2021年5月22日土曜日

寺山修司添削

 

 

大学の短歌の授業で

戦後短歌の中でいまだに唯一人気のある

寺山修司の

おもに初期の歌を紹介したら

ちょっとはピンときた学生らもいたらしい

 

怨嗟路線にあえて突入していく『田園に死す』は

まあ

しょうがないとも言えるが

寺山短歌が俄然つまらなくなって崩壊していく実況中継のような

『テーブルの上の荒野』

見直してたら

やっぱりどうしようもなくヘタで

いつもながらに

添削しちゃったよ

解説付きでね

 

「これらの歌をみてください。


独身のままで老いたる叔父のため夜毎テレビの死霊は(きた)

 

酔いどれし叔父が帽子にかざりしは葬儀の花輪の中の一輪

 

たった一人の長距離ランナー過ぎしのみ雨の土曜日何事もなし

 

亡き父の靴のサイズを知る男ある日訪ねて来しは 悪夢

 

洗面器に嘔吐せしもの捨てに来しわれの心の中の逃亡

 

 どの歌も、ネガティブな印象を出す表現ばかりを集めて作られているのがわかると思います。

もちろん、それなりにうまくできていますが、しかし、初期のどの歌にもあった、偽りのものだとしても確かに気持ちのよい感触、ポジティヴな印象とネガティブな印象を絡みあわせて作られていたからこその、寺山修司の短歌を読むあの楽しさは、もう、ここにはありません。

三首目の「何事もなし」、四首目の「悪夢」、五首目の「心の中の逃亡」など、あえて言わせてもらえば、もうどうしようもないほどの下手くそさで、寺山修司ともあろうものが…という悲惨の極みです。

 寺山修司は1983年に47歳の若さで亡くなりますが、短歌においては、それ以前に死んでいたのではないかと、私は個人的には思っています。

 

 最後に、いま挙げた『テーブルの上の荒野』の歌を、ここで私が即興で改作して、他人の作品から泥棒しまくった寺山修司に向けて、昭和における本歌取りのこの最大の継承者に向けて、敬意を表わしておこうと思います。

 

独身のままに老いたる叔父のために夜毎テレビはテレビを演ず

 

酔いどれし叔父が帽子にかざりしは葬儀の花輪の一輪ならず

 

たった一人の長距離ランナーさえ見えずあたたかきかも土曜日の雨

 

亡き父の靴のサイズに興味なき息子のキラキラネームは「悪夢」

 

洗面器に嘔吐せしもの捨てに行く歌など作るな寺山修司

 

 みなさんも、他人の短歌やその他の作品や仕事や業績などは、自分がこれから作るものにとっての単なる素材に過ぎない、という精神をしっかり持って、縦横無尽に過去の作品や伝統を破壊しながら生きていかれますように。」



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