2026年3月5日木曜日

ダフネの香り

 

 

 

おおかた

梅の花も終わったというのに

まだまだ満開で

桜か?

と思わせられるほど

白く

みごとに花々をつけている梅もあって

芳香

馥郁として

立ち止まらせられる

 

そんな梅に

ゆくりなく出会い

香りを愉しんで

しばらく行ってみると

べつの香りが漂っていて

あたりを見ると

低木の花々が並んでいた

 

クチナシか?

と一瞬思ったが

季節が違うし

花も異なっているので

ああ

あれだ

と名前を思い出そうとしながら

忘れる

というより

音や文字が記憶の出口ですこし混乱して

ジンチョウゲ

という名の浮かんでくるまで

すこし

時間がかかった

 

この

ジンチョウゲ

という名

さて

どんなものだろう?

 

ずっと思ってきたが

どこか爺むさい

埃じみた

古色蒼然たる響きで

漢字表記の「沈丁花」を見ても

あまりこの花に

ふさわしくもない感じがする

 

沈香の香りに似ている

とか

そこに丁子(クローブ)の香りが混ざったような

とか

そんなところから作られた

日本人お得意の短縮語や略語で

今の世のスマホや

パソコンや

タイパや

サブスクや

ソシャゲや

エンタメや

ファミレスなどなどと

作りはおなじ

 

よほど中国名の

瑞香

七里香

千里香

などのほうが

すてきに響くが

Daphne odora (ダフネの香り)という学名が

ギリシャ神話のニンフの

ダフネに

ちなんでいるのも

すてき

 

ダフネといえば

月桂樹を意味するが

これには

かなしいような

こっけいなような

ギリシャ神話の話が絡まる

 

芸能や芸術の神で

光明の神

羊飼いの守護神

遠矢の神

疫病の神にして治療の神

さらには預言の神であるアポロンに

弓矢で遊んでいたところをバカにされたエロスは

ひとを恋するようになる金の矢で

アポロンを

恋してくるひとをうとむようになる鉛の矢で

ダフネを射た

 

最悪最強のストーカーよろしく

ダフネを追いまわし続けるアポロンは

とうとうペーネイオス河までダフネを追いつめたが

ダフネは父である河の神に懇願し

姿を月桂樹に変えてもらった

 

アポロンの嘆きは

はなはだしく

せめて私の聖樹になっておくれ

とダフネに頼み

以後はダフネへの永遠の愛のあかしとして

その樹の葉で月桂冠を作って

ずっと

かぶることにしたのだそうな

 

もしダフネが

あのジンチョウゲの香りを発していたのなら

アポロンならずとも

ダフネを追いまわす恋ぐるいに

だれであれ

なってしまったかもしれないと

想像を遊ばせながら

ジンチョウゲの咲きならぶ春の小道を

ことさらに歩調を落して

ゆっくりと行くのも

すこし薄寒さの残る頃の

春の愉しみ

 

 




2026年3月4日水曜日

水溜りのなかを歩く

 

 

 

降った雨がところどころ溜まっている

雨はまだ降っている

都会の歩道を歩いている

夜の暗くなった歩道を

 

水溜まりのなかを歩く

深くない水溜まりなので心配はない

避けていくことはできるが

子どものようにわざと踏み込んでいく

子どものようにばしゃばしゃさせはしない

しずかに水溜まりのなかに靴を落とす

しずかに雨の溜まりのなかを進む

都会の歩道の雨溜まりのなかを行く

都会の歩道の雨溜まりでなければこうはしないだろうと考える

郊外のうら寂しい歩道の水溜りや

田舎の舗装道路の水溜りなら

足を踏み入れたりしないだろうと考える

 

水溜まりと雨溜まりは違うだろう

都会の歩道のであっても雨溜まりでなければ

どんな水の溜まりかわからないものには踏み込まないだろう

おなじ水溜まりでもこれだけの差別を明瞭に持ちながら

水溜まりのなかへ靴を進めていく

 

しずかに水溜まりのなかに靴を落とす

しずかに雨の溜まりのなかを進む

都会の歩道の雨溜まりのなかを行く

水溜まりのなかを歩いていく

水溜まりのなかを歩く






小鈴の集まったようにアセビは咲いて

 

 

 

梅の花がだんだん褪せていく頃

でも

まだ桜が咲かない頃

もう寒くはない雨のなか

小鈴の集まったようにアセビは咲いて

すこし色を増して

みずみずしく濡れていた

 

もうすこし鮮やかな色だったら

とか

かたちのくっきりした花柄だったら

とか

思いもするが

雨に濡れたアセビは

やわらかげで

親しげで

桜が咲くまでのあいだを

なにか

やさしいものを

やわらかいものを

ひかえめに

支えていこうとするように

ほのかに

赤らいでいた






2026年2月25日水曜日

時間の顔を見ている


  

 

ことさら意識を澄ましもせず

ボーッと目を開いているだけでも

時間というものの顔を見ているのは

たしかなこと

 

じゃあ

存在の顔は?

