2026年5月25日月曜日

天国よいとこ 一度はおいで



 

夫を失った老婆がいた

 

葬儀も済み

納骨も終わって

毎日が

ひとりだけの生活になった

 

「きのう

出てきたの。

さびしそうな顔をして

立っていた。

あたしのことを

呼びに来ているんじゃないかしら?

あっちで

ひとりじゃさびしいからと

呼びに来ているんじゃないかしら?」

 

あらゆる心霊現象を

わたしは信じるほうだが

この老婆の話は

ただの思いこみか

ウソだろう

と見抜いた

 

というのも

この老婆の夫だった老人は

若い頃に

いわゆる若気の至り

というやつで結ばれてしまったものの

その後

生きているあいだ

じぶんの妻となった女の

ヒステリーや

ひどく偏った好みや考え方や

男にとって義父にあたる父親への

度を超した賛美や

あらゆる家庭電化製品さえ使用できないほどの

意図的ともいえる徹底した機械音痴や

東京の列車にひとりでは乗れないほどの

乗り物音痴などに

さんざん苦しめられたため

死んだ今となっては

自由気ままな身にようやく返り咲いて

よろこび一杯に

宙を弾けまわっているはずだからだ

 

死んであの世にひとりでいって

さびしがっていてほしい

かなしがっていてほしい

と願う老婆の思いが

老夫がさびしそうに立って出てくるイメージを

こころのなかに捏造したに

ちがいない

ちがいない

 

「ほら

『♪天国よいとこ

一度はおいで

酒はうまいし

ネエチャンはきれいだ…』 *

という歌があったでしょう?

あっちに行って

悲しがってるはずがない

さびしがっているはずがない」

 

そう言ってやったら

これはこれで

けっこうショックだったようで

老婆は

絶句していた

 

 

*ザ・フォーク・クルセダーズ『帰って来たヨッパライ』

https://www.youtube.com/watch?v=1OSp9ykj0HE&list=RD1OSp9ykj0HE&start_radio=1




ニセモノ


  

その街には木々が多く

林や森になっているところもあって

とりたてて急いでいく用事のない時には

道から道へと当てずっぽうに辿っていってみると

みどり溢れる迷路のなかに入り込んだようで

これがなかなか楽しいし

しあわせな気分になる

 

ある林の裏に迷い込むと

祠のようなものがあったので

小さなお稲荷さんだろうかと思ったが

立ち止まらずに歩き続けうち

むこうの道にも散策しているらしい初老の人が見え

あちらからはどう見られているのだろう?

やはり散策者と見えているだろうか?

と思いながら

その林からは離れて

開けたところに伸びていく道に立った

 

とりたてて思い出す必要もないような

夢の話だが

こんな夢のなかにえんえんと居られるというのは

なんとしあわせなことではないか!

 

目覚めて

からだを起こして

廊下や台所のほうへ歩いて行くと

昨今は

これもまた別の夢の話だな

と確信するようになった

 

さっきまで見ていた夢の世界よりも

こちらの人間たちの誰もがそう思いたがる

この現実とやらのほうが

じつは

つねにいくらか

現実度のわりあいが少ないのだが

ほかの人間たちに

わざわざこのことを話すのは

めんどうくさいので

しなくなっている

 

けれども

あなただけに

きょうは

教えてあげる

 

こっちの

この“現実”とやらは

じつは

ウソだよ

 

ニセモノさ

 

 


2026年5月22日金曜日

貸したバッグが戻ってくる


 

 

数ヶ月前に死んだ人にも

いくつもバッグを貸していた

 

どれも

高価なバッグではないが

それでも

ひとつひとつ

一万円前後はしている

 

どれもまだ新しく

きれいだが

あまり使っていないものを貸したので

乱暴に使われてもかまわない

使いつぶしてもらってかまわない

そう思って貸している

 

相手が死んでしまったが

貸したバッグは

まだ使える状態で残されたし

いくつかは

ほとんど使っていない状態でもあったので

そのうち持ち帰ろうと思った

 

まだ持ち帰ってもいないのに

気持ちのなかでは

しばらく遠出していたバッグたちが

家に戻ってくるのを感じる

仕舞う場所はどこにしようか

その後もべつのバッグが増えたし

置き場所には困るかもしれない

などと考える

 

気持ちのなかでは

戻ってきたバッグたちのイメージからは

貸した先の人の雰囲気や

思い出などがすっかり消えてしまっていて

貸す前にわが家に置かれていた頃の

真新しい雰囲気や

買おうかどうしようかと店で迷って

買うことにした瞬間の

心のときめきめいたものだけが

戻ってきている

 

物のちからか?

