2026年8月23日日曜日

さらにさらにさらに若い人たちのために


 

 

老年は、皮相的な人生観のすべてに対する恐るべき判決である。

カール・ヒルティ(Carl Hilty)『幸福論』

 

 

 

 

 

ものを書くことにも

書かれたものにも

じつは

それほど価値はない

じつは

ぜんぜん価値はない

と思っている人間がわたしなので

そこらへんのことについて

なにかを論じたいとか

議論したいとかは

まったく思わない

 

けれども

だれのために書くのか?

ということについて

いろいろ論じる人たちを

たまに

目にすると

馬鹿じゃないのか?

と思う

 

ものを書く

言葉で書く

誰のために?

 

それは

(不幸にも)これから世の中に出て来る

若い人たちのために

でしかない

 

若い人たちのために

さらに若い人たちのために

さらにさらに若い人たちのために

さらにさらにさらに若い人たちのために

 

これは

なにかホワンと明るい

夢のようなことを言おうとしているのではない

もの書きや

しゃべる仕事の人たちが

なにかというと話にまぶしてくる

そこはかとない希望や期待の風味づけ

なのでは

ない

 

電化製品の説明文や

保険関係の免責箇条書きや

行政のわかりづらい注意指示文などでなく

あってもなくてもいいものの代表格のような詩歌や

ほかの文芸的なものや

学術的なものや芸術関係のものなどは

ひたすら

事実として

現実的な条件から

若い人たちのために

さらに若い人たちのために

さらにさらに若い人たちのために

さらにさらにさらに若い人たちのために

のみ書かれる

 

なぜかといえば

それらが伝える内容自体が

中年以降の人間の興味から外れるからでもあるが

それよりも

中年以降の人間がものを読む際の忍耐力の急速な減少や

人により発生ぐあいはさまざまでもあるが

老眼の発生と進行によって

どうしても読まないといけない文書以外は

おのずと読書対象から除外されるからでもある

 

どうして

若者とくらべて

はるかに多くの複雑な問題を抱えていく

中年以降の人びとを扱った小説や詩歌が少ないのか?

高齢者ともなれば

生きていることそのものが複雑系であり

存在自体が奇観でもあれば危機でもあって

かつてトム・クランシー(Tom Clancy, Jr.)が書いた政治スリラー小説

Clear and Present Danger(1989)の日本語訳

『いま、そこにある危機』や

この小説を元にしたハリソン・フォード主演のハリウッド映画の

Clear and Present Danger(1994)の日本語訳

『今そこにある危機』そのものが

高齢者というものの日々の生活であり内面生活であるというのに

目がしょぼしょぼして読書どころではないし

しっかり描き込まれた長い本を読む忍耐力が消滅してしまっていて

肝心の高齢者たちは

小説や詩歌やほかの形体の本が

どれほど自分たちのことを扱ってくれていても読まない

もう高齢者相手では

執筆業も出版業も商売にならないのだ

https://www.youtube.com/watch?v=JjsN_yJJ3vw

 

それでも

なにやかやと書きたい病の人種はいるもので

なにやかやと彼らは書こうとするのだが

現実問題として

高齢者は読まないのだし

中年もまた

一日の仕事をなんとか終えた夜には

スーパードライやキリンラガーや晴れ風や

もうちょっと安く抑えたい向きなら淡麗とかトップバリューのビールとか

ちょっと贅沢したい向きならエビスビールとか

あるいはあちこちの地ビールやベルギービールなど飲みながら

身体に悪い揚げ物や焼き鳥を食べて

ぼんやりした頭で眠りに向かっていくばかりで

しちめんどくさい小説など

とてもではないが読むどころじゃない

 

これにくらべて

若い人たちは

起きれば不安や苦悩や悩みや落胆

寝ても不安や苦悩や悩みや落胆

ついでに悪夢

とくるので

この世にあるということについて

社会にあるということについて

言語的にヒントを探しまわっている脳状態につねにある

そういうところへ

小説だの詩歌だのを投げ込んでやると

腹を空かせた小魚さながら

鼻先にチュールを出された猫さながら

ガブッと噛みついてくる

という仕儀

 

