2022年4月28日木曜日

モローの遅鈍な生


 

「あの頃が、ぼくら、いちばんよかったよなあ」

とフレデリックは言った。

「そうねえ、そうかもしれないなあ。

ぼくら、あの頃がいちばんよかったよなあ」

とデローリエが言った。

ギュターヴ・フロベール 『感情教育』 

 

 


 

フロベールの『感情教育』は

九月の早朝六時頃に

ヴィル=ド=モントゥロ

という船が

出航しようとするところからはじまる

 

近代文学史上はじめて

映画的描写が言語でみごとに定着された箇所で

すでにフロベール研究の蓮實重彦など

1970年代に絶賛していた

 

多くの物を描き込んで

空間の物的豊饒さを表わそうとする際

フロベールは接続詞で文を繋ぐのを避けて

ワンショットで一光景を撮っては

離れたべつの光景を

また

ワンショットで撮る

カメラをすばやく向け直し続けていくような

そんな描き方を意識的にやる

 

端的に言って

つまりは現代詩の一派そのものの

辛口な言語づかいを

もっと通俗な言語使用法の場であるはずの

小説散文の中で試みていくわけだが

『感情教育』冒頭は

そんな手法がいかんなく発揮された場所で

映画撮影と編集の方法を補助的に想起しながら読むと

うまみがよくわかる文学の名所となっている

なにかというと

接続詞を出して繋いでいきたくなりかねない翻訳作業においては

わかりやすさや

日本語文脈的な親しみやすさを出そうとすると

フロベールの意図と挑戦を

乱暴に無視していってしまいかねない

危険な箇所でもある

 

まあ

そんなところだけ

ちゃんと見ておけばいいだろうと

油断して

ろくに注釈もない版でなんどか読んできて

この船の名についても

べつに気にもしないできたが

ピエール・マルク・ド・ビアズィの校訂した版で*

読み直していたら

ヴィル=ド=モントゥロ(la ville-de-Montereau

という船の名は

la vie lente de Moreau

というアナグラムを含むと註が付されていて

へええええええ

モローの緩慢な生活

とも

モローの遅鈍な生

とも

取れそうな意味あいが

冒頭の出航間際の船の名に仕組まれていて

十八歳の主人公フレデリック・モローの

みずからの幻影に導かれつつの

無頓着な

無気力な

ものぐさな

運命の流れを表わす

とも記されていて

まあ

そこまで断言する根拠はないんじゃないの?

とは思うものの

少しでも

新しい校訂版や注釈版というのは

やはり目を通していかないといけないものだわなあ

またもや思い直した次第

 

 


 

*Gustave Flaubert L’Education sentimentale, éd par Pierre-Marc de Biasi, Le Livre de Poche Classiques,2002.






まだまだ一日は始まってもいない

 

 

毎日とるべき睡眠時間としては

アタマやからだを休ませるためには

七時間とか八時間とかが必要なのだと

こまぎれのネット情報で流れてきたりする

子どもの頃に教わったのとだいたい同じだ

 

あれこれ医学的に考えを盛り込めば

きっとそのぐらい必要なんだろうけれど

毎日規則正しくそのぐらいの時間眠って

その後キリッとちゃんと起きて活動的に云々

などという生活ってできたためしがない

 

なるべく理想的な睡眠時間をとろうと思うが

数日うまくいったかなとよろこび出すと

からだは突然ハチャメチャをやらかす

翌日はやめに出ないといけないというのに

朝方まであれこれ本を見ていたかったりする

 

数日いそがしい外出が続いた後では

あたまやこころは歴然と反旗を翻しはじめ

東の空が明るくなる頃まで元気はつらつになる

そうして朝から出ないでいい日となれば

眠りという生き物は昼ちかくまでのっぺり居座る

 

もっとも朝の五時過ぎてから寝入ったのに

九時頃にはさっぱりとして起き出たり

七時には起きないといけないという日に

五時半頃に寝付いてもけっこう快調に起きたりもする

眠りという友はいまだに謎の多すぎる奴だ

 

