2026年9月27日日曜日

みずいろは涙いろ


 

 

ごく普通に私が使う聖書は

日本聖書協会の新共同訳聖書(2013)で

表紙は黒いビニール装だが

上にライト・グリーニッシュ・ブルーの紙カバーが掛っている

 

その紙カバーは捨ててしまってもいいのだが

ライト・グリーニッシュ・ブルーの色が

またはグリーニッシュ・スカイともいうらしい色が

書庫に置くにはきれいに軽くて

そのまま掛け続けている

 

日本語でならば

みずいろ

みず色

水色

などと呼ばれそうな

その色合いの

軽さは

1973年のあべ静江の「みずいろの手紙」の

軽やかで

はっきりした

日本語発音の快さを

ちょっと

思い起こさせる

https://www.youtube.com/watch?v=qp-_LBQCRnk

 

そのライト・グリーニッシュ・ブルーに

しきりに惹かれて

手に取ってみて

よくドストエフスキーがやっていたように

でたらめにページを繰ってみると

歴代誌下のソロモン王の記述やシェバ女王の来訪のことなどが

2026年の今まさに読み直されるべきこととして

角膜に吸い込まれるように飛び込んできたが

ソロモン王の父であるダビデ王のことに少し戻って

見直しておきたく思い

いくらか遡ると

ダビデ王による神殿建築の宣言の章(歴代誌上28)に突き当たった

そうして

ダビデがイスラエルの長たる者をすべてエルサレムに召集し

立ち上がって言った言葉に

少し驚かされた

 

「わたしの兄弟たち、わたしの民よ、聞け。

わたしは主の契約の箱、

わたしたちの神の足台を安置する神殿を建てる志を抱き、

その建築のために準備を進めてきた。

しかし、神はわたしに言われた。

『あなたは戦いに明け暮れ、人の血を流した。

それゆえ、あなたが

わたしの名のために神殿を築くことは許されない』

と。」

 

今ふうに言えば

「神」と呼ばれる高次存在とチャネリングしていたダビデだが

その「神」は

ダビデが戦いに明け暮れ

人の血を流したから

ダビデが「神」の名のために神殿を築くことは

許されない

と明言していたのだ

 

この言葉は

現代では

巧妙に

都合よく

忘れられてしまっているようだが

ダビデの「神」は

厳しく

想像以上に真の「神」であったことが

こんなひと言からも

わかるように思う

 

旧約聖書は

ユダヤ教に属さない者たちから見れば

ユダヤ人の経典であり聖書であるかに見えるが

素直に読んでみればすぐわかるように

預言者たちによる厳しいユダヤ人批判の書であり

旧約聖書の「神」とユダヤ人の間には深すぎる断層が存在し

その両者は完全に分断された別物であり

ここに逆に

旧約聖書の普遍的な人類的な価値が湧出してくる

 

たとえばエレミヤ書の

 

栄えある都、わが喜びの町は

どうして捨てられたのか。

     (49.25)

 

あるいは

また

 

立て、攻め上れ。

安らかに暮らしている

穏やかな国に向かって、と主は言われる。

       (49.31)

 

などが

ユダヤ教の内外と関係なしに

強くすべての人間の意識を刺激してくる理由が

ここに発生する

 

ところで

私の聖書の紙カバーの

ライト・グリーニッシュ・ブルーの色

またはグリーニッシュ・スカイともいうらしい色

みずいろ

みず色

水色

のほうに寄り添い直して

あべ静江の

「みずいろの手紙」へと向き直ってみると

 

みずいろは涙いろ

 

と

歌われていて

 

   そんな便箋に

   泣きそうな心をたくします

 

と

阿久悠の作った歌詞は

続けられていく

 

ライト・グリーニッシュ・ブルーの色

またはグリーニッシュ・スカイともいうらしい色

みずいろ

みず色

水色

の

紙カバーの日本語訳聖書が

涙いろの

便箋に

たくされた

泣きそうな心

とまでは

もちろん考える必要は

ないのだが

 

お元気ですか

そして

いまでも

愛していると

言ってくださいますか

 

とか

 

愛していると言われた時が

だんだん

遠くなるみたい

手紙読んだら

少しでいいから

わたしのもとへ来てください

わたしのもとへ来てください

 

という歌詞を

聴き直していると

 

神よ、わたしは貧しく、身を屈めています。

速やかにわたしを訪れてください。

あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。

主よ、遅れないでください。

(詩編70.6)

 

といった詩想の

すぐ近くを

あべ静江の明瞭な声は

飛んでいるように

感じられる

 

 



2026年9月26日土曜日

亜流湾ビーチで水野クレールと

 

 

 

秋風や相逢はざるも亦よろし

高浜虚子

 

 

 

 

南浦和には南浦和の女が

蓴菜を好んで

いっとき栽培沼を営んだというが

わからない

真偽のほどは

 

ニース

に

明日経つ

 

アンドレが空港に出迎えに来てくれる

 

とはいえ

声だけ知っていて

顔も振舞いも知らぬアンドレ

たぶん

アーティチョーク(フランス語ではアルティショ)

を

目印に

なるように

携えて

くるはず

 

アンドレの「ア」から

「アな」

を

思う

 

アナ

といえば

フランス語の「アンナ」だが

むしろ

穴

(女性であるアンドレの?)