なので

現実問題として

厳粛なる事実として

社会における人間の身体条件と心理条件から来る必然として

誰かなんと言おうと

言葉は

文は

若い人たちのために

さらに若い人たちのために

さらにさらに若い人たちのために

さらにさらにさらに若い人たちのために

のみ書かれる

 

 

 

 

2026年8月22日土曜日

たゆたえども沈まず

 

 

    ノラもまた考えた。

    廊下へ出てうしろの扉をばたんとしめたときに考えた。

    帰ろうかしら。

           太宰治『晩年』(1936)

 

 

  

言葉というのは

しっかりとコントロール下におくべきだ

と考える人がいる

 

ものを書く人や

知性や理性に秀でていると見せたい人や

ちょっと上等の部類に属していると気取りたい人には

そう考える人が多い

 

そういう人たちが書いたものや

しゃべった話が

それではすごく面白いか

すばらしいか

感動的か

よく切れる刀のように研ぎ澄まされて

こちらの精神を

キリッとさせてくれるか

といえば

意外とそうでもないのを

さんざん経験してきているので

言葉コントロール主義も

まあ

そこそこにしておいたほうがいいと

経験上

思ったりする

 

しっかり言葉をコントロールできた

と名声の高かった作家たちも

時代が経ってみると

コントロールした言葉づかいが古びてしまって

味があるとか

冴えているとか

キリッとしているとかいう以前に

もう埃臭くって

キリッと感を味わうよりも

ちょっと距離を取りたくなったりする

数十年や百年程度で

こんな古びた印象を生むようになってしまうのなら

生きているあいだ

ヘンなコントロール主義に固執しないで

もっと思いつくままに

生き生きと

無責任にいい加減に

時にはダラダラと書いてくれたほうが

よっぽど面白かったのに

と残念に思ったりする

 

ちょっと昔

キリッと派の代表格だった志賀直哉や

削ぎ落とし派の代表格だった川端康成には

ダラダラ饒舌体の太宰治は

ずいぶんと軽蔑されたらしいけれど

現代において彼らの文章を見直してみると

太宰の言葉のほうが生き生きと動き続けていて

どう見ても勝ちである

 

言葉というのは

うまくコントロールしよう

しよう

としながら

うまくコントロールできないで

蛇行したり

迂回したり

ぐるぐる同じ場所に

くり返し戻ったりしながら

乱気流に飲まれた飛行機のように

なさけない酩酊ぶりに陥るのも

言葉を使う時の愉しみのひとつなので

そんな言葉酔いを

たびたび受け入れて

おっと

墜落!

というところで

急に

ヒョイと機体を立ち戻す

ということで

べつにかまわないと思う

 

パリ市の紋章の銘の

 

たゆたえども沈まず

Fluctuat nec mergitur

 

という言葉は有名だが

これは

言葉を使ってしゃべったり

書いたりする時の

極意のようなものにも思える

 

 

 

2026年8月21日金曜日

『ゴジラvs原節子 Tokyoの大決闘』


 

 

ひさしぶりに

本多猪四郎監督の

というより

むしろ円谷英二の特撮による

というべき

『ゴジラ』(1954)を思い出してみた

 

あの暗い映画は

大人になって見てみると

子ども向きの怪獣映画だというのに

人間のどうしようもなさをなかなか鋭く抉っていて

けっこう大した挑戦をしていた

とわかる

 

それでも

わざわざ映画に貴重な人生時間を費やす時に

わたしが見たいと望むような

映像の美しさや展開の奇想天外の面白さがまったくないので

『ゴジラ』が好きかどうかと問われれば

「べつに」

と答えるほかない

 

あの後もたくさんゴジラ・シリーズは作られ

円谷英二の特撮は

子どもの頃には面白がったものだが

大人になってみれば

「べつに」

としか反応のしようがない

 

近年に作られたゴジラ映画のあれこれの

あのレベルの低さは

もうどうしようもないもので

特撮だのCGだのの技術は進んだとしても

肝心のストーリーが下らな過ぎるし

登場人物たちの人間としての設定がダメ過ぎて

大人が二時間ほどかけてつき合うようなものではない

 

ああいう映画が公開される時には

映画会社が金をかけて大宣伝をするし

映画評論家だのタレントだのが

しっかり裏金をもらって褒め称えるので

なんだかすごい映画ができたかのように見えるが

結局は大がかりな宣伝の渦がまわっているだけなので

実際に見てみると

なんだ、これは?

