2013年7月16日火曜日

あたまのよしあしについて少し考える






あたまの良し悪しをうんぬんしてもむなしい
あることにあたまを使い続けて専門家になっても
そのことの専門家になった分だけ
ほかのあれこれについての無知はひどくなる
あることについて使い続けたあたまがよくなったとはいえ
ほかのあれこれにも十分にあたまを使う時間と力はないのだから
けっきょくのところせっかくのあたまのよさを
ほかのあれこれに十分に生かすことはこの世ではできない
いろいろなことにひろく役立つあたまのよさは
なにかひとつに打ち込んだあたまのよさではないから
なにかの専門家になるような時間の使い方をしてきてはいけないのだが
そういう一所集中をやってきたひとたちは
じぶんこそあたまがいいと自負しがちで
そうでないあたまの使い方をしてきたひとたちは
じぶんはべつにあたまがいいわけではないと思っている

他人にとって専門家のあたまのよさというのは
なにかで必要になればそれを発揮してもらうべく
お金を出してちゃんと頼めばいいようなあたまのよさで
毎日朝から晩まで身近にいてもらいたいようなものではない
なんの専門家でもないしあたまのよさを誇りもしないが
いろいろなことにひろく役立つあたまのよさを持つひとの場合は
しかしいつも身近にいてもらっていいようなあたまのよさで
ふつうの日々の生活にはこちらのほうが役に立つし
いっしょに身近にいてずいぶんと気持ちもいい
いっしょにいて気持ちがいいというのはだいじなことで
これ自体があたまのよさのいいあり方だと思うが
こういうひとはとにかくなにかの専門家ではないから
どこにいるのかいないのか電話帳でもネットでも調べようがない
ぐうぜん見つけたらそれこそメッケモノで
うまく関わっていけるようにだいじにつき合うに限る
そういうひとは急な入院の際にも適切な買い物をしてくれるし
どんな機械の専門家でもないのにちょうどいいパソコンを選んでくれる
あの医者とこの医者とを比べる時のアドバイスも適切だし
健康法に深入りしすぎるような場合にもそれとない注意をくれる

法的紛争の際にやり手だったひとが
なんでもない病気に驚くほど下手な対応しかできずに
ころりと死んでいったのも見たし
専門分野の臨床では腕のいい医師が
じぶんの家庭の内紛で身を持ち崩していったのも見た
博士号を持っている文学の先生なのに短歌ひとつ作れないひとも多いし
漱石や鴎外について独自の感想も持っていないことも多い
社会学のどこかの細かなことをうるさく言うわりには
ミクロ経済学もドラッガ―経営学も覗いたことさえなく
大仰な人生論をひろげて世間をごたいそうに批判する癖を持つわりには
どこでも目にするような季節季節の花の名前をまったく知らないひともいる

あたまがよくても悪くても
だれもがとにかく生きていくほかないのだから
じぶんのあたまがいいことに自負を持ったり
他人のあたまがじぶんより鈍いことを喜んだりごたごた言ったりするひとは
生きていかねばならない人類のひとりひとりに
しっかり対処しているとはとにかく言えない
じぶんよりあたまが悪そうに見えるのなら助けてやればいいのだか
そういう時にはじぶんのあたまのよさへの自負も役に立つだろう
役に立たないことを自我の称揚のためにやり続けるというのは
自我の用い方や時間やエネルギーの用い方の点で
あたまがひどく悪いということで
そんなことも即座にわからないひととつきあい続ければ
とにかくもろくなことにはならないことぐらい
ぼくのような愚か者にもよくわかっている
それがわかるぐらいには
ながく
ながく生きてきたのだからね

                                
   





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