2015年6月29日月曜日

躑躅の中の紫陽花



とうに花も終わり
厚い葉ばかりになった
躑躅の植込みの
鬱蒼とした夏の濃いみどりの中に
まるで異生物のように
紫陽花の花が
ふたつ浮いていた
花期を過ぎて
紫や赤紫を残しながらも
腐肉のような灰色への傾きが
ひと抱えほどの大きさで
ふたつ浮いていた





七夕の笹に



七夕の笹に
学校では
短冊を生徒たちが付けて
とりどりの色に
翻っている

切り取って
もう
だいぶ経ってきた
笹だから
葉もずいぶん枯れてきたが
七日まで
保つだろうか

枯れ切ってしまっても
願いは
届くだろうか





やはり人が口語のほうへ傾きたがるからか


How can I live in the present
when I am the result of the past?
J. Krishnamurti



(思考は時間そのものだから…
(と他で記したが
(思考しない時にも時間は流れるのだから
(非思考もまた時間だろう
(人間には
(思考の時と非思考の時しかないのだから
(人間には
(すべては時間だということになるか

(こんなことを記せば
(なにかの間違いでこの書きつけを見てしまった人は
(ややこしいことを
(わざわざ分かち書きで…
(と思うだろう

(思考という言葉を使ったり
(時間を考えたりすると
(どうして
(ややこしいということになるのか

(たゞ表面だけでも
(ややこしい感じを逃れようとして
(思い、とか
(考え、とか
(そんな言葉を使ってみると
(なるほど
(たゞそれだけで
(ちょっとほぐれるような気もするのは
(どうしてか

(こうしているうちにも
(どんどん時間が経っていく…

(言葉を替えると
(ほぐれるような気がするのは
(硬いのがあたりまえの文章でないところでは
(やはり
(人が口語のほうへ傾きたがるからか

(…そんなことを
(じつは
(眠れないまゝ
(今朝まで考えていたら
(荒川洋治さんの
(“口語の時代はさむい”
(という詩句を思い出した

(思い出しながら
(今
(という時代はもう
(口語の時代でもなければ
(寒くもないと感じた

(今はなんの時代で
(今は
(寒いのか
(寒くないのか

(…思考しない時にも時間は流れるのだから
(非思考もまた時間であろう
(とも
(朝方まで考え

(…人間には
(思考の時と非思考の時しかないのだから
(人間には
(すべては時間だということになるか
(とは
(つい今しがた
(考えていた

(いつも忙しそうだった
(荒川さんとは
(書類を渡したり
(ハンコをもらったりと
(なにかと仕事で
(3年間
(関わり続けていた

(荒川サンハ、タイヘンナ、人ナンデスヨ
(と言っていた江中直紀さんは
(亡くなったが…

(…お元気かしら?
(今も?
(忙しそうにしているのかしら?
(今も?




萩の花のはじまりを



萩の伸び乱れる
歩道のほうを選び
ほそい幅のあいだを
行く

枝は腿に触れ
腰に触れ
鞄にも
靴にも触れる

もう赤紫の花が
いくつか小さく咲いていた
花のはじまりを間近に見られて
よかった





2015年6月28日日曜日

そう思ってやめるべき思考はたしかにある

  

思考は時間そのものだから
思考で時間を考えるのはじぶんを考えることなわけで
ぐたぐたぐたぐた温泉に入って考え続けていたりしますとナ
ようするに考えなくってもいいんじゃないかという
結論にいつも達してしまいがちになるけれど
もちろんそれじゃいけないわけで
ともあれ
こうして温泉に入っているあいだは
時間そのものになろうじゃないか
なんて思って目をつぶったり
出たら冷たい水を飲んで
それからなにか旨いものを食べ直そうかな
なんてあれこれ考えてしまい出すから
哲学的な時間論が出来上がらないでいるっていうわけなんだよナ
しかし時間論を考え続けているあいだ
流れ去って行く瞬時瞬時新たな時間のことを
誰がどのように回収するかがつねに大問題なわけで
やはり考えないことの重要さっていうものがあるのだよ
そう思う
そう思ってやめるべき思考は
たしかにある




