2026年3月24日火曜日

アーラヤ識



 

仏教の唯識論では

認識作用の構造は六識を基本とする

 

眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識だが

法相宗の唯識説では

眼識・耳識・鼻識・舌識・身識までを前五識と呼び

意識を第六意識と呼ぶことがある

 

ここに

「汚れた意」である自我意識を加えて

それを第七末那識(マナ識)と呼ぶ

 

ここまでの七つの識を含み込む第八の識を

アーラヤ識というが

これについては

研究者たちによって理解や説明に揺れがある

 

アーラヤ識は

「七種の識となって顕われる素材(因)であり

表面にあらわれていない点で

潜在的なあり方の識

つまり

潜在意識とよんでよい」*

と高崎直道は『スタディーズ 唯識』で説明している

 

そして

こう続けて書いている

「七種の識が一瞬一瞬にあらわれては消えていくのにかかわらず

個人存在としての同一性が認められることの理由として

このような潜在的な意識の存在が想定されている」

 

 

『仏教の根底にあるもの』における玉城康四郞の説明は

もっとわかりやすいかもしれない

 

現実経験の世界は、各人が経験している世界であり、各人がそれぞれの世界を見ているのである。唯識思想は、その経験している世界の根源を突き止めようとするのである。そうしてみると、主体者(心)を離れて世界はあり得ないこととなる。この点を三界唯心と呼んでいる。これが唯識思想の大前提である。三界とは、欲界(欲望の世界)、色界(形態の世界)、無色界(形態もない世界、すなわち冥想=禅定のみの世界)であり、迷いの全世界である。このような全世界は、すなわち、ただ心であり、いいかえれば、ただ主体的世界であるというのである。
 三界唯心は、けっして哲学上の、唯物論に対する唯心論や観念論ではない。仏教としての唯識思想は、元来、このような現実経験の世界の外には問いようはないからである。
 さて、アーラヤ識は、こうした世界の根源である。それは、われわれ主体者の意識の根源であると同時に、経験されている世界の、存在そのものの根源でもある。それは深い無意識の領域の中に根ざしている。
 アーラヤ識のアーラヤは、「蔵」の意味である。それゆえに蔵識ともいわれている。英語では store consciousness と訳されている。その理由は、現経験(現行[げんぎょう]という、サンスクリット語で samudacara)の世界が、ことごとくその中に貯蔵されているからである。あるいは、現実経験のすべての種子[しゅうじ]を貯えているから、一切種子識ともいわれている。これは、アーラヤ識自身が貯えているのであるから、能蔵の意味である。ところが、逆に所蔵ともいわれている。それは、アーラヤ識から現出した現実経験の世界は、同時にアーラヤ識を包むものとなっているからである。いいかえれば、アーラヤ識の現実経験に対する関係は、現実経験を包むものとしては能蔵であり、逆にそれに包まれるものとしては所蔵である。そしてアーラヤ自体は、執着[しゅうじゃく]の源泉として執蔵といわれている。
 アーラヤ識と現実経験との関係をさらに検討していくと、右に述べたように両者は互いに能蔵・所蔵の関係であり、したがってこのような関係のなかで相互に独立的であるともいうことができる。そうしたなかで、アーラヤ識の種子から現実経験(現行)を現わし出す路線を種子生現行[しゅうじしょうげんぎょう](種子が現行を生ず)という。これは、アーラヤ識が一切種子識といわれる点から当然である。しかし、かくして現わし出された現実経験は、同時にアーラヤ識から独立的なものとして、逆にアーラヤ識の種子に対して影響を及ぼす。この路線を現行熏種子[げんぎょうくんしゅうじ](現行が種子に魚ず)という。すなわち、アーラヤ識と現実経験とは、一方では種子生現行でありつつ、同時に他方では現行熏種子という相互関係にある。いいかえれば、アーラヤ識は現実経験の世界を産み出しながら、同時にその世界はアーラヤ識に影響を及ぼしているということができる。
 さて、アーラヤ識と現実経験の世界とのこのような相互関係は、アーラヤ識を軸として、いわば横にひろげた空間的状況であるが、これに対して、アーラヤ識そのものの流れ、いわばアーラヤ識を縦に貫いていく時間的状況はいかがであろうか。アーラヤ識は果たして独立的な存在であろうか。
 実はけっしてそうではない。アーラヤ識は、無限の過去から、刹那々々に、それ以前の業によって熟している。つまり、現在刹那のアーラヤ識は、その前の刹那のアーラヤ識から結果し、熟しているのであり、その点からアーラヤ識を異熟識[いじゅくしき]vipaka-vijnana)と呼んでいる。ブッダの原始経典でいわれた業の果報(業異熱kamma-vipaka)と同質である。それが無限の過去から刹那々々に熟しつつ、目にもとまらぬ速さで流れている。
 このように見てくると、アーラヤ識は、無限の過去から、現実経験の世界を現わし出しながら、同時にその世界がアーラヤ識に影響を及ぼしつつ、急流のごとき速さで流れ去っている。それは、いわばアーラヤ識を軸とする、広大無辺な世界の、目くるめくような絵巻物の、果てしなき繰りひろげであるということができよう。これこそ唯識思想における縁起の世界である。
 いったい、この絵巻物の繰りひろげのなかに何が問題となるのであろうか。まったく問題はないかのごとくである。透徹して究明されたアーラヤ識の実相、すなわち人間存在の根源の実態がかくのごとくであるとすれば、一切の問題は、存在の根源たるアーラヤ識の縁起性のなかにことごとく解消してしまうであろう。
 しかるにアーラヤ識の根本問題は、厳然として存在するのである。それは、先ほど触れたアーラヤ識の執蔵たる点に在る。これほど微細に究明されたこの識の縁起性のなかで、どうして執著が起るのであろうか。その因由はまったく分らない。しかし執著が働いていることだけは明白であり、われわれが現に経験しているとおりである。
 このような執著の構造が、ヴァスバンドゥ(Vasubandhu世親、320-400頃)の「三十唯識』に示されている。それはマナ識の働きである。マナ識はアーラヤ識から産み出されて、かえってアーラヤ識を「我である、我がものである」と、誤って思うという。マナ識のマナは「思うこと」(manana)という意味であり、「思量」と訳されている。つまり、このようなアーラヤ識とマナ識との根本関係に自我意識が生じているのであり、しかもそれは誤想である。いいかえれば、われわれ人間存在の根源的なミステークが、この根本関係、すなわち自我意識に根ざしているということができよう。

