2019年2月27日水曜日

“ほゞ”だからね


写真のイデア界から
ある日
精霊が下りてきて
ぼくに言った

わたしは写真の精霊
わたしは世界中に遍在していて
どこの誰の写真も
わたしの指や髪の毛や衣の裾

だから
あなたがじぶんで撮らなかった写真も
どこの誰が撮った写真も
みんなわたし
みんなわたしを降臨させようと
撮る行為を続けているだけ

いつの時代の
どこの誰が撮った写真も
だから
あなたが撮ったのとおなじ
じぶんが撮ったのも他人が撮ったのも
じつはどれもおなじ

さらに言えば
撮らなかったことも
撮ったことも
じつはまったくおなじ

こう聞いてからぼくは
以前よりもグッと撮らなくなり
ネット上にあふれ返る他人の写真を
ほゞじぶんの撮ったもののように見るようになった
楽になったよね
たとえば旅行に出た時など
おざなりの証拠写真的なものは一切撮らなくなったよね

じぶんの撮ったもののように見るようになった
といっても
“ほゞ”だからね
微妙なちがいがあるわけだけども
そこにまた
愉しみも
あそびも
あるというわけよね




かわうそがものを食べるのを見ていたら



かわうそがものを食べるのを見ていたら
おれ
いままでの生きかた
まちがってたかも
って
痛切に思ったね

ものを食べるのに
あんな楽しそうに
あんな一生懸命に
あんなノホホンと
つぎつぎ口に運んで
ぱくぱくもぐもぐ
やってこなかったのは
なにか
根源的なまちがいであったね
そう思えて
深いところから
なんだか
たじろいでしまった

かわうそがものを食べるのを見ていたら
おれ
ほんとにやめようと思った
決めた
いままでの
おれ
とかいう
やつを




芸風のちがい


 
朝から晩まで
起きかたから寝入りかたまで
ひとりひとり細かくやりかたはちがうので
どっちがいい
どっちが悪い
どっちのほうが効率的だ
どっちのほうが品があるように見えるだのと
比べ出せば
言い出せば
もう収拾はつかなくなる

どんどん
収拾をつかなくするほうへ
とかくひとというのは進みたがり
どんどん差異を際立たせていくのを
文化だの進化だの深化だの
また屁理屈をこねあげていくところがあるが
ある時点で
そういうのに飽きてからは
ま、芸風のちがいですかナ
と全部ひっくるめてまとめることにしている

生活のしかた
ものの感じかた
しゃべりかた
考えかた
振舞いかた
表現のしかた

しょせん
みんな芸風のちがいって
ところじゃ
ありませんか

だれひとり
舞台の外に出てはいない
おなじ舞台で
おなじ演目で
違った芸を披露している程度の
ちっちぇえ
けちな
差異

“だって人間だもの”
って
誰かのことばを借りて
付けくわえとこうかしら?



2019年2月26日火曜日

日曜日が待ち遠しい!


 
アラジンも呼ばないで
いまひとつって感じの屋根裏部屋
抹茶もたてず
ゴールドブレンド

咲く花のcore i9
みるみる
霧の
捲土重来都市在住30余年
来る人まばらに

逝く人
逝く人

そろそろクロッカス
生で浮かばす
ミントorラズベリーティー

わたしは腹が空く
腹がわたしは空く
kara
コーンスープ
なつかしの
食べたい

と思えば
甦る
岩倉団地の日曜日の朝食
甦る
やなぎやで買ってきたふわふわ食パン
甦る
兼高かおる世界の旅*
甦る
ミユキ野球教室**

トリュフォーも知らないのに
ヤン坊
マー坊***
日曜日が待ち遠しい!****

トルティアスープじゃなく
ミネストローネじゃなく
キャベツいっぱいとベーコンのスープじゃなく
オニオングラタンスープじゃなく
ガスパチョじゃなく

                                                                     



せかいの夢にようこそ


 
夢のせかいへようこそ
と言わない技術
さらに
拡張して

せかいの夢にようこそ

せかい
こそ
夢を見ていた?

