2026年5月27日水曜日

こりゃあカルマだな 今生の業ってやつだな


 

 

         原因と結果のあいだには、

        しばしば、長い長い間隔があることがある。

   ヴァン・ダイン『グリーン家殺人事件』

 

 

 

 

 

プロ野球というものに

小指の先ほども興味がない

 

プロ野球狂いが多い日本にいて

この点

ちょっと肩身のせまい思いをさせられてきたが

だからといって

これで襲撃されるほどではないので

ただ遠い目で

ああいう娯楽の世界があって

ああいうのを楽しいと思う趣味人たちの世界があるのだなあ

とぼんやり見続けてきた

 

(ちなみに

プロサッカーやプロバレーボールには

さらに

さらに

いっそう

興味がない)

 

とはいえ

阿部慎之助という人が

読売ジャイアンツの監督だったことぐらいは

知っている

 

その阿部慎之助さんに

降って湧いたような今回の事件である

 

プロ野球に興味のない

部外者の目から経緯を見れば

しょうがない娘だなあ

終わる

 

自分と妹のケンカを

当然ながらに止めようとしてくる父に牙を剥いて

あげくのはてに

胸ぐらを掴まれて押されたとか

それって

あたりまえの家庭教育ではないか?

と古い人間は思う

 

家庭での暴力やら虐待にはもちろん大反対だが

家のなかでケンカをしている娘たちを父が叱るのは

人間としてあたりまえの行為であり

社会的義務である

放っておくほうがどうかしているだろう

(ちなみに

わたしは幼少時に親から虐待を受け続け

ヒステリーの母親から首にネクタイを巻かれて締められるのを日常とし

さらにはたびたび

包丁を首に突きつけられて切られそうになった

そういう行為を見せつけることで

母親は酒乱の父親に抵抗しようとし

わたしを道連れにした心中狂言を年に何度か演じるのが常だった

被害者だったそういうわたしとしても

家のなかで子どもたちがぎゃあぎゃあケンカしている場合には

やはり叱って止めるのが親の常識だ

ぐらいには思う

この発言は

家庭内虐待常時経験者としては

じつに

重いのだよ)

 

部外者から見れば

しょうがない娘だなあ

終わるには

終わるのだが

(みんな忙しいので

阿部慎之助家の今後のことや

事件の真相などは

正直

どうでもいい…)

ニュアンスを汲まずに警察に通報した児童相談所も

しょうがない連中だなあ

と思うし

暴力を目の前でふるってもいないのに

現行犯逮捕した警察も

しょうがない連中だなあ

と思う

 

娘が

父からの暴力はありませんでした

とわざわざ手紙を書いて公開しているというのに

「暴力」をふるった!

という字句をブロック体にしてヒラヒラさせ

「暴力をどう思いますか?」

などと

巷の父親連中にインタヴューするマスコミ連中も

しょうがない連中だなあ

と思う

 

しょうがない連中が何重にか重なっての

今回の

降って湧いたような

阿部慎之助事件

であった

と思う

 

こりゃあ

カルマだな

前世の業

ってやつだな

 

こういう降って湧いた系事件については

こう思うことにして済ますようにしているのだが

前世まで遡らずとも

阿部慎之助さんの場合

もうちょっと近いところの行いが

今回

娘の深層意識に祟った

と言えそうな

気もする

 

この人には

グラドルとの度重なる密会事件があった

 

2012年には『週刊ポスト』が

元グラビアアイドルで女優の小泉麻耶との密会・不倫疑惑

なるものを報じていた

球団側は

「友人の一人を交えて食事をしただけ」と釈明したが

実質的な不倫関係

として

けっこう騒がれた

 

2014年には『週刊文春』が

小泉麻耶とのホテルでの密会を

写真付きで報じた

スキャンダルがくり返されたことで

「巨人軍の4番・正捕手」のイメージは

かなり汚された

といわれた

 

子供たちがまだ幼かったため

夫人は耐えて

離婚には至らず

その後の阿部慎之助は

「よきパパ」として振る舞うよう努力して

夫婦関係を再構築した

かに

見えた

 

小泉麻耶との密会・不倫があった頃

長女は4歳や6歳だったので

母親の振舞いや思いを感知しなかったはずはなかろうし

言葉でもなにごとか

母親からは聞かされたにちがいない

 

ほんのちょっとの引き金で

長女の心の奥底のわだかまりが暴発した

と言えなくはない

18歳の長女は

児童相談所に

父親の名前も自宅の住所もすべて明かしているのだ

 

どうして

夫人が夫と娘たちのあいだを取りなさなかったのだろう?

駆けつけた警察に

もうちょっと夫人が説明してもよかったのではないか?

