2026年7月16日木曜日

じぶんにむけて ほんとうに きちんと


 

ラストチャンスでは本気でやるしかない。

ウィリアム・S・バロウズ 『ウエスタン・ランド』

 

 

 

ぼくより若いひとたちを

世界でも

いちばん短い詩形のひとつへ

ちょっと導いてみて

 

最後に

こう

余談してみた

 

 

人間は、ある程度以上の年齢になってくると

過去の若かった自分というものが

たびたびふり返って思い出すべきテーマのひとつになってきます。

自分というものが考えるべき対象となり

オブジェとなります。

 

過去の自分についての見方も

知っていたいろいろな人たちについての見方も

年齢を重ねていくたびに

驚くほど変化していきます。

 

そんな時に

若い頃に作っておいた短歌は

貴重な資料とも

いろいろ思い出すための起爆剤ともなってくれるでしょう。

 

短歌だけでなく

短い文でもかまいません。

 

どんなかたちでも

近い未来の自分や遠い未来の自分のために

また

自分より後の時代の人たちのために

少しでも書き残しておいて

保存しておくのをお勧めします。

 

 

そう

若いひとたちよ

 

むずかしいことの多い書くことにおいて

ことばとのつきあいにおいて

大事なのは

なにより

じぶんにむけて

書くことだ

 

近い未来のじぶんへ

 

遠い未来のじぶんへ

 

そうして

たぶん

いろいろな過去のときの

じぶんへ

 

きみは

じぶんにむけて

書いたか?

 

じぶんにむけて

ほんとうに

きちんと

送りたいようなことばを選んで

表現を工夫して

書いたか?

 

それこそが

大事なこと

 

それこそが

忘れられがちなこと




それこそが


 

 

詩のかたちを借りて

書けるかな?

ちょっとは近づけるかな?

詩のほうへ?

 

そう思って

レンタカーならぬ

レンタシー

レンタ詩―

いっぱいしてみたので

まるで

シジンかなにかのように

ぼくを見る人も

いるかもしれない

けれど

 

ぼくは詩人たちに

がっかり

した

 

みな

なにかになろうとして

詩人に

なろうとして

その時代時代で

その時点時点で

詩っぽい

ものを

書いているだけだった

 

そうして

集まっては

褒めあって

仲間っぽくして

たいてい

そう高くない喫茶店や

そう高くならないように飲むバーで

夜が更けはじめるまで

相手を否定しかねないような詩論なんかしないで

どうでもいい雑談をして

いかにもニホンシャカイって感じで

なごやかに

ふわふわして

時間をとろかしていった

 

ぼくはそういう

詩人たちに

がっかり

した

 

ぼく

 

喫茶店や

バーや

安酒屋でのざわめきも

きらめきも

もうもうの煙草も

みんな

すっかり消え去って

それらの主だった詩人たちも

いまでは

たぶん

墓の中や

老人介護施設や

水を飲むのにも震える腕で

安アパートの

ささくれ立った古畳の上で

ひとり

 

シャルル・トレネのシャンソンの

「詩人の魂(L'âme des poètes)」は

 

Longtemps, longtemps, longtemps

Après que les poètes ont disparu

Leurs chansons courent encore

dans les rues

 

ずうっと ずうっと ずうっと

詩人たちが消え去ってしまったあと

かれらの歌はまだ流れ続けている

道々に

 

と歌うけれど

ぼくが会った詩人たち

ぼくががっかりした詩人たちは

 

消え去って

ながいことになります

ながいことになります

なが~いことになります

 

という

感じ

 

時間が経つ

とは

こういうことなのだ

 

過ぎ去る

というのは

ああ

こういうことなのだ

 

ほんとにぼくは

どれほど

痛切に

学んできたことだろう

 

若かった人が

中年になり

老い

すぐに死なないまでも

フェードアウトしていってしまう

消えていってしまう

 

ほんとにぼくは

どれほど

たくさんたくさん

感じとってきただろう

感じないふりをしてきただろう

 

まるで

永遠というものがあると

まるで

不易というものがあると

思い込もうとするかのようなふりを

してきたことだろう

 

それこそが

まさに

そのものだったと

けっこう

はやくに気づいていたのに

まだ

気づかないかのようなふりを

しようと

してきたことだろう

 

永遠とか

不易とか

こそが

 

それこそが

 

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=cEMxhO8Obeo

 

https://www.youtube.com/watch?v=flI-OH-rOOM



2026年7月14日火曜日

こんなにおいに!