なぜ世界は存在しないのか?
などと
マルクス・ガブリエル
古風な
オールドファッションドな

たとえば私が薔薇という…
かつて
マラルメ

これで
不在の不在性は
ひっくり返るというのに

たとえば私が世界という…
きっと
小リスちゃん

小リスちゃんと居てるで!
あら?
リヒヤルトさん?

居てるで?
どういう意味?

イゾルデ!

あゝ、小リスちゃんとイゾルデ!

コクのある
安酒屋にようこそ

“トリス
ちゃんと来てるで!“



2019年2月23日土曜日

現代ポエジー

  

Au-dessus des étangs, au-dessus des vallées,
Des montagnes, des bois, des nuages, des mers,
Par delà le soleil, par delà les éthers,
Par delà les confins des sphères étoilées,
  Charles Baudelaire  Élévation



どうせだぁれも読みゃしない
どうせだれにも読まれない
だからあらゆるプレゼンの
志向も邪心も突破して
語語語語語語と推進力
つくにまかせて
書きたいことを
書くよなヤワさはとうに超え
意味、味わい、よろこびだのも
苦痛なんぞも超えに超え
行く行く行く行く
語語語語語
マッハGoGo*
エレヴァスィン**
ギャーテイギャーテイハラギャテイ
ボージソーワカ
現代ポエジー


** Charles Baudelaire  Élévation




サングラスサングラスサングラス

 
いっぱいのサングラス
あまりにもサングラス
サングラスサングラスサングラス

いっぱいすぎて異様
ちょっとちょっと異様
かなりかなり異様
首相官邸に落ちているサングラス
敷きつめられたように
首相官邸を取り囲むサングラス
いっぱいのサングラス
あまりにもサングラス
サングラスサングラスサングラス

おやおやおやおや
国会議事堂もいっぱい
どこの庁舎もいっぱい
霞が関じゅうサングラス
いっぱいのサングラス
あまりにもサングラス
サングラスサングラスサングラス

だれもかけていないのに
道路や広場やエントランスいっぱい
芝生や植え込みや舗道までいっぱい
いっぱいのサングラス
あまりにもサングラス
サングラスサングラスサングラス

まっくろ黒光りのサングラス
歩きようもないサングラス
動き出す前の密集した舟虫みたい
動き出す前の密集したゴキブリみたい
いっぱいのサングラス
あまりにもサングラス
サングラスサングラスサングラス

首相官邸に落ちているサングラス
敷きつめられたように
首相官邸を取り囲むサングラス
国会議事堂もいっぱい
どこの庁舎もいっぱい
霞が関じゅうサングラス
いっぱいのサングラス
あまりにもサングラス
サングラスサングラスサングラス



西のベランダに面した掃き出し窓から夕陽が……[場所2]

  

夕方、居間兼キッチン*には、西のベランダに面した掃き出し窓から夕陽が射し込む。よく晴れた日には、オレンジ色のつよい日差しの場合がある。
まだ夕飯には間があるので、この時間帯にトーストを食べることがある。厚いガラスを上に置いた構造のスチールテーブルの上でバターを塗っているところに、オレンジ色のひかりが射す。溶けていくバターからほのかに湯気が立ち、これがひかりの美しさに恵まれた特別な瞬間だとわかる。トーストを口に運ばずに、バターの溶けていく表面をしばらく眺める。
ひかりの出どころである夕方の太陽は、大きな半熟のゆで卵のようで、西に浮かんでいる。太陽を隠さないで、上下に紫がかった雲が浮いている場合もある。高層マンションのガラスが陽に反映している。
こういう時間に居合わせるたび、生涯で二度と、これほどの居間に住むことはあるまいと思ったが、その後移り住んだ住まいの居間も、べつの美しい忘れがたい様相に恵まれていた。

*世田谷区三軒茶屋2-30-3 ルミエール三軒茶屋 305 居間




書きつけ 2


変容や悟りを語る体系のあやまちがふいに明瞭にわかる

彼らは死を知らないゆえに

死は偉大であり
それによってひとりの例外もなく全的に変容し悟る
死以前の修行は一切不要である
あらかじめ人は救われていると教えた覚者たちはこのことを言っていた
誰ひとり洩れることなく全員が悟る
全員が変容しそれまでのあらゆる有限さを落とす
かならず瞬時に無限となる

