2026年3月15日日曜日

岩屑


 

 

「岩屑」という言葉は

古井由吉の『杳子』*を見ていて

はじめて知った

 

登山家たちが使う言葉かもしれないが

街暮らしでは

なかなか

この言葉には出会わない

 

山登りをしている主人公が

西の空に黒雲のひろがりを見つけ

追い立てられるような気持で尾根を下り

谷に入っていく

 

「岩屑」は

谷底の河原に

「流れにそって累々と横たわって静まりかえり

重くのしかかる暗さの底に

灰色の明るさを漂わせていた」

 

そうして

「岩屑」のこの明るさのなかに

「杳子」が出現する

 

「その明るさの中で

香子は平たい岩の上に職を小さくこごめて坐り

すぐ目の前の

誰かが戯れに積んでいった低いケルンを

見つめていた」

小説というものが

忘れがたい印象的なシーンを

冴えた映画のように提示することで始まるものだった時代の

とりわけ印象深い冒頭の『杳子』だった

 

勢い込みたくても

いい出だしが書けないときは

気張らないで

控えめに書きはじめる

というようなことを

かつて

どこかで吉行淳之介が書いていたが

小説であれ

映画であれ

ドラマであれ

あまりに多量に生産されてしまって

すでに個々の作品が存在価値や意義を失うほどに

極限の飽和状態に至ってしまった昨今では

気張らないで

控えめに書きはじめられた小説は

一度といわず

再三

作者自身によって再考や

再編集をされて

これ以上ないほどのシェイプアップを施されてから

発表するようにしてほしいと

読者としては思う

 

200ページだの

300ページだの

400ページだのを使って

グダグダ細かな雑事を書き込まれても

もう読者はつき合っていられない

せいぜい10ページ程度に凝縮してから

発表せよ

などと思うが

つまりは

ボルヘスになれ

ということか

 

 

 

 

*古井由吉 『杳子』、1971







言葉という艶


 

 

 

これももう

今では古い本になってしまったが

1992年に河出書房新社から出版された

『〔同時代〕としての女性短歌』のなかの対談

「“女性短歌”を貫流するもの」のなかで

瀬戸内寂聴と馬場あき子がこんな話をしている

 

 

瀬戸内  短歌をやっている人は時々、「もう、やめる」なんて言うでしょう。それで『わが最終歌集』なんて出しているんですよ。でも、けっこうその後もどんどんつくっているんですよね。みんな、ちょっとあんなことを言ってみたいんですね。

馬場 ええ。

瀬戸内 道元禅師が、坊さんは文学などしてはいけない、文学なんか捨てなければいけない、なんて書いています。でも、ご自分は死ぬまで歌をつくっているんですよ。

馬場 慈円も、言いわけに「自分の癖だ」と言って、つくっていますね。

瀬戸内 あの人たちは、“歌なんかはやめなければいけない”なんて、時々思うんでしょうね。あれはどういう現象なんでしょうね。

馬場 遊びだったんじゃないですか。

瀬戸内 なるほど。

馬場 私はお坊さんの歌にとても興味をもつのですけれども、遍照や慈円くらいになってしまえばまた別ですが、中世はすごく禁欲的な時代だから坊さんたちが遊興に身をやつしてはいけないので、和歌も禁じなければいけなかったんじゃないですか。

瀬戸内 漢詩はいいんですか?

馬場 やはりいけないんじゃないですか。

瀬戸内 いけないでしょうね。でも五山の坊さんなんか、漢詩をいっぱいつくっていますよ。

馬場 そうなんです。特別な詩をつくっていますね。ところが、それがいつか、純粋な三味境に入ればそれは救われるのであるということが出てきて、遊芸で往生できるというか、笛の名手の坊さんが笛を吹きながら往生したとか、中世の説話なんか読みますと和歌往生とか、いろいろな住生の仕方がありますね。

瀬戸内 私は西行を書いたんですけれども、西行は「歌は真言だ」と言っています。

馬場 そうなんです。真言なんです。あの頃のお坊さんにとっては、結局、和歌は真言になっていったんじゃないかと思うんです。それで、和歌を詠んでいる、この真言を重ねていけば当然これが仏の法にかなう、という考え方が出ていったんだと思うんです。それは王朝時代からで、紫式部も真言だと思っているところがあったから、『源氏物語』の中に縦糸のように歌を縫いつけていったんだろうと思うんです。

