Les gémissements poétiques de ce siècle ne sont que des sophismes.
Isidore Ducasse (Lautréamont) Poésies Ⅰ
この世紀、嘆き節やら呻きを詩と呼ぶなんてのは、
イジドール・デュカス (ロートレアモン) 『ポエジーⅠ』
世の中にはいろいろなバカがいるが
本を出したいというバカも
けっこう上位ランクされるべきバカだと思っている
もちろん
どんな商売をやってもいいし
どんな遊びをやってもいいという世の中だから
本を出すという酔狂も
資金さえ潤沢にあるのなら
他人がとやかく言うことではない
どんどんやったらよろしい
出版社も紙屋も印刷屋も潤うし
いろいろな人に送りつけるというのなら
日本郵便も宅配業者も恩恵に与るのだから
たいした慈善事業だとも言える
しかし
そうした業種のために慈善事業をしてやるという以上の
なにか文化的 というか
精神的にすごいこと というか
まさかとは思うが
創造の神の御技の一端をひょっとして担っちゃう?
ついでに儲かっちゃう?
なんていう思いがちょっとでもあったとしたら
あらららら
あわれなことよ
ということになる
他人から見たら
どっちに転んでもただの自己顕示だろ?
醜いなあ
としか見えないのだから
ものを書き散らすのはひとり遊びの範疇だが
いったん本を出すとなると
それはどうしても商品ということになってしまうので
少しでも多く売れなければならない
と いう 回路 の 中 に
入り込むことになる
どうせオレのものなんか売れないんだけど・・・
という卑下した逃げ文句は
商品つくりが始まった時点で許されなくなる
ろくに売れないものを作るというのは
商売上断じて許されないことで
商品である本を出版するというのなら
ある程度は売れる算段をしなければならない
なあぁにい?
少しでも売れようなんて
そんな下卑たことはオレは考えてないぞ
などという考えは
商学や経営学を馬鹿にしている
人界の人間活動を貫く太い線のひとつであるそれらを
端から無視するそういう言い草は
出版という段階に入った時点で許されない
売れないと思えるようなものを出版するのは
商学上の禁忌である
売れないと思えるようなら売れるコンテンツに書き換えないといけ
もし小説を書くのなら『異邦人』だの
『老人と海』以上は
売れそう+商品として長持ちするもの
に仕上げて本にしないと
商売として本を出す目的を満たせない
本にする前にいくらでも内容は弄れるのだから
絶対にやらないといけない
だいたい文芸などというのは嘘八百を書いて
世間を騙くらかして儲けようというヤクザな企画なのだから
ぞんぶんにやったらよろしい
山田風太郎や夢野久作や直木三十五や吉川英治を超えて見ろ
なのである
池波正太郎も加えておかないといかんナ
もちろん
昭和から平成の御代にかけて
ついに村上春樹にもプレヴェールにも小林秀雄にもなれなかった
たくさんのプチプチ文芸家たちを見てきたが
連中はいつも
じぶんの本が売れないとなると
かならず世間が悪いとか
よいものを見る目が無くなってきているとか
まったく近頃の人間は本を読まないとか
お決まりの文句を酒場で吐いて
さらに安酒を注文したりしていた
出版は博打でもあるので
そういう気分もわからなくはないが
まぁ負けたとわかれば
馬券なんかをパアッと撒いて
夜の街の喧騒のむこうへ去っていくのも
博打打ちなりのダンディズムだろう
じぶんの書いたものの質がいいというのを確定事実と勝手に決めて
そうしてお客様の買いの悪さばかり言うのも
かなり格好が悪いものではないか
だって村上春樹は売れているのである
あなたが村下夏樹くらいになればいいだけのことじゃないのか?
林秀雄とか
レヴェールぐらいには
なれそうなものを書いたらいいじゃないの?
いやあ
そんなものはオレの作風じゃぁない
というのなら
本なんぞ出さない
売文商売なんぞしないで
駿河昌樹のようにチマチマと小者として
さびしいさびしいひとり遊びをしていたらよろしい
あまりに哀れすぎて
だぁれも読みもしないし
だぁれもなぁんにも言いもしない
それでも
分をわきまえた
なかなかキレイな遊びかたではある
だいたい
出版したものの全く売れない自著を置いておく倉庫なんぞ
借りないで済むというところが
すがすがしい
本を出すな
と
言いたいわけじゃない
ランボーとロートレアモンをはっきりと超える詩人よ、出てくれ!
斎藤茂吉や寺山修司以上の歌人よ、出てくれ!
カミュ以上の衝撃を手頃な短さで書き上げる小説家よ、出てくれ!
ただ面白おかしい書きものでなく
読んだら人生がはっきり屈曲するような超弩級の衝撃を
与えてくれ!
なぜなら私が大文字の100%の読者だからだ
文字の
形式の
言語配列の
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