思い出すが小学校の低学年の頃は朝が大好きだった

特に学校に行かない日曜日には自然に早起きしてしまい

寝ている親を起こさないように玄関をそっと開け閉めして

馴染みというのにほとんど人のいない近隣を駆けまわり

跳ねたり跳んだりいたずらしまくったりして来る

 

いたずらといってもたいしたことをするのではないが

雑草の葉っぱをひとつかみでどのくらい毟れるかとか

花を付けたツユクサで手のひらを染めまくってみるとか

沼のふちのカエルにしつこく小石を投げてみるとか

見つけた缶をどのくらいうるさく蹴っ飛ばせるかとか

 

そんなことをして帰ってきてもまだ親は寝ていて

朝ごはんまで本でも読むかとおもむろに一冊取りだし

ふむふむと読みはじめたのもつかのま

挿絵に書かれた少女の顔にヒゲを書きはじめたりして

まだまだ一日は始まってもいないと余裕をかましたりするのだ

 





2022年4月27日水曜日

物語なるものの力を

 

 

いまの住まいは

外に出て行くたびにエレベーターに乗るので

乗っているあいだも

エレベーターが来るまでのあいだも

手持ち無沙汰の時間がある

 

はじめのうち

だれもがそうするように

いらいらしながら

あるいは

いらいらを装いながら

待っていたり

乗っていたりしていたが

そのうち

短いが毎日なんどかくり返す

この超小間切れ時間も

利用しない手はないと思い立ち

ポケットに入るぐらいの小さめの本を

いつも持つようにして

エレベータホールで待つ時や

エレベーターに入った時などに

すぐに取り出して読み出すことにした

 

一回ごと本を開けるたび

もちろんたいして読めはしないのだが

それでも毎日数回となると

何ページかは進んでいく

これがけっこうバカにならず

今年に入ってから

いつのまにか

文庫本で三冊ほどの分量を読み終えてしまった

 

だいたい

大部の本をこそ読みたかったりするので

その時にいちばん読みたいものを持って出るわけには

なかなかいかないのが

問題といえば問題なのだが

いつか読んでおくかな

と買い溜めしておいたうちの

なるべく薄いものを選り好みせずに持って出て

エレベーター用本を

エレベーター用読書時間に読む

とあきらめて読めば

そこそこ

発見もあったりするのだから

それはそれ

超小間切れ時間も

まあまあ

有効に使えたことにはなって

良きかな

良きかな

 

しかし

カントの『純粋理性批判』なんかは

読んできたところの微妙な論理の記憶が

次の小間切れ時間までにはだいぶ薄れてしまっていて

エレベーター用本にも

向き不向きが

あるようだなあ

とも感じる

 

複雑かつ多層的ではあっても

物語もののほうが

記憶は薄らがない感じで

物語なるものの力を

エレーベーター時間によって

再認識させられている






魚にはなにかがある

 

 

もう7年や8年ほど前になるのか

体調がわるくもないのに

急に痛風になったことがあって

脚を引き摺るように医者に行って

血液検査したことがあった

 

きっと

いい医者だったのだろう

クセになってしまうから薬は出さない

と言って

レントゲンだけ撮って

様子を把握し

時間が経てば退くはずだ

と診断してくれた

 

実際

数日経つと足の親指の関節の腫れは退いて

その後は問題がなくなった

ビールの飲み過ぎや

レバーや焼き鳥の食べ過ぎなどが原因だと

よく言われるが

けっこう心理的なストレスも原因だし

運動のし過ぎもてきめんに来る

と聞かされて

そう言われてみれば

過度のストレスだらけの十何年だったし

数日前には雨の中をジョギングしてきたし

などと

いろいろ思い当たった

 

後になって

あれこれ考えて思い当ったのは

肉を食べ過ぎていたことも

きっと理由のひとつだろうということ

 

タンパク質を多めにとろうと

毎日のように鶏の胸肉を300グラム以上食べていたが

これはわたしにはよくなかったのだろう

そう思い到った

だいたい

ロクな鶏肉を食べてきていたわけでもない

飼料にはホルモン剤や農薬がいっぱいなはずで

それらもいっしょに摂取している

その頃は

福島原発の放射能汚染水流出を極度に警戒して

日本付近の魚は食べまいと決めていたので

タンパク質摂取のためとなると

自然に鶏肉が増えてしまっていたのだ

 