死を待ち望み
死にすべてを託すのがよい
地上のすべてを死は超えている

わたしが生まれていなかった頃
つまり居なかった頃
つまり死んでいた頃
わたしにとってなにひとつ重大事はなく問題もなかった
死がふたたびそれを齎す
わたしにとってなにひとつ重大事はなく問題もなくなる

宗教は死を平穏と呼びたがるが
間違っている
平穏も平穏でないこともともにそこにはない
一般に人間が思い描こうとするような無もそこにはない
なにもないのではない
死はこれのようでなく
それのようでなく
あれのようでない
それでも猶もなにかに喩えてみたいなら
死は大気のようであり
大海のようであり
目も口も鼻も耳も肌感覚も内臓感覚も失っての
極限の“開かれ”のようであろう

わたしという語がもっとも内実とすべきは死であることに
死の時
誰もがすぐに賛同するだろう

死の時に
わたしは来る
わたしに繋がっていなさい
と語った覚者たちは
死そのものを伝えようとしてそう語った

死を超える大師はいない
死を超える導師はいない

心配する必要はない
慌てる必要もない
死者の書などで学ぶ必要もない
鎮静剤でしかない経典を学ぶ必要も唱える必要もない
死は一切の者を差別せず扱う
今これが自分だと思っているこれを死は一瞬に消す
今それが自分だったと思っているそれを死は一瞬に消す
今あれが自分だろうと思っているあれを死は一瞬に消す
死に包まれれば今さえ無いことそのものになる

あらゆる類の自分
あらゆる類の時間
あらゆる類の場所
それらが消える

ならば今わたしはどうであればよいか
思念になにを浮かばせ
感情をどう見なせばよいか
もろもろの価値のバザールでどれを握りどれを握らないか
身や心に降り注ぐ風雨を過大に騒ぐべきかどうか

それらに即座に答えが出る
死を師とすれば
死を導師とすれば



書きつけ  1

  
突然わたしという語の使用が正しい
顕現、顕在、潜在のすべてがふいにこの管に流れ込む
わたしという語は管
存在と不在のすべてのそのものであったことがあるか
わたしは在る者とヤハウェは言ったと伝えられるが
より正しくはわたしは在る者であり無い者のすべて
全と全に含まれないもののすべて
この時わたしは一般的な一個人の自己表明マイクではもうない
わたしと発語するあらゆる喉がわたしとなり
発語しない喉もわたしとなる
わたしという語を使っても使わなくてもよい
わたしと言わなくてもよい
わたしという自己認識だけでなく
他のものすべても
ものでないすべても
在っても在らなくてもよい
その様態の違いはなにも違わないということだから
違うとは違わないということだから
これはつねにそれでありあれであるから
これとそれとあれを違うと見る位置に固執してはいけない
そういう位置を離れよ
身体の移動や感情の揺れや思念の色合いの変化の起こる層でない層



2019年2月22日金曜日

一瞬の時間も唯一無二であり……


 
空腹を、駄菓子やジャンクフードで、あるいは、今ならば、添加物や保存料満載のコンビニ食品やスーパーの総菜や弁当などで、安易にお手軽に満たして済ますような食生活を続けていけば、やがて健康面でなにが起こっていくか。これは、誰にとってであれ、想像するにさほど難くはない。しかし、イメージや映像、音楽、音響などへの空腹を、インターネット上で容易にいくらでも触れられるもので、いわば、店屋物ならぬネット物で済ますようにしていく場合には、どうか。イメージや音の場合なら問題はないのか。足と金と時間を使ってどこかへいちいち出かけて行ったり、重い画集を書庫から取り出して、大きな頑丈なテーブルの上で開いてみるような手間を省く場合、イメージや音から摂取され得る栄養価にはなんらかの変動は起こらないか。
一瞬の時間も唯一無二であり、たとえ転生しようとも、二度とくり返されることはない。口から食道を通り胃に落ちていくものも一期一会であり、目に触れるイメージ、鼓膜を震わせる音もすべて一期一会であるとすれば、あまりに容易に得られるもので済まして本当によいのか。
江口老人も六十七年の生涯のうちには、女とのみにくい夜はもちろんあった。しかもそういうみにくいことの方がかえって忘れられないものである。それはみめかたちのみにくさというのではなく、女の生のふしあわせなゆがみから来たものであった。江口はこの年になって、女とのみにくい出合いをまた一つ加えたくはない*……


