2017年10月25日水曜日

『シルヴィ、から』 51

 複声レチタティーヴォの連続のみから成るカンタータ叙事詩
 [1982年作]   

  (第二十三声) 5

  (承前)

 説明を聞いている間、わたしは、どうして、シルヴィがよそよそしくあんなところに立っていて、この娘がそれと対照的に親しく此処に、わたしの傍らにいるのだろう、と考えた。
まったく取りとめのない疑問に見えるが、こう問う以外には為しようがなかった。
しかも、こういったことを問わないではいられないばかりでなく、こういう問いを考えることこそが、わたしにとって、なにか、最も重要なことのように思われるのだった。
なぜ、ここにいるのがシルヴィでなく、この娘なのか。
なぜ、この娘の名が「シルヴィ」でなく、あそこにいるシルヴィの名がこの娘のものでないのか。
なぜ、シルヴィがフランス人でなければならないのか。
なぜ、この娘がイギリス人として生まれたのか。
なぜ、わたしたちが同じ時にこの地に集まらねばならなかったのか。
そして、なぜ、わたしはシルヴィに惹かれ、この娘にも惹かれるのか……

 娘がずっといっしょにいてくれるので、わたしは幸せだった。
しかし、シルヴィがいっしょにいてくれないので、わたしは不幸でもあった。
一体、どういうことなのだろう?
シルヴィはわたしにとって何なのだろう?
何であるべきなのだろう?
そして、この娘は何なのか?
何であるべきなのか?
埒もないこれらのことを、くり返しくり返し、わたしは考え続けた。
  「シルヴィか、この娘か」といった二者択一の問い、あるいは「好きなのか、そうではないのか」といった類の問いにわたしは何度も陥り、焦って、はやく決着をつけようとした。
時には、やみくもに一方を選んでみよう、と内心で思ったりもした。
 『どうして、どちらかを選ぼうとなどするのだろう。どちらをも投げ出したらいいじゃないか。まったく、孤立して超然とでもしていたらいいじゃないか』
そうも考え、こういう態度をも何度か採ろうとした。
しかし、結局、わたしはいずれの態度にも落ちつくことができなかった。
シルヴィといい、この娘といい、いずれもわたしの深いところの関心を惹くなにかを持っていた。
感性の欲求を第一義として、つねにそれを満たすように行動する性質を生まれつき持っているわたしとしては、彼女たちの魅力に抗することは不可能だった。
同時に、そういう魅力に対して超然とした態度を採るということの魅力にも惹かれるのだった。
わたしの態度は、ほとんど、一瞬一瞬違っているようなものだった。今、シルヴィに傾いたかと思うと、次の瞬間には娘に傾く。そして次には、その両方に背を向けてひとりになろうとする、といった按配だった。

 (第二十三声 続く)


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