2022年9月29日木曜日

おやおや?天下のフロベール先生が?


 

 

フロベールの『感情教育』では

美術商アルヌーの身長を

5ピエ9プス

と示している

メートルに換算すると186センチになり

なかなか背の高い男だ

 

フロベール自身も

181センチあったという

19世紀の作家など

背の低めなのばかりだろうなどと思うと

間違ってしまう

 

181センチもある男が

一字一句に気を使い続ける

あのような彫心鏤骨の物書きを続けたのが

ちょっと不自然なような

ちょっと不思議なような

そんな感じはする

 

私はフロベールを専門に研究したりしていないが

思考という絶えざる脳内編集行為や

ものを書くという点で

フロベールこそ師であり模範としているので

彼の主要作品の原文はつねに身辺に置いてある

身辺にいつも置いてあるからといって

四六時中読み直しているわけではないが

ちょっとした時にページを開く

そうして思考や言語化の操作のしかたを反省する

そういうことは年中やっている

日本語の場合は森鴎外がこれにあたる

 

想像力を無限に焚きつけるには

ランボーやロートレアモンやバロウズなどのほうがいいが

彼らの魅力は思考と生活の平衡感覚を壊すところに発生するので

彼らの時代以上に窒息度の極まった収容所列島社会では

精神にロンメル将軍の冷徹さを保たせてくれる模範を持つに限る

人格としては私はタレイランを選択していて

群を抜く権謀術数のこの大政治家をこの汚濁の世の真の師としているが

思考のしかたや言語の使い方においては

選びに選んだ結果としてフロベールや森鴎外ということになる

もちろん宇治拾遺物語や軍記物や古今新古今なども師ではあるし

謡曲のあの徹底した様式性と言葉使いも等閑にはできない

日本の古典に師とすべき逞しい散文精神が溢れているのも事実である

 

ところで

フロベールの『感情教育』の第4章を読んでいたら

アルヌー家でのディナーの場面で

Il eut mal à contenir son enthousiasme quand Pellerin s’écria :

Laissez-moi tranquille avec votre hideuse réalité !

というところが出てきた

 

ふつう

avoir mal à は「~が痛い」

avoir du mal àは「~するのに苦労する」

といった意味あいになるわけで

フロベールがここで

Il eut mal à

と書いてしまうのは誤用であり

Il eut du mal à contenir

とすべきところだろう

 

おやおや?

天下のフロベール先生が?

と思ったが

Pierre-Marc de Biasiの註によれば*

フロベールはよく

こう書いたのだそうな

 

フロベールが間違って覚えていたのか

それとも

19世紀の『感情教育』執筆頃は

ひろく使われていた表現だったのか

そこまではわからないが

こんなところまで註を付けてくれる現代の校注本というのは

やっぱり

とてもありがたい

 

 



 

Gustave Flaubert L’Education sentimentale, éd de Pierre-Marc de Biasi, Le Livre de Poche, classiques, 2002.







其無正、正復爲奇、善復爲妖

 


読書家というものがたいして信頼できないのは

読書というものが

ナイフや他の武器のような

あつかいのじつに困難なものだからだ

使い手によって

いかようにも効果が変わってしまう

 

老子など

あたりまえに読んでいるよ

という人でも

後半の勘どころの

あの鋭利さを

ちゃんと読んで

他人にサッと伝えてくれたりする人は

じつに少ない

 

たとえば

第五十八章

 

災禍には幸福が寄りそっており

幸福には災禍がひそんでいる

だれがその窮極を知っていようか

 

禍兮福之所倚、

福兮禍之所伏。

孰知其極。

 

そもそも絶対的正常などはないのだ

正常はまた異常になり

善事はまた妖(まがごと)になる

人々がこの相対の道に迷っているのも

まことに久しいことだ*

 

其無正。

正復爲奇、

善復爲妖。

人之迷、其日固久。

 

 

現代においてなら

この第五十八章

第三章あたりに入れ直したほうがよい

 

今の時代でなら

第五十八章だよね

と言ってくれない読書家というのは

まったく

信頼できない

 

 


 

 

*『老子』(蜂屋邦夫訳注、岩波文庫、2008年)





夢が“現実”の意識に流れ込み合流し

 

 

危機は、実際に歴史を揺るがす大きな出来事が起こる少し前に、

人間の心の中に現われる。

  ヤコブ・ブルクハルト

 

 


 

夢は第二の人生である

ネルヴァルは

書いたが

あまりに不正確な言い方だと思ってきた

 

夢が第一の人生である

というのなら

まだしも

 

そこまでいわずとも

夢が人生の根底をなす

ぐらいは

言っておいてよい

 

夢が

目覚めた後の

いわゆる“現実”の意識に流れ込み

合流し

その夢を見る前の意識とは

まったく違うものを成していく

といえば

誰でも納得のいく言い方になるだろう

 

これで抽象的過ぎるというなら

昨日わたしが見た夢を記しておこう

 

朝鮮人たちの処刑の現場にいた

 

顔から判断して

朝鮮人なのか

日本人なのか

中国人なのか

よくわからないというのは

いわゆる“現実”の中でもよくあることだが

この夢の中では

処刑されるのが朝鮮人たちだとわかっている

そうだということが

夢の中のわたしの意識に「わかっている」からだ

 