 

 

論考と違って

文学者どうしの間のおしゃべりに過ぎない

といえば言えるが

肩肘張らずに

気ままに語り出されているために

いろいろな意見が出てきて

とても面白い対談になっており

ここに引いた以外の話にも

興味深いものが多い

 

「歌は真言だ」というのは

思いつきそうでうまく思いつけないことの多い

というか

気づいてはいるものの

思い出せないでいることの多い

直観的な真実で

こんな対談のなかに

ヒョッと語り出されてあるのは貴重といえる

 

短歌は一首一首が辞世であり

最期の一首である

とは

よく思うのだが

歌を「真言」と見なすのも

同じことと思える

 

西行に関連しては

このような話も出てきている

 

 

瀬戸内 やはり、歌は枯れちゃだめでしょう。

馬場 最後まで艶(えん)がなければいけないわけですよ。

瀬戸内 艶ですね。西行がそうでしょう。死ぬまで色っぽい人でしたものね。

馬場 美しいものにほのかな憧れがあって、艶でした。

瀬戸内 西行が本当に歌に命をかけて死んだということは、納得できますね。

馬場 納得できますね。最期も望月の花の下なんていうのは本当によくて、上人の成仏の姿そのままに死んでいくわけですものね。

瀬戸内 私は西行を書いて、それでやっとわかったんですが、あの人は待賢門院に恋をしまして、かなわぬ恋だったけれども、一度か二度は叶えられたことがあったんじゃないかと思うんです。

馬場 あの方も奔放な女性ですからね。

瀬戸内 奔放な人なんですよね。だから西行の「花」とか「月」とかというのは、全部恋人なんですよね。

馬場 もちろんそうです。

瀬戸内 だから、あれはみんな恋の歌なんですね。

馬場 「花」がことに恋の歌で、面影人がなければ歌えない歌ですからね。

瀬戸内 そういうところが、何とも言えずいいですね。

 

 

西行の「花」とか「月」とかが

すべて恋人を表わすものであり

それらのむこうに待賢門院がいる

とまでは決められないと思うし

純粋に「花」や「月」を愛したとも思うが

女性文学者ふたりの

どこまでも恋を見続けたいという

心の動きはおもしろい

大平洋戦争の時の世相に対して

馬場あき子が

戦後に作ったのではあるが

このように歌っていたのが思い出される

 

男らは君が代に行つてしまひたり大倭(やまと)の恋もいよよ滅び

 

ともあれ

短歌や和歌の命が艶にかかっている

というのは確かで

これは再三思い出し直すべき

真理

というか

覚悟

というべきものであろう

 

さらに言えば

言葉というもの自体が

艶なのでもある

 

 





『恋の泉』

 

 

 

そういえば

中村眞一郎の『恋の泉』を読んでいなかった

1962年のこの小説を

新潮社刊のハードカバーで手に入れた

古書店で200円で買った

 

40歳の戯曲作家の思念の流れから始まり

すぐに

20歳の娘との

あまり描写の臨場感に秀でてはいない

情交場面へと移っていきつつ

思念の流れを豊かにしていく十ページほどを

いくらかうんざりしつつ耐えると

情交相手の若い娘が

日本人ドイツ文学者とフランス女性のあいだに生まれた混血で

そのゆえに

戦争中の日本で苦労したことが語られ

小説は一気に面白みを増してくる

 

こんな記述も出てくる

 