という疑問にも

ある程度

ヒントが得られるだろう

 

こりゃあ

カルマだな

前世の

……ではなく

今生の

ってやつだな

 

今回は

呟いておきたくなる

 

 

 


2026年5月26日火曜日

ただそれだけ


 

 

信号待ちをしていて

わたし以外の人だれもが

首を落して

スマホを見ていた

 

電車のなかでもみなスマホ

駅の通路を歩いていてもスマホ

舗道を歩いていてもスマホ

役所や病院の待合室でもスマホ

低レベル大学では教室でもスマホ

 

煙草のためには

喫煙所というものが作られているが

スマホのためには

日本各地の至るところがスマホ所として

認可されているらしい

 

いまさら

スマホをどうのこうの

言いたいわけでは

ない

 

もう

どうでもよい

 

電車のなかや

役所や病院の待合室などはともかく

街なかでは

まわりを見まわせば

そこそこ面白いものや

目新しいものがいっぱいあって

けっこう見飽きないもので

スマホよりも

それらを見たほうが

安全のためにも

娯楽のためにも

社会観察のためにも

いいのに

とは思うものの

そうしないのは個々人の

勝手

といえば

勝手

 

みんなが

(というと大げさなようだが

ほんと

ほとんどみんなが)

スマホばかり見ているおかげで

こちらは

どこにいっても

けっこう透明人間していられる

これはこれで

悪くないかもしれない

と思ったりする

 

(だから

いまでは

管理社会へ

監視社会へ

ベンサムが発案し

フーコーが問題視したパノプティコン(Panopticon)へ

国家どころか

地球まるごと変えていく過渡期にあって

街のあちこちに設置された

監視カメラくんたちが

がんばってくれているというわけ

ひょっとしたら

監視カメラくんたちが集めた映像の総合こそが

現代の神の目かもしれない)

 

しかし

見方をちょっと変えて言えば

社会や集団における人間というのは

わたしのような透明人間志向の者をのぞけば

他人から見られてなんほ

ということもある

 

だれもがスマホしか見ていない街角では

見られたい願望

認識されたい願望のある

ふつう人間たちは

スマホしか見ない他の人間を無価値なものと見るだろうし

さらには

こちらを見ない

こちらを認識しない

という侮辱を働いていると

深層の意識においては

受けとめているかもしれない

 

他人が近くにいる場所で

その他人を意識もせず

その他人になんらかの配慮もせずに

スマホばかり見続けている行為は

ひょっとしたら

すさまじい挑発を行っていることになるかもしれない

 

ひとびとの意識も

深層意識も

どんどん変化し変貌し続けていて

新たに爆薬化していっているところかもしれない

 

など

など

思いながら

わたしは

目を開いていれば

耳を開けていれば

意識に入り込んでくる光景や風景のすべてを

巨大なスマホ画面に流れる映像として

また

漏れ聞こえてくる音響として

きのうも

きょうも

あしたも

受けとめていく

 

なにもかも

ただの

映像

ただの

音響

 

それだけ

 

ただ

それだけ

 



2026年5月25日月曜日

天国よいとこ 一度はおいで



 

夫を失った老婆がいた

 

葬儀も済み

納骨も終わって

毎日が

ひとりだけの生活になった

 

「きのう

出てきたの。

さびしそうな顔をして

立っていた。

あたしのことを

呼びに来ているんじゃないかしら?

あっちで

ひとりじゃさびしいからと

呼びに来ているんじゃないかしら?」

 

あらゆる心霊現象を

わたしは信じるほうだが

この老婆の話は

ただの思いこみか

ウソだろう

と見抜いた

 

というのも

この老婆の夫だった老人は

若い頃に

いわゆる若気の至り

というやつで結ばれてしまったものの

その後

生きているあいだ

じぶんの妻となった女の

ヒステリーや

ひどく偏った好みや考え方や

男にとって義父にあたる父親への

度を超した賛美や

あらゆる家庭電化製品さえ使用できないほどの

意図的ともいえる徹底した機械音痴や

東京の列車にひとりでは乗れないほどの

乗り物音痴などに

さんざん苦しめられたため

死んだ今となっては

自由気ままな身にようやく返り咲いて

よろこび一杯に

宙を弾けまわっているはずだからだ

 

死んであの世にひとりでいって

さびしがっていてほしい

かなしがっていてほしい

と願う老婆の思いが

老夫がさびしそうに立って出てくるイメージを

こころのなかに捏造したに

ちがいない

ちがいない

 

「ほら

『♪天国よいとこ

一度はおいで

酒はうまいし

ネエチャンはきれいだ…』 *

という歌があったでしょう?

あっちに行って

悲しがってるはずがない

さびしがっているはずがない」

 

そう言ってやったら

これはこれで

けっこうショックだったようで

老婆は

絶句していた

 

 

*ザ・フォーク・クルセダーズ『帰って来たヨッパライ』

https://www.youtube.com/watch?v=1OSp9ykj0HE&list=RD1OSp9ykj0HE&start_radio=1




ニセモノ


  

その街には木々が多く

林や森になっているところもあって

とりたてて急いでいく用事のない時には

道から道へと当てずっぽうに辿っていってみると

みどり溢れる迷路のなかに入り込んだようで

これがなかなか楽しいし

しあわせな気分になる

 

ある林の裏に迷い込むと

祠のようなものがあったので

小さなお稲荷さんだろうかと思ったが

立ち止まらずに歩き続けうち

むこうの道にも散策しているらしい初老の人が見え

あちらからはどう見られているのだろう?

