講義のシラバスを書くのは面倒だが
まあしかたない
何年もトリュフォーを検討してきた映画講義では
ことしはゴダールを対象にする
「作風や映画観上の変貌を続けたゴダールは、
「突出した美しい映像的なセンスを持っていたにもかかわらず、
「ストーリーの故意の曖昧化や放棄や矛盾を多用し、
「映画の娯楽性ばかりか芸術性さえも否定し、
「 書物などからの多量の引用や政治的メッセージを撒き散らすなどし て、
「映画になにができるのか
「なにができないのかを追求しながら、
「縦横無尽に映像と音との混合物を作り続けた。
「映画に娯楽や美を求めがちなふつうの観客を
「徹底的に困惑させるゴダール作品は、
「一部のマニアや知的スノッブのためのカルト的作品群に
「なってしまった感もあるが、
「他人が製造した厖大なストーリーによって
「思考力の根源をあらかじめ侵食され、
「映画をはじめ視聴覚コンテンツの洪水の中で生きるのを
「万人が余儀なくされるようになってしまった現代にあっては、
「ゴダールが行った探求のひとつひとつは
「いっそう貴重な意味あいを帯びてきている。
「ゴダールを知らないか、 ほとんど意識しないで生きている若い世代に、
「とりあえずは、こんな映画をわざと作った監督がいた…
「と知ってもらいたい。
「そうして、
「映画≠ストーリー、
「映画≠映像、
「映画≠娯楽、
「映画≠美、
「映画≠…、
「というゴダールのこだわりに帯電してもらいつつ、
「高度に複雑化しすぎた汚辱と欺瞞の沼である現代社会の
「あらゆる事象に対して
「全身批評存在となる契機となってくれれば、と思う。
こんなふうに概要を作文していると
ああ
自分にとっては
詩歌≠ストーリー
詩歌≠映像
詩歌≠娯楽
詩歌≠美
詩歌≠言葉
詩歌≠…
でもあったなァと気づき直す
なにより
詩歌≠詩歌
詩歌≠現代詩
であったなァと
このあいだ来日していたル・クレジオが
安易にまた「記憶」と小説創作を結びつけていたが…
家系のストーリーの「記憶」の集積と滞留
それを書くことで…云々
家系ということなら
アニー・エルノーの扱い方と
目と
文と編集と
あの削ぎ落としの厳しさのほうが
衝撃的で
あんな薄い本ばかりなのに
ぞくぞくするような放射能を発している
翻訳ではだめなのだが
…だから
あんなにつまらなくなってしまったんだろう
大好きだったル・クレジオ
一九七五年までの奇跡的な反小説時代を樹立し
一九八〇年に変貌して「砂漠」を書きあげたものの
「黄金をさがして」や「ロドリゲス島への旅」…までで
終わってしまったル・クレジオ
おなじ思考法のなかをめぐるだけの
通俗小説家になってしまったル・クレジオ
「愛する大地」の頃の
前人未到の達成は
どこへ行ってしまったのか
ゴダールは
ことし八十四歳か
まだ
大丈夫かな
あたらしいものを
もう作らないとしても
公共放送や
自認知識人たちばかり集まる
キレイキレイの
講演会むきの
ブンカ的なお行儀のいいお話に
平然と収束してしまえるような思考に
陥ったりしては
いまいナ
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