2026年8月10日月曜日

「チェルシー」のこと、「エクセル」のこと、そして「口語の時代はさむい」こと


 

 

日本では

1950年代以降

テレビのCMがさかんになったので

60年代や70年代になると

テレビCMとしての数々の名作が作られるようにもなった

 

家での娯楽があまりなかった頃

子どもたちには

テレビCMを見るのはけっこうな娯楽で

音楽や歌詞や映像を

また

それらが運んでくるポエジーや異国情緒などを

けっこう深く意識の奥底に焼き付けた

 

そうした経験が

その後の時代の日本の環境に

大きな影響を与えていったのは確実で

よかれあしかれ

結局は大きな文化変革の基盤となっていたと思われる

 

CM音楽の天才の小林亜星が作曲し

作詞はなんと安井かずみだった

明治製菓のキャンディー「チェルシー(CHELSEA)」の歌も

子どもや若者の精神に

それとなく巨大な影響を残した

2024年に出荷中止となったそうだが

1971年からの長きにわたって続いた生産と

かなり長いあいだテレビで

さまざまなバージョンの歌が披露されたことで

「チェルシー(CHELSEA)」の歌は

日本人の脳に除きようのない影響を与えたはずだ

一国の文化に与えるCMの音楽や映像の影響の研究は

じつは非常に重要だと思えるのだが

そろそろ本気で研究者たちが取りかかってもいい頃かもしれない

 

「チェルシー(CHELSEA)」の歌では

なんといってもシモンズの爽やかな歌声が記憶に残っているが

シモンズの後たくさんの歌手たちが歌い

時代時代のテレビに華を添えた

YouTubeにあげられたそれらを聴き直してみると

それぞれの時代が浮かんできて

巻き戻せるコンテンツとしての過去というものが

YouTubeのある現代では確立しつつあるのが感じられる

 

シモンズ 明治チェルシーの唄 フルコーラス

https://www.youtube.com/watch?v=_PPFSXBjj1Q&list=RD_PPFSXBjj1Q&start_radio=1

 

【明治】 チェルシーCM集 新旧CM総集編 【全15種】

https://www.youtube.com/watch?v=QM9WaR9vbKI

 

(チェルシーの歌) 手のひらの愛 アグネス・チャン

https://www.youtube.com/watch?v=2yit9_zJqhA&list=RD2yit9_zJqhA&start_radio=1

 

CM明治チェルシーの唄 GARO[ガロ] 1972年 (歌詞入り)

https://www.youtube.com/watch?v=631am6Ca41I&list=RD631am6Ca41I&start_radio=1

 

『明治チェルシーの唄』(サーカス)

https://www.youtube.com/watch?v=KyZKzapyk0k&list=RDKyZKzapyk0k&start_radio=1

 

明治チェルシーの唄  by 八神純子.wmv

https://www.youtube.com/watch?v=WU2pUTMNNdE&list=RDWU2pUTMNNdE&start_radio=1

 

明治チェルシーの唄(Aming

https://www.youtube.com/watch?v=pskaDQnjdsA&list=RDpskaDQnjdsA&start_radio=1

 

明治チェルシーの唄 南沙織

https://www.youtube.com/watch?v=Y5Xu_Q0K80A&list=RDY5Xu_Q0K80A&start_radio=1

 

明治チェルシーの唄 ( '99 ) 小野貴子・宮内美枝 / Takako Ono & Mie Miyauchi " Theme song of CHELSEA-candy "

https://www.youtube.com/watch?v=HJSbFBBpUqg&list=RDHJSbFBBpUqg&start_radio=1

 

明治チェルシーの唄 ( '75 ) ペドロ & カプリシャス / Pedro & Capricious " Theme song of CHLSEA-candy "

https://www.youtube.com/watch?v=KvEGTN3hzZU&list=RDKvEGTN3hzZU&start_radio=1

 

いいなCM 明治製菓 チェルシー PUFFY

https://www.youtube.com/watch?v=zNY4KtwlhvY&list=RDzNY4KtwlhvY&start_radio=1

 

 

 

ところで

チェルシーを思い出すと

やはり明治製菓の商品で

チョコレートの「エクセル」が懐かしく思い出される

 

インドのかっこいい俳優サジット・カーンが

草原を走り

倒れ込むように寝転んだところで

カメラに向かって両手で投げキスをするのが印象的なCM

少年だったぼくは

これで一気にインド好きになり

インドの少年や青年のかっこよさに取り憑かれた

 

当時

ちょっと前にテレビで

インドのドラマ『巨象マヤ』というのをやっていて

サジット・カーンはそこで主人公の少年を演じていたので

日本の少年少女たちには有名だった

 

 

<b>明治</b>製菓の5大新製品カタログ <b>エクセル</b>チョコレート/他 昭和45 ...の画像

 

 



そのサジット・カーンが広告する「エクセル」なのだから

これはおいしいに違いない!

