2017年11月27日月曜日

『リュリュ』(譚詩1994年作)2


    2 ブラッサンスの国の首都で

 その夜、私はブラッサンスの国の首都にいて、ブラッサンスの国の女と、その女の家族や友人たちと晩餐をともにしていた。
 女の義兄が連日振舞ってくれるワインとさまざまな食後酒に胃が疲れてきているところへ、その夜は女の姉が腕を揮った子牛の胸腺の料理だった。それ自体は十分食べられる量だったが、自分の分にくわえて女の残した分をいくらかムリして食べたあたりから、体の気分がある限界をこえたのがはっきりとわかった。すぐ異状が現れそうだというのではない。が、胃が分厚い木板の扉を閉ざしてしまったようなぐあいで、中にものが落ちていかない。味が神経叢に吸収されていかない。それでも、なんとかデザートまで持ちこたえて、食後酒をすこし舐めさえして、私はようやく、あてがわれている奥の寝室へ体を投げ出しに行った。
 ベッドの上に体を開いて、人々の声が小さく聞こえてくる薄闇の中で、ほんの数分だけ休息するつもりが、いつのまにか、眠りに落ちていた。
 目が覚める。
 夜が明けていたわけでもなく、家の中から人々の気配が消えていたわけでもなく、冷ややかな肌の美女が、胸に私の頭を抱えて目覚めを待っていたわけでもない。腕時計を目に近づけると、蛍光で緑に浮き出している文字盤と針の様子から、十分近くは眠ったらしいのがわかる。しかし、十五分まではいっていない。人々の談笑が漏れ聞こえてくる。
 胃の疲れが、いわば時間とともに体の中をいくらか下ったようで、それで多少なりとも回復したような気分がしていた。実際にはほとんど治っていないのがわかっているのだが、今夜のところはこれでも十分いける、大丈夫だ。少なくとも、そう思うだけの気力は戻っていた。むろん、いつまでもこんなことで切り抜けていけるわけではない。いまのところは大丈夫だとしても、ーー自分の生活態度全般に関わるような、そんな思いが、季節はずれの蚊のようにふらふらと、しかし、わずらわしく浮かぶ。
 明かりをつけ、鏡に向かう。髪を整えたり、疲れた上にまどろみで弛んでしまった感じの顔に生気を取り戻させようとして、手のひらを押し付ける。肌を引っ張ったり、マッサージしたりする。そうしながら、いま戻っていくはずのサロンで、人々がどんな様子で坐って話を続けているかを漠然と想像する。
 ふと、自分がさっきまでいたのは、そのサロンではなく、この寝室でもなく、まったく別のところだったという気がしてくる。よく思い出せないのだが、広く空の仰げるところで、海があり、森もあり、暖かい場所だったという気がする。青緑の穏やかな海の印象が強い。なにか長い旅でも終えて、ほっと荷を下ろしたような気持ちがしていた。そうして、だれかに、やっと戻ってきましたよ、などと言葉をかけていた気がする。
 たぶん、夢を見ていたのだ、と理知の働きは片付けようとするのだが、夢と言ってしまえば、まったく違ってしまうという気がする。この寝室にいま自分がいて、鏡にこうして向かっていて、人々の談笑が聞こえているのが、これが現実というなら、それと同じ程度には現実であったというべきなにか。もし、このふたつを比べるのならば、どうやら向こうのほうにこそ分がありそうな、ほんとうは自分も向こう側に属しているような現実。
 とはいえ、そういう夢というのはあるものだ。現実以上に生々しい印象を残す夢というものがあって、目覚めた後、人をいろいろな妄想に誘い込む。理知が即席に紡ぎ出してみせるこんな理屈にうなずいて、心はこちらの現実にふたたび落ち着こうとする。
 まあ、いいか。
 サロンに戻ってみると、女の友人や家族の数人は、もうそろそろ帰ろうかなどと話している。私は、たらふく食べたのでちょっと休んでいたら、まどろんでしまったと話し、料理の作り手が抱いていたはずの不安を払ってやる。

 (第2章 続く)


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