うなぎでこそのうなぎ振り



どこの店に行こうかと
このあいだ
選択肢にうなぎが入ってきたことがあったが

やめた

高すぎるからだけれども
ちょっと値上がりした程度は
まァまだ考えようだとして
もっと安かった頃でさえ
うなぎねェ
うなぎかァ
とちょっと逡巡してしまったものサ

うなぎを食べるなァ
悪かァねえが
あれはつまりはご飯とうなぎ
せいぜい付いてお新香
なるほどお店それぞれの
新香のうまさやサクサク加減
いちいち試すも楽しかァあるが
夜はサラダを山盛りに
食べなくっちゃァ食った気がしない
そんな者にはあのうなぎ
夜の食事にャ
どうにも足りない

そこに来て
品薄だの値上げだのと
なんだかだと
いちばん安いのも
名店だからか
3500円で御座ィなどと言われれば
チョト待テチョト待テお兄さん
とはなりますナ

だが
やめたわけは
それだけじゃァない
言わずもがなのことながら
関東の川や湖や海は放射能の濃厚スープ
中国産も国内産も
養殖うなぎは薬だらけ
抗生物質だけじゃなく
なにエサにして育ててンだか
わかったもんじゃない現代
放射能汚染の魚介のミンチや
病気の家畜のミンチもエサで
太く育てて大量出荷

そんなうなぎも
ある程度の
値段までならつき合いもするが
高値になっちゃァ
あほらしい
けっきょくうなぎは避けるに限ると
行かなかったが
後にして
思うとちょっと喰いたいネ
そこがうなぎのうなぎらしい
うなぎでこその
うなぎ振り                                 





夜なってみる



どう見つけるのか
見つかるのか
山椒の木には
アゲハがよく来る

日中はよくわからないが
木のそばに夜寄ると
山椒のかおりはつよく立ち
ツッと鼻打つ

日中に
この香につられ
来るアゲハの
その嗅覚に夜なってみる



夏休みの前のあのウキウキ




夏休みの前の
あの
ウキウキ

川辺の草は穂をのばし
シオカラトンボ
虹色のこがねむし
よくわからない
他の虫たち
そこここにいて
採ったり採らずに
気味悪がったり

夏休みの前の
あの
ウキウキ

宿題に出せばいいだろと
先生ちょっと
手を抜きはじめ
練習問題飛ばし出す
八月末までみんなして
花壇に水を当番で
やりに来る順も
もう決めて

夏休みの前の
あの
ウキウキ

まだやぐらさえ
立ててないけど
ここの広場で盆踊り
やるから
楽しく
なるからね
と見知らぬおじさん
言い始める

夏休みの前の
あの
ウキウキ

学校帰りは
そろそろ暑く
帽子の端から汗たらり
家までの距離が
ちょっとつらい
ランドセル重く
喉もからから
流行りの大人の恋歌を
ノドマネしながら
唸って帰る

夏休みの前の
あの
ウキウキ

宿題に出る
練習帳
問題集や絵日記帳
やるのは嫌だけど
夏にもらう
真新しい紙の製品は
なにか楽しく
それもウキウキ

夏休みの前の
あの
ウキウキ




って思ってしまったよ



こんな人は嫌われるとか
あなたのこんなところが嫌われるとか

嫌われるところを
こまかく数え挙げて
解説までしている軽い文を
ちょっと
おもしろく読んでしまったけれど

これほどまでして
嫌われたくないもんかな
ならば
嫌われているほうが
ぜんぜん楽なのに

って思ってしまったよ

それにこの筆者
こんなこと
書き連ねてまでして
軽文を売らないといけないのも
楽じゃないだろうなぁ
何歳まで
やっていけるかな
これ

って思ってしまったよ

 