と少年のひとりとして信じ込んだのだ

ビョルン・アンドレセン(Björn Andrésen)のCMもあったそうだが

そちらのほうは記憶にない

少年からすれば

美少年だがなんだか軟弱に見えて

あまり印象に残らなかったのかもしれない

 

子どもの小遣いでは

ちょっと高めの値段だったはずで

「エクセル」は

購買層としては高校生や大学生を見込んでいたのだろう

 

しかし

小学生であったにもかかわらず

サジット・カーンのかっこよさに惹かれて

何度か小遣いで買ったことがある

 

小学生ながらも

受験のために方程式を学ばないといけないとせっつかれて

むかし開成中学に1番で合格した神童の叔父に

方程式を習うため

祖父母の家に通った際

バス停わきのパン屋で買ったのだった

 

叔父も教えるのがそううまくなかったし

こちらも小学性の頭では方程式はよくわからなかったので

なんだかもやもやした気分で

祖父母の家に通い続けたものだったが

寒い冬の夜など

帰宅しようとバス停でバスを待っているあいだに

店を閉じる頃のパン屋で「エクセル」を買った

 

赤い箱のミルクチョコレートのほうが

小学生の味覚には合ったが

それを口にいれてすこしずつ溶かしながら

方程式をさっさっと理解できないぼくの頭では

なんだか人生は寒い

この先も寒いかもなあ

などと思いながら

うら寂しくバス停で

なかなか来ない夜のバスを待ち続けた

 

まだ

「口語の時代はさむい」

と荒川洋治が書く以前のことで

あった

 

 

 見附のみどりに   荒川洋治


まなざし青くひくく
江戸は改代町への
みどりをすぎる

はるの見附
個々のみどりよ
朝だから
深くは追わぬ
ただ 
草は高くでゆれている
妹は
濠ばたの
きよらかなしげみにはしりこみ
白いうちももをかくす
葉先のかぜのひとゆれがすむと
こらえていたちいさなしぶきの
すっかりかわいさのました音が
さわぐ葉陰をしばし
打つ

かけもどってくると
わたしのすがたがみえないのだ
なぜかもう
暗くなって
濠の波よせもきえ
女に向かう肌の押しが
さやかに効いた草のみちだけは
うすくついている 
夢を見ればまた隠れあうこともできるが妹よ
江戸はさきごろおわったのだ
あれからのわたしは
遠く
ずいぶんと来た

 いまわたしは、埼玉銀行新宿支店の白金のひかりをついてあるいている。
ビルの破音。消えやすいその飛沫。口語の時代はさむい。葉陰のあのぬくもりを尾けてひとたび、打ちいでてみようか見附に。

                   (荒川洋治詩集『水駅』 1975)





海に入って波を受け続ける


 

       風が立つ! ……生きなきゃな!

       無限の大気のなかで、ぼくの本が開いたり閉じたりしてる

       波だって岩場から吹き上がって飛び散って行ってるぞ!

      さあ飛び立って行け! ぼくの本のページたち! 

     この輝きの中でくらくらになりながら!

     ポール・ヴァレリー『海辺の墓地』

 

   “Le vent se lève! . . . il faut tenter de vivre!
    L'air immense ouvre et referme mon livre,
    La vague en poudre ose jaillir des rocs!
    Envolez-vous, pages tout éblouies!

         Paul Valéry, Le Cimetière marin

 

 


 

ひさしぶりにひとりで海に出て

腰ぐらいまでの水深のところや

時には胸元まで浸かる程度のところで

まるまる2時間ほど

海水浴をしてきた

 

海に来ると

もっと深いところまで行って

数時間ずっと浮いていることが多いのだが

台風の影響で波が高めなので

あまり沖に出るなと

ライフセーバーが注意喚起している

ひさしぶりの海水浴でもあるので

波に飲まれない程度の浅みに止まることにした

 

海に入って浸かっているというのは

ただそれだけのことでも

やはり多くのことを思い出すし

学び直す

 

続けて寄せ来る波を

あまり激しく身に受けないように

身体を横にしたり

背を向けたりをくり返すが

あまりに平らに背で波を受けると

波は大きく粉砕して

かえって頭に大きく水を受けることになるので

背をすこし丸めるとか

やはり身を横向きにするとか

工夫が必要になる

そんなことをくり返し続けていると

海で波を受け続けるのは

やはり人生のようだと思えてくる

 

