2020年7月24日金曜日

たゞの味道楽




Instagramtwitterに写真を載せ続けている。
自分で撮ったものも時どき含ませてはいるが、大方は
ネット上で見つけたものをコピーして載せているだけなので
著作権がどうこう言われたらすぐに放棄できる。
アカウントそのものも、いつ捨ててもよい。

しかし、なぜ自分が写真を拾っては載せ続けるのか、
実のところは自分にもわからなかった。
もう4万件以上も継続しているのだから、自分の心のどこかが
こうした行為を面白がっているのだろうとは思うが、
理由を考えようとするとよくわからない。
なんの得にもならないし、人づき合いが広がるわけでもないので、
合目的型の行動評価をしてみれば、無意味この上ない行為だ。
瘡蓋を弄り続けたり、爪を噛んだりするような癖の類か、
もっと深刻ななにかの現われの、病のようなものかもしれない。
そのような方向に検討を向ければ、私という時間体の
多くを領する行為対象である書籍、映画、音楽、植物、自然観照、
さらには文字による記述行為や、プロカメラマンでもないのに、
いろいろなものの写真を撮りたがったりすることなどの、
すべてが、根深い病のようなものの発現でしかないと
思われるに到る。

先日のことだが、うまく寝られずに、体を横たえたまゝ、
うとうととし続けた末に、もう身を起こすことに決めた時のこと、
それでも少し前のわずかな時間だけ落ちいった薄い眠りの中で、
ふいにInstagram行為とtwitter行為の謎が解明された、と思った。

それらSNSにおける写真の掲載行為は、つねに、色とかたちを
選別し続け、ある方向に偏向し続けたり、自分の中にあるなにかの
バランス感覚に従って、今さっき惹かれたのとは違う色や
違うかたちに揺れ戻って選択し直したりする行為である。
さらには、撮影者の撮影視点の定め方や編集のしかたを見抜いて、
それを首肯したり、否定しつつも面白さは評価したりという、
批評行為を延々とくり返す行為でもある。

こうした行為が、ようするに、色と、かたちと、撮影者の目が、
おのずと醸し出す味覚のようなものの、探求だったのだ、と、
ふいに、わかったのだ。
視覚の領域のものだからうっかり考え違いをしてしまいがちになるが、
色もかたちも撮影のアングルも、視覚的味覚を発動させるものでしかない。
ようするに、ひとくちスイーツの食べ歩きのようなことを
Instagramtwitterを使って続けていたのだった

大事なことは、ここに、表現や自己などというものの介入してくる
契機は、一切ないということである。
主義主張もなければ、いかなるコミュニケーション欲も計略も交じらない
非社交的、非社会的な、たゞの味道楽のようなものだったのであり、
つまりは、純粋に官能的なだけの行為でしかなかったのである。




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