 

靖国神社へ

 

みたままつりへ

 

単に

あの黄色い燈籠の

いっぱい

並んでいるのが見たくて

 

いつかの

どこかの

むかしむかしの

夏まつり

ような

人混みが楽しくて

 

群れて

暑くて

風なくて

汗だらだらが

楽しくて

 

 

行ってみると

ところ

どころ

オシッコ臭かった

 

はて?

参道のわきで

オシッコ

した人がいた?

 

そんなわけ

ない

 

神社はきびしい

 

ことに

靖国神社はきびしい

 

でも

へんだなあ

 

この

オシッコのにおい

なんだろ?

 

そこでも

オシッコのにおい

あそこでも

オシッコのにおい

 

ほんのり

嗅ぐうちに

 

わかった!

 

これ

汗のにおい!

 

御神輿が

行きつ戻りつしたところ

ひとびとの

汗がたっぷり地面に落ちて

濃縮されて

凝縮して

いつのまにやら

オシッコのにおい!

 

とりわけ湿った

晩だったので

こんなこともあるような

 

たっぷり過ぎる

汗が

づっどり地面に落ちて

時間が経って

こんなにおいに!

 

 


 

 

 

 

 


2026年7月13日月曜日

マウドガリヤーヤナあるいはモッガッラーナの霊能力


 

 

東京は

713日から

「お盆」に入る

 

四日間続くというのが一般的で

716日までは

死者の帰ってくる期間

となる

 

地方では

813日から16

というのが

一般的

 

もうだいぶ前

女子大で教えていた頃

霊能者の女の子が

お盆には世の中が黄色くなる

と言っていた

 

あちこちに穴のようなものが開いて

吸い込まれていくような気になるとともに

霊たちが穴を行き来して

なんだかざわつく日々になる

と言っていた

 

その子ほど

はっきり見えないけれど

この頃は

見えない連中が

身近でもざわざわ

ちょこまか

走りまわるのを感じる

 

713日よりも前から

霊界との行き来は

けっこう容易になってくるものらしい

 

「お盆」というのは

仏教の「盂蘭盆会」を略した言葉で

この言葉はサンスクリット語の

「ウランバーナ」だという

「逆さに吊り下げられた苦しみ」のことを言うそうで

この意味をもうちょっと知るには

仏陀の弟子の

目連尊者の逸話に触れないといけない

 

目連尊者は神通力の持ち主で

その力を使って亡き母の霊界での姿を見ると

餓鬼道に落ちていて

逆さ吊りにされ

ものを食べようとすると燃え

なにか飲もうとしても燃えあがって

なにも食べられず飲めず

飢えと渇きに苛まれ続けて苦しんでいた

 

母がこうなったわけを仏陀に問うと

生前に子の目連尊者を溺愛して

まわりの人々の苦しみや不幸に無関心だったために

餓鬼道に落ちてこうなっている

と教えられた

 

どうすれば霊界の母を救えるか

仏陀に聞くと

僧たちの夏の雨安居の修行期間が終わった

旧暦の715日(解夏)に

僧たちを招いて供物を捧げて供養するとよい

と教えられた

 

目連尊者がそのようにすると

その功徳のせいで

霊界の母は極楽往生を遂げたという

 

