2026年3月7日土曜日

弥勒―無着―世親


 

 

 

縁起ということ、それをわたくしは空性と説く。

いかなる法も縁起でないものはない。

それゆえ、どんな法も空でないものはない。

   龍樹 (Nāgārjuna) 『空論』

 

 

 

 

 


最近アップしたYouTube動画のなかで

宇宙人から伝達を受けているという石井数俊は

宇宙の大きな知的エネルギー体からの教えが

「端末」である地上の複数の人間に伝達されることで

個々の受信者の個性や環境や偏見によって色付けられ歪められなが

「宗教」が形成されていくことを語っていた*

 

これを聞きながら

大乗仏教における唯識論の無着や世親の場合も

ひょっとしたら

同じことが起こっていたかもしれない

と思わされた

 

法相宗の伝承によれば

無着は唯識論を弥勒菩薩から教わったという

夜な夜な無着が兜率天に上って教わったともいうし

弥勒菩薩みずから無着の住むアヨーディヤーに降りてきて教えた

ともいわれる

 

弥勒菩薩とはもちろん

仏の入滅後五十六億七千万年の後に

この世に仏となって出現するべく

兜率天で修行中

ないしは説法中の仏界の第一プリンスであり

いっぽう

イメージ的に補正ないし補強しておけば

「無着」と中国語訳される人物はインド名ではアサンガAsaga

現在でいえば北インドの

パキスタン領となるペシャワールの人物で

「無着」という漢語がうっかり想像させるような中国人的な顔立ちとは

まるで違っていたはずである

今の日本のあちこちのコンビニで働いている

中近東の青年やパキスタンやバングラデシュの青年のような

あんな顔立ちの瑜伽行者であり哲学者であっただろう

 

弥勒菩薩から教わったとなれば

これは現代のスピリチュアル系が好んで信じたがる

宇宙的エネルギー知性体から伝達を受けたということになるが

唯識論の高度な非地上的議論を思えば

いかにもそれにふさわしいとも感じられるものの

無着に唯識論を伝授したのは現実の生身の人間であって

その名がたまたま天上の弥勒菩薩と同じ名の

弥勒(マイトレーヤーmaitreya)であった

という説もある

 

弥勒論師から無着に伝えられ

さらに無着から世親へと唯識論が伝えられていくという説を立てたのは

日本の宇井伯寿博士で

曹洞宗僧侶のこの人はインド哲学と仏教学の学者で

駒澤大学学長を務め

文化勲章受章者にして帝国学士院会員なので

いい加減な思いつきで

弥勒―無着―世親

の系譜を立てたわけではない

 

とはいえ

彼の後の時代には

チベットと中国における弥勒研究が進んで

伝承の食い違いもわかってきて

宇井伯寿博士の説も不確かなものに見られるようになり

むしろ

スピリチュアル系の宇宙知的エネルギー体からの伝授説にも

それなりの勝機が残されるようになってきている

 

無着から世親に唯識論が伝授されたのは

世親が無着の弟だったためで

「世間の身内、親戚」という意味あいの名を持つこの人物は

インド名ではヴァスバンドゥVasubandhuであり

やはりペシャワールの人だった

はじめは小乗仏教の教団で出家したが

はやいうちに大乗仏教へ転向した兄の無着に勧められて

みずからも大乗仏教へと転向している

 

 



 

 

*「銀河連合からのメッセージをお伝えします【石井数俊 宇宙 アセンション】」

https://www.youtube.com/watch?v=RhwWZIv9698&t=70s






ないものたち 遠いものたちのおかげで

  

 

 

広瀬川白く流れたり
時さればみな幻想は消えゆかん。
われの生涯(らいふ)を釣らんとして
過去の日川辺に糸をたれしが
ああかの幸福は遠きにすぎさり
ちひさき魚は眼にもとまらず。

萩原朔太郎 「広瀬川」

 

 

  


 

どこだったか

花屋の店頭でミモザを見かけたが

東京の街路では

めったに目にはできない

 

そうか

ミモザの季節だったか

花屋の前を通り過ぎながら

かろうじて

思い出させられる

ばかり

 

