまりその兆候を出したくなかったというのが一つ。

誰にも伝えなかったのは、奇襲を仕掛けたいと思ったからだ。

奇襲について日本ほど詳しい国はない。

なぜ、真珠湾攻撃のことを教えてくれなかった?

そうだろう」

といった内容を答えたらしい

(こちらの場合も

「らしい」と加えるのは

昨今

ニュース映像や記事でさえも

AIによる捏造ものが増加し過ぎているため)

 

SNSなどでは

千々岩森生記者の質問を

シチュエーションを弁えない国辱ものだとか

国賊ものだと断じて批難する体制順応主義者らの

コンフォルミスト的言辞が踊ったようだが

「世界中に平和と繁栄をもたらせるのは“ドナルドだけ”だと思っています」

などとペラッと言って

「戻れなくても もういいの

くらくら越える 地を這って

あなたと越えたい 天城越え」路線を

突き進んでいる高市早苗よりも

よほど真っ当な発言だったと思われる

https://www.youtube.com/watch?v=cwL09UKDqdI

 

 

まあ

裏の裏の裏に

まだまだ裏のある

腹芸の競い合いの場である国際政治発言における

高市とトランプと千々岩森生の言葉それぞれの機能性評価は擱くとして

ここでは

トランプの発言の馬鹿丸出しさ

だけを見直しておきたい

 

「あまりその兆候を出したくなかったというのが一つ。

誰にも伝えなかったのは、奇襲を仕掛けたいと思ったからだ。

奇襲について日本ほど詳しい国はない。

なぜ、真珠湾攻撃のことを教えてくれなかった?

そうだろう」

 

1620年にメイフラワー号で上陸した

「ピルグリム・ファーザーズ」以降の奇襲的白人移入を経験した

ネイティヴ・アメリカンの立場に立てば

「奇襲について日本ほど詳しい国はない」なんて

どの口が言う?

と反論したくなるに違いないだろうが

そこも放っておくとして

問題なのは

というか

馬鹿丸出しなのは

「なぜ、真珠湾攻撃のことを教えてくれなかった?」

という発言である

 

太平洋戦争を開始させた真珠湾攻撃においては

大日本帝国はアメリカ合衆国と敵国となったわけで

これから奇襲をしかけてやろうという相手である敵国に対して

「真珠湾攻撃のことを教え」るわけなどもちろんなかった

千々岩森生記者は

「ヨーロッパや日本などアジアの同盟国に

戦争のことを知らせなかった」

ことを指摘したわけで

アメリカが敵国となるイランに教えたかどうかなど

もちろん問題としたわけではなかった

 

トランプは

エスプリを効かせた冗談を言ったつもりでも

このエスプリや冗談を正しく機能させる基本構造設定で誤ったのであり

ようするにスベったわけで

うまいことを言おうとして愚鈍さを露呈させたことになる

ヨシモトあたりのお笑い芸人養成講座にまじめに通い直して

基礎の基礎から叩き込み直したほうがいいだろう

 

ここで

キューバ系のマルコ・アントニオ・ルビオ国務長官や

モントレーで性的暴行を行った疑惑や

勤務中の過剰飲酒が発覚したりした

大きな組織を率いた経験もないピート・ヘグセス国防長官あたりが

「大統領、われわれだって

敵であるイランには教えませんでしたがナ、ハハハ」

などとおちゃらけてトランプを救えば

さすがアメリカ

「祖国は戦争に入れり」と議会で群舞する名シーンのある

『吾輩はカモである(Duck Soup)』のマルクス兄弟の国ではある!

