2026年2月17日火曜日

1995年3月19日の宮澤賢治

 

 

 

  物を云ふことの甲斐なさに

  わたくしは黙して立つばかり

  宮澤賢治 『野の師父』

 

 

 


 

ごく稀にだが

話のわかりそうな人には

わたしは宮澤賢治に会ったことがある

と言ってみたりする

 

もちろん

時代が違いすぎるので

生前の

本物の宮澤賢治に会ったわけではない

 

わたしの書斎のソファーに

ふいに現われ

座っていたのを

見たのだ

 

1995年の3月のことだった

 

117日に

阪神・淡路大震災もあった年で

日本の日常の空気に

いつもとは異なる亀裂のような微細な乱反射が

恒常的に起こり続けていた

 

わたしは当時

世田谷区代田1-7-141階に住んでおり

そこから五分ほどの世田谷区代田1-1-5のワンルームマンションの

ホース115-205に書斎を持っていた

毎日そこに通い

深夜まで読み書きをしていることが多く

時には夜明けまでいることもあった

 

いまでも使っている

カリモク製の大きな木製机の右脇に

ソファーベッドを置いてあり

ふつうはソファーとして使用していた

赤や茶の系統の色づかいの混ぜられた模様のカバーを

ソファーには掛けていた

 

冷え込む夜だったが

長いこと机に向かって書き物をしていて

少し疲れ

椅子に背を委ねて

目を瞑り

反り返るようにしばしの休息を取った

 

目を開けると

右側のソファーのむこう端に

宮澤賢治が座っていた

 

いろいろな写真で見たような顔で

あっ、

宮澤賢治だ

思った

 

ただこれだけのことで

妄想

といえばそうだし

ともいえる

 

椅子に反り返って

瞑目して休んでみているうちに

半睡の状態に陥った

といえば

いちばんもっともらしい

 

しかし

宮澤賢治を

その日々

読んでいたわけでもないのに

なぜだか

宮澤賢治が現われて

ソファーに座っていたのだった

 

これだけなら

じぶんでも

ただの妄想や

寝ぼけのようなものと思って

済ましていたに違いない

 

だが

翌日に起こったことが

宮澤賢治の出現を

わたしに

刻印するようになった

 

翌日

1995320

オウム真理教による地下鉄サリン事件が起こり

前夜の宮澤賢治の出現は

なにごとかをわたしに告げに来たのではないか

どうしても

思われてならなくなったのだ

 

たしかに

さびしくわびしいばかりの

この日本で

さらに

さびしい

さらに

わびしい

長い

長い

薄闇の時代のはじまりではあった

 

『銀河鉄道の夜』 の

こんな一節がいっそう切実に迫ってきた

 

どうして僕はこんなにかなしいのだらう。

僕はもっとこゝろもちをきれいに大きくもたなければいけない。

あすこの岸のずうっと向ふに

まるでけむりのやうな小さな青い火が見える。

あれはほんたうにしづかでつめたい。

僕はあれをよく見てこゝろもちをしづめるんだ。

 

そうして

また

こんな一節も

 

カムパネルラ、

また僕たち二人きりになったねえ、

どこまでもどこまでも一諸に行かう。

僕はもうあのさそりのやうに

ほんたうにみんなの幸のためならば

そしておまへのさいはひのためならば

僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない。

 

 





ことばの花色

 

 

 

 

塚本邦雄が

 

 日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係も

 

と歌わねば居れなかった気持ちに

いつも

いつまでも

共鳴し続けるほどに

わたくしの日本嫌悪と日本アレルギーは根深いが

それでも

かつて

人類史上最高の詩人たちといえる

藤原定家と後鳥羽院と藤原良経が存した

古典日本語だけは

わたくしの壮絶なる故郷である

 

この故郷には

松尾芭蕉も

高浜虚子もいて

紀貫之も

大伴家持もいた

 

その時代の先端の

さらにむこうへ行く彼らは

もし

現代にいれば

短歌も俳句も作らず

まったく別の

言葉の配列に向かっただろう

 

藤原定家の「近代短歌」には

こんな一節がある

 

 大和歌の道、浅きに似て深く、易きに似て難し。

 弁え知る人、又いくばくならず。

 

あらゆる詩は

まず

浅く見える必要があり

簡単に作れそうでなければならないが

それでいて

深さと難さを伴っていなければ

詩とはならない

定家は

古今の詩全般に通じる真理を

短く完璧に

ここに語り残している

 

彼は

 

   末の世のいやしき姿をはなれて、つねにふるきうたをこひねがへり

 

