2022年2月20日日曜日

ともあれこうした論考を読んでいると

 

 

柄谷行人の『世界史の構造』は

どんどんと思考を展開しながらも

あまりの論証のなさのゆえに

かえって爽快なところがある

注に参照文献が出ているにしても

紀要論文でこんなのを書いたら

査読ではじめからはじかれるだろう

 

しかし考察や記述をあつめ

表わそうと狙っているものが

ずいぶん大きなものである場合には

批判したければ読者各自で

いくらでもどうぞという書き方も

理が通っているといえば通っている

 

国家は支配共同体と被支配共同体の交換(契約)によって成立するのである。(・・・)首長制共同体と国家は異質であり、前者がたんに拡大して国家になるということはありえない。たとえば、部族社会の首長や祭司がどんなに権力を集めても、国家の王になることはない。なぜなら、互酬的原理が執拗に残るからだ。たとえば、首長は富や権力を得るが、それは贈与することによってである。また、その権力を維持するためには、惜しげもなく贈与し続けなければならない。そうしなければ地位を失ってしまう。が、鷹揚に贈与することで、その富を無くしてしまう。結局、特権的な地位は長く続かないのだ。したがって、国家は共同体の延長として成立するのではない。

すでに述べたように、王権(国家)は共同体の内部からではなく、その外部から来る。同時に、それは共同体の内部から来たかのように、つまり、共同体の延長としてあるかのようにみえなければならない。さもなければ、王権(国家)は確立されないのである。その意味で、近代国家がネーション=ステートであるように、古代から国家はいわば、共同体=国家としてあらわれたのである。*

 

途中まで「国家」と「共同体」を峻別して

議論を進めていたのに

最後は「国家」を「共同体=国家」としてしまっていて

概念範囲の使用上の矛盾を呼び込んでしまう

大学の論文審査ならばここは集中砲火を浴びせられるところだが

それでも多くの国家論や共同体論を見た上で

なんとかまとめ上げたい気持ちはわかるし

「惜しげもなく贈与し続けなければならない」身振りが

まさにアベシンゾウのものであったことを思えば

十二分に刺激を受け直すことになって楽しい

しかし「鷹揚に贈与」しても

「その富を無くしてしま」いはしないアベシンゾウは

やはり「首長」にとどまっていたわけではなく

彼が「鷹揚に贈与」したのは彼自身の富ではなかったと思うと

ろくに「国家」にもなり得ていない日本ながら

「首長制共同体」にとどまっているわけでもないと思え

奇妙な中間状態を発生させた奇形「共同体」であったかと考え進めたくなる

 

ともあれこうした論考を読んでいると

「国家」が「共同体」でなどないのは

ひりひりと思い出させられてくることになり

ならば今われわれを包み込んでいる奇怪な人間集合体は

根底からでも端っこからでもいくらでも壊してしまっていいものだろう

というロマン主義的な夢想にわれわれを導き直してくれる

もちろん「ロマン主義的」という形容がひさしぶりに思い出された時点で

われわれが直結していくのは島崎藤村などではなく

カール・マンハイムであったり

ナチスの政治学者カール・シュミットであったりする

もちろん実践家としてのルイ・オーギュスト・ブランキであったりもする

 

 





 *柄谷行人『世界史の構造』(岩波現代文庫、pp.112-113

 





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