2026年5月6日水曜日

mα=F

 

 

テーブルに置かれているリンゴ

置かれて静止しているリンゴ

 

mα=F(質量×加速度=力)という運動方程式によって見れば

上から重力がかかっており

下からは垂直抗力がかかっている

 

リンゴは静止しているので

この時

加速度αは0であり

m×0=0Fは0となる

 

しかし

リンゴには重力と垂直抗力が働いているので

運動方程式上の力は0でも

リンゴの果肉自体への力はかかり続けているわけで

これは果肉の分解や腐敗を推進する主要素のひとつに

なっているだろう

 

そう思いながら

同じように重力と垂直抗力を受け続けている

幣原富士子さんの

ややでっぷりしたお姿を

とあるホテルのラウンジで見続けていた

 

そこのラウンジでは

3500円の紅茶を頼むと

高いようでも

いくらでも座っていられるので

本を何冊か抱えて行って

ちょっと落ち着いて読書をしたり

ものを考えたりするのには

都合がよい

 

(適度な人の動きや

うるさ過ぎないざわめきが周囲にあるのは

精神衛生上

まことによいものだ)

 

 

 


埴谷雄高の『死霊』


 

――ということは、やってくる死を迎えるのではなく、

去りゆく生を追いとらえる、

というのがその場合の原理なのですね。

埴谷雄高 『死霊』 第五章

 

 

 

 

このところの生活上

なんの脈絡も文脈もないというのに

ふと無性に

『死霊』を読み直したくなる

 

埴谷雄高の『死霊』だ

 

  最近の記録には嘗て存在しなかったといわれるほどの激しい、不気味な暑気がつづき、そのため、自然的にも社会的にも不吉な事件が相次いで起った或る夏も終りの或る曇った、蒸暑い日の午前、✕✕風癲病院の古風な正門を、一人の痩せぎすな長身の青年が通り過ぎた。

 青年は、広い柱廊風な玄関の敷石を昇りかけて、ふと立ち止った。人影もなく静謐な寂変たる構内へ澄んだ響きをたてて、高い塔の頂上にある古風な大時計が時を打ちはじめた。青年は凝っと塔を眺めあげた。その大時計はかなり風変りなものであった。石造の四角な枠に囲まれた大時計の文字盤には、ラテン数字でなく、一種の絵模様が描かれていた。注意深く観察してみるならば、それは東洋に於ける優れた時の象徴し十二支の獣の形をとっていることが明らかになった。青年は暫くその異風な大時計を眺めたのち、玄関から廊下へすり抜けて行った。

 この青年、三輪与志が郊外にある✕✕風癲病院を数度にわたって訪れなければならなくなった用件というのは、彼の嘗ての親友で、またその後、兄の知人ともなったらしい或る不幸な、孤独な精神病者の委託についてであった。幸いなことに、この病院に勤務している一人の若い医師が、三輪与志の兄三輪高志の学生時代の顔見知りであったので、患者の委託についてさまざまな便宜をはかってくれたばかりでなく、進んで由 者の担任をすらひき受けてくれたのであった。 (…)

 

あきらかにドストエフスキー的(『罪と罰』『白痴』など)幕開けであり

さらにはバルザック的でもあるものの

(バルザックの諸作品のあれらの開幕のさせ方の

   あの劇的かつ現実的な…!)

昭和21年に「近代文学」に発表されたこの冒頭は

令和8年におけるニッポンの空気の中で

なんと好ましく魅力的なスリリングな導きと見えることか!

 

昭和の頃のように

文芸の世界の一部で

『死霊』がやみくもに尊重されてやまない風潮も

もはや遠く遠く過ぎ去って

今ではほとんど読まれない遺物として

大規模書店の講談社文芸文庫の棚に安置されていたり

古書店の埃まみれの棚に

ハードカバーの形で忘れられていたりしているが

うっかり開いてしまったが最後

歳月によって放射線量を増したかのような

かつては帯びていなかった異様な魅力で被曝しにかかってくる

 

日本の戦後文学も

戦前から生きのび続けた川端康成も

永井荷風も

谷崎潤一郎も

第三の新人の作品群も

内向の世代の作品群も

それらと併走しながら独自の展開を遂げた

三島由紀夫も

安部公房も

大江健三郎も

女性のことも忘れないようにするならば

圓地文子や

幸田文や

河野多恵子なども

もちろん加えなければならないのだが

みな

ゆっくりと書き継がれていった『死霊』の創作時間の中に

それぞれのひとり舞台を演じ続けたものだった

 

知りあいの若き小説読者たちが

ときどき気まぐれに

現時点での小説ベスト10だの20だの30だのを選んで送ってくるのだが

それらの表を見る度に

サマセット・モームはもちろん

ジョセフ・コンランドや

ヘンリー・ジェームズが入っていないことばかりか

ボルヘスも

ガルシア・マルケスも

ル・クレジオも取り上げられていないことに首を捻らせられ

ましてや埴谷雄高の『死霊』も

梅崎春生の『幻化』も

武田泰淳の『富士』なども

完全に等閑視されてしまっていることで

静かな呆然を

心の部屋に迎え入れてしまったりするのだが

時代の移り変わりというものは

そんなものなのかもしれない

 

