2016年2月9日火曜日

眠りから覚めるあたりが



眠りから覚めるあたりがいちばん恐ろしい
過去の思い出がどれも鮮明に次々蘇って来続け
そればかりか経験しなかったはずのことも訪ねて来続ける
思い出はある状況下でこちらから見えていたことだけのはずだが
見えていなかったはずの他人たちの心も考えもぜんぶ見えてしまう
それらがありありとわかるから恐ろしいというのではない
それらがまるで記録してくれどこかに残してくれというように
次々やって来続けるのがあまりに甚だしいので恐ろしい
一日24時間というけれどそれは1440分ということで
1440分ということは86400秒ということだが
少なくみても86400粒のぷちぷち充満した
多層的な入り組んだ記憶が怒涛となって押し寄せてくる
どれが重要でどれがどれより無価値だということがないことは
ネルヴァルやプルーストを読み込んだ人にならあたり前の常識で
そのうえ超現実主義やナンセンス文学もたっぷり経過してきた脳に
重要でない断片や砕片など存在しないのだからすべてを収集し直し
これまでの経験の全容を再編成しようと絶えず脳は動き出し直す
それでいてすべてを言葉に移し換えることなどに意味はないのを
わたしは多くの覚者たちから学んで来ているから文芸の無意味さな
誰に言われるまでもなくわかり切っている
今はOSHOと呼ばれるラージニーシはよく説法でいっていたもの
言葉づかいの上だけではいかにも悟ったようなことを言う詩人たちほど
じぶんの言葉の意味がわかっていない連中はない
彼らの精神ほど悲惨なものはない
それでもわからないながらも彼らは知らずのうちに真理に近づくこともある
多くの芸術家たちがやはり無知ながらに真理を物質化する時があるように
クリシュナムルティーなどはあらゆる美術館について
森や林を破壊して美術の倉庫や陳列場所を造るほど愚かなことはな
美は人が手を加えないありのままの自然の中にこそある
誰もが木は美しいなどとよく考えもせずに言うが
あなたは一本の木を本当に見たことがあるか
それを木とも思わず何の木だとも名を知ろうと思わず
それを自分の庭に植えようかどうしようかとか
その木を昔いっしょに見た人は誰だったかなどと記憶に迷い込もうともせず
これこれの名を持ちこれこれの生き方をしてきた自分が見ているとも思わず
ただ無念無想で目の前の一本の木を見続けることをしたことがある
あと20分したら食事に行かなければとかも思わず
観察するのでもなく科学の眼鏡で吟味するのでもなく
ただ見続けるということをしたことがあるか
そういうことをしたのならば世界もあなたも時間も空間も
今のこのままでとほうもないものであるとあなたは悟ったはずであ
そうならばあなたにはなんの問題もなく今後問題が生じてくることもない
どう生きていったらいいか世界の戦乱や貧困をどうしたらいいのか
そんな問題がまったく問題ではないことにあなたは気づいたはずであり
問題のなさそのものにあなたは成り切ってしまっているはずである
もしそのように一本の木さえ見たことがなかったのならば
あなたはこれまでたったの一瞬さえ生きたことがない
あなたはあなたを生きたと言いたいだろうがあなたとは幻影であり
過去の多くの情報や反応の束である鏡影にすぎない…

ここまで行った者が
言葉へ
人へ
社会へ
帰ってくるのは本当に難しい
帰ってきても
観察者になる他ない
あるいはナンセンスを装って人間言語を
埃のように
燃えかすのように
はかなく散らして市井に交じり入るしかない



cf. J Krishnamurti - The Real Revolution - 1. Where are we going?






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