 

それはもう

もう

まわりに見えるすべては

存在そのもの

 

顔どころじゃなくて

存在の

本質そのもの

 

なんてことを

つらつら

思いながら

ボーッと目を開きながら

数日が

経っていました

 

いろいろ用事だって

仕事だって

していたんだけれど

時間の顔や

存在そのものなど

考えるのは

べつの運河で船を進めながら

なんだよね

 

べつの回路が

あるんだ

 

ボーッと目を開きながら

思ううち

「時間」

という言葉の使い方が

じつは

ずいぶん曖昧だったんだな

と気づいた

 

「今」も

「さっき」も

「次の瞬間」も

ひっくるめて

「時間」

と言ってしまいがちだけれど

それらは

同じように

「時間」

なんてまとめられないほど

違ったものだったのではないか?

思うようになった

 

ひょっとしたら

簡便にまとめて呼べるような

「時間」

なんて

ないかもしれない

 

だいたい

見る側の目のその時点でのありようも

(もし「時間」という語を使い続けるとすればだが)

「時間」だったのだし

「存在」だったのだし

思いも意識も

「時間」だったのだし

「存在」だったのだから

結局は

「時間」が「時間」を見ていたのだし

「存在」が「存在」を見ていたのだった

 

こんなことを

思っているうちに

また

数日が

経ってしまうだろうな

 

急に暖かい日が来たので

咲いた桜も

あるそうです

 

河津桜じゃなくて

日当たりのいいところの

ほんとうの桜です






2026年2月23日月曜日

浜に積み上げた角砂糖の城

 

  

ちょっとでも

「自分」の外のなにかに

だれかに

頼ってきた者は

時間の経過がもたらす分解作用の

根源的な破壊力で

浜に積み上げた角砂糖の城のように

溶解していく

 

この溶解は

異常でもなく悲惨でもなく

なにか必要があって

きみが胃に流し込んだ錠剤が溶けていくのと

まったく同じだが

その時の錠剤の「自分」があげる悲鳴を

きみは聞くだろうか

 

「自分」の外のなにかや

だれかは

時間によって作られている


たえず変化させるのが時間のつとめなので

いまきみを支えている

外のなにかや

だれかは

明日にはない


もちろん

数年後にも

数十年後にも

ない

 






この世のふつうから逸れよ

 

  

 

この世のふつうを信じて生きれば

異常がふつうとされているこの世だから

たましいの底まで毒液を行き渡らせられ

きみはやがて異常な衰えかたを辿り

異常な死体となって異常に弔われていく

 

ごく些細なことについてさえ

この世のふつうから逸れよ

 

大声で特定単語の連呼される場に群れる者たちや

添加物や着色料や漂白剤を摂取することの好きな者たち

マイクロプラスチックに肺胞を埋められて

痴呆化を進める映像や雑音で時間を埋める者たち

他人の作った管理養豚場のゲームやパークに

日々進んで意識を埋没させてサルコペニアしていく者たち

かれらの吐く気体の圏域から逸れよ

逸れ切れないのならば

かれらの吐く気体を無毒化する強力な術を

心身を総動員して稼働させよ

 

音には無音で

しかし時にはべつの周波数の音で

精神のノイズキャンセリング機構を発動して

あらゆる場に無の神を顕現させよ

 

かたち

光景

風景に対しては

視線で

凝視で

または無視で

または非焦点化で

この世のふつうという異常を

粉砕し

溶解せよ

 

躊躇なく

すべてを無力化せよ







放っておいたきみだから

 

 

 

ガザでのあれだけの殺戮を放っておいたきみだから

この先きみをどんな理不尽な悲惨が見舞おうと

他人にも世界にもきみはなにも要求などできない

放っておくだけのひとだと宇宙はきみを記録したから

カエサルのものはカエサルにという理屈どおり

放っておいたひとはさらに手厚く放っておかれる