一文不知の愚鈍の身になして、
尼入道の無智のともがらに同じうして、
智者のふるまひをせずしてただ一向に念仏すべし
法然上人
浄土宗のお十夜の法要のあいだ
一枚起請文や
礼讃や
四誓偈や
真身観文や
また
あの短い摂益文を
しげしげと見つめていた
念
という
見慣れた字が
今と心
で
できていることに気づいた
念仏とは
今の心が仏
で
ある
ことでもあろうか
今の心こそ仏
という
ことでもあろうか
法要の後
僧と話していて
そんなことも言いくわえると
納得していたようだった
今年も二尊院に行って
いつも通り
山の上の
あの法然上人の廟にも参って
などと
たわいもない話に移ると
僧の言うには―
あのあたりは昔
困窮者たちの群れていたところで
上人が比叡山から下りてきてみると
世間にはこれほどの
どうしようもないほどの困窮者たちがいて
難しい宗論や経典を山に籠っていくら学んでも
この人たちを救うことはできないと悟り
念仏だけで往生極楽できるという
教えへと向かう契機になった場所で……
毎年
二度三度
行く
二尊院だが
そんな話は今まで知らなかったので
たわいもない
話の
流れにも
乗って流されてみるもの
と
いよいよ
思う
の
だった
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