2026年9月4日金曜日

「きのうの夢のつづきを話してくれる」人よ!


 

 

子どもたちに

長いこと

国語を教えて生きていた頃

 

小学生むきの教材に

高田敏子の「忘れもの」が

載っていた

 


忘れもの   高田敏子

 

入道雲にのって
夏休みはいってしまった
「サヨナラ」のかわりに
素晴らしい夕立をふりまいて

 

けさ 空はまっさお
木々の葉の一枚一枚が
あたらしい光とあいさつをかわしている

 

だがキミ! 夏休みよ
もう一度 もどってこないかな
忘れものをとりにさ

 

迷子のセミ
さびしそうな麦わら帽子
それから ぼくの耳に
くっついて離れない波の音

 

 

ボードレールや

ランボーや

ディラン・トマスや

エリオットや

ヴァレリーや

イエーツや

マラルメなどに

没頭沈酔していたので

この詩は

なんと安易なB級詩だろう

と思えた

 

「だがキミ!」の

このカタカナ書きはなんだ!

 

夏休みが終わっても

入道雲は出るし

夕立だって

九月も降り続ける

 

「けさ 空はまっさお

木々の葉の一枚一枚が

あたらしい光とあいさつをかわしている」

というところは

五月頃の初夏の到来にこそ

ふさわしいが

惜しまれる夏休みの終わりには

ちょっとズレている

 

「さびしそうな麦わら帽子」なんて

どうしようもなく俗だし

「ぼくの耳に

くっついて離れない波の音」も

まるで少年読み物の

どこかの

作者がちからを抜いた一節

 

こんなのを書いて

詩でござい!

と言っている連中がいるんだなあ

と断じて

ひどい詩の例のひとつに

「忘れもの」を

入れておいていた

 

けれども

あの時代

この時代

と経ていくうち

ときどき

この詩は思い出される

他の詩よりも

思い出したくなる

 

やさしく

読みやすいというのも

あるだろうし

誰もが子ども時代に思うことが

うまく散らされていて

印象に残る

ため

だろうか?

 

たぶん第一連の

「夏休みはいってしまった」や

第三連の

「夏休みよ もう一度 もどってこないかな」

あたりの

シンプルな小学生的実感が

大人になっても

いや

大人になるほど

懐かしく

強く

響き戻ってくる

から

か?

 

いまでは

いい詩

よくない詩

などと評するのを

すっかり止めてしまっているので

どんな詩も

楽しい一行があればよく

うれしい一語があればいい

 

なので

高田敏子は懐かしい詩人だし

「忘れもの」も

思い出すたび

「そうだよなあ…」と思わせられる

うれしい詩となっている

 

そして

また

「どうだ、わからないだろう?」

「どうだ、窮極だろう?」

「どうだ、日常のドンクサイ生活を超えてるだろう?」

ばかりを

キリキリと目指した

翻訳文体型思考学生たちの現代詩から

生活の必然によって

おのずと距離を取らされて

主婦として

母として

働く女として

日常語で

わかりやすい詩を書こうとした高田敏子には

いよいよ現代

ちゃんと向き直して

彼女からの表現の可能性を引き出したい

とも思う

 

 

 

1914年に東京の日本橋の陶磁器卸売商の家に生まれ

江戸っ子気質で料理嫌い

しかし針仕事が大好きな母に育てられ

高田敏子は幼い頃から和裁の腕を磨いたという

父は浅草のオペラに連れていってくれたり

カフェや町歩きに連れていってくれたりしたそうだが

敏子15歳の時に脳溢血で急逝してしまう

母も精神を病むようになって

女学校の頃に彼女は詩歌に逢着することになる

詩歌というものが

「生への引き止め役」になったのらしい

 

20歳の時に

肉親たちに進められて気乗りのしない結婚をし

商事会社勤務の夫と1930年代の旧満州のハルビンへ赴き

長女を出産したが

夫は接待の麻雀などで忙しく

敏子は洋裁に没頭して腕を磨いていくことになる

1937年に盧溝橋事件が起こり

夫の新しい任地の天津では国防婦人会で働いたり

臨時野戦病院で負傷兵の看護をしたりする

 