ふつうに街生活を続けていても

海では波がくり返し寄せてくることぐらい

誰でもわかっているし

想像がつく気がしている

しかし実際に海に入って波を受け続けると

波というのはこれほど無限に

性懲りもなく寄せ続けるものだと体験し直し

波というものの本質を

街生活のなかでは忘れていくものだと

はっきりとわかり直す

 

波にはたしかにパターンがあって

似たような盛り上がりかたをしたり

似たような崩れかたをするものが多いが

それでもパターンには幾種類かあって

ひとつの波でも崩れのはやい個所もあれば

崩れの遅い個所もあったりして

海水の中に浸かって

それらの波を絶えず無難にやり過ごす身になってみると

崩れの遅いところに身を移して

受ける飛沫をすこしでも減らす工夫が

けっこう重要になってくる

こうしたところも

やはり人生のようだと思えてくる

 

ライフセーバーに見とがめられないように

安全に配慮して腰から胸元までの水深のところにいると

じつはいちばん波が立つ場所にいることになるのだが

それでも時どき

波が立たなくなる時がある

大きめの波がいくつか過ぎていった後は

ほんのすこしだけ波の立たない平穏な時間が訪れる

ずっと海水に浸かっていると

それがどんなに貴重で不思議な時間か

よく感じとれてくる

そんな時にはプールでやるように

のんびりした気分で平泳ぎをしてみたり

肺に空気を溜めて空を向いて浮かんでみたりする

こんな瞬間も

やはり人生のようだと思える

難事や面倒事のあいだにわずかに訪れる

ほんのすこしの凪の時間こそ

変転ばかりの無常のこの世での特権的な静寂と瞑想の時だが

海に浸かって似たような瞬間を経験すると

世界や宇宙の構造が凝縮して理解されてくるように感じる

 

それにしても

夏の海岸に行って暑さも日射も物ともせずに

むしろそれらを楽しんで求めていく人たちの中にいると

最高に心地よいのは

暑さや汗を嫌う街人たちの声にも顔にも触れないで済むことだ

夏の街や住宅街や駅や商店街には

夏の暑さや汗を嫌ってこれでもかと気難しい不快そうな顔をし

「ああ、暑い!」

「本当に嫌になる!」

「夏は大嫌い!」

「クーラーがないと生きていけない!」とか

暑さや汗や疲れへの呪詛だけをまき散らして生きている人びとで

埋めつくされている

そんな人びとがまったくいない炎天下の砂浜が

どれだけ精神的によい環境かは

やはりひさしぶりに行ってみて再発見された

 




2026年8月8日土曜日

心も意識ももともと空

 

 

『祖堂集』は

現存する最古の禅宗史書とされ

五代南唐の保大十年

すなわち

952年に編集されている

 

編者は

泉州招慶院の

静・筠二禅徳による

 

禅が

シャカ以降のさまざまな仏教の展開の後に

ひとつの宗派として出現したのではなく

そもそも

シャカを含む過去の七人の仏から始まっているもので

シャカから始まる仏教よりも

さらに古く

淵源から流れ出してきているもの

と提示しているのが

この書の特徴で

インドや中国の祖師たちを経て

編者の時代までの256人の問答を収めている

 

この『祖堂集』の冒頭には

「七仏」

という章があるが

ここが面白い

 

いかにも素直に

この世のすべてや

この世の生のむなしさが

語られている

 

禅も

仏教も

そもそもは

やはり

この世のあまりのむなしさや

変転のはやさ

出現と消滅のめまぐるしさを前にして

また

そのなかに逃れようもなく身を置いての

驚きと

おそれと

おののきと

無力感から

始まったのだろう

と思わされる

 

シャカに至るまでの

六人の仏たちの歌「幻人のうた」を

簡単に見ておこう*

 

 

第一ビバシ仏(偏眼仏)

わが身は

もともと無相のところより生を受けていて

あたかも幻人が

さまざまの形像を現わし出しているのにひとしい。
幻人は心も意識ももともと空である。

罪も福もすべて空で、

何もとどめようがない。

 

第二シキ仏(肉髻をもつ覚者)

もろもろの善心を起しても、もとより幻にすぎず、

もろもろの悪業をつくってもやはり幻である。
わが身はうたかたのごとく、

心は風のごとくで、

幻人が現わしだしたものには、

根もなければ実体もない。

第三ビシャフ仏(遍一切自在仏)
地水火風の四つを仮りて、わが身となし、

心ももともと無生で、対象にかかわり合って存在するにすぎぬ。
対象が無くなると、心もまた消えて、

罪も福も、幻のように現われてはまた滅する。

 

