2026年7月5日日曜日

四匹目を飼うと


 

 

大推理作家ローレンス・ブロックLawrence Block

元アルコール依存症だった私立探偵マット・スカダーのシリーズが

なにより有名だが

ニューヨークで古書店を営む泥棒バーニイのシリーズもあれば

怪盗タナーや殺し屋ケラーのシリーズもある

 

バーニイのシリーズのうちの

『泥棒は野球カードを集める(The Burglar Who Traded Ted Williams)1994

では

バーニイのガールフレンドが

ネコを飼うことについて面白い説を述べている

 

ネコを飼うのは三匹が限度

というのだ

 

ネコを一匹飼う 

問題ない

 

ネコを二匹飼う

問題ない

 

ネコを三匹飼う

問題ない

 

ところが

三匹飼うのと四匹飼うことのあいだには

重大な境界線がある

 

四匹目を飼うと

人は一線を越えて

「ネコおばさん」になってしまう

 

ネコを飼うことで人生をダメにした人たちを

けっこうたくさん見てきたので

この「四匹目からはネコ彼岸説」は

なかなかリアルに感じられる

 

ネコで人生がダメになった人たちは

人生をネコに根源的に損われながらも

ネコのおかげで人生が豊かになったとか

ネコがいない人生なんてそもそもあり得ないとか

ヘンな新興宗教的教義を持つようになってしまって

傍からなにか言おうとしても

人間のかたちをしたネコATMに成り切ってしまう

 

わたしとて15年ほどネコと暮らしたので

ネコ好き度は人後に落ちないつもりだし

いまだに異常なほどにネコに帯電してしまっているとは思うが

それでも人生で二度とネコは飼うまいと

断酒や禁煙や麻薬断ちした人たちのように

きっぱりネコ断ちして健全な市民生活を送っている

 

そういうわたしから見ると

一線を越えて四匹目のむこうへ行ってしまった人たちは

「臭う」のである

あまりに臭う

臭ってきてしまう

 

あのネコ臭が

ではなく

ネコに取り憑かれてしまった人の

存在論的な

ああ、もうダメになっちゃったんだな的臭いが

臭う

 

じつは

わたしこそネコなので

ネコになってしまっているので

どこのどんなネコよりもわたしこそが真のネコなので

(観察してみたまえ、あらゆるネコたちはみな唯我独尊である!)

ネコATMにはピンと来てしまう

嗅ぎつけるのである

ニャアとなってしまうのだ

 

そういう部分を隠して

人界に紛れ込んでいるのも

なかなか

技術も努力も精神力も忍耐力も要るもので

ここのところが

平気でネコを晒している世の凡百のネコどもとは

わたしが違うところである

 

 

 

堀敬一氏の「スピリチュアル」な経験


 

ルールに基づく金融政策とは、中央銀行が民間に対して

あらかじめアナウンスした方法に基づく政策のことである。

したがって民間は、中央銀行が行う制作によって

どのような経済現象が実現されるかを正確に予測することが可能である。

  二神孝一・堀敬一『マクロ経済学 第3版』(有斐閣、2025)、

  p349. 13.3 動学的不整合性

  

 

 

一日の頭の使い方のうち

かなりの大部を占めているのは

じつは

国際経済と

そこに繋がる日本経済(御覧のようにほぼ破綻している)

なのだが

経済学を専門に学んだ学徒ではなかったので

思考の要所要所で

適確な用語や概念が用いられず

曖昧な霧の中で正しい方向へ思考を向けられずに

もどかしい思いをすることも多い

 

思い切って

マクロ経済学の教科書を学び直そうと考え

評価の高かった

二神孝一・堀敬一の『マクロ経済学 第2版』(有斐閣、2017

を読もうと思ったら

もう中古でしか入手しづらくなっていた

 

しかし

同じ著者の『マクロ経済学 第3版』(有斐閣、2025)が見つかったので

さっそく入手してみた

同じ本の新版なのだから

はじめからこれに決めればよかったのだが

装幀がずいぶん異なっていたので

すこし戸惑った

 

「はしがき」を読むと

大阪大学名誉教授だった著者の二神孝一氏は2023年に亡くなり

3版については

共著者だった関西学院大学教授の堀敬一氏がひとりで作り直したらしい

もともとふたりで「二人三脚」的に作り上げたテキストだったので

ひとりで改訂作業をするのは不可能と思えた

と書いてあった

 