 

じぶんで店をまわって探し出し

時間を多少はかけて

神経を費やして

手に入れた品物と

他ならぬじぶんだけの

かかわり方の

ちからか?

 

バッグを貸した相手は

すっかり

消えてしまっている

 

死んだ人がどう使ったか

とか

どう受けとめたか

などは

すっかり

消え失せて

わたしがわたしの決断で買ったバッグたちが

時間など

まったく経たなかったかのように

戻ってくる




2026年5月20日水曜日

わたしが違うのは

 

 

 

この地球のすばらしさ

いのちのすばらしさ

そして

宇宙のすばらしさ

 

など

など

など

感極まって

勢い込んで

語るひとびともいる

 

わたしも

そう思う

 

しかし

そういうひとびとと

わたしが違うのは

 

このすばらしい地球がなくなる時のすばらしさ

すばらしいいのちが消滅することのすばらしさ

そして

すばらしい宇宙がまったき無となった時のすばらしさ

をも

知っている

こと




憎しみや嫌悪や恨みや執着を持っておく


  


善い人であれ!

どこの文化でも勧められるし

善い人というのは

憎しみや嫌悪や恨みや執着を持たない人

というイメージを

どこの文化でも

たぶん

提示してくるだろう

 

しかし

この世で生きのびていくにあたっては

ひとつや

ふたつぐらいは

憎しみや嫌悪や恨みや執着を持っておく

というのも

嗜みのひとつである

 

これこれを憎んでいる

嫌悪している

誰々を恨んでいる

何々に執着している

わざわざ

公言しておくのにも

香ばしい人間味がある

 

こうした公言をしておくことには

じつは大きな効用があって

とりたてて

たいした憎しみや嫌悪や恨みや執着を持っていなくても

まるで

それらを持っているかのように

カモフラージュすることができる

 

不思議なもので

憎しみや嫌悪や恨みや執着を持っている

と大げさに公言し

演出し続けていると

内心では

憎しみや嫌悪や恨みや執着は

だんだんと

痩せ細っていく

ええと……

いったい

自分はなにに

憎しみや嫌悪や恨みや執着を持っていたのだったっけ?

と自問したりすることも

多くなってくる

 

憎しみや嫌悪や恨みや執着さえ

いつまでもべったり粘着していられないほど

心や意識や魂の表面の変貌ははやい

数十年もすれば

それらは骨董品となってしまう

あの頃は

あんな憎しみや嫌悪や恨みや執着を持っていたものだった!

と懐かしむのも

ちょっとは楽しいかもしれないが

もともと風の性質を持つ心や意識や魂が

いっそう強風になっていく際には

吹き飛ばされていくそれらを掴んでいられる腕や手さえ

いつのまにか

なくなっていることに気づくだろう

 

 

 

2026年5月18日月曜日

歩行者信号の青がうつくしい日

 

 

 

しばらく信号待ちしてから

歩き出した。

 

歩行者信号が

 

   

 

に変わったので。

 


ところが

歩行者信号の

きょう

なんだか

異様に

うつくしいのだ。

 

見とれてしまった。

 

歩きながら

見とれる。

 

歩きながらだって

見とれる。

 

澄んだ

きれいな輝きで

うつくしい

なあ

きょうの

は。


 

道をわたり終わった先の

べつの道の

鉄柵には

もう

ヒルガオがいくつも咲いていて

可憐に

うつくしかった。

 


ヤブガラシ

鉄柵に

どんどん繁って

蔓をのばしていっている。

 

若い葉が

やわらかそうで

なかなかうまそうに見えるが

ヤブガラシって

食べられるのだろうか?

