湯蘆氏は牛丼屋に入った
帰路
もう家は近いのであるが
今日は奥方と娘が観劇に出ていて
帰ったところで
夕食まではだいぶ間がある
昼食をろくに取らなかった今日
牛丼の並ぐらいを
夕刻に胃の腑に入れておくのは
ちょうどよいと思えた
まあ牛丼そのもののことは
どうでもよい
安価で量も多くない割に
そこそこ旨い店なので
湯蘆氏は満足しているからである
それよりも
今日湯蘆氏が見出して
そこそこ楽しんだものは
ぜひとも此処に
記しておかねばならないであろう
牛丼屋のカウンターの端には
いろいろと調味料の入ったケースが
各所に設けられている
カルビのタレだの
焼肉のタレだの
トウガラシ
醤油
ポン酢
ソース
マスタード
コショウ
などが並んでいる
牛丼が供されてから
あらためて湯蘆氏は気づいたのであるが
ここの店では
それらのビニール容器の蓋に
名前がどれもカタカナで記されている
それらの名前が
ナプキン立てや小さな三角広告に隠れて
たとえば
カルビタレが
ルビタ
ポンズが
ンズ
マスタードが
マ タード
コショウが
ョウ
ショウユが
ョウ
などと見える
ヤキニクタレなど
キニクタ
になってしまっている
湯蘆氏がちょっと姿勢を変えると
それぞれ
また別の文字が隠れ
それまで隠れていた文字が現われて
カルビタ
ニクタレ
ト ラシ
ウユ
ンズ
ソ
マ ド
ショ
などと変身を遂げる
もうちょっと体を傾けると
カルビタレなど
カ タレ
となる
食べ終わっても
いろいろと体を傾けたり
首を下げたり
伸ばしたりして
湯蘆氏はずいぶん長々と
楽しんでしまった
こんな奇妙な長居をすると
店員に不審に思われかねないところだが
東京の繁華な牛丼屋のよさで
食べ終わった客が
ちょっとやソッと座り続けていても
店員はべつに気にも留めない
だいたいまわりの客たちは
食べながらスマホをいじり続けで
それはそれで皆
しばし忘我の境地に入っているのである
近頃味わった楽しみのうちでも
意想外のなかなかの面白さだったので
湯蘆氏はずいぶん満足した心もちで店を出て
夕刻の青い空気の中を歩き出した
そうしながら
カルビタ
ニクタレ
ト ラシ
ウユ
ンズ
ソ
マ ド
ショ
などとしきりに思い出す
それにしても
ポンズが
ズ
になったり
ソースが
ス
になったりするんだものなァ
とニタニタ
なんたって
カルビタ
だよ
ニクタレ
ってんだぜ
と
反芻するうち
ついには
笑い出してしまって
雑踏の中
帰りを急ぐ人びとや
急がずにどこぞで一杯
と目を泳がす人びとの間を
ユロユロ抜けながら
とりあえず
帰路についたのである
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