38日の「国際女性デー」は

「ミモザの日」とも呼ばれるらしいが

このあたりの情報は

わたしにはいつまでも外部情報の域に止まってしまっていて

イタリアでのように

男性が女性へ感謝の気持ちを込めてミモザを送る

ような近しい思いにまでは

なかなか育たない

 

そういえば

エリカの花期も

春の今ごろではなかったか

と思い

ちょっと調べると

たしかに春先ではあるものの

エリカ属には四季おりおりが花期のものもあるらしい

 

ミモザといい

エリカといい

日本にはなかった花の

異国趣味そのもののような名にあこがれて

美しき惑いの年を過ごした頃

自分のまわりに本当にはないものたち

あってもあまりに遠いものたちに

あれほどたくさん囲まれて

ないものたち

遠いものたちのおかげで

なんと豊かに

こころ潤って愉しく

わたしは生きたことだったか!







2026年3月5日木曜日

ダフネの香り

 

 

 

おおかた

梅の花も終わったというのに

まだまだ満開で

桜か?

と思わせられるほど

白く

みごとに花々をつけている梅もあって

芳香

馥郁として

立ち止まらせられる

 

そんな梅に

ゆくりなく出会い

香りを愉しんで

しばらく行ってみると

べつの香りが漂っていて

あたりを見ると

低木の花々が並んでいた

 

クチナシか?

と一瞬思ったが

季節が違うし

花も異なっているので

ああ

あれだ

と名前を思い出そうとしながら

忘れる

というより

音や文字が記憶の出口ですこし混乱して

ジンチョウゲ

という名の浮かんでくるまで

すこし

時間がかかった

 

この

ジンチョウゲ

という名

さて

どんなものだろう?

 

ずっと思ってきたが

どこか爺むさい

埃じみた

古色蒼然たる響きで

漢字表記の「沈丁花」を見ても

あまりこの花に

ふさわしくもない感じがする

 

沈香の香りに似ている

とか

そこに丁子(クローブ)の香りが混ざったような

とか

そんなところから作られた

日本人お得意の短縮語や略語で

今の世のスマホや

パソコンや

タイパや

サブスクや

ソシャゲや

エンタメや

ファミレスなどなどと

作りはおなじ

 

よほど中国名の

瑞香

七里香

千里香

などのほうが

すてきに響くが

Daphne odora (ダフネの香り)という学名が

ギリシャ神話のニンフの

ダフネに

ちなんでいるのも

すてき

 

ダフネといえば

月桂樹を意味するが

これには

かなしいような

こっけいなような

ギリシャ神話の話が絡まる

 

芸能や芸術の神で

光明の神

羊飼いの守護神

遠矢の神

疫病の神にして治療の神

さらには預言の神であるアポロンに

弓矢で遊んでいたところをバカにされたエロスは

ひとを恋するようになる金の矢で

アポロンを

恋してくるひとをうとむようになる鉛の矢で

ダフネを射た

 

最悪最強のストーカーよろしく

ダフネを追いまわし続けるアポロンは

とうとうペーネイオス河までダフネを追いつめたが

ダフネは父である河の神に懇願し

姿を月桂樹に変えてもらった

 

アポロンの嘆きは

はなはだしく

せめて私の聖樹になっておくれ

とダフネに頼み

以後はダフネへの永遠の愛のあかしとして

その樹の葉で月桂冠を作って

ずっと

かぶることにしたのだそうな

 

もしダフネが

あのジンチョウゲの香りを発していたのなら

アポロンならずとも

ダフネを追いまわす恋ぐるいに

だれであれ

なってしまったかもしれないと

想像を遊ばせながら

ジンチョウゲの咲きならぶ春の小道を

ことさらに歩調を落して

ゆっくりと行くのも

すこし薄寒さの残る頃の

春の愉しみ

 

 




2026年3月4日水曜日

水溜りのなかを歩く

 

 

 

降った雨がところどころ溜まっている

雨はまだ降っている

都会の歩道を歩いている

夜の暗くなった歩道を

 

