小津安二郎の映画『お早よう』(1959)の
17:56あたりで
林家の父親役を演じる笠智衆が
勤めから帰宅して
手を洗ったりした後に
「誰だ、洗面所で、歯みがき、こぼしたの?」
と
ちょっと詰問する調子で
子どもたちに聞く
https://www.youtube.com/watch?v=j0O3linOmGw
なんとなく
チューブから出した練り歯磨きを
洗面所の流しに落した光景を想像してみていたが
この映画を十回近く見直すうち
1959年頃
あるいは
映画制作時の1958年頃ならば
粉歯みがきの粉末を
洗面所の流しに落した
と
想像したほうがいいかもしれない
と思い直した
昭和の30年代や40年代ならば
喫煙家の家では
粉歯みがきのスモカを使っている家が多かった
ライオン製の粉歯みがきもあったらしい
もっとも
1958年頃に粉歯みがきばかりで
練り歯みがきがなかったかというと間違いで
厚生省と日本歯科医師会が主催し
ライオン歯磨(現・ライオン)が協賛した
1952(昭和27)年の
第1回「母と子のよい歯コンクール」のポスターには
「ライオン練歯磨」の絵が載っている
ライオン歯磨株式会社としては
いつ頃まで粉歯みがきを中心として売り
いつ頃から練り歯みがきを売るようになったのか?
ライオン歯科衛生研究所のホームページによれば
1896(明治29)年に
「獅子印ライオン歯磨」が発売されたというが
この時は
粉歯みがきだったのだろう
一宮市の長坂歯科・矯正歯科の歯科助手の田中氏のサイト
「歯磨き粉の歴史」の説明によれば
「現在のようなチューブに入った歯磨き粉
1907年にドイツで生まれました。
日本では、明治44年(1911年)に
初めてのチューブ入り練り歯磨き粉
小林富次郎商店の「ライオン固練りチューブ入り歯磨」が発売されました」
という記述があるので
「獅子印ライオン歯磨」が発売された後
15年後には
ライオンがチューブ入り練り歯みがきを広め始めたことになる
もちろん
「ライオン固練りチューブ入り歯磨」は
金属チューブ入りだったはずで
昭和の戦後しばらくの間も
歯みがきといえば金属チューブを押したり
絞ったりして中身を出して使ったものだった
金属チューブというのは
同じところが折れ曲がり続けると破れ
そこから練り歯みがきが漏れてきたものだが
1969年(昭和44年)に
ライオン(当時の社名は「ライオン歯磨」)が
「ホワイト&ホワイト」の充填用容器として
ラミネートチューブを開発してからは
そんな金属チューブの不便さからも解放されるようになった
ライオンが持っていた特許が1976年(昭和51年)に切れると
他のメーカーもラミネートチューブを使い始め
現代のラミネートチューブ全盛時代に入った
現在では
歯みがき関係から
石鹸やトイレタリー用品や医薬品まで手がけて
当たり前に日本社会の至るところに見られるライオン株式会社だが
もともとは小林富次郎商店という名で
この小林富次郎という創業者のことをちょっと見てみると
これがなかなか興味ぶかい
1852(嘉永5)年に
酒造業を営む裕福な家庭の四男として生まれ
20歳過ぎに家業の没落を経験したらしい
上京して石けん工場に入ったが
会社は不況で倒産
その後も試練に遭い続けたという
39歳にして
東京神田柳原河岸に
石けんやマッチの原料を扱う小林富次郎商店を開業し
1896(明治29)年に
歯磨き粉の製造方法を研究し
「獅子印ライオン歯磨」を発売するに至った
明治時代の子どもたちのむし歯罹患率は96%にも達しており
それに危機感を抱いて
口腔衛生思想の普及活動に乗り出した小林富次郎は
使命感をもって製造販売を進めたという
歯磨き粉メーカーとしては後発だったが
優れた製品品質と巧みな宣伝手法で事業を拡大させていった
「この歯みがきを使えば歯臭を治し、むし歯を予防すること妙なり」
と新聞広告し
口腔衛生思想の普及活動を行っていったが
1915(大正4)年の商品カタログは
海外での使用も見込んで
日本語、中国語、英語の3カ国語で書かれている
「獅子印ライオン歯磨」は
中国語で「獅子牙粉」
英語では“LION BRAND DENTIFRICES”
だった
小林富次郎は「算盤の聖者」と呼ばれたが
熱心で有能な事業家であるとともに
慈善の心に溢れたクリスチャンであったという
「事業収益は社会に奉仕すべし」を事業理念として掲げ
売り上げの一部を福祉施設などの慈善団体へ寄付するべく
「慈善券付ライオン歯磨」を販売するなどし
社会奉仕活動にも力を入れたという