というひどいものが多い

 

ひどいといえば

ひと頃話題になっていた歌舞伎を扱った映画『国宝』は

あれは本当にひどかった

テレビでもSNSでも

どこのタレントも映画評論家も俳優たちも

みんなこぞって褒めているし

制作にも手間暇かけて大変なものが出来た

というような世論づくりがなされ続けたので

歌舞伎の好きなわたしもちょっと期待したものだったが

実際に見てみると

昔懐かしい昭和やくざ映画路線臭い画面の雰囲気で

人物たちの心情がどれもこれも古臭く

ストーリー展開も予想通りにしか進まず意外性がまったくなく

だいたいふたりの主要人物を演じる役者の演技が

いい悪いではなしにまったく歌舞伎役者っぽくなくて

よくもまあ監督はこんな演技と撮り方を許したもんだな

と驚き呆れて40分あたりからもう馬鹿らしくなった

 

歌舞伎がまさに他のなにものでもなく歌舞伎である本質は

舞台の上での演技の際の

あのあっけらかんとした不自然さと

生身の人間が演じている感じの希薄さにこそある

役者の人となりや人生や思想や感情などまったく必要ない

物語世界にしかいない非現実的な架空の人物を

役者はけっして自分の中に取り込まずに

よそよそしく外面的にのみ演じてこその歌舞伎であって

俳優と役柄とがぴったり合ってしまっては歌舞伎ではなくなる

舞台の上でただ役柄だけがみごとに存在してくれればいいので

人間としての俳優などどうでもいいのだ

『国宝』という映画はここのところがまるでダメだった

ふたりの映画俳優が極限まで歌舞伎俳優のように演じようとするのを

えんえんと二時間ほど撮ったもののほうが

よほど面白くなったはずだろう

 

ゴジラに話を戻すと

昨今の下らなすぎるゴジラ映画の枠を飛び出して

山田風太郎に負けないような

なんとかブッ飛んだ面白さを獲得できるような発想はないものか

とつらつら考えるうちに

そうだ!

ほとんど時を同じくして制作されていた『東京物語』(1953)から

あの大女優・原節子を借りてきて

そうして東京に上陸してくるゴジラと戦わせたら

これは面白いものができるにちがいない

と思いついた

 

原節子が巨大化して

首都東京でゴジラを迎えて

イップマン顔負けの大取り組みを行うのだ

 

名づけて

『ゴジラvs原節子 Tokyoの大決闘』

どうだ?

 

「これ、ミリオン、行くかも」

という

石井克人のあの至上の名作映画『茶の味』(2004)

武田真治のセリフが

震えるほど幸福に異常な

忘れがたい聖なる「山の歌」とともに

響いてくるような気がする

 

 

  

 

The Taste of Tea (茶の味)Trailer

https://www.youtube.com/watch?v=Da6FJH7IkNA

 

The Taste of Tea (2004)- Mountain Song (HD)

https://www.youtube.com/watch?v=rc_mYd5VFYE

 

茶の味 三角形 Triangle Song

https://www.youtube.com/watch?v=mIVcyCVktSs

 

 


好奇神

 


 

好奇心がわたしの神

 

好奇神

と書き換えてもいいし

もっと俗に

野次馬根性と呼んでもいい

 

それがわたしの神

 

好奇心を神とする者は

世界の

あらゆる境界線を超える

無効化する

 

好奇心はキリストを超え

ブッダを超え

マホメットを超え

モーゼもアブラハムも超える

面白いもの好きでは人後に落ちない

あのサタンやベルゼブブや

ルシファーや

バフォメットや

メフィストフェレスも超える

 

好奇心の神のもとには

誰でもが平等に

活力に満ちて

好奇の目をらんらんと輝かせて

つねに集い

うごめき

俗語・卑語・ナンセンス・専門語・皮肉・ユーモア・批判まで

あらゆる単語や表現や口調をひっくるめ

思念と言語と無言としぐさと無為の共演を

くり広げ続けている

 