近代哲学の確立者イマヌエル・カント(1724-1804)は、『純粋理性批判』の中で、認識の基盤として自己意識(Selbstbewusstsein)を置いている。それは先験的統覚(transzendentale Apperzeption)とも呼ばれている。同じ自己意識、あるいは自我意識ながら、カントの場合は認識の基盤であり、唯識の場合は、人間存在の根源的なミステークである。両者がいかに奇妙なコントラストをなしているかが知られよう。
 さらに、尼介なことには、マナ識たる自我意識は、底知れない無意識のなかに根ざしている。それは、日常生活のなかではほとんど意識されることはない。もとより意識される自我意識も存在していることは、日常経験のとおりである。それは、マナ識よりも表面的な意識、いわゆる心といわれるもののなかで起っている。その場合の自我意識は、起ることもあれば起らないこともある。しかし無意識のなかの、マナ識たる自我意識は、寝ても覚めても、二六時中、起っており、中止することがない。その我執を『成唯識論』では、倶生の我執といい、炊のように述べている。
 「無始時来、虚妄熏習の因の力の故に、恒に身と倶なり、邪教及び邪分別を待たず、任運して転ずるが故に、倶生と名づく」
 倶生の我執とは、いわば生れながらの、先天的な我執であり、始まりのない無限の過去から、迷いに迷いを重ねて流浪し、この身に付着している自我意識である。それは、意識上の分別を待たずに、元来、自然に生じている、といわれる。
 通常の、心の中で起っている我執を意識的自我意識であるとすれば、マナ識の我執は無意識的自我意識であるといえよう。しかもそれは、無限の過去から断絶することなく、二六時中起っているということが特徴的である。
 さて、これまで追求してきた主体の根源の実情が、ようやくここに浮んできたのである。それは、マナ識とアーラヤ識との根本関係に存する我執であり、無始以来、中断することなく持続している所の自我意識である。しかもマナ識の我執は、深い無意識のなかに在り、そのマナ識さえも、われわれはほとんど意識することができないのであるが、その我執の源泉は、マナ識のいっそう根底的な、執蔵としてのアーラヤ識に在るといえよう。
 では、仏教の究極の目当てである解脱はいかにして実現できるであろうか。それは、我執の源泉たるアーラヤ識の根本転換の外にはあり得ないであろう。そのアーラヤ識の転換はどうしたらできるのであろうか。
 アーラヤ識は、すでに述べてきた如く、人間存在の意識の源泉であり、さらに経験的世界そのものの根拠でもある。人間存在そのもの、あるいは世界の存在そのものが、アーラヤ識として、根源的ミステークに陥っている。そうだとすれば、われわれがいかに努力を重ねても、もはやアーラヤ識そのものに転換の力がないことは明白である。
 ヴァスバンドゥの兄であるアサンガ(Asanga 無著、310-390頃)は、『摂大乗論(しょうだいじょうろん)』の中で、全人格的思惟(冥想、禅定)を行じつつ、慎重にアーラヤ識の所在を究明している。つまり、いかに冥想、禅定を深めても、ついにはアーラヤ識に帰着する外はない。いいかえれば、ただ禅定を深めるのみでは、アーラヤ識の転換、すなわち解脱は実現してこないのである。
 では、いかにしてその転換は達成されるのであろうか。アサンガは、次のようなただ一つの解答を提示するのである。
 「最清浄法界(さいしようじょうほっかい)より流るる所の正聞熏習(しょうもんくんじゅう)、種子(しゅうじ)となるが故に、出世心、生ずることを得」

