洗礼者ヨハネを殺させたヘロデ王は
近現代小説のキャラクターにふさわしいような
矛盾を抱えていた
ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、
彼を恐れ、保護し、また、
なお喜んで耳を傾けていた
『マルコによる福音書』6・20
このように認識し
態度を示していたにもかかわらず
ヘロデ王は
ヨハネに批難されていた
ヘロデ王は
自分の兄弟であるフィリポの妻の
ヘロディアと結婚していたが
このことについて
「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」
とヨハネから批難されていたのである
自分たちの結婚について難じられたことで
妻のヘロディアはヨハネを恨み
殺そうと思っていた
ヘロデ王の誕生日祝いの宴会で
ヘロディアの娘であるサロメが見事な踊りを披露し
「欲しいものがあれば何でも言いなさい」
「この国の半分でもやろう」
とヘロデ王に言われると
人口に膾炙した有名なシーンとなる
なにをもらったらいいかと
サロメは
母ヘロディアにたずねるのだが
ヘロディアはここで
「洗礼者ヨハネの首を」
と娘に言う
サロメはヘロデ王に
「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、
と要求することになる
この個所を読むと
宴での気まぐれな発言を
ヘロデ王が取り消せなくなったのを利用して
娘にうまくヘロディアが入れ知恵し
「正しい聖なる人」であるヨハネが斬首されてしまう
という不条理で残虐なシーンと
もちろん見える
しかし
見方を変えると
すべては洗礼者ヨハネの狭量から来ている
とも言える
「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」
というふうに
ヨハネは律法にこだわっている
彼の「正しい聖なる人」ぶりは
ユダヤ人が作り
守るように伝えられてきている律法を守るところにあり
いくら
「主の道を整え、
その道筋をまっすぐにせよ」
と教えつつ
悔い改めの洗礼を宣べ伝えていたとしても
あくまで
これまでのやり方の枠内での改革を主張していたに過ぎない
ところが
洗礼者ヨハネのこうした考え方は
なによりもイエスが鋭く批判する態度そのものである
『マルコによる福音書』の7章にはこうある
イエスは言われた。
「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを
見事に預言したものだ。
彼はこう書いている。
『この民は口先ではわたしを敬うが、
その心はわたしから遠く離れている。
人間の戒めを教えとしておしえ、
むなしくわたしをあがめている。』
あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。
イエスが伴っていた集団には
おそらくは
ベンガルの女性聖者のアーナンダマイー・マーAnandamay
https://en.wikipedia.org/wiki/
に匹敵する
高度な悟りに達したマグダラのマリアも居り
このマリアはイエスの伴侶だったとも伝えられ
彼女による福音書も伝えられているのだから
「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」
といった考えをイエスが持つはずはなかっただろう
霊的な真実のありかたへと脱皮し切れない洗礼者ヨハネの
こうした狭量さに注目すると
『マルコによる福音書』や『マタイによる福音書』における
洗礼者ヨハネのエピソードは
歴史的な出来事の一端を描いた物語として読まれるよりも
霊的進化の寓話として読まれるべきだとわかってくる
「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」
などということにこだわり
「人間の戒めを教えとしておしえ」
「人間の言い伝えを固く守っている」ヨハネ段階から
「斬首」を経験して
イエス段階へと進んで行く過程を
洗礼者ヨハネの処刑エピソードは示しており
新約聖書のその他の全編も
霊的進化の過程を
イエスのイメージを使った喩えで伝えようとしているものと読むべ
読みにおける態度変更が示唆されているのだ
「斬首」され
切り落とされるのは
「律法で許されていない」などとこだわり続ける
精神の旧体制の世俗的知であり
この契機となったのは
「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」
と言われても
「何を願いましょうか」
と母親にたずねるほかないような
無欲な「少女」で
インドのクリシュナ神が
毒蛇を征服したあとでカーリヤの頭の上でするように
踊る属性しか帯びていない
新訳聖書の中では
彼女はただ「少女」と呼ばれ
せいぜい「ヘロディアの娘」と呼ばれるだけで
サロメなどとはひと言も呼ばれていない
彼女には現世的な人格が与えられていないのだ
内的矛盾を抱え込んだ苦悩の人
ヘロデ王の設定も
寓話によって霊的進化を教えるテキストである福音書においては
偶然ではありえない
悔い改めの洗礼を宣べ伝えつつも律法遵守に固まっているヨハネを
こういうヘロデ王にぶつけ
人格のない軽やかな踊り手である「少女」を
古い思考や習俗を切り落とす契機として闖入させるところに
霊的修行に努めたイエスの集団の秘法がある
そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、
「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」
そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、
彼らの中に立たせて、言われた。
「はっきり言っておく。
心を入れ替えて子供のようにならなければ、
決して天の国に入ることはできない。
自分を低くして、この子供のようになる人が、
天の国でいちばん偉いのだ。
わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、
わたしを受け入れるのである。」
『マタイによる福音書』 18・1-5