 

ああ

穴が開く

比喩でなく

本当の穴が現実界(と人々がとりあえず呼んでいるスクリーン)に

パチンと

 

去年の9月が賞味期限だった

井村屋の「ゆであずき」を食べてみたら

行けた

南浦和の女の家の

台所のタンスの奥に保管され

使い忘れられていた

 

缶でなく

「パウチゆであずき」のほう

 

そのまま

長い柄のスプーンで掬って食べる

たくさん入っているので

数日

「ゆであずき」意識が

続いた

大雨の日々

「ゆであずき」色にたびたび染まる

舌よ

わが舌

 

ところどころ冠水し

水没した

佐倉市の女が大学の教務課の前に立っていた

(幽霊?)

こちらに気づき

手を振った

 

………コレハ、マダ、

始マリニ過ギナイ、

コレハ、マダ、……………

 

した した した。

(と、折口信夫の『死者の書』の、あれ、

水の音、水の垂れる音、が

遠くから、響いてくる、

来ている、のか、

響いて、来ている、 ?…………)

 

 

した した した。

耳に伝うように来るのは、水の垂れる音か。

ただ凍りつくような暗闇の中で、

おのずと睫(まつげ)と睫とが離れて来る。

膝が、肱(ひじ)が、

徐(おもむ)ろに埋れていた感覚をとり戻して来るらしく、

彼の人の頭に響いて居るもの――。

全身にこわばった筋が、僅かな響きを立てて、

掌・足の裏に到るまで、ひきつれを起しかけている………

 

 

水は呼ぶ、

ことに多すぎる水は呼ぶ、

死者たちを、

死者

と、

不見識にも、

傲岸にも、

みずからを生者と自認する/誤認する

者たちから

呼ばれてしまう者たちを

 

 

した した した。

 

 

彼(か)の人の眠りは、徐(しず)かに覚めて行った。まっ黒い夜の中に、更に冷え圧するものの澱(よど)んでいるなかに、目のあいて来るのを、覚えたのである。
した した した。耳に伝うように来るのは、水の垂れる音か。ただ凍りつくような暗闇の中で、おのずと睫(まつげ)と睫とが離れて来る。膝が、肱(ひじ)が、徐(おもむ)ろに埋れていた感覚をとり戻して来るらしく、彼の人の頭に響いて居るもの――。全身にこわばった筋が、僅かな響きを立てて、掌・足の裏に到るまで、ひきつれを起しかけているのだ。
そうして、なお深い闇。ぽっちりと目をあいて見廻す瞳に、まず圧しかかる黒い巌の天井を意識した。次いで、氷になった岩牀(いわどこ)。両脇に垂れさがる荒石の壁。したしたと、岩伝う雫の音。
時がたった――。眠りの深さが、はじめて頭に浮んで来る。長い眠りであった。けれども亦、浅い夢ばかりを見続けて居た気がする。うつらうつら思っていた考えが、現実に繋って、ありありと、目に沁みついているようである。

ああ耳面刀自(みみものとじ)。

甦った語が、彼の人の記憶を、更に弾力あるものに、響き返した。

耳面刀自。おれはまだお前を……思うている。おれはきのう、ここに来たのではない。それも、おとといや、其さきの日に、ここに眠りこけたのでは、決してないのだ。おれは、もっともっと長く寝て居た。でも、おれはまだ、お前を思い続けて居たぞ。耳面刀自。ここに来る前から……ここに寝ても、……其から覚めた今まで、一続きに、一つ事を考えつめて居るのだ。

古い――祖先以来そうしたように、此世に在る間そう暮して居た――習(ならわ)しからである。彼の人は、のくっと起き直ろうとした。だが、筋々が断れるほどの痛みを感じた。骨の節々の挫けるような、疼きを覚えた。……そうして尚、じっと、――じっとして居る。射干玉の闇。黒玉の大きな石壁に、刻み込まれた白々としたからだの様に、厳かに、だが、すんなりと、手を伸べたままで居た。耳面刀自の記憶。ただ其だけの深い凝結した記憶。其が次第に蔓って、過ぎた日の様々な姿を、短い聯想の紐に貫いて行く。そうして明るい意思が、彼の人の死枯れたからだに、再び立ち直って来た。