ところが

マクロ経済学の教科書らしくない内容が

堀敬一氏によるこの「はしがき」には書いてあって

興味を惹かれた

 

二神氏が逝去された後、第3版の改訂が可能かどうか思案する日々が続いた。文字通り「二人三脚」で作成した教科書だけに、一人で改訂作業を進めることは不可能に思えたからである。しかし、ここでは詳しく書かないが、私にとって初めてというくらいの「スピリチュアル」な経験をしたこともあり、「ここで止めるわけにはいかない」と腹を括って改訂作業に取りかかることにした。

 

亡くなった二神孝一氏がでてきて

ぜひとも第3版を作ってくれ

と頼みでもしたのか?

それとも経済学の神がじかに降臨して

堀敬一氏を励ましたのか?

 

くわしくはわからないが

日本経済が完全な崩壊と溶解に進んでいる今

こんな「スピリチュアル」な後押しで成ったマクロ経済学の本を学ぶのも

偶然ではなく

なんとも「スピリチュアル」な椿事とも事態とも言える

 

 


2026年7月2日木曜日


 


 

理由もなく

好きになること

 

なぜだか

わけも

ぜんぜん

わからないのに

とても

好きになっていること

 

どうしてか

まったく

説明もできないのに

扉を開き切り

受け入れるすべてを

かるく

さわやかな

ひかりと感じること

 

はじめて空を見あげた

乳児の顔のように

微笑んでしまうこと

 

はじめて木々の葉を見た

子どもの目のように

じぶんもみどりに

なり切ってしまうこと




2026年7月1日水曜日

色とかたちを見る


 

 

色とかたちを見る

 

色はどこにでもあり

かたちもどこにでもあるが

身のまわりに

見たい色やかたちが

じゅうぶんに

与えられていない時もある

 

そんな時に

写真を見たり

美術作品や

工芸作品を見て

補填する

 

映画のさまざまなシーンにも

ちょっと見つめていたい

いい色やかたちが見つかることもある

そんな時はうれしい

 

映画がおしつけてくる

ストーリーや

登場人物のキャラクターなどは

どうでもよい

むしろ

無いほうがいいが

色やかたちをすなどるための

因果や因縁の網の目が

ストーリーやキャラクター設定だと見なして

ちょっと我慢する

 

派手な色ばかりや

奇矯なかたちばかりを

求めているわけではない

白からグレー

さらに黒へと進むあたりの

地味な色も楽しい

 

かたちにしても

直線と

あまりに典型的な曲線ばかりを

見たがっているわけではない

言葉で言いあらわし難い

微妙な曲がりぐあいや

ちょっといびつな直線なども

ちゃんと見ると楽しい

 

非人間的だといわれる

超現代的なビルのあちこちも

見ていて飽きないし

大災害や爆撃後の瓦礫のありさまも

なかなか出会えないかたちや色に

溢れている

本当に見飽きない

それらの写真や動画に遭遇すると

見続けたまま

うっかり数時間経ってしまう

 

 

*

 

 

色とかたちを見る

 

思想なんかいらない

 

感情も賞讃もいらない

 

意味も解釈もいらない

 

夢も希望もいらない

 

人間味もいらない

 

非人間味もいらない

 

人間の超克もいらない

 

回帰もいらない

 

「~であり続ける」もいらない

 

 

*

 

 

色とかたちを見る

 

「ただ~」もいらない

 

「いつまでも~」もいらない

 

「今だけ~」もいらない

 

永遠称揚もいらない

 

刹那称揚もいらない





2026年6月26日金曜日

あなたはただのお客さん


 


どの瞬間も

どの場所も

わたしの舞台なのではなく

観客にすぎない

わたし

 

わたし以外の者たちによって

設定された劇を

舞台を

わたしは見る

聞く

触れる

鑑賞し続ける

観察する

 

じぶんに「人生」があると信じ込み

その「人生」の主役であると

信じ込むひとが多い

 

じぶんに与えられた

運命を

生死の個別条件を

モノとの関わり方を

人間関係を

特定の場所や文化への

縛り付けられ方を

すべて

じぶんが詳細に設定した

と認識できるなら

あなたはあなたの「人生」の主役

と思い込んでもいい

 