とも書いているが

先の言表にこれもあわせて考えると

鴨長明が「無名抄」に残した言葉も

よく共鳴した思いのものとして思い出されてくる

 

 中古の躰は学びやすくして、然も秀歌は難かるべし。

 (…)今の躰は習ひ難くて、(よく)心得つればよみ易し。

 

中世の歌人文人たちは

虚心坦懐に読むと

現代のそこらにいる人たちのように

やけに身近な

肌感覚でよくわかる感慨を吐露している場合が多いが

定家のこんな言葉も

なんとも近く

ありきたりにさえ感じられる

 

 いはんや老に臨みて後、

 病ひも重く、うれへも深く、沈み侍りにしかば、

 ことばの花色を忘れ、心の泉みなもと涸れて……

 

しかし

この痛切感

このワカル感

このアルアル感こそが

古典

というものの真骨頂なのだ

 






もっともっと居心地のいい置かれかた


 

  

じつは

詩の

あたらしい時代が

来ている

 

文章は飽きられ

単語や

文字たちは

もっと

もっと

居心地のいい置かれかたを

求めている

 

詩は

作庭だ

 

あたらしい庭の造り方が

鋭く

宙を走る

水龍のように

求められている

 

俗人猶愛するは未だ詩と為さず

陸游は書いた

 

前衛は奇形的(アノマラス)だと人は言へ走れる者は奇とならむつねに

岡井隆は歌った

 

詩とは学識の夢のごときものである

ヨハン・ホイジンガは言った

 

詩作は真面目を超越した彼岸に立っている

夢、魅惑、恍惚、笑いの領域の中にある

とも

ホイジンガは言った

 

 





質の悪い安い煎茶みたいなところが

 

 

 

 

固有名詞たちに攻撃され続けても

もう慣れきっているから

まるで

蛙の面に水

 

でも

飽き飽きはしてる

 

かといって

普通名詞ヘと逃げ続けるのも

なんだかなァ

 

質の悪い安い煎茶みたいなところが

普通名詞にはあって

ちょっと

キリッとした味にしたくって

高輪ゲートウェイ駅

とか

南町田グランベリーパーク駅

とか

虎ノ門ヒルズ駅

とか

やみくもに

投げ込んでみたくなる

 

虎ノ門ヒルズ駅

以外は

降りたこともない

 







信号がかわるのが咲く

 

 


 

信号がかわるのを待っているあいだに

また

あなたは悟りを開いた

 

よく磨かれた

テカテカの黄色いスポーツカーが

やけに

ゆっくりと

走り去って行った

 

思い

というものは

なにかと

まとめ上げたくなる性質で

たいていの辛さは

みな

そこから来る

 

花の咲く木は

咲いているときも

咲いたあとも

咲くまえも

いつも

咲くことへと向かっているから

つまり

永遠へと咲く

 

信号がかわるのが咲く

信号がかわるのを待っているあいだが

咲く

 






街の美しい時間を


 

 

 

街の美しい時間を

…と

鉛筆で

小さなメモ帳に記して逝った天使が

あゝ

戻ってくる

浅い

夏の水際 

 

脱いだままの靴の片方を

拾い忘れて

寝てしまった子を

背負ったまま

来てしまった死海の

ほとりは

思いのほか

明るくて

心地よくて

という言葉の印象を

深いところから

変えねばならなくなった

 

天使も街を

見る

 

あなたも

ね?

 

わざわざ買わない花が

きっと

あらかじめ届けられてしまっている

家へ

まずは

寝てしまった子を

運び

逝ってしまった天使に

拾い忘れた

脱いだままの靴の片方は

任せて

 

……そうだ

ちょっと

香りのいい草のサラダでも

食べていこうか

大通りから

すこし入った

桃色の小さな料理屋さんで

 

もたれない

軽いデザートがあれば

それも

つけ加えて

出してもらって

 

 

 



2026年2月16日月曜日

その日のうちに第一章を読み終わる。ふかく、眠りのふかさへ、落ちていくように

 

 




 

 

 ……がとてもいたい《          ひとりでの

帰りの店(いつもデハナイカ?、 ヒトリデノ、イツモ、カエリ……)   

ネギラーメンと餃子を食べていた*

 ひさしぶりに

 

 

記憶がうしろへ   記憶 わたし     という生き物の やはり

母か  (ホカノハハハ、イナイ、ダレニモ?)  見つけたのは

 

》君がすさんだ瞳で、強がるのが、とても痛い《**

 