1939年に一時帰国して次女の喜佐を出産し

大阪で洋裁学校へ通った

 

1942年に夫が台湾の高雄に赴任となり

ともに台湾に渡って

そこで長男を出産するが

爆撃を受けるような日々となって

終戦までをこの異郷の島で暮らすことになる

この時のことを

高田敏子はこう記している

 

生きていけないような戦争のなかで、

生きていることができたのは、

防空壕を出たときの一瞬の花の匂い、

子どもたちが『お母さん』と呼びかける声、

そのようなものに元気づけられていたのだろう。

私たちはこわい瞬間の後にも喜びを吸収している。

それが人間の生命力だと思う。

 

1946年に東京に戻り

杉並にいた母の家で狭い借間暮らしをするが

三人の子を抱えての

たいへんな食糧難だった

夫は家のことを省みなかったし

こころは通いあわなかったし

子らとは諍いが絶えず

平穏や愛情ややさしさと異なる感情に

こころはつねに揺らされていた

なんとか古道具屋で

ミシンと姿見を買い求め

洋裁の内職を始めたが

同じ頃

書店で見つけた雑誌「若草」に出会い

詩作も再開した

 

また詩を書くようになったのは

 

家庭生活のほかに何か一つ、

自分だけのものをもちたくなったから

 

と書いているが

現代詩のグループに入ってみて

「お母さん」でも「奥さん」でもなく

「高田さん」と呼ばれたことが

とても新鮮で

うれしかったという

 

洋裁の仕事を続けつつ

近所の主婦に洋裁を教えたりもして

他方

敏子は詩作を続けていった

しかし

現代詩のモダニズムの方法に疲れ

グループから離れることになる

 

現代詩はこう書かなくてはいけないのだ

という思いこみに縛られ、

息苦しくもなっていました

 

「日本未来派」の同人になったり

他の同人誌を作ったりして

違うかたちの詩作を

探っていくことになった

 

この頃

ひどい体調不良に襲われ

手足のしびれや

突然の高熱

歩行困難などに苛まれるが

脊髄腫瘍と判明する

しかし

手術が成功して

1959年には健康を取り戻した

 

高田敏子は

詩人としては

ほとんど無名だったのに

この頃に

ちょうど朝日新聞から依頼が来て

毎月曜日の夕刊に詩を載せるのを頼まれた

 

本当の詩をお書きになりたいでしょうが、

主婦層を対象に誰でもわかるやさしい、

いわゆる詩人の詩でない詩を書いて下さい

 

これは

当時の朝日新聞のデスクの

冴えた以来だった

というべき

だろう

 

自分も平凡な主婦なのに、

そのことに気づかなかったのが恥ずかしい

 

高田敏子自身も

のちに

書いている

わかりやすい

簡単な言葉で詩を書くひと

としての

高田敏子の出発は

ここから始まった

といえる

 

時代は

安保闘争などで混乱しており

そのなかで

あえて

難しい表現や

高踏な詩的修飾の追求を捨て

主婦として

平易な言葉で書いていく連載は

家庭にある女性や

働く女性たちに支持された

 

私たちの毎日は、

心配ごとや疲れること、悲しい思いをすることが

ずいぶん多い。

でもなお生きつづけていられるのは何かしら、と思うのだ。

それは日常の草むらにかくれている小さな歓び、自然の優しさ、

そして、ひそやかな愛の息づきなのではないだろうか。

私はそれらをテーマにしたいと思った。

 

いわゆる詩壇では

高田敏子の評価はずいぶん低かったが

彼女の詩に出会って「詩人ではない詩人」となった

多くの人たちからの問合せが殺到し

高田敏子は「野火の会」を結成して

誰でも入ることのできる詩誌「野火」を

1966年に創刊する

「野火の会」は

800人前後の会員を持つことになったが

高田敏子は会員たちの詩集の編集も装幀も序文なども

すべて自分で行ったという

もちろん

彼女自身の詩作も出版も精力的に行われた

 