*川端康成『眠れる美女』



100円商品のプラスチック製の黄緑色の小籠


もっとも親しかったうちのひとりを9年前に失ったまゝ、いろいろな思いを脳内に彷徨わせたまゝ、……で、居続けている。かといって、ポーやリラダンやローデンバッハらの作品の人物たちのように死者の思い出だけに沈潜し続けているわけはもちろんなく、最新のCPUが軽々とこなすごとくに、マルチタスクで、意識は諸相的に多層的に忙しく機能し続けている。現代のセルジオ・レオーネとも言えるであろうアントワーン・フークアのアクション映画を次々と見ながら死者のある日の目の伏せ方を心の中に凝視し直したり、出勤前に慌しくシャワーを浴び、洗髪してから髭を剃る時に、また別の、死者が健康であった頃のある日の服選びに助言した瞬間のことをありありと蘇らせたりする。
髪にドライヤーをかけたり、鬚を剃ったりする洗面所の洗濯機の奥の小棚にはプラスチック製の黄緑色の小籠が置かれていて、そこには入浴剤や他の小物が乱雑に詰め込んであるが、この小籠は、死者が最期の日まで、病院での朝晩、歯ブラシや歯磨きチューブ、タオル、化粧水や乳液、口紅などを入れて、病室から洗面所まで通うのに用いていた。手頃な道具入れが必要になった際、病院の近くの100円ショップで慌てて購入して持って行き、与えたもので、100円商品にしてはプラスチックも厚手で、なかなか頼りがいのある悪くない品だった。
すっかり筋肉の削げた足で、よろよろ、ゆるゆると廊下を進み、洗面所に通う姿にたびたびつき合ったが、他にもいくらも適した容器や籠はあり得るというのに、急ぐ必要があったことや使い勝手のよさから、こんな廉価品を毎朝毎晩提げて歩ませることになってしまう…と思いながら見続けた。最期も近いかもしれない人に、100円商品を持たせるとは。かといって、高価でもっと重い、使い勝手の悪いものを持たせるわけにもいかず、成り行き上、それなりというより、必然というべき事情のもつれの果ての風景や光景が一瞬一瞬醸成される。二度と戻らない時間の一刻一刻であるというのに、ひとりの人間を取り巻く物品のありようは、しばしば侘しく、うすら寒く貧相で、偶然というものの悪戯心やそれとない悪意を感じさせられさえする
そのプラスチックの100円商品の小籠は、持ち主よりももう9年も長く生きのびて、劣化の気配も見せない。鬚剃りの後で化粧水や乳液を顔につけながら横目で見たこの小籠のイメージと、そのイメージに無数に重なって甦る死者の生前の姿、さらにはそれらの姿のかたわらにいつも在った私なるものの在りようを意識の中に漂わせながら、今日も、靴を履いて、地面や、地面と呼びづらいような人工的な石板の数々を踏みに出る。



