2020年11月5日木曜日

たぶん、水都ゆららはプールに戻らない 3

3 開発部市民健康課課長・白崎伊玖磨の消滅

 



「中途半端な大きさですな。これじゃ、ちゃんとした大会では使えない」

 県の水泳競技連盟の顧問も兼ねている市長は、プールの全体にもう一度目をやりながら、あきれたように言った。

「だいたい、全長72メートルっていうのは、どこから出てきた発想です?」

 永門氷吾は答えない。

 この件については、もう何度も市側に話してある。

 水泳競技用でない、大きなプールの建築を頼んできたのは市だった。

 正確に言えば、市の開発部市民健康課課長の白崎伊玖磨からだった。

「いいんですか? 競技で使えないと、水泳大会など開けませんよ」

 白崎には何度も念を押した。

「いいんです。大きな遊泳プールがほしいんです。競技用には、市内にもう三つもありますから」

 なぜ白崎が、競技に使えない大きな遊泳プールを作りたいのか、ついにわからなかった。

 わざわざ、競技用プールをふたつ並べて建築するデザインさえも作り、それを白崎に見せた冬の夜のことが思い出される。

 凍てつくような夜で、12月も終わろうとしていた。

 ルクレシア料理の小さな店の奥のテーブルで、図面を見せながら、競技用プールにしたほうが利用範囲が格段に広がると、説得じみたことをした。

永門が白崎を説得する必要は全くない。

競技用プールのために作成した何枚かの図面には、費用は支払われないので、ただ働きだった。

白崎は終始温和な表情で、にこにこしている時さえあった。

「永門さん、お気づかいいただいて、ありがとうございます。でも、もう決まっているんです。長い大きなプールがいいんです。後は、設備面さえ、しっかり作っていただければいいんです」

白崎はそのようなことを言い、ルクレシア料理の中でも代表的なもののひとつ、ジバデのグズニツカヤ煮に、胡桃の味がするオレンジの特殊な種類のコレモナ・ビジエンチャを薄く切ったものと、松茸のような芳香のミヨープスを生のまま粉末状にしたものを混ぜて散らした皿を前にして、

「永門さん、これはおいしんですよ。さあ、熱いうちにいただきましょう」

言いながら、小さめのレードルを入れ始めていた。

その夜を境に、白崎と向きあって話すような機会は、永門にはなくなった。

市庁舎の廊下ですれ違い、会釈するようなことはあったが、プールの設計に関する話し合いなどはなくなった。

工事に入ったので、会う必要がなくなったからだが、永門は、白崎という人の流れとじぶんの流れが、併走の期間が過ぎて、すっかり分岐していってしまうように感じた。もともと、友人のような親しさでつき合ったわけでもなく、あくまで仕事上の関わりだったのだが、しばらく同じ進み方をしてきた人との遠ざかりというものを、奇妙につよく感じていた。

プールの大きさについて、市長に批判じみたことを言われた時、永門の頭には、白崎とのこんな遠ざかりの感覚が浮かんでいた。

隠すようなことでもなく、あえて白崎の名を出さないように努めるべきこともないので、

「全長72メートル…… 白崎さんですよ」

 と永門は市長に言った。

「白崎君か…… ま、聞いてはいるんだが、それは……」

 と市長はつぶやき、本当は永門が白崎に焚きつけたのではないか、と言おうとして、やめた。

 白崎は忽然と失踪したのだった。

 失踪といえば該当する本人の意志的なものとなるだろうが、事態を総合して見れば、消滅といったほうがよかったかもしれない。周囲の人々にはそう感じられた。

 白崎が消えることになった日の午後、市長は、小学校数校のエアコン取り替えの件で白崎から報告を受けている。

 市長室の自分のオフィスチェアに座ったまま文書を受け取り、簡単な説明を受けて、最後に白崎の顔を見上げた。

白崎の顔の肌がつやつやしていて、ああ、まだまだ若いんだな、と感じた。

老いに差しかかっている市長は、このところ睡眠を十分に取るのが難しい日が続き、じぶんの顔が疲れているように感じていた。体調は悪くないが、はやく寝ると3時頃に目覚めてしまったり、遅く寝てみると今度は寝過ごしそうになって、それはそれで、頭が重いまま出勤することになったりする。市庁舎に来ても、じぶんの中に澱んだ油が残っているようで、それが活動をもたつかせる気がしていた。

午後といっても、2時にもなっていない頃で、夕方までの間にまだいくつも案件がある。小さな会議もふたつ入っている。

白崎に、元気そうだね、といった言葉をかけようかと思ったが、うまい言い方が見つからず、結局、用件の報告に対して「はい、ありがとう」と言っただけだった。

白崎伊玖磨が消えたのは、その後すぐのことらしい。

正確に何時頃かは誰にもわからないが、市長室を出た後の白崎を見たものは誰もいない。

白崎が出勤に使う鞄はロッカーに置かれたままだったし、スマートフォンのアプリからの退出時刻登録もなされていない。

開発部市民健康課の三木恵衣子が、島根での妹の婚礼に出席した帰りに買ってきた因幡の白うさぎまんじゅう8個入りのみやげも持ち帰っておらず、白崎の机のわきのデスクサイドワゴンの上に置かれていた。