個人的には

ファン・ルルフォの『ペドロ・パラモ』が

『異邦人』などのあらゆる中篇小説を超えて

世界文学の最上位だと思っているが

それはそれとしても

日本語による『死霊』がかつて書かれた

ということは

小説的快楽の追い求め人のひとりとしては

忘れることはできない

 



安い食パンにただバターだけを塗って食べる


 

 

どこのスーパーマーケットでも売っている安い食パンに

ただバターだけを塗って食べるのがうれしい

甘さはいらない

 

飲み物としては

約125㏄のインスタントコーヒー

マグカップでは多すぎるし

エスプレッソのカップでは少ない

インスタントコーヒーは

湯を注ぐ前に常温の水を少量注いで溶かしておき

その後に熱湯を注ぐと

はるかにうまくなる

 

これがいちばん“軽快な”至福の時であり

“くつろぎのひととき”

これ以上はふつういらない

 

時には

バターを塗った上に

さらに

ジャムを塗りたくなることもある

ふだん甘さはいらないが

こういう時は

しっかりと甘いジャムがいい

そして

ある程度品質のいい

果実の密度の高いジャムがいい

いちばんありきたりなストロベリージャムの

高密度の果肉のものがうまいが

少し酸味のあるカシスジャムが

いまは気に入っている

 

安い食パンでいいとはいえ

身体に悪い添加物が多いということから

ネット界隈で健康志向者たちに評判の悪い会社のパンは

なるべく買わないようにしている

 

とはいえ

他の製パン業者も

本当のところは似たりよったりだろう

評判の悪い会社の全粒粉パンを

少し前に買って食べてみたら

なかなかうまくて

製パン業者についてのイメージにも

すこし揺らぎが出た

 

こんなふうにパンを食べる際は

薄切りをせいぜい二枚ほど

できれば

たった一枚だけにしておくと

よろこびは増す

食べはするのだが少量だけにしておくのが

身体と脳を快調に保つのに

小さな秘訣となっているように思える

 

 


そこで会おうよ



 

 

時節柄

というべきだろうか

世界中の多くの人たちが

ルーミーの詩を

コールマン・バークスの英訳で引用し

リツイートしていた

 

13世紀のペルシア語の大詩人

ルーミー(Rūmī)の詩を

 

There exists a field,

beyond all notions of right and wrong.

I will meet you there.

 

いろいろな訳が

日本語でもできる

 

正しさと誤りの概念を超えたところに

野原がある。

そこで君と会うだろう。

 

とか

 

善行と悪行の概念を超えた場所に、

ある野原がある。

そこであなたに会おう。

 

とか

 

私たちの正義と不正の観念を超えて、

そこには野原がある。

そこであなたに会おう。

 

とか

 

「正しさと誤り」とか

「善行と悪行」とか

「正義と不正」とか訳された

right and wrong」は

ルーミー自身の言葉では

 iman (「宗教」)と kufr (「不信仰」)だったらしい

単なる生活上の「いい/悪い」や

人づきあい上の「いい/悪い」ではなくて

命がけの宗教上の

right and wrong」を

ルーミーは取り上げたのだろう

 

とすれば

こんなふうに

訳しておきたくなる


 

信じるとか

信じないとか

超えていこうよ

 

超えていけば

むこうには

フィールドがひとつ

 

会うのは

そこで

 

そこで会おうよ

 


俳優のブラッド・ピットが

右腕に

ルーミーの詩のひとつを

タトゥーしている

というのは

有名な話

 

タトゥーしなくても

イスラム神秘主義の大詩人の言葉は

こころの肌に

たましいの肉に

容易に刻まれるだろう

 

ルーミーの詩を

翻訳から翻訳を経由して

いくつか

見直しておこう

 

いつかペルシア語で

ルーミーの詩を読む日へと

ペルシア語習得に怠けがちな自分を

向かわせながら

 

 

わたしが生まれた場所は場所がないところ

わたしの印は印を持たず与えること

わたしの口や耳や目や鼻を見ているとあなたは言うが

それらはわたしのものではない

わたしは生命の生命

わたしはあの猫やこの石

誰でもないんだよ

二元性を古い雑巾のように

わたしは捨て去ったんだ

すべての時代と世界を

ひとつのものとして

ひとつのものとして

つねにひとつのものとして

わたしは見ているんだ

知っているんだ

 

                            

 

 

何千ものわたしの顔に会うために

世界をさまようわたし

いちばん汚れた草さえもが

わたしの肌にきらめく陽光を受けとめる

わたしはこの流れのなかに立ち

ああ、こうしている今が自分自身だ!

と笑っている

 

                           

 

 

あなたは

あなたの手でわたしの人生を掴んで

永遠の心という

荒々しい岩の上で

それをきれいにすっかり打ち砕いてしまった

血が流れ切って

わたしの人生が白くなってしまうまで!