数年後にもう一度

突然の痛風に見舞われ

それがパリに発つ直前だったので

大いにマイッた

明日の早朝に重いスーツケースを引っぱって発たねば

という前日

キャンセルしようかと本気で悩んだが

脚を引き摺りながらのパリも

一生の思い出になるか

と酔狂な決意をして

出発してしまった

 

結果的には

飛行機に乗っている間に全快してしまって

パリではなんの問題もなく

縦横に歩きまわった

ほうぼうで美食する旅でもあったのに

ぶりっ返しはまったくなかった

 

しかし

帰国してからは

ふだんの食事では

いっさいの肉食を断つことに決めた

ホルモン剤や農薬いっぱいの鶏肉はもう食べない

前からマズイマズイと思っていた牛肉も食べない

かわりに

安めのイワシや

サバや

ブリなど

青魚を主に食べることにした

 

数ヶ月してから感じてきたのは

体調がすごくよくなってきたことだった

加齢のせいかと思っていた

からだの重さや

だるさや

アタマのぼんやり感などが

きれいに消えて

からだが軽くなったし

疲れにくくなった

数歳から十歳ぐらいは若返ったように感じた

 

以後

ずっと

安い魚を食べるのを中心にして来ているが

肉を毎日食べていた頃より

はっきりと

体調も気分もいい

 

この頃

だんだんと確信に近くなってきているのだが

魚にはなにかがある

魚を食べることにはなにか秘密がある

肉ではダメで

魚でなければならない

たぶん

菜食や穀物食でもダメで

魚なのだ

 

そういう気がする

 





2022年4月26日火曜日

酔ってしまう

 

 

うららかに晴れた

初夏に

ほんのちょっと

間のある

午後

 

青山学院中等部のわきを通ったら

歩道沿いのツツジが満開で

つよく

濃く

かおりが満ちて

流れて

酔うようだった

 

藤の花のかおりにも酔わされるが

本気で

豪勢に咲き乱れたとき

ツツジのかおりには

酔ってしまう

 

ほんとうに

酔ってしまう

 

初夏に

ほんのちょっと

間のある

午後

これから

ことしのいいことが

すべて

はじまっていくかのような

暖かさのなかで

 

酔ってしまう

 

ほんとうに

酔ってしまう

 






現像室


 

わたくしはいわば

現像の

ながくながく時間のかかる

気まぐれな

現像室

 

印画紙には

ことばを使用しております

 

何十年も前の瞬間や

飛び飛びの

あれやこれの合成写真が

ふいに

現像され切って

印画されて

できあがってきたり

します

 






あの日のわたしの

 

 

カメラ・オブスクラを

巨大化し

その箱のなかで

外の風景の投影を見る企画が

何年も前

京都の建仁寺であった

 

京都グラフィーの一環だった

 

想像されるものを

まったく超えないという意味で

驚きはなかった

資料的経験のひとつ

という程度だった

 

しかし

雨の降りそうな夕方だった

 

ホテルで降雨の確率を聞くと

今日は曇りますが

雨は降らないはずです

にこやかに

若い女性係員が言うので

傘を持たないで

出てしまった

 

八坂神社から祇園を通って

建仁寺にむかう間も

雲がどんどん黒く厚くなり

ぱらぱら

降り出したかと思うと

止み

建仁寺に着いて

あの広い境内のどこを

どういったら

会場に着くのかと

迷っていると

また

真っ黒な雲が

頭上にひろがり

会場についても

並んでいて

すぐに入れてくれず

外で待っているうちに

また

ぱらぱら来て

それでも

ついに本降りにはならずに

なんとか過ごせたが

 

そんな

雨への不安のほうが

よほど

体感として残る

一夕となった

 

まったく

降るような

降らないような

そんな時は

京都の雨には

悩まされる

 

急ぎ足で過ぎた

八坂神社のなかのあちこちが

暗雲のせいで

やけに暗く

黒くさえ見えていたのが

あの日のわたしの

カメラ・オブスクラ撮影そのもの

だった