中島みゆき  ひさしぶりに

ひさしぶりの 日  今夜今宵今宵こよいこ、よ、い、こ、よ、い、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、思いが散らないめずらしい瞬間が続いていく感じがしてきたと思ったら遠いとしかいいようのないひとの群れがほの明るい地平のほうから近づいてくる気配があってまるでこちらをめざして近づいてくるようなので目を凝らし耳を凝らしおそらくはわたしのほうしかしわたしとはややずれたところにいまこの瞬間瞬間にあるなにかにむかってこそ近づいてくるのかと思いの枠を訂正してみるとたしかにわたしのごくごく近くにわたしとは少しずれてなにかがあるのがそこから少しずれたわたしにも感じられてわたしはふいに恋に落ちるようだったが少しのずれにむかって恋に落ちていくのかそれともわたしにごく近いけれどわたしでないものにむかって恋に落ちていくのか恋に落ちていくというしばらく離れていた気持ちにむかってこそ恋に落ちていくのかまだ実体として現われでないものにむかってたぶん異性だか同性だか無機物だかわたしの近い未来のこころの凹凸にぴったりとあった馴染んだ衣服よりもふいにふいに親しい相手の出現の予感へと恋に落ちていくのかなんとも決められなかったのだけれどもふいにふいにふいにふいにこれもあれもいい感じになってしあわせという言葉が脳のそこここにはびこっている感覚があざやかに咲いて六月六月とつぶやくと紫というより濃青の紫陽花の記憶のなかにいたわたしはさらに降下(だろうか)上昇(だろうか)移行(だろうか)漸進(だろうか)急進(だろうか)雪で道いちめんどころか街いちめんの凍った日にゆっくりととりかえしのつかない然るべき(とでも呼ぶべき状況へと)車が車が車が車が車があちらこちらで横滑りしていくあの足のない者たちのような姿で進んでいきもう六時半だ日曜日も終わるというドコカラキタノオマエトイウキオクノコエハ?ほのかに追い詰められたようなこころの血の滲みそれともただの思考のリンパ液くちびるの端から洩れた唾液のようにそんな言葉は浮かんできてだれから押しつけられたわけでもないのに追い詰められている細々と立つ影をわたしという壁のない部屋の縁にささえることを強いられているわたしがいたのに気づかされると記憶=母を呼んで呼び起こして彼女の海に暗い夜なか星もなくて油のような水がやわらかくうねるだけのなかにわたし の暗い黒いみえないけれど触れるからだになってしばらくわたしの外を泳ごうと要求したい気になり海に(でもまだ夜でない海。いつも欲望はどこか欠けて満たされるので、逆にわたしはそれを喜びとするようになった。街灯の立ちならぶ海できみは浮いていたことがあるかい? わたしの場合それは亡くなった暁の姉だった。乳房にガーベラを咲かせていた三番目の姉。銀のフォークがテーブルのうえで透き通った青い魚になっていくのをふたりでなんども眺めた。どこまでも街灯のたちならぶ海で、わたしたち、裸で夕暮まで寝た。わたしには五つの乳房があった。姉には牙があって、わたしの乳房をときどき牙でわずかに裂き、細い、細い、長い血の傷をひいた。ふたりで血を吸いながら、水ながら、水、ながら、星雲の雑誌を開いた。時間が母の残された帯、古革のベルト。 アクセントがやわらかくなる、たぶん、蕩けていく。ね、ね、ね、ね、ねえと父なら言ったところで、姉は母をなんども食べた。ガーベラの姉。いちじくの警察官。修正液を海では使わなかった。一ページで八十行もある料理の本を片手に、わたしは姉をした。 火はわたしと姉が停止する背中。理解、ふ、理解、陰毛のうつくしいイルカを見たよ。 妹ははやく死んだ。神だ。生きているほど、しかし、神はない。神、と、海紙に海上で書いて、欠いて、炸裂するようなHBの鉛筆をペン皿に戻すと本たちが回帰してきて、わたしを欲望した。波立つ、涙津の浜。ノア。やり過ぎよ、と、姉/わたしは言った。 やり過ぎよ。けれど、やり過ぎだけが生きた気持ちを生む。諦め無し、無し、で行こうよと言った。わたしは言った。言った。言った。波のすっかり止まる、凪いだ、波野。 住む、棲むとはどれほどの深みだろう。ふかく棲んだことがあなたはありますでしょうか。記憶の深みはいつわりかもしれない。思索の深みは、言う、も、愚か。紙、紙、紙の何枚もの積み重ねを深みと言い得ますでしょうか。ただの重なりではございませんか。いつから、とよく言葉にします。紅葉のように、目の前にしてみればあっけらかんとした存在の言葉。いつから、いつからか、いつのころからか、、、、。はあ、と受けます。はぁ、そうどすな。わたしは、姉のはあだったかな。波の止まった波野のひと。端正に波の着物を纏い、わたしだけが記憶の女だった気もする。わたしの外、女というものに出会ったトイウ記憶がない。姉は牙の海風。コップがいそぎんちゃくのくちびるをくちびり、コップの底にはいつもいそぎんちゃくの膣がバラの星雲、閉じなさ、閉じないでいる。しだいに記憶は閉塞してくる、のか、記憶をよく開き続けていくちからに、欠けているだけか。欠けやすいと、いうべきか。ひとの記憶はひとであることによって限られ、宇宙とつぶやいてみても、それはひとがつぶやいた宇宙。嘘につながる一切は、やがて止まる。ほっ。ほっ。止まる。潮のうつりかわり。波の、流れの停止。色の、かたちの止まり。おだやかな時に、 )頂点がある。