あなたは微笑んで座っているばかり

わたしはといえば

あなたの太陽の下で乾いていくばかり

 

                           

 

 

もし地獄で

あなたの髪の毛の一房でも掴むことができたら

わたしは思うだろう

天国の聖人たち

苦々しく思うだろうなと

 






pratitya-samutpada すなわち依存性(縁起)

 

 

 

 

もし本性というものがないならば

変化というものは何ものの変化であろうか?

ナーガールジュナ 『中論』15・9

 

 

 

 

 

ナーガールジュナの『中論』の最初にあるのは

次のような礼拝の詩頌で

仏教哲学内の者にふさわしく

たしかに彼はブッダに対して礼拝しているのだが

ブッダのどの点に重点を置いて

崇敬しているのか

確認しておくべきだろう

 

pratitya-samutpada

すなわち依存性(縁起)。

これは

滅しもせず

生じもせず

断絶もせず

恒常でもなく

単一でもなく

複数でもなく

来ることもなく

去ることもない。

こうしたpratitya-samutpada

すなわち依存性(縁起)は

言葉の虚構を超越し

至福なるものだ

とブッダは説いた。

説法者の中の最上の人

ブッダに

私は礼拝する。

 

言葉の虚構性批判を旨とし

そうした言葉の虚構性による思惟を批判した

ナーガールジュナは

『中論』の第18章の5,7,9では

このようにも語る

 

行為と煩悩の止滅によって解脱がある。

行為と煩悩は思惟から生じる。

それらは言葉の虚構による。

言葉の虚構は空性によって滅せられる。

 

心の対象が止滅する時には

言葉の対象は止息する。

ものの本性は

涅槃のように

生じたものでもなければ

滅したものでもないからである。

 

他のものを通して知られることなく

静寂で

言葉の虚構によって論じられることなく

思惟を離れて

種々性を超える。

これが真実のかたちである。

 

虚構である言葉によっては

知られ得ず

言葉の虚構性によってのみ発生する思惟によっても

もちろん知られ得ず

行為と煩悩の界である現象界の

ありとあらゆる

さまざまなものを超えている

「真実のかたち」に触れ

帰り

浸り

成るには

成り直すには

現象界にあっては

虚構である言葉に虚構を以て対し

言葉の虚構性に依拠する思惟に言葉の虚構性を向かわせ

行為と煩悩の界に意図的な行為と煩悩を重ね

ぶつけていくことで

その界のシステムを中和させ

無化させていくべきだろう

 

これが言語表現の目的であり

極意であり

あらゆる行為の目的であり

極意でもある

 

 




2026年5月1日金曜日

大富豪になっても「家」や「屋根」や「壁」のしがらみに

 

 

 

 

「やなことばっかり」

         小津安二郎 『東京物語』(1953)

 

 

 

 

 

メラニア・トランプ自身が製作した

『メラニア』を

見たことがあった

https://www.youtube.com/watch?v=HaMqP3v9its

 

 

大富豪の妻になったモデルが

ふたたび

大統領の妻になっていく時を追った

ドキュメンタリー映画で

もちろん

計算づくの

トランプ広告映画だが

それでも

ふだんは見られない大富豪の生活環境が

認知戦の現場とはいえ

ちょっとでも見られ

つまらなくはなかった

 

しかし

なんと哀れな!

と思いもし

がっかりもさせられた

 

あれだけの有名人にして

あれだけの大富豪にして

なんと

いかに豪華で大きく快適であろうとも

「家」の中に暮らし

「屋根」の下に多くの時間を過ごし

「壁」に囲まれて存在している

だけの

ことだった!

 

トランプ程度の富裕さや

権力では

「家」や「屋根」や「壁」と無縁に存在することはできず

ましてや

「存在」「生存」「ある」から外れることも

できないのが

ありありと見えた

 

「家」の中に暮らすことはさびしい

「屋根」の下に雨雪を避けることはわびしい

「壁」で風から守られることはむなしい

 

大富豪になっても

「家」や「屋根」や「壁」のしがらみに囚われているのならば

大富豪になる意味はまったくない

 

アメリカの爆撃によって

イラン南部の女子小学校で殺された

168人の児童たちなら

すでに

「存在」「生存」「ある」から外れることができた

 

この世の至福は

「存在」「生存」「ある」から外れることに尽きる

 

もっとも

やがて襲いかかる

人界の

因縁の

縁起の

津波の揺れ戻しで

きっと

「存在」「生存」「ある」から外れることができるだろう

メラニアも

トランプも

 

思い出される

小津安二郎の『東京物語』の

終わりに近い部分の

紀子のせりふ

 

「やなことばっかり」



https://www.youtube.com/watch?v=R65wTHVUCGk

 

https://www.youtube.com/watch?v=O-Rli20oPO8

 

https://www.youtube.com/watch?v=1RV-bnqQdPw&t=570s

 

https://www.youtube.com/watch?v=hOcA2eV6WCg&t=5870s