2021年8月3日火曜日

我に三等の弟子あり

 

 

夢窓国師の遺戒は強烈で

近代の退化した

いわゆる文化やカルチャーなるものを砕く


 

 我に三等の弟子あり。いわゆる猛烈にして諸縁を放下して、専一に己事を究明する、これを上等とす。

(私には3種類の弟子がいる。厳しく修行し、俗世の縁を断ち切って、もっぱら真実の自己を究める、これが上等)


 修行純ならず雑駁にして学を好む、これを中等といふ。

(修行が純粋でなく、雑駁になっていて知識の勉強をする、これを中等という)

 

自ら己霊の光輝を昧して、ただ仏祖の涎唾を嗜む、これを下等と名づく。

(真実の人間性の光を見ずに、昔の覚者の涎や唾など残された教えを好む、これを下等と名付ける。)

 

もしそれ心を外書に酔はしめ、業を文筆に立つる者、これは剃頭の俗人なり。もって下等となすに足らず。

(仏教以外の書に夢中になり、何か書いてばかりいる者、これは坊主頭の俗人である。下等ですらない)

 

いはんや飽食安眠、放逸にして時を過ごす者、これを輜流と謂わんや。

(いわんや、たくさん食べて、好きなだけ眠り、やりたい放題やって時を過ごす者など、出家とは言えない)

 

古人喚んで衣架飯嚢となす。既に是れ僧にあらず、我が弟子と称して寺中及び塔頭に出入りすることを許さず。暫時出入するすら尚もってゆるさず。いかに況や来って掛塔を求むるをや。

(そういうのを昔の人は「衣紋架け」「めし袋」と言った。すでに、これは僧ではない。私の弟子と称して寺のあちこちに出入りするのは許さぬ。ちょっとばかり出入りするのも許さぬ。それゆえ、入門したいなどと言ってくるな)

 

老僧かくの如き説をなす、いふこと莫れ博愛の慈を欠くと。ただ他の非を知り過ちを改めて祖門の種草となすに堪へんことを要するのみ。

(老僧の私はこんな考えなのだ。慈愛の心を欠いているなどと言うな。ただ、他所の間違いをわかっていて、それをちゃんと改め、お釈迦様や昔の偉人たちの後継者を作りたいと思っているだけなのだ)

 

 

どうにか世の中に混じって生きていけるのは

せいぜい

中等までの弟子だろうか

 

それとて

数は少ないわけで

だいたいは

仏祖の涎唾を嗜む者や

心を外書に酔はしめ、業を文筆に立つる者

飽食安眠、放逸にして時を過ごす者

などから

世の中はできあがっている

 

本を読まないことの重要さや

とりわけ

書かないことの重要さを

夢窓国師は

じつに

よくわかっていた





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