「鏡、それは想像力にとって、 もはやなにものかのイマージュではなく、 イマージュそのものの根源的なイマージュにほかならないのだ。」
と
ひさしぶりに
読み直して
引用論の大将、宮川淳を
盛大に引用してしまいたくなってきたので
やっちゃう
ほれ。
「だが、イマージュがそこにある(ガストン・バシュラール)ーーイマージュの問題は、根源的に、ここ、 イマージュがあらわす対象の存在ではなく、 いわばイマージュそのものの現前、なにものかの再現ではなく、 単純に似ていることにこそありはしなかっただろうか。
[…]似ていること、それはあるものがそれ自体であると同時に、 それ自体からのずれであること、 それ以外のところでそれであることであり、あるいはむしろ、 この自己同一性の間隙からのある非人称の出現、 それをわれわれは似ていることと呼ぶのだろう。 われわれが見ているのは、背後にあるべき対象ではなく、 そのような背後を失った純粋なあらわれなのだ。いや、むしろ、 似ていること、それはこの背後のないことそのもののあらわれ、 軽薄なまでに表面であることの権利、純粋な外面の輝き、 純粋に見られることへの呼びかけであり、それゆえに、 われわれを魅惑し、われわれを、 見ないことの不可能性のなかにとらえるのだ」。*
[…]似ていること、それはあるものがそれ自体であると同時に、
彼に言わせれば
マルセル・デュシャンは便器を引用した
ってことに
なっちゃうんだからね
ぼくもわたしを引用し
引用されるおれを
ウロボロスし
ουροβόρος όφις(ウロヴォロス・オフィス)し
いま口に入れようとする水蜜桃を
便器界に引用して
引用されることを引用して
抜け出していかないようにしよう、なにからも
抜け出そうとするのは
かつて
人や人類というものが
あった(と信じられていた)頃の
古い流行にすぎないから
*宮川淳 『鏡・空間・イマージュ』
0 件のコメント:
コメントを投稿