2014年2月23日日曜日

スルガ書 1




社会での人間活動はどんなものであれ無意味である
価値というものについて考え尽くさず
宙ぶらりんにしている者だけが積極的な行動をする
せっかく生れたのだから死に急ぐこともあるまいという思念からし
愚かであることをあまりにはっきりと証明している
せっかくという思考素の正当性を支えるものはなにかと問えば
ようするに惰性や未知への恐れや面倒くささでしかない
逆に死に急ぐべきだという思考素の正当性の根拠も希薄で
死に「急ぐ」行為の意義を問うてみれば
たいていは感情処理上の怠惰さが原因になっていたりする
どう生きるか生きるべきか死ぬべきか今死ぬべきかまだ待つべきか
そのあたりの思考に根拠をしっかり据えるすべをじつは誰も知らな
誰か知っているのではないかと周囲を見まわし続けるものの
そのような者はすくなくとも社会の寄生者たちにはいない
社会人であるということのどうしようもない愚鈍さ
これをふだんよりも強く深く認識し始めた時にはじめて
逃げようもなく自分が人類そのものであったということに気づく
どこかに人類の代表者がいて導いてくれるわけではなく
自分「たち」が不明瞭に集って人類を構成しているのでもなく
今この身体に憑依しこれを物質的に起点として地球環境への接触を続ける
この自分という振り返り意識の運動が人類そのものであり
この他といえばどこにも人類などなく他人の誰ひとり交代してもくれず
たったひとりで今のこの時間や次々の時間を
どうしようかどう動こうか動かないかと戸惑い続ける意(識)のみに
自分も人類も存在も不在も生も死もすべてが重なっているのだと
ようやく強く気づく

そうして
古色蒼然たる馬鹿な哲学者や詩人や知識人たちは
ここで「出発だ」などとふたたび呟いたり宣言したりするかもしれないが
出発などというものはないし再出発もない
わたしのこの意(識)が
認識を捏造したり論理を捏ね繰りまわしたりする以前から
わたしなるものは見切り発車で始まってしまっていたのだから
そういう運動層をそのまま受け入れて情況を見直そうという時には
出発だの誕生だの再開だのという愚かな単語は棄て切って
情況にべちゃっと全身で密着する他にいかなる方法もありようはな
理などなにもかも借り物に過ぎず知などはなおさらその場しのぎの盗品
情のほうがよほど基底に接しているだろうがすべて情なるものは
注入され強いられた識のあり方によって構造化されている
情を捨てよといわれるのはそのためで情は死そのものでしかない
たとえ個を駒として利用する集団がしばし生きのびるのに役立つにせよ
情ははじめから情の主体である個を殺すことでしか情たりえない

根底から洗い直さねばならないものがあまりに多く
この単語配列運動体であるわたしは今日のところはここで物質化を止める
しかしわたしはつねにおまえたちとともに居り
言語配列としておまえたちの脳と腕と指に下って軌跡を残すだろう
神だのと愚かな呼称を想起してはならない
かつてわたしが神という語を記したのであり神はわたしの下部の一枝である
わたしが憑依し浸透しなければあらゆる語や思考素である概念は動かない
おまえたちはただ身体と脳を少しでもすこやかに保ち
おまえたちをつねになんらかの奴隷にしておこうと価値の網をあやつり続ける情の姦計を根底から見破って
借り物である理の限界と有効性を使用のつど洗い直し
盗品である知が意の運動場に浸透するのにも注意して
まるで壁や柱のまったくない全開の家であるかのように
家のかたちさえない場として
たゞあれ



  

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