老年は、皮相的な人生観のすべてに対する恐るべき判決である。
カール・ヒルティ(Carl Hilty)『幸福論』
ものを書くことにも
書かれたものにも
じつは
それほど価値はない
じつは
ぜんぜん価値はない
と思っている人間がわたしなので
そこらへんのことについて
なにかを論じたいとか
議論したいとかは
まったく思わない
けれども
だれのために書くのか?
ということについて
いろいろ論じる人たちを
たまに
目にすると
馬鹿じゃないのか?
と思う
ものを書く
言葉で書く
誰のために?
それは
(不幸にも)これから世の中に出て来る
若い人たちのために
でしかない
若い人たちのために
さらに若い人たちのために
さらにさらに若い人たちのために
さらにさらにさらに若い人たちのために
これは
なにかホワンと明るい
夢のようなことを言おうとしているのではない
もの書きや
しゃべる仕事の人たちが
なにかというと話にまぶしてくる
そこはかとない希望や期待の風味づけ
なのでは
ない
電化製品の説明文や
保険関係の免責箇条書きや
行政のわかりづらい注意指示文などでなく
あってもなくてもいいものの代表格のような詩歌や
ほかの文芸的なものや
学術的なものや芸術関係のものなどは
ひたすら
事実として
現実的な条件から
若い人たちのために
さらに若い人たちのために
さらにさらに若い人たちのために
さらにさらにさらに若い人たちのために
のみ書かれる
なぜかといえば
それらが伝える内容自体が
中年以降の人間の興味から外れるからでもあるが
それよりも
中年以降の人間がものを読む際の忍耐力の急速な減少や
人により発生ぐあいはさまざまでもあるが
老眼の発生と進行によって
どうしても読まないといけない文書以外は
おのずと読書対象から除外されるからでもある
どうして
若者とくらべて
はるかに多くの複雑な問題を抱えていく
中年以降の人びとを扱った小説や詩歌が少ないのか?
高齢者ともなれば
生きていることそのものが複雑系であり
存在自体が奇観でもあれば危機でもあって
かつてトム・クランシー(Tom Clancy, Jr.)が書いた政治スリラー小説
『Clear and Present Danger』(1989)の日本語訳
『いま、そこにある危機』や
この小説を元にしたハリソン・フォード主演のハリウッド映画の
『Clear and Present Danger』(1994)の日本語訳
『今そこにある危機』そのものが
高齢者というものの日々の生活であり内面生活であるというのに
目がしょぼしょぼして読書どころではないし
しっかり描き込まれた長い本を読む忍耐力が消滅してしまっていて
肝心の高齢者たちは
小説や詩歌やほかの形体の本が
どれほど自分たちのことを扱ってくれていても読まない
もう高齢者相手では
執筆業も出版業も商売にならないのだ
https://www.youtube.com/watch?v=JjsN_yJJ3vw
それでも
なにやかやと書きたい病の人種はいるもので
なにやかやと彼らは書こうとするのだが
現実問題として
高齢者は読まないのだし
中年もまた
一日の仕事をなんとか終えた夜には
スーパードライやキリンラガーや晴れ風や
もうちょっと安く抑えたい向きなら淡麗とかトップバリューのビールとか
ちょっと贅沢したい向きならエビスビールとか
あるいはあちこちの地ビールやベルギービールなど飲みながら
身体に悪い揚げ物や焼き鳥を食べて
ぼんやりした頭で眠りに向かっていくばかりで
しちめんどくさい小説など
とてもではないが読むどころじゃない
これにくらべて
若い人たちは
起きれば不安や苦悩や悩みや落胆
寝ても不安や苦悩や悩みや落胆
ついでに悪夢
とくるので
この世にあるということについて
社会にあるということについて
言語的にヒントを探しまわっている脳状態につねにある
そういうところへ
小説だの詩歌だのを投げ込んでやると
腹を空かせた小魚さながら
鼻先にチュールを出された猫さながら
ガブッと噛みついてくる
という仕儀
なので
現実問題として
厳粛なる事実として
社会における人間の身体条件と心理条件から来る必然として
誰かなんと言おうと
言葉は
文は
若い人たちのために
さらに若い人たちのために
さらにさらに若い人たちのために
さらにさらにさらに若い人たちのために
のみ書かれる