   チベット語訳では、

「最清浄法界が顕わになる所の聞熏習の種子から、それ(出世心)は

   生ずる」

   となっている。

最清浄法界とは、まったく形を離れた純粋生命たる真実の世界である。その最清浄法界が、主体者に顕わになってくる。そのことは、主体者からいえば、全人格が耳となって、最清浄法界に聞きほれる。そうすると、その純粋生命が全人格に染みついて(すなわち熏習)、そこから初めて、人間の基盤(アーラヤ識)を超出する目覚めの心(出世心)が生ずる、というのである。
 これは、唯識思想における主体の根源たるアーラヤ識の転換の状況である。
 ここにおいて、われわれは直ちに思い浮べるであろう、あの菩提樹下におけるゴータマ・ブッダの目覚めの実景を。まったく形を超えた純粋生命たるダンマが、ゴータマに顕わになったとき、一切の疑惑が消失して、目覚めが実現したのである。そしてダンマはその全人格に滲透して、ついに貫徹したのである。ブッダとアサンガにおける目覚めの構造が、軌を一にしていることはいうまでもないであろう。
**

 

 

玉城康四郞のこの名論文は

現代において

そう多く読まれているともいえないが

とても面白い論考でもあるので

長々と引用してみた

アーラヤ識の概観を掴むには

なかなか好適な個所でもあるだろう

 

しかし

論考の終わりの部分は

アーラヤ識を超出する意思が強く出過ぎて

やや考察を急ぎすぎている気がする

 

どうして

「主体の根源たるアーラヤ識」を

転換しなければならないのだろう?

 

どうして

「人間の基盤(アーラヤ識)を超出する目覚めの心(出世心)」

が生じなければならないのだろう?