白崎の家にも、彼が戻った形跡はなかった。

それどころか、いっしょに住んでいたはずの家族全員が消えていた。

白崎には、妻とふたりの子どもがいて、子どもは幼稚園の年少組と小学校2年生だった。

妻の香緖里には、市長も会ったことがある。中堅の女優の誰だかに似た、きれいな人だ、と市長は思ったが、俳優の名を覚えるのが苦手な彼は、じぶんの妻や娘にさえ、白崎の妻の印象を的確には伝えられなかった。

「お父さんって、いつもこれよ」と、娘の美佐子には馬鹿にされた。

「どうして、ちょっとぐらい、いま人気のある女優の名前とか覚えられないかなあ」

 そう言われるたびに、市長は、その方面の人名の記憶力が、じぶんの中では、浅田美代子や樹木希林、黒木瞳ぐらいのところで終わっているのを痛感する。記憶力の衰えというより、じぶんの中での、芸能人の名を記憶する部分が飽食してしまっているような感触がある。

記憶のそうした飽食感は、どのあたりで始まったのか。

入浴中、湯船に浸かり、ぼーっと記憶を遡りながら、考えたりすることがある。

黒木瞳の名はよく覚えていて、ひと頃流行った映画『失楽園』で主役をやった人だと、すぐに自己流のミニ解説が頭に浮かんでくるほどが、テレビドラマのほうの『失楽園』で主役を演じた川島なお美の名は、なかなか思い出せなかったりする。まだ市長になる前、市の商工会長として、イベントで川島なお美を呼んだ際、本人を目の前にして挨拶する時に、どうしても黒木瞳の名しか浮かんでこなくて焦ったことがあった。あの頃から、芸能人名の飽和現象のようなものが、俺の頭には起こっていたらしい、と彼には思えてならない。

白崎伊玖磨と家族の失踪、というべきか、それとも消滅というべきか、それがわかってくるには、数日がかかった。

市長が白崎の顔の肌のつやに若さを感じたあの午後の翌日、白崎は出勤してこなかったが、開発部市民健康課のスタッフたちはあまり重大視しなかった。白崎は無断欠勤したことはなかったが、スタッフそれぞれがその日は忙しく、白崎とともに動く仕事を誰も持っていなかったので、白崎はどうしたんだろうという程度の思いを各人が抱く程度で、一日は過ぎていった。

翌日になって、11時近くになっても、開発部市民健康課課長の席に白崎の姿が現われないとなると、さすがに、スタッフたちが異常を感じ始めた。

開発部市民健康課の次長、島田一郎が、白崎にLINEやメールをしたり、電話をかけてみたりしたが、連絡はつかない。他の部署に聞いてみたり、出勤の有無を人事部に聞いてみたりして、ようやく、白崎伊玖磨の不在が大きなかたちを取り出すことになった。

昼食後に島田一雄が白崎の家を訪問する。二階建てのどこにでもあるような一戸建ての家の門のベルを押しても、家からは反応がなかった。大げさかもしれないが…と危惧しながら、島田は警察に通報し、20分ほどしてからパトカーが到着する。巡査たちもすぐには家には入り込めないので、まずは小さな庭の中に入り、家の周囲を調べてみて、カーテンの閉まっている窓を覗いてみようとしたりしたが、中の様子はうかがい知れなかった。玄関のドアを開けて、家の中に警察が入り込むまでは、さらに数時間を要した。この家が、ある不動産が扱う借家だったことから、不動産に保管されていた合鍵を用いて、鍵を破壊せずにドアを開けることができた。

家の中に入り込んだのは警官二人だが、梶田不動産の桜田と島田一郎も、玄関まで入って中の雰囲気を窺った。

家の中には、なにかの事件が起こったような異常な雰囲気は全くなかったが、別の種類の異常さを、四人はすぐに感じるようになった。

 警官二人は、衝撃的な光景などがないのを確認すると、桜田と島田に家に上がるように促した。そうして、居間や台所、居室のひとつを見せながら、

「どう思います?」

 と島田と桜田に訊いた。

「こちらにはご家族がいらっしゃったんですよね?」

「ええ。奥さんとお子さんふたりが」

 桜田は答えたが、そう言いながら、じぶんの答えが家の中の光景にそぐわないのを感じていた。

「家族で住んでいたようには見えない感じですが、どう思います?

警官のひとり、戸田直之が言った。

「見えませんね」

「というか、人が住んでいたのかどうかも微妙…っていう感じですね」

 島田も言った。

 まるで、人が住む前のがらんどうの物件のような光景が四人の前には広がっていた。






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