耳面刀自。おれが見たのは、唯一目――唯一度だ。だが、おまえのことを聞きわたった年月は、久しかった。おれによって来い。耳面刀自。

記憶の裏から、反省に似たものが浮び出て来た。

おれは、このおれは、何処に居るのだ。……それから、ここは何処なのだ。其よりも第一、此おれは誰なのだ。其をすっかり、おれは忘れた。

(……)

 

蘇ってくる折口信夫

折口信夫の気味の悪い悪い悪い口調の時代が

うらうら

らうらう

みちょみちょ

みにゃみにゃ

見えないとろついた水面に

なにかの死骸から浮き出た油の被膜のように広がって

やがて

盛り上がってくる

 

 

ああ、なにか明るい色のシャーベットを食べに

青山墓地に彷徨い行こう

パステルカラーで墓石たちを塗ってしまう夢想を萌やしつつ

水野クレールとでも腕を組んで

ちょっとスキップしながら

わざとらしく真白のパラソル差して

彼女の名に連なる大貫妙子の『黒のクレール』など思い出しながら

https://www.youtube.com/watch?v=7LXnuH4QUUM

 

……忘れていた

忘れてしまっていた

立教通りのコーヒー豆挽き売り店『ドリームコーヒー』の

柱のまわりに円を描くソファで出会った河野広美にふいに恋に落ちた頃

くりかえし聴いていた『黒のクレール』の響きを

ふたたび聴いたように思えて

水野クレールよ

あなたに水滴が垂れ落ちていくように傾いていった

中国の海南省の亜流湾ビーチでの

私

 

泊まっていた

ザ・セント・レジス亜竜湾リゾートの自室に

サングラスを忘れて

浜で急に踵を返してふり返って駈け出したあなたは

たまたますぐ後ろにいた私にぶつかり

ずいぶん乱暴な出会いを

まずは

ふいに作り出したものだったが

その後

何度も何度も

廊下で

また

ディナーの場で

朝の浜で

偶然に重なる偶然の出会いをくり返したことで

私は傾いていった

水滴が垂れ落ちていくように

自然に

「偶然に対して

もう

いい

わかった

と

言ってやることにしましょう。

私はあなたにとって

面白くもなんともない人間かもしれませんが

少なくとも

悪い人間ではないと自負しています。

今後は

知りあいの一人に

どうぞ

加えてくださいますように」

と

私が言うことで

どうにか偶然の女神を

宥めたものだった

 

アンドレに

水野クレールの存在は知らせていない

ニース・コート・ダジュール国際空港

(Nice Côte d'Azur International Airport)で

どう揺れるか?

目印にアンドレが抱えてくる

アーティチョークは

 

 


2026年9月16日水曜日

「わたしよ、ありがとう」

 

 

 

眠りたいのに

なかなか眠れない時には

「眠りよ、ありがとう」

と思い続けるのが

けっこう効く

 

からだを回復させたい時にも

「からだよ、ありがとう」

と呼びかけるのが

けっこう効く

 

しかし

なにであれ

いろいろなことで

「わたしよ、ありがとう」

と呼びかけるのが

どうやら

いちばん効く

 

これを

いくらでも

無限に

唱え続けることだ

 

みんな

「わたし」に「ありがとう」と言うのを

忘れ過ぎている

 

まずは

「わたし」に

「ありがとう」と言っておやりよ

 

無言で働き続けている

心臓や腎臓のように

いつも無言で「わたし」は

重荷を担っているから

 

「わたし」とは

つねに

「すべて」であり

「存在」であり

「時間」であり

「光」であり

「力」だから

 

それだけでいい

 

「わたしよ、ありがとう」

と

言うだけで

 

 

 


言葉は音楽

 


 

ひとつ

ひとつ

言葉も音楽

で

あった

 

言葉は

音楽

で

あった

 

手渡されてきた

誰かによる

いや

もはや

誰かによるとは言えないほど

層の重なった

表象

で

あった

 

言葉でなにかを

言う必要も

つくる必要も

伝える必要も

ほんとうは

それほどはない

 

すでに

言葉を聞くことが

見ることが

よく考えられた料理を

精妙な道具を

多岐に変容し続ける表象を

受け取ること

で

あった

 

こんな

あたりまえのことを

ときどき

思い出さねばならないほど

わたしは

わたしたちは

言葉

で

あった

 

 

 


2026年9月6日日曜日

たぶん水だけをうるわしく飲む


 

 

 

あらゆる茶もコーヒーもやめて

ふと

水だけを飲むようになった夏の終わり、

 

(日本語には「晩夏」という美しい言葉があって

これはコレット(Colette)の『青い麦(Le Blé en herbe)』の

主人公のひとり

15歳の娘ヴァンカ(Vinca)を思い出させる

v音のない日本語はbとvを区別しないので

bankaと発音すべき「晩夏」の最初の音を

下唇と上の前歯から摩擦音を出してvankaと言っても

誰も聞きとがめない)