他方で

高田敏子は夫との協議離婚を遂げた

同居し続けたが

「父が無意識のうちに負わした母の心の傷の癒しは、難しいと思った」

と長女が語るような深い理由があって

敏子はそれに対し素直に行動したといえよう

 

夫を見送って

四年後

胃の不調と疲労感を覚え

ガンが発見される

胃の全摘手術を受けたが手術は成功し

回復の経過も悪くなく

活動は開始されたが

痛みは続き

杖を使っての歩行となった

 

一年四ヶ月後

腹部全体にガンが広がっているのがわかり

体力の衰えが募って

1989年5月28日に

高田敏子は

74歳8ヶ月で死去した

 

高田敏子は

「詩人」と呼ばれることを終生恥じた

というが

机に向かって

難しそうな言葉の弄くりかたをせず

むしろ

主婦として

あかるく振る舞い続けた

ともいう

 

ランボーが

20歳で詩作を捨て

パリの詩人たちを見捨てて

アフリカや中近東に

商人として出発して消え失せたのを思い出せば

詩人っぽくしないことは

じつは19世紀からすでに

詩人の格好つけのひとつでもあったのだから

高田敏子もけっこうランボーだった

と見直しておいてもよい

 

詩人っぽくしないことの恰好よさは

やる人が増えてくれば

すぐに反転して

今度はいかにも詩人たるべく

万巻の書の中に埋もれて

言葉に沈潜するボルヘス型も復活してくるのが

世の文学史というものでもある

 

ともあれ

彼女のこんな言葉は

やはり

新鮮であり続けるだろう

 

    生きることに馴れず、

おそれと、よろこびを持って

日々を受けとめてゆく心が「青春」なのでしょう。

私はいま自分のしていることの一つひとつを思ってみると、

青春時代の夢につながります。

いまになって、青春を生きている思いなのです。

 

和裁や洋裁に秀でた高田敏子のセンスは

次女の喜佐に受け継がれたらしく

この次女・高田喜佐は

のちに靴デザイナーとなって

オリジナルブランドKISSAを立ち上げることになる

エッセイストともなったが

母の死から17年経った後

2006年に

肝内胆管ガンで64歳で亡くなったそうな

 

https://www.shiho-tax.com/kissa-sport-revival/

 

https://croissant-online.jp/health/173781/

 

 

 

最後にもうひとつ

高田敏子の詩を見ておこう

死ぬ3年前

71歳の時のもの

 

 

子どもによせるソネット

 


真昼の空にも星のあることを

おとなたちは忘れてしまった

風の中に小人が眠っている姿も

もうおとなたちは見えなくなった

 

花は花であり

雲は雲でしかなくて

花びらのなかに眠ることも

雲に乗って走ることもできなくなった

 

そんなさびしいおとなたちのために

神さまは子どもたちをくださる

子どもはきのうの夢のつづきを話してくれる

 

そのやわらかな手のひらでおとなの心をあたため

その清らかなひとみのひかりで

さびしいおとなたちの目を洗ってくれる 
 

 

 

ソネット形式で書かれている

ことに

ちょっと

驚いてしまう

 

内容はずいぶん真面目なようだが

ソネット形式を使ったところに

高田敏子のいたずらっぽさがあるように

感じる

 

ともあれ

「子どもはきのうの夢のつづきを話してくれる」

いい

 

実際には

子どもはほとんど

「きのうの夢のつづきを話してくれる」ことはなく

きょうの夢や

さっき見た夢しか

話してくれない

 

じつは

さっき見た夢さえ

子どもには

どうでもいいことが多い

いま見えているものが

子どもには

みんな

夢だから

 

だから

「子どもはきのうの夢のつづきを話してくれる」

というのは

高田敏子ならではの

フィクション

 

「きのうの夢のつづきを話してくれる」人よ!