 

スマホを出して

サッと調べてみたら

なんと!

若い蔓先や葉は

塩ゆでして

しっかりあく抜きすると

食べられるそうだ。

ワラビやモロヘイヤに近いぬめりと

ピリッとした辛さがあって

うまい

と書いてある。

おひたしも

天ぷらも

あえものも

炒め物も

いけるそうな。

 

ヤブガラシを出す

天ぷら屋なんてあったかな?

季節の味として

ヤブガラシを出す

日本料理は

あったかな?

 

 

 


いまのこのわたしがではない


 

 

夢だったのか……

 

夢だったことになるのか……

 

まるで

(ひとつの湯からさほど温度差のない別の湯に移るように)

現実と呼ぶべきなのであろうこちらの世界に戻ってきて

からだを動かし

布団から身を起こして

 

そうして

とよぶべきなのであろうこれまで居た世界で聞いた

「息がつまるようだった……」

ということばを思い出していた

 

その世界でも

まずまずは

平穏に暮らしていた

 

いっしょに暮らしていたのは

フランス人女性だった

ように

思う

 

ときどき

彼女は

出張でいなくなるのだった

 

数日のこともあれば

1週間ほどになることもある

 

どこに行くのか

いちいち

わたしは聞かなかった

その世界で

わたしは

そういう人だった

 

ある時

いなくなる時の彼女が

じつは

かなりの危険地域や

普通はひとの行かない地域に

行っていることが

わかった

 

簡単に言えば

調査

なのだという

 

しかし

めんどうな計器などは

あまり持って行かないらしい

 

身ひとつでその場所に行き

しばらく

滞在する

 

滞在する

といっても

ただ

一個所に立ち尽くしている

だけ

だったり

するらしい

 

ついこの間は

極地の

まだ誰もひとが入ったことのない地域に

たったひとりで行った

という

 

「そこで

どうしているの?

立ち尽くしているの?

何日も?」

 

そう聞くと

うなずいて言った

 

「そう。

人間は誰もおらず

ほかの生物さえおらず

周囲を見渡しても

雪や氷の白さが広がっているだけで

なにも見えない。

なにも見えないというのは

もちろん

不正確。

だって

白さが無限にかなたまで広がっていて

沈まない太陽があって

太陽のひかりがあって

音のなさがあって……

この風景と環境だけがあること

この風景と環境しかないこと

今度ばかりは

息がつまるようだった……」

 

それでは

ほかの場所では

どうなの?

やっぱり

「息がつまるようだった……」

の?

 

そう聞いてもいいかな?

そう聞いたほうがいいのかな?

と思ったが

聞かなかった

 

そのうち

聞いてみるかもしれない

聞いてみないかもしれない

わたしは

そういう人だった

 

けっこうな報酬をもらっているのだろう

とは想像した

 

でも

めんどうな計器も持たずに

めったに人が行かないような

危険地帯と呼べるようなところへ

けっこう易々と行って

数日

ずっと立ち尽くしている

という彼女が

家にいる時には

なんということもないように

陽光であかるくなっている畳の上のローテーブルで

緑茶を淹れたりしているのが

なんだか

すごい

と思った

 

だから

といって

どう

すべきか

 

態度を変えたり

なにか

もっと特別感を感じて生きるように

すべきなのか

わからない

 

めったに人が行かないような

危険地帯と呼べるようなところへ

あちこち

行っている彼女でさえ

「息がつまるようだった……」

という

極地の風景を

ちょっと想像してみた

 

そんな風景のなかで

数日

ただ立ち尽くしてきた彼女と

畳の上にいる

のは

ちょっとすごい

わたしとしては

そんな風景とはかかわりなしに

彼女の意識の皮膜一枚で

遮られ続けて

このままで居ればいいのかな?

思った

 

わたしは

そういう人だった

 

いまの

このわたしが

ではない

 

まるで

(ひとつの湯からさほど温度差のない別の湯に移るように)

現実と呼ぶべきなのであろうこちらの世界に戻ってきて

からだを動かし

布団から身を起こして

あちらの世界を

ちょっと思い出し直している

このわたしが

ではない