もしそうでないならば

あなたはただのお客さん

一定時間ひとつの座席に座らされて

因縁や縁起でつかのま集められた

いろいろな要素の乱舞を

見させられていく

 

DNAの踊りや

カルマの叙事詩に至るまで

あなたが統御できず

演出できない

微に入り細を穿つフィクション劇の

無限の上演に

いつまでもいつまでも

本当のじぶんに戻らずに

ただの観客としてのみ

つきあい続けていく上客の

あなた

 

 

 

2026年6月25日木曜日

現実の対立と闘争の世界がそのまま仏の命である


 

 

ゆたかに

ふんだんに

いかにも華やかに

対立の世界や

矛盾の世界や

闘争の世界が

地上には

展開されている

 

荘子ならば

こうした世界を観照し

諦観することで

「無為に任放し、塁外に逍遙する」だろう

そうして

絶対的一の世界に

入ろうとする

 

しかし

曇遷(542-607、東魏・興和四年―隋・大業三年)

『亡是非論』には

こうある

 

「若し『是非』の対立の立場をあやまりであるとし、

それをこえた『無是非』の世界が正しいものであるとするならば、

それはほんとうのものではない。

『是非』対立の立場を悪んだり、拒否することは、

すなわち『是非』のとりことなっているのだ」

「絶対」が「相対」に対立する時

それは

「相対」に対立しているかぎりにおいて

みずから「相対」となっている

 

真の「絶対」は

「相対」をそのまま自らとして

「相対」即「絶対」でなければならないだろう

 

是非対立の世界を離れて

別の世界を求めるのは

曇遷のように考える仏教者の道ではない

彼はむしろ

現実の対立と闘争の世界がそのまま仏の命である

と考える

対立と闘争の世界に

「無心」に住するべきだと

彼は考える

この時代の仏教者のいう「無心」は

「無執着」

ということであっただろう

 

曇遷のこうした論を見ると

この頃の中国仏教は

荘子を超えたのではないかと思われてくる

きわめて実践的な

サバイバル思考に突き抜けた感がある

 

曇遷は饒陽(河北省)の人で

曇静の下で出家し

『勝鬘経』を学んで具足戒を受けた

鄴都では曇遵に学んだ

林慮山に隠棲して

『華厳経』『維摩経』『楞伽経』『地持経』『起信論』を研究し

道場寺では唯識を研鑽した

彭城の慕聖寺、建康の開善寺で『摂大乗論』を開講し

長安に移ってからは大興善寺で『摂大乗論』の普及に努めた

この努力により

北地の唯識研究は

『十地経論』から『摂大乗論』へ移った

といわれる

 

 


 

*『仏教の思想6 無限の世界観〈華厳〉』(鎌田茂雄・上山春平、角川ソフィア文庫)p.109.




2026年6月24日水曜日

偽力から真力への切り替えへ

 

 

2026.6.24の啓示

 

 

  

力の完全な切り替えへ

 

五感で捉えられる要素は

みな

汚れたもの

偽の力である

 

見えるもの

聞こえるもの

嗅げるもの

触れられるもの

味わえるもの

すべて

汚れており

真の力ではない

 

また

それらを表象要素として

発生し

維持される

意識・思念・言語の界も

すべて

汚れており

真なるものとの道を

妨げる

 

肉体と

それに密着した意識体は

肉体と意識体のシステムを

物質界と意識界と思念界の中に保つために

これら偽力を受けざるを得ず

用いざるを得ないが

この偽力からではない真力は

肉体も意識体も稼働させることができる

 

偽力から真力への切り替えを

そろそろ

試みよ

 

そして

五感で捉えられる要素

見えるもの

聞こえるもの

嗅げるもの

触れられるもの

味わえるもの

すべてを

見つつ

聞きつつ

嗅ぎつつ

触れつつ

味わいつつ

完全に否定せよ

それらに

力や富を戻さず

燃料や

栄養を還流させず

衰亡させよ

 

意識も

思念も

言語も

あらゆる表象も

すべて

意識は意識のままとして

思念は思念のままとして

言語は言語のままとして

あらゆる表象はあらゆる表象のままとして

完全に否定せよ

それらに

力や富を戻さず

燃料や

栄養を還流させず

衰亡させよ