2026年8月19日水曜日

冬の旅に疲れて


 

 

Toujours avec l’espoir de rencontrer la mer,

Ils voyageaient sans pain, sans bâtons et sans urnes,

Mordant au citron d’or de l’idéal amer.

Stéphane Mallarmé  Le Guignon

 

 

 

 

冬の旅に疲れて

うっかり

してしまった

真夏への

婚約

 

花咲いた

サンザシの枝をくわえながら

そよ風のように

かるく

接吻すれば

わたしは虹のように

孤独

 

いつも波の心で

どの道も

行く

 

花から花

 

また沁み通るように

疲れに

冬へ

 

旅へ

 

 



あんなにも白く輝く原野を



  

そうして また あんなにも白く輝く原野を

数えきれないほど 何度も 失っていかなければならないのか! 

意図されたものでもなければ

夢見られたものでもないから

失い続けたからといって 失敗ではないのだけれど

あんなにも白く輝く原野は 思いがけない希少な発見のように

欲というものの芽を 心の ことに柔らかな土壌に

無数に芽吹かせてやまないもののようだ

 

わたしはひとり わたしたちの揺れ動きのはずれに退いて

岩の上に腰を下ろし 今現在となんの関わりもない 少年時代の

希望や願望のいくつかを 思い出してみようとする 

そうしながら 白く輝くあれらの原野の単調な輪郭を

わたしの人生のもっとも具体的な手触りであるかのように

ゆっくりと目で追い続けていってみる

 

あゝ、忘れてならないのは

姉がふたりいて、レニーとミカという名だったこと! 

そうして わたしたちの親しんだ谷で別れて来たこと!

手紙を書いても誰かが届けてくれるでもなし、

他の連絡手段があるわけでもなし、

そのうえ 伝えねばならないことがあるわけでもないので、

わたしは岩の上に座りながらレニーとミカの顔を

ひさしぶりによく思い出してみようとするが

 

あゝ、思い出せないのだ! あんなにも白く輝く原野を

数えきれないほど 何度も 失っていかなければならない前に

レニーとミカの顔の詳細を 先に失っていってしまっている!

 

 


ただそれだけの理由で

 


  

ことのほか

闇たちが華やいで

河をみな

渡り終えてしまったようだった

 

ひとり

衰弱を早めて逝った娘が

霧の舟の上に立って

戻ってくる

 

夜が鳴いている

 

納屋の奥なんかで

時代錯誤に

ガラスの煤けたランプを灯して

わたしたちだけでも

古くから伝わった本を朗読していきましょう

 

小さな蛾が

ときどき灯りのまわりに来るけれども

それこそ

永遠の幸福の兆し?

 

闇たちが渡っていってしまった河を

逝った娘は戻ってくる

 

夜が鳴いている

 

夜はあまりに大きすぎる

生き物だった

わかる

 

納屋の奥にいるわたしたちからは

見えないけれど

河のむこうでもなければ

こちらでもない

遠いところに

巨大な都市があって

夜も光が絶えないというのだが

朗読の声の隙間隙間に

音の目で見えるようには感じている

 

そこに行く必要はなく

たぶん

わたしたちのほとんどは行かないだろうが

誰かひとり

ふたり

行こうとするに違いない

 

古くから伝わった本を朗読する

以外のことを

ほんのちょっと

やってみたい気持ちに

駆られて

 

ただ

それだけの

理由で





どんな死よりも軽やかな“失われ”のさまを


 


どこへと

帰っていかねばならないか? あなたは

石の目をして

もう どんな風景も

むしろ あなたの目となって

あなたを

また あなたの見えないものを

かわりに見るほかない

この地方で

 

胴に去られて 

それでも 動いていこうとする足腰が

四季の微風のなかを おゝ、

楽しんでいくようではないか! とっぷり暮れてからの

しばらくの宵の静寂を

あんなにも 喜ぶように 少し 揺らぎながら

 

夜に入っていく時の

緑を失っていく草や木々の葉の

どんな死よりも軽やかな“失われ”のさまを

誰より感じとっているのは

彼である彼女であるわれらであるあなた? まるで

近いことこそが遠かったと理解した 磨かれていない宝石の原石の

ずいぶん小さなかけらが ふいに

大宇宙すべての光を たったひとり 受けとめたように

微動だにせず 熱も帯びず

まだ誰にも発見されていない超新星として

つかのま

自己認識を始めたように

 