 

アーラヤ識を転換する意思も

仮に成ったとして

その転換そのものも

アーラヤ識を超出しようとする「目覚めの心」も

アーラヤ識の性質から鑑みれば

すでに

あらかじめ

アーラヤ識のうちに取り込まれているはずであろう

はじめから

無駄な戯れと定められているはずである

 

しかも

アーラヤ識をさらに含み込むものとして

第九識のアマラ識(amala-vijnana)を考える説もある

これは真諦の系統に出てくるが

アーラヤ識が転識得智したものと想定されている***

 

 

 

 

*高崎直道『スタディーズ 唯識』(春秋社、2018)、p.98.

**玉城康四郞『仏教の根底にあるもの』(講談社学術文庫、1986)pp.39-46.

***上山春平・梶山雄一編『佛教の思想 その原形をさぐる』(中公新書、1974)、p.111




2026年3月23日月曜日

ニルヴァーナも幻のようなもの夢のようなもの

 

 


菩薩が衆生を涅槃(ニルヴァーナ)に導く

というのは

生半可に仏教を俗信する者たちの定番の観念のひとつだが

一切を「空」として見る般若経典のうちでも

大部の『八千頌般若経』は完全に否定し去っている

 

 

中村元によるサンスクリット原文からの和訳で読んでみよう*

 

 

そのときスブーティ尊者は、尊師に次のようにたずねた。

「尊師よ。〈求道者・偉大な人〉はこのように、偉大な甲冑に身をかためて、大乗に入って進み、〈大きな乗り物〉に乗っているのですが、その〈大乗〉とはなんのことなのですか? またどのようにして〈大乗〉に入って進んでいるのだと知るべきでしょうか? またその〈大乗〉はどこから出てくるのでしょうか? またなににたよってその大乗に入って進んで行くのでしょうか? またその大乗は、どこに安立するのでしょうか?またこの大乗によってだれが進んで行くのでしょうか?」

このように問われたときに、尊師はスブーティ尊者に次のように言われた。

「スブーティよ。〈大乗〉というのは、〈測られないこと〉(aprameyata)の名称なのである。〈測られない〉というのは、〔その徳が〕量られないからである。
 おまえは、『またどのようにして〈大乗〉に入って進んでいるのだと知るべきでしょうか? またその〈大乗〉はどこから出てくるのでしょうか? またなににたよってその大乗に入って進んで行くのでしょうか?』と問うたが、〔求道者は、六つの徳の〕完成によって〔大乗に入って]進んで行くのであり、〔求道者は〕三界のことがらから出て行くのであり、よりどころのあるところに入って進んで行くのであり、〈全知者であること〉のうちに安立するであろう。〈求道者・偉大な人〉は〔この大乗によって]出て行くであろう。
 しかもなお、かれは、どこからも出て行かないであろう。なにものにたよっても〔その大乗に]入って進んで行くことはないであろう。かれはどこにも安立しないであろう。しかし〈どこにも住しない〉という道理によって、かれは〈全知者であること〉のうちに住するであろう。しかしながら、だれも、その大乗によって過去に出て行った者はいなかったし、未来にも出て行く者はいないであろう。現在においてもだれも出て行かないのである。
 それはなにゆえであるか? 出て行く人も、出て行くための乗り物も、この二つのものがともに存在しないし、またありとは認識されないからである。
 このように、一切のものが存在しないのであるから、なにものが、なにものによって出て行くであろうか? スブーティよ。〈求道者・偉大な人〉が、偉大な甲冑に身をかためて、大乗に入って進み、〈大きな乗り物〉に乗っているというのは、このようなことなのである」。
Wogihara As.pp.94;98;104-105