第四クルソン(所応断仏)

わが身に実体はないと知ることが、仏を見ることであり、

心は幻にすぎぬと知ることが、仏を知れる人である。
肉身も精神現象も、もともと空しいものだと悟れる人こそ、

まさしく仏と別なき人である。

 

第五コナーガマナ仏(金色仙仏)

仏は肉身を見ないでも、仏であると知られる。
真に知があればよいので、そのほかに仏はない。
知恵あるものは罪業の空なることを知って、

心やすらかに生死を怖れることがない。

 

第六カッサパ仏(飲光仏)

生きとし生けるものは、本性がすべて清浄である。
はじめから無生であるから、滅すべきものはない。
この身そのものが幻のように生じたもので、

幻の変化のなかには、罪も福もない。


第七釈迦牟尼仏(シャカ族出身の聖者)

幻の変化には、原因もなければ生ずることもない、

それらはすべて自然であって、

そんなふうに見えているにすぎぬ。
存在はすべて、

自から幻のように変化して生まれたのでないものはない

のであり、

幻の変化は生まれたものでないから、

何の畏れるべきものもない。

 

 

『祖堂集』冒頭の

これら

「七仏」の歌を読んでいると

旧約聖書の

あの「コヘレトの言葉」の響きが

すぐに

思い出されるだろう

 

文化的な接触が

どこかであったに違いない

 

シルクロードを通じて

伝わってきた「コヘレトの言葉」を

『祖堂集』の編者たちは知っていたかもしれないし

もっと古くに

仏教世界と旧約聖書世界は

文化的に相互に認識しあっていたかもしれない

 

「コヘレトの言葉」を

これも

はじまりの部分だけだが

抄出して

思い出し直しておこう

 

 

コヘレトは言う。

なんという空しさ

なんという空しさ、すべては空しい。

 

太陽の下、人は労苦するが

すべての労苦も何になろう。

一代が過ぎればまた一代が起こり

永遠に耐えるのは大地。

(……)

 

何もかも、もの憂い。

語り尽くすこともできず

目は見飽きることなく

耳は聞いても満たされない。

かつてあったことは、これからもあり

かつて起こったことは、これからも起こる。

太陽の下、新しいものは何ひとつない。

見よ、これこそ新しい、と言ってみても

それもまた、永遠の昔からあり

この時代の前にもあった。

昔のことに心を留めるものはない。

これから先にあることも

その後の世にはだれも心に留めはしまい。

(……)

わたしの心は知恵と知識を深く見極めたが、

熱心に求めて知ったことは、

結局、知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎないということだ。

これも風を追うようなことだと悟った。

知恵が深まれば悩みも深まり

知識が増せば痛みも増す。

(……)

 

 

 

*『禅語録』(世界の名著18、中央公論社、1978)の柳田聖山訳によった。




美しい秋のはじまり


 

 

87日は

はやくも立秋だった

 

暦で決まっているものに

はやいも

遅いもないのだが

まだまだ暑さの盛りが続き

世間でも

暑い暑いと

口癖のように

くり返しているところへ

立秋

という字を

カレンダーに見ると

やはり

「はやくも」

という思いが立つ

 

夕暮れ

買い物に出て

整備された小公園の道を

西にむかって歩いていると

味のある雲が

いくつか

西空に浮いていた

 

繊維の細かい金属タワシを

やわらかく

ほぐし気味にして

いくつか

天に放り上げたようで

尨犬の子のような

まるまるとした

かわいさがあった

 

歩いていく小道の

両脇からは

まだ緑色の鮮やかなカエデが

行くひとの上に被さってきていて

このカエデの葉々の隙に

暗くなっていきかけている西空や

ほぐした金属タワシのような

雲のいくつかが

いっしょに見えているのが

格別の趣を

醸し出していて

思いもしなかったところで

美しい秋のはじまりに出会えたと

嬉しかった

 

 


2026年8月7日金曜日

現実の場所がそのまま真理

 

 

 

僧肇は

『不真空論』の中で

 

真理を離れて現実の場所があるのではなくて

現実の場所がそのまま真理であり

すべてが自己の主体である。

さもなければ、いったいそれは誰なのだ?*

 

と言っている

 

これは

エゴを最大限に巨大化せよ

との

妄想の勧めではない

 

現実のあらゆる場所をすべて真理とし

すべてを自己の主体とする

というのは

逆に

徹底したエゴ的自己の消滅をあらわす

 

エゴが真理を発見していって

発見された真理を自己の武器とするのではなく

完全消滅したエゴが

それまで自分の領していた場所をすべて

真理に明け渡す

 