まことにあさましく恐ろしかりける所かな、とく夜の明よかし……


  
物神崇拝。偶像崇拝。なにも今に始まったことではなく、シナイ山から下りてきたモーゼが人民の狂乱を見て絶望した頃からの人界のならいだが、街を歩いてもテレビをつけても新聞雑誌の類を開いてもインターネットに接続した端末のモニターにも、百鬼夜行のごとくに商品広告ばかりがしゃしゃり出続ける。それらはつねに多数の、というより無数の幇間たち、すなわちアイドル、俳優、歌い手、アーティスト、ライター、マスコミ、MCとか肩書きされる連中を、ちょうど街中に屯する少女や少女もどきたちがバッグに吊しているキャラクターだの動物の毛だの尻尾だののように伴っていて、これら、商品という真の主体に唯々諾々と付き従うマスコットたちは、人民をひとりも洩らさずにどれかの商品へ、さらに次の、次の次の商品へと誘導し続けるべく、資本主義リバイアサンのさらなる繁栄のための工作員としての任務を遂行し続けている。一見、いかにも現代の新鮮さ、真新しさ、爽やかさを帯びているかに見えつつも、それら、アイドル、俳優、歌い手、アーティスト、ライター、マスコミ、MCとか肩書きされる連中をよくよくつぶさに眺め直そうと近くて見れば、目一つつきたりなど、様々なり。人にもあらず、あさましきものどもなりけり。あるいは角おひたり。頭もえもいはず恐ろしげなるものどもなり。
まことにあさましく恐ろしかりける所かな、とく夜の明よかし、去なん、と思ふに、からうじて夜明たり……と、『宇治拾遺物語』巻一・十七「修行者逢百鬼夜行事」の修行者の場合は一夜の百鬼夜行から解放されるのだが、平安期の闇を収集して鎌倉期に成立したこの物語集の人物とは違い平成期のわれわれの絡め取られようは絶望的に深く込み入っていて、いつ夜が明けるとも思われない。



「とんでもない。納豆なんて面倒くさくて…」



いちばんの理由は新しい仕事に就いたストレスに違いなく、それまでは実家近くの職場への15分ほどの徒歩通勤だったのが、急に40分ほどの電車通勤となって生活が大きく変化したことなどもそれに加わってくるのだろうが、とにかく体調がよくない、顔にはおできが増えたし…… と聞かされたので、どんな食生活をしているのか問うてみると、いわゆる腸内環境を整えるような配慮をほとんどしていないらしいのが見えてくる。腸内フローラにあたるものはかなり荒れてしまっていると思われ、乳酸菌の摂取などもまったくできていない。他人のこととはいえ、こんな時には、要らぬお節介とは知りつつも、会話の力学に流されて余計な勧めもしてしまいがちになり、「納豆なんかも食べたほうがいいんじゃないの?」などと軽い気持ちで言ってみると、「とんでもない。納豆なんて面倒くさくて…」と返してきた。
えっ? どうして? と聞き返すと、「だって、納豆の発砲スチロール容器やビニールは、いちいち洗って、いちいち分別してゴミに出さないといけないから、面倒くさすぎて食べられない」と言う。驚いて、東京でならビンや缶以外はぜんぶ高熱炉で焼却だから分別はほとんど要らないのだけど、そっちはそんな細かく分別するの? 結局最後はまとめて燃やすんじゃないの? と聞くと、それはわからないという。ゴミを出す時点では分別をしないといけないので、とにかく面倒で、食べなくなってしまうものが多いという。
以前は自分も、ティッシュの箱やさまざまな化粧箱の類をていねいに解体して、まとめてゴミ集積場に出しに行っていたものだったが、ある時、回収業者が運び出している現場に出くわし、紐で縛った厚紙類を「これ、リサイクル用ですよね」と差し出すと、「あ、それ、全部燃やしますから」と燃えるゴミの山に投げ上げられたことがあった。ちょっとショックだったが、紙類でリサイクルされるのは新聞と段ボールだけで、他の紙類は全部焼却するのだという。色印刷された雑誌のリサイクルも一切しない。書籍も焼却。途中段階で自己満足的にいろいろ分別してみるのは出す側の勝手だが、最終段階では全部燃やしますから、中途半端に分別されても、ぜんぜん意味無いですね。
納豆の容器はちょっと洗ったくらいではネバネバが完全には取り切れず、少しでもネバネバがついていると、もう技術的にリサイクルはできないと書いてある記事も読んだことがある。そこが肉のトレイに使うPSP(ポリスチレンペーパー)との大きな違いで、PSPはリサイクルできるが、納豆容器の発砲スチロールは焼却する以外には方法はない。
東京近郊ながら東京23区ではない場所の行政が、納豆容器のネバネバまで徹底的に洗浄して分別ゴミとして出すように市民に強制しているとすれば、失われる個人時間とエネルギーは厖大なものになるはずで、その総量を推量してみようとするだけでも、くらくらしてきてしまう……



