柄谷行人の『世界史の構造』は
どんどんと思考を展開しながらも
あまりの論証のなさのゆえに
かえって爽快なところがある
注に参照文献が出ているにしても
紀要論文でこんなのを書いたら
査読ではじめからはじかれるだろう
しかし考察や記述をあつめ
表わそうと狙っているものが
ずいぶん大きなものである場合には
批判したければ読者各自で
いくらでもどうぞという書き方も
理が通っているといえば通っている
国家は支配共同体と被支配共同体の交換(契約)
すでに述べたように、王権(国家)は共同体の内部からではなく、
途中まで「国家」と「共同体」を峻別して
議論を進めていたのに
最後は「国家」を「共同体=国家」としてしまっていて
概念範囲の使用上の矛盾を呼び込んでしまう
大学の論文審査ならばここは集中砲火を浴びせられるところだが
それでも多くの国家論や共同体論を見た上で
なんとかまとめ上げたい気持ちはわかるし
「惜しげもなく贈与し続けなければならない」身振りが
まさにアベシンゾウのものであったことを思えば
十二分に刺激を受け直すことになって楽しい
しかし「鷹揚に贈与」しても
「その富を無くしてしま」いはしないアベシンゾウは
やはり「首長」にとどまっていたわけではなく
彼が「鷹揚に贈与」したのは彼自身の富ではなかったと思うと
ろくに「国家」にもなり得ていない日本ながら
「首長制共同体」にとどまっているわけでもないと思え
奇妙な中間状態を発生させた奇形「共同体」
ともあれこうした論考を読んでいると
「国家」が「共同体」でなどないのは
ひりひりと思い出させられてくることになり
ならば今われわれを包み込んでいる奇怪な人間集合体は
根底からでも端っこからでもいくらでも壊してしまっていいものだ
というロマン主義的な夢想にわれわれを導き直してくれる
もちろん「ロマン主義的」
われわれが直結していくのは島崎藤村などではなく
カール・マンハイムであったり
ナチスの政治学者カール・シュミットであったりする
もちろん実践家としてのルイ・オーギュスト・
*柄谷行人『世界史の構造』(岩波現代文庫、pp.112-
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