水溜まりのなかを歩く

深くない水溜まりなので心配はない

避けていくことはできるが

子どものようにわざと踏み込んでいく

子どものようにばしゃばしゃさせはしない

しずかに水溜まりのなかに靴を落とす

しずかに雨の溜まりのなかを進む

都会の歩道の雨溜まりのなかを行く

都会の歩道の雨溜まりでなければこうはしないだろうと考える

郊外のうら寂しい歩道の水溜りや

田舎の舗装道路の水溜りなら

足を踏み入れたりしないだろうと考える

 

水溜まりと雨溜まりは違うだろう

都会の歩道のであっても雨溜まりでなければ

どんな水の溜まりかわからないものには踏み込まないだろう

おなじ水溜まりでもこれだけの差別を明瞭に持ちながら

水溜まりのなかへ靴を進めていく

 

しずかに水溜まりのなかに靴を落とす

しずかに雨の溜まりのなかを進む

都会の歩道の雨溜まりのなかを行く

水溜まりのなかを歩いていく

水溜まりのなかを歩く






小鈴の集まったようにアセビは咲いて

 

 

 

梅の花がだんだん褪せていく頃

でも

まだ桜が咲かない頃

もう寒くはない雨のなか

小鈴の集まったようにアセビは咲いて

すこし色を増して

みずみずしく濡れていた

 

もうすこし鮮やかな色だったら

とか

かたちのくっきりした花柄だったら

とか

思いもするが

雨に濡れたアセビは

やわらかげで

親しげで

桜が咲くまでのあいだを

なにか

やさしいものを

やわらかいものを

ひかえめに

支えていこうとするように

ほのかに

赤らいでいた






2026年2月25日水曜日

時間の顔を見ている


  

 

ことさら意識を澄ましもせず

ボーッと目を開いているだけでも

時間というものの顔を見ているのは

たしかなこと

 

じゃあ

存在の顔は?

 

それはもう

もう

まわりに見えるすべては

存在そのもの

 

顔どころじゃなくて

存在の

本質そのもの

 

なんてことを

つらつら

思いながら

ボーッと目を開きながら

数日が

経っていました

 

いろいろ用事だって

仕事だって

していたんだけれど

時間の顔や

存在そのものなど

考えるのは

べつの運河で船を進めながら

なんだよね

 

べつの回路が

あるんだ

 

ボーッと目を開きながら

思ううち

「時間」

という言葉の使い方が

じつは

ずいぶん曖昧だったんだな

と気づいた

 

「今」も

「さっき」も

「次の瞬間」も

ひっくるめて

「時間」

と言ってしまいがちだけれど

それらは

同じように

「時間」

なんてまとめられないほど

違ったものだったのではないか?

思うようになった

 

ひょっとしたら

簡便にまとめて呼べるような

「時間」

なんて

ないかもしれない

 

だいたい

見る側の目のその時点でのありようも

(もし「時間」という語を使い続けるとすればだが)

「時間」だったのだし

「存在」だったのだし

思いも意識も

「時間」だったのだし

「存在」だったのだから

結局は

「時間」が「時間」を見ていたのだし

「存在」が「存在」を見ていたのだった

 

こんなことを

思っているうちに

また

数日が

経ってしまうだろうな

 

急に暖かい日が来たので

咲いた桜も

あるそうです

 

河津桜じゃなくて

日当たりのいいところの

ほんとうの桜です






2026年2月23日月曜日

浜に積み上げた角砂糖の城

 

  

ちょっとでも

「自分」の外のなにかに

だれかに

頼ってきた者は

時間の経過がもたらす分解作用の

根源的な破壊力で

浜に積み上げた角砂糖の城のように

溶解していく

 

この溶解は

異常でもなく悲惨でもなく

なにか必要があって

きみが胃に流し込んだ錠剤が溶けていくのと

まったく同じだが

その時の錠剤の「自分」があげる悲鳴を

きみは聞くだろうか

 

「自分」の外のなにかや

だれかは

時間によって作られている


たえず変化させるのが時間のつとめなので

いまきみを支えている

外のなにかや

だれかは

明日にはない


もちろん

数年後にも

数十年後にも

ない