2019年2月21日木曜日

最大級に無謀な三人称である一人称



一人称を縦糸にして妄りに単語を並べていく書法を目撃するたび、不愉快でならない。「妄りに」と形容しなければならないほどの、エクリチュールについての余りの認識の不十分さ。乱暴と粗雑の極み。最大級に無謀な三人称である一人称は、こともあろうに、発話主体が自らを「私」という鏡=仮面=パッケージ=カプセル=粒に無思慮に落し込んで、せめてもの礼儀や節度の表明であるはずの口籠りやどもりを挟み込む配慮さえ欠いて、平然と白を切る瞬間にのみ使用され得る。まともな精神状態であれば、発話主体が最も発し難いはずであろう「私」を、いとも易々と発音してしまい、まるで並べていく単語について、語法的にも統辞法的にも意味論的にも責任を持ち得るかのように、朗らかに、意気軒昂たるギリシア彫刻のごとく屈託なく、発語の深淵を全く見下ろすことなく、覗き込むことなく、咆哮する。おゝ、おぞまし。「私」という鏡=仮面=パッケージ=カプセル=粒は、つねに、発話主体にとってこそ意味不明、淵源不明の最たるものであるというのに、それを知り尽くしているかのように、その所有権や使用権を確保しているかのように、「私」と発音することによって、その後に続けていこうとするあらゆる単語配列をあらかじめ無効化してしまう、儚い作文習性よ、習俗よ。真夏のカラスウリの、一日ばかりの白いレース状の花。虚無の花よ。出来ていくかと見れば、もう、ない。はじめから「私」によって無化されている、人界の最も虚しい束の間の行為、引き潮の時に点々とつけられただけの足跡。



平成という時代区分が終わるのだというが……


  
平成という時代区分が終わるのだというが、もちろんどうでもよい。国民という名で括られかねない多数の人間が渋々ながら受け入れさせられてしまったとはいえ、その“多数”など時間の無限の過ぎ去りの中では宇宙の親指と人差し指のひとつまみほどにもならない極小量に過ぎないという意味では、どこまで言っても任意と呼び直すべきものに過ぎないであろう、そんな時代名の前で、また、その消滅の過程の前で、取るべき然るべきこれといった身振りがあるとも思えない。西暦というアラビア数字の羅列を前にしても一向に感慨の湧かない意識にとっては、平成だの昭和だの、これから使用されるであろう漢字ニ字の別の熟語も格別に気を惹くようなものであろうはずがない強い予感がある。どうでもよい、どうでもよい、どうでもよい、……と意識のどこかが連呼し続ける。荒野で呼ばわる者の声がする、主の道を備えよ……と連呼するわけでないのは、この地がまだ新約の時代には遠いソドムやゴモラであるからかもしれないが、もちろん、そんなこともどうでもよい。




2019年2月18日月曜日

よい天気だと言ったので

 

よい天気
なので
よい天気だ
と言う

こころのなかで

次には
声にも出して

すると
よい天気はよろこぶ
お礼に
こちらと一体になってくれる

よい天気が
よい天気だ
と返してくる

ぼくは
よい天気だ

きみは
よい天気だ

ぼくらは
よい天気だ

言ったり
言われたり

よい天気
なので

よい天気だ
と言ったので



2019年2月16日土曜日

はじめから古かった 古い古いものだった ポップス


 
ポップスで歌われるとき

“あなた”
“きみ”
“おまえ”


100%
語り手自身
だなぁ
だろうなぁ

って
思って
聴いて
んだ

そうすると
ポップス
って
みんな
せつない

恋々と
せつせつと
語り手が
歌い手が
じぶんだけ
むけて
歌い続けている
んだ

“あなた”
“きみ”
“おまえ”

って

廃墟になった
大きなホテルのなかで
どこからか聞こえてくる
古いポップス
はじめから
古かった
古い古いものだった
ポップス

“あなた”
“きみ”
“おまえ”
って