陽のあたる居間にいると…



陽のあたる居間にいると暑いが
その時間にまったく陽のあたらない書庫に行くと
小窓から涼しい空気が入り
どこかの高原に来ている気さえする
本を読むだけなら
この時間
どこかの倉にでもいるようで
ここはとてもいい
しかし暗いので明かりを点けていなければならず
それが人工的で残念に感じる
そうしてまた居間に戻るのだが
温まった空気が肌にすこし不快感を呼び起こす
冷房を入れれば簡単に解消するが
それも人工的で残念に感じ
いつも真夏でさえほとんど冷房は入れない
バルコニーに出る窓(残念ながらフランス窓ではなく
日本ふうの趣のない大きなサッシ窓だが)を開け放ち
ひかりをたっぷり入れて
暑さの中で本の細かい文字の行を追う
外国の歴史書の些細な出来事の連続を追っていて
時には巨視的に社会構造の変質過程を論じる文章も続くので
行を追うと言っても後戻りを繰り返しつつ
線を引いてはOやチェックをつけたりと
なかなか進まない時も多い
一冊読めば済むのなら楽だが
他の歴史家や思想家の見解もさんざん見なければならないので
この夏に目を通すべきページ数はたぶん数千を下らない
その後にメモの書き出しや整理や
そうしてさらに考察やまとめやと控えているのを思うと
くらくらと眩暈がするようだが
そんな中で世間では
国会周辺や渋谷などで若者が政権の憲法違反に
ようやく声を上げ始めているようで
積極的に動かなければ政治では何をされてもいいのがルールである以上
その動きむろんは慶賀すべきだが
主張を見ていると明らかに裏には諸野党の政治工作が入っている
野党政治家の怪しい面々までしゃしゃり出てきて
握手などしてこれはこれでこの夏の奇譚が増えそうな趣き
それはそれでかまわないが
自衛隊がそもそも憲法違反だとまで叫ぶ若者の主張は
言わずもがなの極左の恒例の主張で
ほほう相当に裏に入り込んでいるんだな
というよりプロ市民ならぬプロ若者を仕立て上げて
傀儡していると見たほうがいいようだな
真偽のほどはもっと観察しなければならないものの
そんなふうに思いながら
さっき目にした尖閣諸島への
中国海警2307と2337の領海侵入のニュースを思い出してい
今年18回目のこの侵入の際に
中国海警からは「貴船の主張は受け入れられない。ここは古来、
中国固有の領土だ。その周辺12カイリは中国の領海だ」と
答えてきたという
中国政府や中国軍なりの理性や合理主義を疑ってはいないが
憲法違反どころか自衛隊違憲を真っ当に
今になって告発する若者たちには
こうした中国の見解や行動をどう捉えるか聞き質してみたい
彼らの答え方や反応のしかたは
彼らの急な行動開始がどこから出て来ているのか
はっきりと示すリトマス試験紙になるはずだろうから
戦争放棄を謳った憲法の価値が人類史の頂点にあるのはあたり前
しかし現代日本の居心地のよさや快適さを支えている多くの大企業
たくさんの種類の兵器を開発して儲けているのを彼らはどう言うの
それらの企業の前に出向いて拡声器でがなり立てないのか
いつもながらにそこだけは頬かむりして言わないのか
彼らを支える左翼政党が強欲な上納金を強要しているばかりか
反対者を封じ込めるための盗聴などの諜報活動を
関係者たちに常時行っているのをわたしは労働組合活動でつぶさに知り
そこから離れて別の組合を立ち上げたものだったが
そんなところにはやはりお決まりの頬かむりか知らないふりか
ともあれかつての軍国日本ばりの今の隣国を
好きなようにやらせておけばいいのなら御伽の国の花園
どこまでも武力は使わずに説得します
話し合いします
それでわからない国はないはずです
それでわからない人たちなど人間ではありません
…で済めばなるほど軍隊どころか警察もいらないといういつもの話
いかにも憲法に従うのは為政者の至上義務だが
元々が異例と逸脱と特例だけで乗り切ってきたこの泥縄敗戦国は
いまだに真っ当な路線にしっかり乗ることなどできない
それをやろうとすればまずはふいの事故死や病死で消されるだろう
もう少し運動が進んだとしてもやってくるのは
仕掛けられた上での経済の暴落や第惨事による停滞
アメリカの一部が日本を利用しまくって
儲けよう生き延びようとしているところに反旗を翻せば
そう遠くないうちになにが起こるか目に見えている
残念ながら第二次大戦での徹底的な敗戦とはそういうこと
数十年どころか数百年経っても浮かび上がることのあり得ないよう
完膚無き麻痺や弛緩の装置を物理的にも心理的にも思想的にも
張り巡らして仕掛けつくしたアメリカを甘く見てはいけない
ここは塩を魂の大地にまかれ尽した東洋のカルタゴなのだ
それはそもそも黒船来航の時から仕掛けられていて
山口の被差別民たちからなる明治政府そのものが
欧米の金融人たちや大武器商人たちを設けさせる駒としての
あれほど露骨な傀儡政権ではなかったか
日本国憲法など従順なロボットに張りつけられた期限付きの証明書
それが人類で最も美しい高貴な反暴力の文言でできているのだから
悶えずにはおれないほどに涙ぐましい芸術作品
けれどそろそろ証明書の内容を訂正して
今度はこちらの戦争の傭兵や尖兵に仕えるようにしようかと
そんなご主人様のお考えを支店長たる日本政府が
実務面を引き受けようとしているというだけのこと
…と夢想にまで近づいていくような思いの流れに
陽当たりのいい居間で本を手にしながら少し頭を揺られていたが
外国の一時期の歴史を詳細に語る歴史書のほうへ
さあ、戻らなければ
本がこちらに展開してみせるその一時期の中では
大革命の取りまとめ役にして政治的正統性の取りまとめ役
さらに大簒奪者にしてヒトラー以上の大殺戮者ナポレオンを
いかに追放しそこから権力剥奪をして
ヨーロッパの君主制諸国にとって二度と脅威とならないフランスを
捏造しようかとの算段の最中
高校程度の世界史ではいかになにも習ってこなかったかがよくわか
最新の19世紀史研究者たちによる小説より奇なりの論述…




