僧肇は
『不真空論』の中で
真理を離れて現実の場所があるのではなくて
現実の場所がそのまま真理であり
すべてが自己の主体である。
さもなければ、いったいそれは誰なのだ?*
と言っている
これは
エゴを最大限に巨大化せよ
との
妄想の勧めではない
現実のあらゆる場所をすべて真理とし
すべてを自己の主体とする
というのは
逆に
徹底したエゴ的自己の消滅をあらわす
エゴが真理を発見していって
発見された真理を自己の武器とするのではなく
完全消滅したエゴが
それまで自分の領していた場所をすべて
真理に明け渡す
この『不真空論』を受けて
臨済は
こう説いている
修行者よ、仏教の真理は、努め励みようもない。
まったくあたりまえで、なんということもないものだからだ。
糞をひったり尿をたれたり
衣服をつけたり飯を食ったり
疲れたら眠る。
「愚かな奴はわたしを笑うが、えらい人はちゃんとわかっている」
と古人も言っている。
「外面的な努力をするのは、すべてばかな男のことだ」と。
君たちは
とにかくまず
どこにあっても主人公となれ。
そうすれば
君たちの立っているところがすべて真理となる。
どんな相手がやってきても
君たちを引きまわすことはできない。
前世の煩悩の残りかす(余習)や
無間地獄に堕ちねばならぬ五種の重罪さえも
自然に解脱の大海となる
*
「どこにあっても主人公となれ。
そうすれば
君たちの立っているところがすべて真理となる」
というのは
原文では
有名な
「随処作主立処皆真」
となる
「平常心是道」や
「即心即仏」などの名言で知られる
馬祖道一の始めた馬祖禅は
ごくふつうの日常生活そのものを真理とし
悟りとする中国禅として
臨済を以て頂点に達したが
「糞をひったり尿をたれたり
衣服をつけたり飯を食ったり
疲れたら眠る」ことを
そのまま真理とし
そのまま悟りとする当時の中国禅の精華は
第二次大戦後の枠組みが溶解し
さらには植民地主義のヨーロッパ精神の完全瓦解が
仕掛けられている現代において
各地の富も権力も持たない個々人を支えうる拠点となりうるだろう
(たとえキリスト教誤解の狂信者のアメリカや
古代イスラエルの予言者たちを完全誤解している例の連中たちによる
地球支配の策略下における枠組み破壊企画の最中であっても)
時代が変わっても
中国文化の根底を流れる現実重視の性質から来るのだろうが
馬祖以後の中国禅は
山林の瞑想などを良しとせず
むしろ
形式的な瞑想や行道はことさらに業を作り
あたりまえの人間の真実を損うものとして退けた
臨済は
このようにも言う
君たち各地の修行者は
よく
「修行があり、証悟がある」と言う。
しかし
誤まってはならない。
たとえ修行し得るものがあるとしても
すべては生死の業に過ぎない。
君たちはよく
「六波羅蜜の行を修め、もろもろの万種の善行を積む」
と言うが
わたしの見るところでは
すべて業を増しているだけのことである。
仏を求め法を学ぶのは
そのまま地獄行きの業を作ることに他ならない。
菩薩の境地を求めるのも
やはり業を作り
経典を読み仏教の文献を調べることも
やはり業作りである。
仏も祖師も無事の人である。
無事とは依りところとなる実体や物質(vastu)がないこと
なにが起こってもふだんと変わりなく過ごす境地のことである。
煩悩の生活や計算された意図的な行為が業を作るのはわかりやすいが
その反対の悩みのない清らかな生活であれ
何も求めない行為であれ
君たちにとっては清浄という新しい業となるだけのことである。
職業坊主のなかには
飯をたらふく食った後にさっそく坐禅瞑想し
ひたすら妄念をおさえて起こさぬようにし
喧噪を嫌って静けさを求める連中がいるが
まったく以て
それは外道のやりかたと言うべきである。
祖師も言っている。
「君たちがもし、心を止めて静けさを内省し
心をあげて対象を観察し、
心をおさめて内に鎮め
心をおさえて禅定に入るなら
そんな連中は
みな
業作りの者たちである」と。
ほかでもない
今このようにわたしの説法に聴き入っている君たちは
いったいどのように
“それ”を修行し
“それ”を証悟し
“それ”を飾りたてようとするのだ?
“それ”はけっして修行して得るものでもなければ
飾りたてたからといって
本当に得られるようなものでもない。
“それ”自らに飾らせるに任せるなら
一切のものが
ただちに飾り上げられることにもなるだろうが。
君たちは
とにかく誤ってはいけない。*
「清浄という新しい業」を
作るだけのこと
という指摘は
よくよく聞いておいたほうがいい
「清浄」も「煩悩」も
「仏」も「凡夫」も
「善」も「悪」も
思念の中の澱みに浮かぶ泡沫に
過ぎない
*引用文は『仏教の思想7 無の探求〈中国禅〉』(柳田聖山・梅原猛、角川書店、1969)によっているが、表現を改変した箇所もある。