2018年5月17日木曜日

しんくろにしてぃー


西條八十の全集のうちの一冊を
たまたま古本屋で手に取っていたら
流れていたラジオがみじかく
西城秀樹の訃報なんかを告げてくる
という
シンクロニシティー
というよりは
ビミョーにズレた
ちょっとトボケた
しんくろにしてぃー
であった

持っていない泉鏡花の本が数冊
旧漢字旧仮名で俄然読む気になる版なのに
安かったのに
買いたかったのに
けっきょく買わなかったし
『現代思想』の特集〈主体とはなにか〉も
100円だというのに買わなかった
中村雄二郎の対談が出ていたからだが
この人の本や考察は結局いつも
どこにも行き着かないお勉強本で
どれもこれも哲学がっかり本だったから
だが買うべきだったかな、やはり
平成も終わる頃の主体にどうアプローチするか
バリバールやデリダあたりのを読んだ
記憶の道具箱だけでは足りなくなってきているし

部分的には使用し続けてきていた
吉田喜重の『小津安二郎の反映画』だとか
佐藤忠男の『小津安二郎の芸術』上下の
状態のいい初版があったのでこれは買い
それらに合わせて
馬場あき子の『きもの随想』の初版も買った
近世和歌集のほしい本もあって状態もよかったが
あ、これはうっかり買うのを忘れてしまった

ともあれ
西城秀樹はまだ六十三歳だというのに
人の死というのはつくづく不思議なもの
死ばかりでなく
幸不幸も
生き方も
なりわいも
あらゆる行く末も

ほんとうに
宿命とか運命とかと
曖昧に呼んでおくしかないものが
頑として在るといつも思う
こうすればよいとか
こうすべきだとか
そんなことで思うようになるわけではなくて
かといって放り過ぎていてもやはりよくなくて
つくづく不思議なもの
人の生きよう
死によう
というのは

あ、荘子のちょっといい訳本があったのに
400円だったのに
あれも買うのを忘れてしまった
安部公房の『榎本武揚』の
けっこうきれいな初版も
これは
衝動買いすべきだな
と思ったのに
忘れてしまった



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