このように言われたので、スブーティ尊者は尊師に次のように申し上げた。

「尊師よ。〈大乗〉〈大乗〉といわれますが、〔その大乗は]神々・人間・阿修羅をともなうこの世間に打ち克って、出て行くでしょう。その〔乗り物は〕虚空にも等しく、きわめて偉大であるがゆえに〈大乗〉なのです。ちょうど虚空のうちには無量・無数の人々を寄れる余地があるように、この〔〈大乗〉という]乗り物のうちには無量・無数の人々を寄れる余地があります。尊師よ。この〔乗り物]は、このようなしかたによって、〈求道者・偉大な人々〉にとって〈大きな乗り物〉〔大乗〕なのです。その〔乗り物の〕来ることも見られません。その〔乗り物の]出てくることも見られません。その〔乗り物の]出て行くことも見られません。その〔乗り物の]とどまることも見られません。こういうわけで、この大乗にとっては、過去の時期も認識されません。また未来の時期も認められません。また中間も認められません。むしろその乗り物は〔過去・現在・未来を通じて]同一なのです。それゆえに、偉大な乗り物は〈大乗〉とよばれるのです」。
 そのとき尊師はスブーティに、みごとだ、と言って、承認された。
 「みごとだ。みごとだ。スブーティよ。そのとおりである。そのとおりである。こういうわけで、この〔乗り物は〕もろもろの〈求道者・偉大な人々〉の偉大な乗り物なのである。もろもろの〈求道者・偉大な人々〉は、このことを学んで、〈全知者である境地〉に到達したのであり、未来にも到達するであろうし、現在にも到達するのである」。Wogihara As.pp.106-108

 

 

大乗仏教の「大乗」が

〈測られないこと〉(aprameyata)の名称である

ということは

見聞きしやすい短い経典では

なかなか

知ることはできない

『八千頌般若経』をみずから繙くことによってのみ

ようやく逢着することのできる情報である**

 

そうして

くり返される〈求道者・偉大な人々〉という呼び方は

自力で

全宇宙から自我の内奥や

縁起や因縁の全構造までを探索しようとする者たちのみを

徹底してエリート扱いする

厳しい仏教姿勢を表わしていると見るべきだろう

 

 

神々がスプーティに問うた場面では

このような教えが披露される

 

 

そのとき〔インドラを主神とする〕神々はスブーティ尊者に次のように問うた。

「立派なスプーティさまよ。それらの生きもの(衆生)が幻(maya)のようなものではあるけれども、幻そのものではないのは、なぜですか?」
 このように問われて、スブーティ尊者はその神々に次のように答えた。
 「神々よ。それらの生きものは幻のようなものです。それらの生きものは夢のようなものです。じつにこのように、幻と生きものとは不二なのです。別のものではありません。このように、夢と生きものとは、不二なのです、別のものではありません。神々よ。一切のことがらもまた、幻のごとく、夢のごときものなのです。聖者の流れに入った者(預流向)もまた幻のようなものであり、夢のようなものなのです。聖者の流れに入って得た結果(預流果)もまた幻のようなものであり、夢のようなものなのです。同様にひとたび還って来る者(一来向)も、ひとたび還って来る者としての結果(一来果)も、もはや還って来ない者(不還向)もまた、幻のようなものであり、夢のようなものなのです。独りさとりを開く者の境地もまた幻のようなものであり、夢のようなものなのであります。完全なさとりを開いた人(仏)もまた幻のようなものであり、夢のようなものなのです。完全なさとりを開いた人の境地もまた幻のようなものであり、夢のようなものなのです」。
 そこで神々はスブーティ尊者に次のように言った。
 「スブーティ聖者さまよ。完全なさとりを開いた人(仏)も幻のようなものであり、夢のようなものである、と、あなたはいわれるのですか? 完全なさとりを開いた人の境地もまた幻のようなものであり、夢のようなものである、と、あなたはいわれるのですか?」

スブーティは答えた。
 「神々よ。ニルヴァーナも幻のようなものであり、夢のようなものである、と、わたしはいいます。他のことがらについては、なおさらです」。
 神々はたずねた。
 「スブーティ聖者さまよ。ニルヴァーナでさえも幻のようなものであり、夢のようなものである、と、あなたはいわれるのですか?」

スブーティ尊者は答えた。

「ですから、神々よ。もしもニルヴァーナよりもさらにすぐれた、なにかしら他のあるものが別に存在するのであるならば、そのものでさえも、幻のようなものであり、夢のようなものである、と、わたしはいうでしょう。こういうわけで、マーヤーとニルヴァーナとは不二であり、別に分けられることはないのです。こういうわけで、夢とニルヴァーナとは不二であり、別に分けられることはないのです」。(Wogihara As., pp.158-160)