もっとも

この話は

中国で創作された偽経によるもの

という説があり

そこにさらに

日本で

阿難尊者の施餓鬼の話と合わせられて混同され

いつのまにか出来上がった俗信

と見ておくべきだろう

 

同じ偽経の中でも

仏陀が目連尊者に伝授したのは

亡者救済の秘法であるとされ

この秘法に注目するならば

日本の俗信の盂蘭盆会の中にも

真の秘法への道筋が隠れていないこともない

 

目連尊者

などと

日本の俗信流の呼び方をしてしまうと

なんだか

元も子もない感じだが

ちゃんとサンスクリット語で

マウドガリヤーヤナ(Maudgalyāyana)とか

パーリ語で

モッガッラーナ(Moggallāna)と呼んでみると

ブッダの10大弟子のひとりだった

古代インドの修行者の面目が蘇ってくる

すぐれた霊能者であり

神通第一と称されたという

「偉大なる」という意味の「マハー(Mahā)」や「摩訶」をかぶせて

マハーモッガッラーナ

摩訶目犍連

大目犍連

などとも呼ばれる

 

俗信にまみれた「お盆」や

「盂蘭盆会」を

呆れぎみに望見するより

偉大な霊能者だったマウドガリヤーヤナ

あるいは

モッガッラーナ

を忍ぶ数日間としてみれば

われら

行者には

もっと納得のいく期間となるだろう

 

ブッダや

マウドガリヤーヤナ

あるいは

モッガッラーナ

よりも

はるかに後の中国仏教の中から

心身の鍛練も含めた激しい探求の道を行く行者たちのための言葉を

ひとつ

引用しておこう

 

諸仏の根源を明らかにし

生きとし生けるものの本無を尽くす。

万物の始めを深き大同の世界と一つにし

生きとし生けるものの本無に還る。*

 

これは

支遁(314-366)

『大小品対比要抄序』の言葉である

 

ここで「本無」とされているのは

「如(タトハター)」で

これは般若の知の対象を指し

般若そのものではない

 

しかし

老子の思想の影響下に

仏教の般若経が理解されたこの時期

中国思想界では

般若の知の対象と

般若とが混同されがちだった

 

なにごとかを信じる

という意味での宗教とはまったく違う

心身と霊力と神力を全体的に使用し鍛錬し続ける

仏教実践哲学の

こうした要所の数々を解きほぐし

理解していくには

学究的な精緻な思考態度だけではなく

マウドガリヤーヤナ

あるいは

モッガッラーナ

の持っていたような霊能力が

確実に必要とされる

と反省し直すべきだろう

 

 

 

 

*柳田聖山・梅原猛『仏教の思想7 無の探求〈中国禅〉』(角川文庫ソフィア、1997)、 pp.100-101




2026年7月9日木曜日

清少納言、さ、ぁ、ん、!

 

 

 

列車、JR

 

郊外から都心に戻る

 

終点駅に着いて

ホームにある階段に近づくまで

冷房の入っている列車内を移動していたら

吊るし広告に

 

夏は夜。

幸せのハイボール

 

とあった

 

 

 

 

清少納言、じゃないか!

 

清少納言、さ、ん、!

 

清少納言、さ、ぁ、ん、!

 

 

どの季節も

あなた

だ、ね、え、

 

納言、さ、ん、!

 

清少納言、さ、ん、!

 

とりわけ

夏は

あなた

 

 

夏は夜。

月のころはさらなり。

やみもなほ、蛍の多く飛びちがひたる。

また、 ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。

雨など降るもをかし。*

 

 

日本語のなかに

投げ込まれて

よかったこと

 

あなたの書き残しに

日本語人として

触れられること

 

なつは

       よる

 

           つき

     の

             ころは

    さら

         なり

 

              やみも

                      なほ

      ほたるの

                           おほく

              とび

      ちがひ

                        たる

 


清少納言、さ、ん、!

 

清少納言、さ、ぁ、ん、!

 

 

  

 

*清少納言 『枕草子』 第一段