 

夏と衰えをともにしてでもいるのだろうか、カゲロウが

なんと三匹もクサカゲロウが

弱々しく

書庫の奥の書見台まで

飛んでくる

という

より

漂着してきた

とでもいう

様子で宙に現われ、すぐに、コップの縁に

なんと三匹ともいっしょに、止まった

 

彼らの美しいやわらかなみどり色を見ながら、

夏は終わるといっても、おまえたちの色はとこしえの春

とつぶやくと、水の入っていたコップは極地のどこかにありそうな氷山に

一瞬にかわって私はふいに冬の人

 

クサカゲロウも失せて

氷山のまわりに漂うあざやかな黄緑の雲であった。

 

季節も冬なのだろうか、私が冬の人であるからといって、氷山が

書庫だったはずの場所に今は聳えているからといって?

 

そうして私はひとりではなく

姿も見えないのにはっきりと居るのがわかるヴァンカが

ぴったりと背に貼りついている

 

「ヴァンカ、後ろを向いているのだね」

「ヴァンカ、こちら向きにはなる気はないのだね」

「ヴァンカ、私は冬の人だけれど寒くはないかい?」

 

どうでもいいようなことを

こんなふうに

私は

姿の見えない背後のヴァンカに言って

とうの昔に生き別れになってしまっている人生嬢の

特徴のある素振りを思い出した

大事にしても

追っていっても顔をわずかに逸らすのに

こちらがなにかに集中すると躍起になって腕に絡みついてくる

人生嬢

 

そんな人生嬢とミネソタの

ミネアポリスから

ルイジアナのニューオーリンズまで

ゆるゆると

セルベルト・Kから借りた古いポルシェ356プレAで

走っていったことがあった

 

どこだったか途中の街のガソリンスタンドの

脇のモーテルで

クレメンタインという少女からスミレの小さな花束を貰って

夕焼けの中に花火が豪勢に上がり

もちろん

ジョン・フォード(John Ford)の

My Darling Clementine (1946)の

映画史上最も控えめで最も美しい最後のシーンを思い出しながら

いっそのこと此処で婚約をしよう!

などとは少女に告げずに

これ以上ないほど静かに優雅に紳士的に別れたものだった

https://www.youtube.com/watch?v=h6xSIT2S2Ms

 

それから長いこと経って

冬の人

私は

冬のパリの市場の果物商の前に

ある夕暮れ

大きなトートバックをふたつも持って立っていた

冬のパリでビタミン摂取を考えれば

尖った形の葉の付いたコルシカ産のクレマンティーヌは欠かせない

札に書かれたclémentineという綴りを見ながら

「ああ、クレメンタイン!」

と私は洩した

クレマンティーヌではなくスミレの花束をくれたあの少女!

おそらく生涯で最も運命的な出会いだったはずのあの子!

 

私はクレマンティーヌの10個入りの網袋を買い

さらにリンゴを4つ買い

レタスやシュー・フリゼやシコレを買い

シュー・ド・ブリュッセルも買って

ずいぶん重くなったトートバックを左腕に掛けながら金を払い

「クレマンティーヌは英語だとあのクレメンタインだね。

有名な映画の音楽がある」

と戯れ言を店員に言うと

「でも、柑橘類二種を掛けあわせて作ったところは

クレマンという修道士の農場だ。

男の名だよな」

と返して来た

 

知っている

 

マンダリンの花とオレンジの花粉の自然交配から

クレマンティーヌは生まれたのだ

発見したのは

植物学者のルイ=シャルル・トラビュ(Louis Charles Trabut)

クレマン(Clément)という修道士の農場で

1892年に

この交配種を発見したのだ

 

ルイ=シャルル・トラビュは

この品種のことを

1902年

園芸専門誌にに発表

 

その後

ドン・フィリップ・スミデイ(Don Philippe Semidei)が

コルシカ東岸のフィガレト(Figareto)に植え

葉付きで売られるコルシカ産クレマンティーヌが

フランスで売られるようになっていく

 

冬の人

私は

こんな雑学を思い出しながら

そろそろ店仕舞いにかかる市場を離れ

マンダリンの花と

オレンジの花粉との

自然交配から生まれたクレマンティーヌ

ということを

思った

 

あの少女クレメンタインは交配の末の最後のかたち

 

冬の人

私の

クレメンタインとの婚約はあらかじめ

永遠に禁じられていた!

と

遅ればせながら

気づいた

 

気づいてから

もう

数十年は経ていて

冬の人

でも

もうなくなってしまっている

私

 

たぶん

水だけをうるわしく

飲む