 

 

仮のたとえで旅と言ってもいい、ある日、あまり読書しないひとのように

たとえば待ち合わせで《ひさしぶりに》下北沢の博文堂書店に入り***

Danielle SteelThe Gift(Corgi Books, Great Britaln, 1994)を買い、

その日のうちに第一章を読み終わる。ふかく、眠りのふかさへ、落ちていくように

(名を忘れた…)甘味処でていねいに焼かれたプディングを食べる。

ひとりで……だれとまだ、会うべきだろうか? スプーンを口に運ぶ手から

よみがえる(脈絡もない、か、の、よう、に、)ヴィクトル・ユゴー、

 

 

Il neigeait. On était vaincu par sa conquête.

(侵略、敗北、雪ばかり降り、

Pour la première fois l'aigle baissait la tête.

(かの鷲、はじめてうなだれ、

Sombres jours! l'empereur revenait lentement,

(日暗く、皇帝帰還の歩は重く、

Laissant derrière lui brûler Moscou fumant.

(紅蓮のモスクワを後に、

Il neigeait. L'âpre hiver fondait en avalanche.

(酷冬なだれ、雪ばかり降り、

Après la plaine blanche une autre plaine blanche. ****

(白原、また白原、

 

 

……だれとまだ、会うべきだろうか?ひとりで、

               紅蓮のモスクワを後に

記憶、母、姉、あゝ、ガーベラの姉に侵入(侵略?)され

Danielle Steelの 〈Magical Bestseller〉に侵入され

ながく子の得られなかった夫婦に生まれた奇跡のような女の子が五歳で

髄膜炎でふいに死んでいくのに立ちあう

 

 

……for five beautiful years... five tiny short years... *****

 (五年のすばらしい歳月……たった五年の、みじかい……

……She had come to them as a gift five and a half years before, and had brought them nothing but love and joy, and now they could do nothing to stop the gift from being taken from them, except pray and hope, and beg her not to leave them. ******

(この子は五年半まえ、賜りものとして彼ら夫婦に与えられ、愛とよろこびだけをもたらした。いま、この賜りものが奪われるのを押し止めることはなにもできず、ただ祈り、期待するばかり、そうして、行ってしまわないでと、この子に頼むばかり)

 

 

こんな記述としばらく生き  プディングを終わる。また、わたしの

「わたし」の(?)、人生に合流していくところで、40ページを閉じるときに目に

飛び込んでくる

to be angels in the snow, and now, *******

 (雪のなかでみんなで天使、そして、いま、

 

……救いの手、ですね、

 

受けとめて、

 

 

文脈はずしの神、あなたの、

霧のような、といっていいでしょうか、あたたかい波が、押し寄せてきています、

 

 

どれほどの深みだろう、棲むとは。

ふかく棲んだことがあなたはありますでしょうか。

記憶の深みはいつわりかもしれない……

 

 

あなたの、

霧のような、といっていいでしょうか、あたたかい波が、押し寄せてきています、

 

 

 

 

 

 

 

*江古田駅前「蔵太鼓」のねぎラーメンと焼き餃子。

**『空と君のあいだに』(中島みゆき作詞・作曲、瀬尾一三編曲)。

***ピーコックちかく、以前の白百合書店。

****Victor Hugo : L'expiation(Jersey, 30 novembre 1852) in Les Chatiments(1853)

*****Danielle Steel : The Gift(Corgi Books, Great Britain, 1994) から。

******おなじく。

*******おなじく。訳は、文脈のわずかな糸一本のみに忠実で、後の文脈すべてを捨てた極度の直訳(?)。

 

 





 

[初出] NOUVEAU FRISSON (ヌーヴォー・フリッソン) numéro 84 (19995)
編集発行人 駿河昌樹
発行場所 東京都世田谷区代田115、ホース115205 155