と世界から見直されたかもしれないが

アメリカのお笑い文化レベルもかなり落ちてしまったらしい

残念!

https://www.youtube.com/watch?v=5mEsXz-Bpog

 

 

 

2026年3月20日金曜日

頂点のひとつ




桜が咲きはじめている

やわらかい雨が
きょうは
降っている

桜の花ざかりの頃の
はなびらの
あのやわらかさ
つめたさ

まだ肌寒い時もある頃の
霧のような雨の
見た目のやわらかさは
桜の花の群れを
てのひらで包んでみたような感触にも
ちょっと近い

やわらかい雨も花

しおしおと
しほしほと
浮かびながら降りてくる
やわらかい雨を見ているのも
春のはじまりの
頂点のひとつ

 


大気がわたし




大気はわたしよりもわたしなので
この世のことは
たいてい
大気に任せてある

遠いところ
近いところの
さまざまな音のくぐもりや
温度の繊細なグラデーションとも
ぴったり
大気はつながって
精緻な網の目のよう
かたちなきレーダーのよう

大気がわたし

ほかの生きかたがあろうか?
と思う

大気に混ぜ入るもの
すべても
わたし

これ以上のありかたがあろうか?
ちょっと
誇る




死ということ


 

 

 

こんなにも物のなかにいる

もう

思わないのが

ということ

 

時間に引きずられていきながら

あれをしなければ

これをしなければ

もう

思わないのが

ということ

 

存在のしかたを

どうするか

ちょっとでも

変えるか

もう

思い悩まないのが

ということ





空だけは夢の器に

 

 

 

空気の静けさと

草の美しさを

肌に深く沁み入らせようとして

ろくろく見もしないでおく

文字や写真

そして

動画

 

春の岬でときどき涼しすぎる風に吹かれながら

いつまでも

いつも

夢見るひと

 

たとえ夢のなかになにもなくても

夢の器を

守り続けるひと

 

空気の静けさと

草の美しさを

肌に深く沁み入らせようとして

空だけは

夢の器に受け止め続けて






2026年3月18日水曜日

悲しい歌の好きだった頃

 

 

 

悲しい歌の好きだった頃

惹かれた子たちの腕は細くて

首は細くて

肩は薄くて鋭くて

夢見がちなのに

実利的

 

悲しい歌のメロディーは

ぼくの心に染み込んで

惹かれた子たちの

腕や首

肩や夢見を

捨てさせた

 

悲しい歌のむこうには

メロディーの海や

テンポの野

カデンツァの森がひろがって

悲しみ喜び楽しみは

ただの味覚となりました

 







2026年3月15日日曜日

岩屑


 

 

「岩屑」という言葉は

古井由吉の『杳子』*を見ていて

はじめて知った

 

登山家たちが使う言葉かもしれないが

街暮らしでは

なかなか

この言葉には出会わない

 

山登りをしている主人公が

西の空に黒雲のひろがりを見つけ

追い立てられるような気持で尾根を下り

谷に入っていく

 

「岩屑」は

谷底の河原に

「流れにそって累々と横たわって静まりかえり

重くのしかかる暗さの底に

灰色の明るさを漂わせていた」

 

そうして

「岩屑」のこの明るさのなかに

「杳子」が出現する

 

「その明るさの中で

香子は平たい岩の上に職を小さくこごめて坐り

すぐ目の前の

誰かが戯れに積んでいった低いケルンを

見つめていた」

小説というものが

忘れがたい印象的なシーンを

冴えた映画のように提示することで始まるものだった時代の

とりわけ印象深い冒頭の『杳子』だった

 

勢い込みたくても

いい出だしが書けないときは

気張らないで

控えめに書きはじめる

というようなことを

かつて

どこかで吉行淳之介が書いていたが

小説であれ

映画であれ

ドラマであれ

あまりに多量に生産されてしまって

すでに個々の作品が存在価値や意義を失うほどに

極限の飽和状態に至ってしまった昨今では

気張らないで

控えめに書きはじめられた小説は

一度といわず

再三

作者自身によって再考や

再編集をされて

これ以上ないほどのシェイプアップを施されてから

発表するようにしてほしいと

読者としては思う

 

200ページだの

300ページだの

400ページだのを使って

グダグダ細かな雑事を書き込まれても

もう読者はつき合っていられない

せいぜい10ページ程度に凝縮してから

発表せよ

などと思うが

つまりは

ボルヘスになれ

ということか

 

 

 

 

*古井由吉 『杳子』、1971