もっと

もっと

多くなって!

 

そうして

「きのうの夢のつづきを話してくれる」人に

なろう!

 

みんなで!

 

もっと!もっと!

 

という

呼びかけ

なのだ

 

 


2026年9月3日木曜日

ことばに出会うのが


 

 

ことばに出会うのが

ぼくの旅であったから

どこにも

もう

行かないでよい

 

うつくしい

はずであった

この星の

うえで

 

なつかしく

慕わしい人ばかりの

はずだった

人間たちの世で

 

 

 


時間の流沙よ 幸福に祝福された建物でさえ



 

 

主はこう言われる。

わたしは、あなたの若いときの真心、

花嫁のときの愛、

種蒔かれぬ地、荒れ野での従順を思い起こす。

エレミヤ書 2-2

 

 

 

 

 

リルケ(Rainer Maria Rilke)

詩の

むかし

読んだ日本語訳を

読むことは

すごく若かった頃のじぶんのこころに

会い直すこと

 

まだ

じぶんのこころを掴むのに

まったく

言葉を

持ちあわせていなかった頃の

じぶんのこころに

 

たとえば

あの有名な短詩

薔薇 おお 純粋な矛盾

(Rose, oh, reiner Widerspruch)

富士川英郎の

訳で

 

 

 薔薇 おお 純粋な矛盾 よろこびよ

 このようにおびただしい瞼の奥で なにびとの眠りでもない

 という

 

 

また

心の頂きにさらされて

(Ausgesetzt auf den Bergen des Herzens)

これも

富士川英郎の

訳で

 

 

 心の頂きにさらされて 見よ あそこになんと小さく

 言葉の最後の村落が それからもっと高いところに

 これもまたなんと小さく 感情の

 最後の農園が お前にそれが見えるか

 心の頂きにさらされて?ーー手の下の

 岩地 ここではたぶん

 二、三の花が咲く 無言の絶壁から

 一本の無意識な草花が歌いながら咲いて出る

 けれども知る者は? ああ 知りはじめ

 そしていま沈黙する者は一―心の頂きにさらされて?

 ここではたぶん すこやかな意識をもった

 多くの動物が 多くの確かな山の獣が

 徘徊し 出没する そして純粋拒否の頂きをめぐって

 大きな 憂いを知らぬ鳥が飛んでいるーーああしかし

 うち捨てられた者はーーここの心の頂きのうえに?……



ドイツ語など

まったくわからぬ

十代の

わかいわかい日本人が

これらを読んで

なぜともわからず

こころを昂ぶらせて

はじめて

リルケという名を

まだ魂というほど奥底ではなくとも

こころの

ずいぶん深いところに

刻んで

なにか大変なものに触れた

と信じ

この大変なものを

まわりの人にも知らせたいと

あわてるような気に

なって

 

そんな頃の

じぶんのこころに

会い直すこと

 

ごくわずかの

友と

(その頃は「友」と思っていた

それゆえに

それだけのゆえに

「友」であった

「友」と)

「いいね、リルケ」

「リルケは、いいね」

などと

宙に

言葉を浮かして

みていた

頃の

じぶんのこころに

 

まだ

この詩などは

それほど

切実には読んでいなかった

小さな夢のような

やわらかく愚かであった

頃の

じぶんのこころに

 


  無常 (Vergänglichkeit)


 時間の流沙よ 幸福に祝福された建物でさえ

 静かに 絶え間なく 消え去っていく

 ああ いつも吹き流れていく人生よ 早くもばらばらに聳え立っている

 もはや屋根を戴いていない円柱よ


 けれども没落 それはもっと悲しいものだろうか ほのかな光を

 降りそそぎながら 水の鏡に落ちてくる噴水の落下より?

 ああ 私たちは無常の歯の間にはさまれていよう

 その静観の表情のなかに私たちがまったく溶けこむように

 

                        (富士川英郎訳)