優里江は自分と母とが、血液の相違のために、人並以上の苦労をしていた戦争中に、父がひとり世間的に派手に振舞っていたことも許せなかったが、また戦後、突然に、人が変ってしまったように老いこんで哀れっぽくなったということも我慢ならなかったのだ。私は、彼女の父が感傷的なドイツ文学者から地道な語学研究家に変り、やがてナチス心酔者になり、それから神道家に転じ、最後に民主主義者にさえなったということーーその転換が丁度、時勢の変化と一致していたことを、そうした変化を行った知識人が無数に存在したことから、それが近代における日本の知識人の自然な存在の仕方、多分、一般民衆(何という厭な言葉だ!)から、性急な西欧化によって浮き上った知識階級の孤立の、自信のなさから来る動きだと、今は判断している。だから、私は彼女の父を「典型的な日本人なのだ」と優里江に説明した。すると優里江は苛立って、「先生はそうじゃなかったでしょう。少くとも叔父さんはそうじゃなかった。」と反抗的に云い放った。私は二十歳から三十歳にかけての私自身が、先輩たちの戦時中に示した態度に対して、優里江と全く同じ感じ方を持っていたのを思いだした。そして、それが単なる怒りでなく、どのような絶望的な悲しみを伴ったものであったかを語った。優里江は突然に笑いだし、「それなら、先生は何故、そうした人たちに反抗しなかったの?」と口走った。私は黙って首を横に振るより仕方なかった。私は事実、自己の念を世間に説くためには、何事もしなかったし、それから、また、その念を秘かに抱きつづけることでさえ、幾らかの社会的 迫害を受けることは免れなかったのだが、それを若い優里江に告白する気にはなれなかった。

 

優里江の父のような知識人は

いわば日本のお家芸のようなもので

21世紀の現代でさえ

ちょっとまわりを見まわせば

いくらでも類型が見出せる

『恋の泉』で中村眞一郎が

みごとに描き残してくれていることに

今さらながらに感心させられる

 

戯曲作家のほうの態度も

中村眞一郎が書き込んでくれた

貴重なものといえる

 

「私は事実、自己の念を世間に説くためには、

何事もしなかったし、

それから、また、

その念を秘かに抱きつづけることでさえ、

幾らかの社会的 迫害を受けることは

免れなかったのだが、(……)」

 

こういう知識人の多いことも

日本の特徴というべきだろうか

政治が傾いていこうと

異様な風潮が社会を染めていこうと

戦争が起ころうとも

自分の意見を説こうとはせず

なにもすることなく

ただ天候の変化していくのを待つように

時勢や世のなりゆきが

しだいに変わっていくのを待つばかりという

お国柄

 

プルーストの翻訳者でもある中村眞一郎なので

時間とおりおりの自我とが織り成す物語にこそ

『恋の泉』のテーマはあるというべきだろうが

記述の中には

戦中から戦後にかけて

日本社会の中に露呈することになった

さまざまな日本人問題がまき散らされていく

 

書かれてから60年以上も経ってみれば

むしろそれらのほうの貴重さが

はっきりと感じられてくるようにも思える

 







若い蛇

 

 

 

降りてくる

ものばかりが煌めいているのではなく

土も

舗石も

微細に燦々と光っている

 

なんという美が

地を領している日か!

 

ひとり

証人となって

あいかわらず「無さ」そのものであることを

笛とし

若い蛇として

そこに絡まりつく






他に依らぬまどろい


  

 

陽そのものの

まどろい

 

窓は

もうすべて払って

すなわち

壁も

すべて

消えていくに

まかせて

 

草たちも共生者となり

わが心は風

感情はそこ此処の

空気

 

なにかのなさが花

 

陽そのものの

まどろいにあわせて

空気も

風も

まどろむとき

目を覚ます

他に依らぬまどろいが

ある






花の論理

 

 

 

花の論理に街も捧げて

ひんやりと

帰ってくる潤い

 

風も血流であったか

すべてを運ぶ

絶えざる究極の道であったか

 

気づいている今の

視野を

なおさら

花の論理に転写し

もう

見ない夢の

成分をひとつも無駄にせずに

醗酵過程にある

熱源の秘密のほとりを

抱きしめる

 

思い出の淡さ

夏への

すずしさの

ように

 






世界は夜

 

 

 

考えるということは夢に似て

生きているのも夢に似て

 

ならば

世界は夜

永遠に

 

ふと入った虔十書林*

22年前の発行というのに

初版の

きれいな『玲瓏之記(もゆらのき)』**

手にとると

山中智恵子の

こんな歌

 


  〈思惟することは夢みること〉と誰かいふ

     世界は夜といへるごとしも

 

 

 



 

虔十書林。神保町の古書店。

**山中智恵子第十七歌集『玲瓏之記(もゆらのき)』、砂子屋書房、2004