堅苦しい信仰の儀式など

好奇神には不要

 

手をあわせたり

心を静めたりしての祈りも不要

 

好奇神は

人間心理や気分や精神のなによりも強いので

いつも勝手に

知らぬ間にこちらの奥に入り込んでくる

 

なすべきは

好奇神の導きに

ただ

従うこと

 

そうすれば

たちまちのうちに

心身快適になり

子犬や子猫や子ネズミのように

心も精神もからだも

四方八方にかけまわり出す

 

 


吾輩は助詞不要論者であるので


 

 

日本語における

文体の違い。

 

ほとんどは下らない。

 

発話者の主語を明記するか、しないか。

これで第一段階の差が決まり、

第二段階の差は、発話者の主語代名詞として

「私」

「わたし」

「わたくし」

「僕」

「ぼく」

「あたし」

「あたくし」

「俺」

「おれ」

「あいら」

「わっち」

「わっちら」

「吾輩」

「余」

などのどれを選択するかで決まる。

 

(日本語の場合、

「私」と「わたし」や

「僕」と「ぼく」の間には

かなりの違いがある。

これには

注意しておく必要がある。

漢字を用いるか、

ひらがなで表わすか、

この間には精神上の深い裂け目がある。

「ワタシ」や「ボク」を使う人が

意外と少ないのも

おおいに注目に値する。)

 

(カエサルが

主語を「私」という代名詞にせずに

カエサルという固有名詞にしたように

日本語でも発話者の固有名詞を用いることは可能だろうが

自分の行為を自分の固有名詞を主語に用いて語るのは

精神的に問題のあるケースもある。)

 

主語にどの単語を用いるかで

作文の雰囲気は大きく変わることになり

どれかを選んで文の流れを起動させた時点で

選んだ単語に帯びさせられている色合いや

歴史や力に乗ることで文はおのずと推進されていく

 

さて。

 

日本語は作文の際に

主語を語らないことが好まれる言語でもあるので

いずれの主語代名詞も

発話者を指すものとして選ばれないことも多い。

 

夕方になって、私は散歩に出た。

 

夕方になって、散歩に出た。

 

これらのどちらにすべきか

と考える時

後者のほうはよりよい文体として

優先されがちではある。

 

少なくとも

谷崎潤一郎の 『文章読本』ではそうだったし

それを継いだ丸谷才一の『文章読本』でも

同じ方向を勧めていた

 

これに反旗を翻したのは村上春樹で

翻訳文体よろしく

あらずもがなの主語代名詞による発話者明示を

たくさんまき散らすことになった。

 

夕方になって、散歩に出た。

 

だけでいいところを

 

夕方になって、私は散歩に出た。

 

夕方になって、わたしは散歩に出た。

 

夕方になって、わたくしは散歩に出た。

 

夕方になって、僕は散歩に出た。

 

夕方になって、ぼくは散歩に出た。

 

夕方になって、あたしは散歩に出た。

 

夕方になって、俺は散歩に出た。

 

夕方になって、おれは散歩に出た。

 

夕方になって、ボクは散歩に出た。

 

夕方になって、ワタシは散歩に出た。

 

などなど

二字から三字、四字ぐらい増しが

平気で行われるようになってきたのが

昭和後期から平成、令和にかけての文体の

つかの間の流行であった。

 

まっことに下らない。

 

下らないこと

この上ない。

 

吾輩は助詞不要論者であるので

 

夕方、吾輩散歩出た。

 

でいいじゃないか?

と思う。

 

「吾輩」でなくても

もちろん

 

夕方、私散歩出た。

 

夕方、僕散歩出た。

 

夕方、わたし散歩出た。

 

夕方、ぼく散歩出た。

 

などでいい。

 

さらには

 

夕方私散歩。

 

夕方僕散歩。

 

夕方わたし散歩。

 

夕方ぼく散歩。

 

などで十分であり

このくらいに至ってはじめて

日本語は効率的に時短に躍動しはじめる

と感じる。

 

助詞ばかりでなく

助動詞も極力使わない方向で

未来の日本語を引き締めて磨き上げていきたいもの

と思う。