この『不真空論』を受けて

臨済は

こう説いている

 

修行者よ、仏教の真理は、努め励みようもない。

まったくあたりまえで、なんということもないものだからだ。

糞をひったり尿をたれたり

衣服をつけたり飯を食ったり

疲れたら眠る。

「愚かな奴はわたしを笑うが、えらい人はちゃんとわかっている」

と古人も言っている。

「外面的な努力をするのは、すべてばかな男のことだ」と。

君たちは

とにかくまず

どこにあっても主人公となれ。

そうすれば

君たちの立っているところがすべて真理となる。

どんな相手がやってきても

君たちを引きまわすことはできない。

前世の煩悩の残りかす(余習)や

無間地獄に堕ちねばならぬ五種の重罪さえも

自然に解脱の大海となる *

 

「どこにあっても主人公となれ。

そうすれば

君たちの立っているところがすべて真理となる」

というのは

原文では

有名な

「随処作主立処皆真」

となる

 

「平常心是道」や

「即心即仏」などの名言で知られる

馬祖道一の始めた馬祖禅は

ごくふつうの日常生活そのものを真理とし

悟りとする中国禅として

臨済を以て頂点に達したが

「糞をひったり尿をたれたり

衣服をつけたり飯を食ったり

疲れたら眠る」ことを

そのまま真理とし

そのまま悟りとする当時の中国禅の精華は

第二次大戦後の枠組みが溶解し

さらには植民地主義のヨーロッパ精神の完全瓦解が

仕掛けられている現代において

各地の富も権力も持たない個々人を支えうる拠点となりうるだろう

(たとえキリスト教誤解の狂信者のアメリカや

古代イスラエルの予言者たちを完全誤解している例の連中たちによる

地球支配の策略下における枠組み破壊企画の最中であっても)

 

時代が変わっても

中国文化の根底を流れる現実重視の性質から来るのだろうが

馬祖以後の中国禅は

山林の瞑想などを良しとせず

むしろ

形式的な瞑想や行道はことさらに業を作り

あたりまえの人間の真実を損うものとして退けた

臨済は

このようにも言う

 

君たち各地の修行者は

よく

「修行があり、証悟がある」と言う。
しかし

誤まってはならない。

 

たとえ修行し得るものがあるとしても

すべては生死の業に過ぎない。

 

君たちはよく

「六波羅蜜の行を修め、もろもろの万種の善行を積む」

と言うが

わたしの見るところでは

すべて業を増しているだけのことである。

 

仏を求め法を学ぶのは

そのまま地獄行きの業を作ることに他ならない。

菩薩の境地を求めるのも

やはり業を作り

経典を読み仏教の文献を調べることも

やはり業作りである。

 

仏も祖師も無事の人である。

無事とは依りところとなる実体や物質(vastu)がないこと

なにが起こってもふだんと変わりなく過ごす境地のことである。

 

煩悩の生活や計算された意図的な行為が業を作るのはわかりやすいが

その反対の悩みのない清らかな生活であれ

何も求めない行為であれ

君たちにとっては清浄という新しい業となるだけのことである。

 

職業坊主のなかには

飯をたらふく食った後にさっそく坐禅瞑想し

ひたすら妄念をおさえて起こさぬようにし

喧噪を嫌って静けさを求める連中がいるが

まったく以て

それは外道のやりかたと言うべきである。

 

祖師も言っている。

「君たちがもし、心を止めて静けさを内省し

心をあげて対象を観察し、

心をおさめて内に鎮め

心をおさえて禅定に入るなら

そんな連中は

みな

業作りの者たちである」と。

 

ほかでもない

今このようにわたしの説法に聴き入っている君たちは

いったいどのように

“それ”を修行し

“それ”を証悟し

“それ”を飾りたてようとするのだ?

 

“それ”はけっして修行して得るものでもなければ

飾りたてたからといって

本当に得られるようなものでもない。

 

“それ”自らに飾らせるに任せるなら

一切のものが

ただちに飾り上げられることにもなるだろうが。

 

君たちは

とにかく誤ってはいけない。*

 

 

「清浄という新しい業」を

作るだけのこと

という指摘は

よくよく聞いておいたほうがいい

 

「清浄」も「煩悩」も

「仏」も「凡夫」も

「善」も「悪」も

思念の中の澱みに浮かぶ泡沫に

過ぎない

 

 


 

*引用文は『仏教の思想7 無の探求〈中国禅〉』(柳田聖山・梅原猛、角川書店、1969)によっているが、表現を改変した箇所もある。