 

ニルヴァーナも幻のようなもの

「完全なさとりを開いた人の境地もまた幻のようなもの」であり

「夢のようなもの」

「ニルヴァーナよりもさらにすぐれた

なにかしら他のあるものが別に存在するのであるならば

そのものでさえも

幻のようなもの」であるとは

人類史上の言語表現における至言のひとつだろう

 

さらに進んで

「マーヤーとニルヴァーナとは不二」であり

「別に分けられることは」なく

「夢とニルヴァーナとは不二」であり

「別に分けられることはない」のならば

あらゆる迷いはそのまま悟りであり

現世はこのままニルヴァーナということになる

 

 

 

もう一度

スプーティに説いたブッダ自身の教えを

読み直しておこう

 

 

「しかもなお、かれは、どこからも出て行かないであろう。

なにものにたよっても

〔その大乗に]入って進んで行くことはないであろう。

かれはどこにも安立しないであろう。

しかし〈どこにも住しない〉という道理によって、

かれは〈全知者であること〉のうちに住するであろう。

しかしながら、だれも、その大乗によって

過去に出て行った者はいなかったし、

未来にも出て行く者はいないであろう。

現在においてもだれも出て行かないのである。」

 

 

 

 

*「中村元 現代語訳 大乗仏典1 般若経典」(東京書籍、2003)。ここに収められている『八千頌般若経』は部分訳であり、入門的に読むのがよい。

**テキスト全体に触れるには、「大乗仏典 2 八千頌般若経Ⅰ」「大乗仏典 3 八千頌般若経Ⅱ」(梶山雄一訳、中公文庫)が便利だろう。

 


『吾輩はカモである(Duck Soup)』

 

 

319日の高市・トランプ会談で

テレビ朝日の千々岩森生記者がした質問に

トランプが機知に富んだ返答をしたというので

記事を見直してみたが

見事なほどにトランプがエラーを犯していて

噴飯ものだった

 

千々岩森生記者の質問は

アメリカによるイラン攻撃について

「日本とアメリカは非常に友好的な関係にありますが、

なぜ、イランを攻撃する前に

ヨーロッパや日本などアジアの同盟国に

戦争のことを知らせなかったのですか?

私たち日本人は非常に困惑しています」

というようなものだったらしい

(「らしい」と加えるのは

昨今

ニュース映像や記事でさえも

AIによる捏造ものが増加し過ぎているため)

 

この問いに対してトランプは

「あまりその兆候を出したくなかったというのが一つ。

誰にも伝えなかったのは、奇襲を仕掛けたいと思ったからだ。

奇襲について日本ほど詳しい国はない。

なぜ、真珠湾攻撃のことを教えてくれなかった?

そうだろう」

といった内容を答えたらしい

(こちらの場合も

「らしい」と加えるのは

昨今

ニュース映像や記事でさえも

AIによる捏造ものが増加し過ぎているため)

 

SNSなどでは

千々岩森生記者の質問を

シチュエーションを弁えない国辱ものだとか

国賊ものだと断じて批難する体制順応主義者らの

コンフォルミスト的言辞が踊ったようだが

「世界中に平和と繁栄をもたらせるのは“ドナルドだけ”だと思っています」

などとペラッと言って

「戻れなくても もういいの

くらくら越える 地を這って

あなたと越えたい 天城越え」路線を

突き進んでいる高市早苗よりも

よほど真っ当な発言だったと思われる

https://www.youtube.com/watch?v=cwL09UKDqdI

 

 

まあ

裏の裏の裏に

まだまだ裏のある

腹芸の競い合いの場である国際政治発言における

高市とトランプと千々岩森生の言葉それぞれの機能性評価は擱くとして

ここでは

トランプの発言の馬鹿丸出しさ

だけを見直しておきたい

 

「あまりその兆候を出したくなかったというのが一つ。

誰にも伝えなかったのは、奇襲を仕掛けたいと思ったからだ。

奇襲について日本ほど詳しい国はない。

なぜ、真珠湾攻撃のことを教えてくれなかった?