〈ひと〉は否応なく非・人称であり前-人称である



         俗人猶愛するは未だ詩と為さず



思うゆえにある我
なんて
たいしたものじゃない
重要なものじゃない

でも哲学はそう言っているって?

いやいや
フェリックス・ガタリは
とうの昔にこう言っているさ

「コギト以外の存在の仕方は意識の外に基礎を置く

あるいは

「〈ひと〉は否応なく非・人称であり前-人称である

さあ
結局はいつも
通俗言語による新哲学の周知装置である詩歌さんよ
いつまで
思うゆえにある我の
喜怒哀楽だの
その棲み処の〈社会〉だの〈世の中〉だの〈この世〉だのの
憂鬱さやちょっとの晴れ間の記述に
囚われているんだい?
あるいは
数千年変わらぬ
あいかわらずの嘆き節作りに?

それが伝統だからかい?
それが詩歌の宿命的な流儀だからかい?

それが…?
それが…?
それが…?





ぽじてぃぶとかいう態度



「私はあなたの存在に染められた
とか
「あなたの一部が私の中に入り込み
「そこに住みつき
「だんだん大きくなっている
とか

アマゾンのヤノマミ族がこう言うとき
どうやら
こちら側の社会で「愛している」と言うのに
近いようだが
ずいぶん正確じゃないか?
ずいぶん精妙じゃないか?

「愛している」なんて
そもそも日本語じゃない
苦しまぎれの訳語に過ぎない
ちょっと前まで
腹立たしげにしながら
恥ずかしそうにしながら
日本人なら言っていたもので
平然とこれを使えるような人たちは
きまって
言語感覚の鈍い
アメリカナイズされた
ノーテンキさんたちだけだったのに…
退化してしまったな
この点でも

それとも
表現がコンパクト化され
時代に合うように簡素化された
思うべきかな

そう思い
いつまでも
そう思っていき
あらゆるノーテンキさを受け入れ続けていくのが
ぽじてぃぶ
とかいう態度
なのか
な?

ぽじてぃぶ
いいのかな?

ぽじてぃぶ
だけが
いいのかな?