2026年8月18日火曜日

ぼーっと雲を

 

 

 

おもしろい雲

すごい雲

見とれてしまうような雲

 

ぼーっと

見続けていた

 

こんな時

孤独

というものはない

 

介入してこれない

 

孤独とは

環境のなかでこの心身(という幻想)が

過度に損失を被らないようにしようとしての

加害主体となりかねない者に対する自己説明の努力

から発生するものであり

自分と異なった価値体系でこちらを査定・判定してくる他者への

効果の不確かな弁明行為から来るものだから

ぼーっと

雲を見ている時など

孤独は

発生しようがない

 



東京 2026.8.18

 

 

東京 2026.8.18

 

 

 




 

環境や

まわりの人間たちのありようが

ある個人の人格をつくり

感じ方や

考え方

振舞い方をつくる

 

思い込みやすい

 

そう考えるように

(そう読解するように)

教え込まれがち

でもある

 

しかし

 

環境や

まわりの人間たちのありようを

まるごと受け入れず

分解し

小道具として利用できるよう

蓄えておく

タイプの人間もいる

 

彼にとっては

環境や

まわりの人間たちは

咀嚼し

溶解し

分子レベルに分解して

いずれ再構成して利用すべき

精神の食糧に過ぎない

 

彼にとって

人間は

彼しかいない

 

もし

まわりの「人間」たちこそが人間であるというなら

彼は

人間ではない

 

定義はどうでもよいが

そのような

いる

 



イリュージョンとしての「真現在」

 

 

 

映画は

撮影された多量の写真によって

みずからの身体を

構成する

 

多量の写真は

レンズによって集積された光の情報の痕跡であり

集積された時点では

まだ

そこに映画の主体を出現させない

 

主体

とりあえず呼んだが

魂とか

作品などと

呼びたい者もいるだろう

 

「その映画」

とでも

呼んでおくほうが

いちばん

ニュートラルかもしれない

 

 

 

**

 

集積された光の情報の痕跡としての写真は

すべて

過去痕跡である

 

現在・過去・未来

という俗で曖昧で不正確な時間分割概念を用いるならば

あらゆる写真は過去であり

現在も

もちろん未来も

写真には介入できない

 

しかし

写真に見入る人は

そこに

現在を見ている気がしている

それこそが現在であるかのような

「真現在」とでも

呼ぶべきものが見てとれる

気がしている

 

 

 

***

 

多量の写真を

連続的にコマ送りして現象化させていくものとしての

映画の場合

イリュージョンとしての「真現在」は

さらに詐術の度を高める

 

人はいともたやすく

「動画」と呼びならわして受け入れるが

そもそも

動きがあるように見えるのが

視覚がコマ送りの速度に追いつけないゆえの錯覚である

 

かりに

視覚の無能さに目をつぶり

そこに発生している錯誤を不問とするとして

動画なるものが

目の前に現前しているとしよう

 

なにを見ているのか?

 

かたちも色も

もちろん

人物も

さまざまな物体や物品も風景も

すべて

見られている瞬間には

そのありようでは存在していない過去であり

つまり

「ない」のであり

不在である

 

しかしながら

コマ送りの速さによって

動きがあるかのように錯誤させられるので

集積された光の情報の痕跡の

連続的な早送りという運動とそこから生じてくる効果だけは

現前している

 

それらは「今」ある

 

それらは「今」起こっている

 

 

 

****

 

そうした「今」にさえ

能力の低すぎる視覚から来る

捉え違いがあり

錯誤がある

 

現在・過去・未来

という不確かな俗な時間分割概念を捨てて

もっと正確な時間概念を準備すべきなのだろう

という発想も

当然

ここには生じてくる余地がある

 

しかし

そのように進んでいこうとする場合

そもそも

曖昧で不確かな時間分割概念と

低能力の視覚によってこそ維持されてきた

写真や映画は

どこまで

崩壊せずにいられるものだろうか

 

 

 

*****

 

曖昧で不確かな時間分割概念と

低能力の視覚によってこそ維持されてきた

写真や映画

 

さて

これらの反省を

もちろん

ひとつの比喩のように用いて

人間の精神を

再考したい

 

写真や映画という単語のかわりに

人生や経験や思考や感情や判断などを

ホッブスやヒュームのように

21世紀において

ふたたび

再考したい

とも

思うが

 

必要があるだろうか?

ホッブスやヒュームの読み直しだけで

じつは

足りるものだろうか?