そうだろう」

 

1620年にメイフラワー号で上陸した

「ピルグリム・ファーザーズ」以降の奇襲的白人移入を経験した

ネイティヴ・アメリカンの立場に立てば

「奇襲について日本ほど詳しい国はない」なんて

どの口が言う?

と反論したくなるに違いないだろうが

そこも放っておくとして

問題なのは

というか

馬鹿丸出しなのは

「なぜ、真珠湾攻撃のことを教えてくれなかった?」

という発言である

 

太平洋戦争を開始させた真珠湾攻撃においては

大日本帝国はアメリカ合衆国と敵国となったわけで

これから奇襲をしかけてやろうという相手である敵国に対して

「真珠湾攻撃のことを教え」るわけなどもちろんなかった

千々岩森生記者は

「ヨーロッパや日本などアジアの同盟国に

戦争のことを知らせなかった」

ことを指摘したわけで

アメリカが敵国となるイランに教えたかどうかなど

もちろん問題としたわけではなかった

 

トランプは

エスプリを効かせた冗談を言ったつもりでも

このエスプリや冗談を正しく機能させる基本構造設定で誤ったのであり

ようするにスベったわけで

うまいことを言おうとして愚鈍さを露呈させたことになる

ヨシモトあたりのお笑い芸人養成講座にまじめに通い直して

基礎の基礎から叩き込み直したほうがいいだろう

 

ここで

キューバ系のマルコ・アントニオ・ルビオ国務長官や

モントレーで性的暴行を行った疑惑や

勤務中の過剰飲酒が発覚したりした

大きな組織を率いた経験もないピート・ヘグセス国防長官あたりが

「大統領、われわれだって

敵であるイランには教えませんでしたがナ、ハハハ」

などとおちゃらけてトランプを救えば

さすがアメリカ

「祖国は戦争に入れり」と議会で群舞する名シーンのある

『吾輩はカモである(Duck Soup)』のマルクス兄弟の国ではある!

と世界から見直されたかもしれないが

アメリカのお笑い文化レベルもかなり落ちてしまったらしい

残念!

https://www.youtube.com/watch?v=5mEsXz-Bpog

 

 

 

2026年3月20日金曜日

頂点のひとつ




桜が咲きはじめている

やわらかい雨が
きょうは
降っている

桜の花ざかりの頃の
はなびらの
あのやわらかさ
つめたさ

まだ肌寒い時もある頃の
霧のような雨の
見た目のやわらかさは
桜の花の群れを
てのひらで包んでみたような感触にも
ちょっと近い

やわらかい雨も花

しおしおと
しほしほと
浮かびながら降りてくる
やわらかい雨を見ているのも
春のはじまりの
頂点のひとつ

 


大気がわたし




大気はわたしよりもわたしなので
この世のことは
たいてい
大気に任せてある

遠いところ
近いところの
さまざまな音のくぐもりや
温度の繊細なグラデーションとも
ぴったり
大気はつながって
精緻な網の目のよう
かたちなきレーダーのよう

大気がわたし

ほかの生きかたがあろうか?
と思う

大気に混ぜ入るもの
すべても
わたし

これ以上のありかたがあろうか?
ちょっと
誇る




死ということ


 

 

 

こんなにも物のなかにいる

もう

思わないのが

ということ

 

時間に引きずられていきながら

あれをしなければ

これをしなければ

もう

思わないのが

ということ

 

存在のしかたを

どうするか

ちょっとでも

変えるか

もう

思い悩まないのが

ということ





空だけは夢の器に

 

 

 

空気の静けさと

草の美しさを

肌に深く沁み入らせようとして

ろくろく見もしないでおく

文字や写真

そして

動画

 

春の岬でときどき涼しすぎる風に吹かれながら

いつまでも

いつも

夢見るひと

 

たとえ夢のなかになにもなくても

夢の器を

守り続けるひと

 

空気の静けさと

草の美しさを

肌に深く沁み入らせようとして

空だけは

夢の器に受け止め続けて