やはり散策者と見えているだろうか?

と思いながら

その林からは離れて

開けたところに伸びていく道に立った

 

とりたてて思い出す必要もないような

夢の話だが

こんな夢のなかにえんえんと居られるというのは

なんとしあわせなことではないか!

 

目覚めて

からだを起こして

廊下や台所のほうへ歩いて行くと

昨今は

これもまた別の夢の話だな

と確信するようになった

 

さっきまで見ていた夢の世界よりも

こちらの人間たちの誰もがそう思いたがる

この現実とやらのほうが

じつは

つねにいくらか

現実度のわりあいが少ないのだが

ほかの人間たちに

わざわざこのことを話すのは

めんどうくさいので

しなくなっている

 

けれども

あなただけに

きょうは

教えてあげる

 

こっちの

この“現実”とやらは

じつは

ウソだよ

 

ニセモノさ

 

 


2026年5月22日金曜日

貸したバッグが戻ってくる


 

 

数ヶ月前に死んだ人にも

いくつもバッグを貸していた

 

どれも

高価なバッグではないが

それでも

ひとつひとつ

一万円前後はしている

 

どれもまだ新しく

きれいだが

あまり使っていないものを貸したので

乱暴に使われてもかまわない

使いつぶしてもらってかまわない

そう思って貸している

 

相手が死んでしまったが

貸したバッグは

まだ使える状態で残されたし

いくつかは

ほとんど使っていない状態でもあったので

そのうち持ち帰ろうと思った

 

まだ持ち帰ってもいないのに

気持ちのなかでは

しばらく遠出していたバッグたちが

家に戻ってくるのを感じる

仕舞う場所はどこにしようか

その後もべつのバッグが増えたし

置き場所には困るかもしれない

などと考える

 

気持ちのなかでは

戻ってきたバッグたちのイメージからは

貸した先の人の雰囲気や

思い出などがすっかり消えてしまっていて

貸す前にわが家に置かれていた頃の

真新しい雰囲気や

買おうかどうしようかと店で迷って

買うことにした瞬間の

心のときめきめいたものだけが

戻ってきている

 

物のちからか?

 

じぶんで店をまわって探し出し

時間を多少はかけて

神経を費やして

手に入れた品物と

他ならぬじぶんだけの

かかわり方の

ちからか?

 

バッグを貸した相手は

すっかり

消えてしまっている

 

死んだ人がどう使ったか

とか

どう受けとめたか

などは

すっかり

消え失せて

わたしがわたしの決断で買ったバッグたちが

時間など

まったく経たなかったかのように

戻ってくる




2026年5月20日水曜日

わたしが違うのは

 

 

 

この地球のすばらしさ

いのちのすばらしさ

そして

宇宙のすばらしさ

 

など

など

など

感極まって

勢い込んで

語るひとびともいる

 

わたしも

そう思う

 

しかし

そういうひとびとと

わたしが違うのは

 

このすばらしい地球がなくなる時のすばらしさ

すばらしいいのちが消滅することのすばらしさ

そして

すばらしい宇宙がまったき無となった時のすばらしさ

をも

知っている

こと




憎しみや嫌悪や恨みや執着を持っておく


  


善い人であれ!

どこの文化でも勧められるし

善い人というのは

憎しみや嫌悪や恨みや執着を持たない人

というイメージを

どこの文化でも

たぶん

提示してくるだろう

 

しかし

この世で生きのびていくにあたっては

ひとつや

ふたつぐらいは

憎しみや嫌悪や恨みや執着を持っておく

というのも

嗜みのひとつである

 

これこれを憎んでいる

嫌悪している

誰々を恨んでいる

何々に執着している

わざわざ

公言しておくのにも

香ばしい人間味がある

 

こうした公言をしておくことには

じつは大きな効用があって

とりたてて

たいした憎しみや嫌悪や恨みや執着を持っていなくても

まるで

それらを持っているかのように

カモフラージュすることができる

 

不思議なもので

憎しみや嫌悪や恨みや執着を持っている

と大げさに公言し

演出し続けていると

内心では

憎しみや嫌悪や恨みや執着は

だんだんと

痩せ細っていく

ええと……

いったい

自分はなにに

憎しみや嫌悪や恨みや執着を持っていたのだったっけ?

と自問したりすることも

多くなってくる

 

憎しみや嫌悪や恨みや執着さえ

いつまでもべったり粘着していられないほど

心や意識や魂の表面の変貌ははやい

数十年もすれば

それらは骨董品となってしまう

あの頃は

あんな憎しみや嫌悪や恨みや執着を持っていたものだった!

と懐かしむのも

ちょっとは楽しいかもしれないが

もともと風の性質を持つ心や意識や魂が

いっそう強風になっていく際には

吹き飛ばされていくそれらを掴んでいられる腕や手さえ

いつのまにか

なくなっていることに気づくだろう