2018年11月8日木曜日

ουροβόρος όφις(ウロヴォロス・オフィス)


 
「鏡、それは想像力にとって、もはやなにものかのイマージュではなく、イマージュそのものの根源的なイマージュにほかならないのだ。」

ひさしぶりに
読み直して
引用論の大将、宮川淳を
盛大に引用してしまいたくなってきたので
やっちゃう

ほれ。

「だが、イマージュがそこにある(ガストン・バシュラール)ーーイマージュの問題は、根源的に、ここ、イマージュがあらわす対象の存在ではなく、いわばイマージュそのものの現前、なにものかの再現ではなく、単純に似ていることにこそありはしなかっただろうか。
[…]似ていること、それはあるものがそれ自体であると同時に、それ自体からのずれであること、それ以外のところでそれであることであり、あるいはむしろ、この自己同一性の間隙からのある非人称の出現、それをわれわれは似ていることと呼ぶのだろう。われわれが見ているのは、背後にあるべき対象ではなく、そのような背後を失った純粋なあらわれなのだ。いや、むしろ、似ていること、それはこの背後のないことそのもののあらわれ、軽薄なまでに表面であることの権利、純粋な外面の輝き、純粋に見られることへの呼びかけであり、それゆえに、われわれを魅惑し、われわれを、見ないことの不可能性のなかにとらえるのだ」。*

彼に言わせれば
マルセル・デュシャン便器を引用した
ってことに
なっちゃうんだからね

ぼくもわたしを引用し
引用されるおれを
ウロボロスし
ουροβόρος όφις(ウロヴォロス・オフィス)し
いま口に入れようとする水蜜桃を
便器界に引用して
引用されることを引用して
抜け出していかないようにしよう、なにからも
抜け出そうとするのは
かつて
人や人類というものが
あった(と信じられていた)頃の
古い流行にすぎないから




*宮川淳 『鏡・空間・イマージュ』




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