処刑される彼らと

彼らの処刑を見ているわたしとは

となりあって

いっしょにいる

朝鮮人たちは20人ほどいて

わたしも

彼らと

ほとんど

いっしょにいた

 

わたしと彼らの違いといえば

彼らは殺される

とわたしが確信的に知っていることで

わたしのほうは殺されない

とわたしが確信的に知っていることだった

 

やがて

剣や槍などの刃物を持った兵士の群れが来て

グリーン鮮やかな草の広場で

朝鮮人たちを殺し始めた

刺したり

切ったり

切断したり

刃物でできるかぎりの

ひどい切り殺し方をし続ける

 

草はらのわきの

コンクリートの廊下にわたしは立って

刺したり

切ったり

切断したり

というさまを見続けている

 

刺したり

切ったり

切断したり

しても

人間はなかなか死に切らないものだと

実地にあれこれ見ながら

思った

 

そうはいっても

刺したり

切ったり

切断したり

しているうちに

20人ほどの誰もが弱って

倒れていく

倒れたままになっていく

 

ひどい殺し方だ

なんという殺戮だ

と思いつつ

それでも

こんなに衰弱して死んでいく過程に入ってしまえば

だんだん静かになっていくのか

なにもなかったかのように

雰囲気は平和になっていくのか

と思えた

 

刃物による殺戮が

終わった

 

ひどい光景だったが

静かになった

平和になった

 

平和とは

殺戮の後のことを言うのか

と思った

 

すると

殺戮者たちが

今度は機関銃を持ってきた

 

刺したり

切ったり

切断したり

して

殺し尽くしたと思われた20人ほどを

コンクリートの廊下にならべ

機関銃で連射し始めた

 

コンクリートの廊下は

わたしのいるところだったので

跳ね返った弾は

わたしに当る可能性もあった

 

危ないなあ

こんなところに撃って来るなんて

 

そう思って

廊下から部屋に入り

木戸を閉めた

閉めても木戸なので

跳ね返ったり

逸れた銃弾が戸を撃ち崩してくる

室内にも

いつ飛んでくるか

わからない

 

わたしのほうは殺されない

とわたしが確信的に知っているので

仮に銃弾が室内に飛んできても

わたしはけっして恐れないだろう

と自分の心理を読めていたからよかったものの

そうでなければ

非常に恐ろしい状況だった

 

木戸を閉めているから

外の廊下に並べられている20人ほどの体が

無数の銃弾を受け続けてどうなっていくか

見えるはずはなかったのだが

すでに息絶えている彼らの顔が次々砕かれ

手の指が弾け飛び

腕が砕け散り

腹がスポンジや網のように分解していくのが

わたしの意識にはよく見えていた

まさにそんなところが夢のシステムだった

 

このあたりで

わたしは目覚め

いわゆる“現実”のほうに戻ってきた

枕や布団を確認し

わたしが眠っていたことに

気づき直した

 

こうした

朝鮮人殺戮の夢が

目覚めた後の

いわゆる“現実”の意識に流れ込み

合流し

その夢を見る前の意識とは

まったく違うものを成していく

といえば

いっそうリアルに

誰でも納得のいく表現になるだろうか

 

現に

わたしは今も

あの20人ほどの朝鮮人の殺戮の場面を

克明に意識の中に見続けていて

これを抱えたまま

明日も

あさっても

いわゆる“現実”を生きていくことになる

 

どうして

朝鮮人だったのか

 

現代の服装より

すこし古い時代の服装だったようにも思うが

機関銃の出てきたあたり

20世紀以降の光景だったろう

 

それとも

いわゆる“現実”の中で

これから

どこかで起こる光景だろうか

 

韓国人でもなく

北朝鮮人でもなく

朝鮮人…

 




2022年9月28日水曜日

安倍セゾン


 

「私はもうお了いになった人間です」

ドストエフスキー『罪と罰』のポルフィーリー判事

 

 


 

国会議事堂も

東京タワーも

武道館も

見下ろせる部屋に

たまたま

住んでいるから

何台も飛んでいるヘリコプターが

うるさい

 

国葬

なのだという

 

清水ミチコのショーや

松田聖子のショーや

矢沢永吉ライヴをやる

あそこで

国葬

なのだ

いう

 

なのダ

表記したほうがいいか

バカボンのパパ

みたいに

 

何台も飛んでいるヘリコプターが

うるさい

 

ところで/ところが

 

ヘリコプターの音の下で

スマホでYouTubeを弄っているうち

なぜだか

急に

「二人セゾン」*が出てきてしまった

欅坂46

 

  ♪二人セゾン

二人セゾン

春夏で恋をして

二人セゾン

二人セゾン

秋冬で去っていく

いっしょに過ごした季節よ

後悔は

してないか?**

 

アベシンゾーと

いっしょに過ごした季節よ

後悔は

してないか?

 

してないか?

 

   ♪きみはセゾン

   きみはセゾン

   ぼくの前にあらわれて

きみはセゾン

   きみはセゾン

   日常を輝かせる

 

日常を

きみに輝かせてもらった人たちが

弔辞とか

読んでいるのだろう

2008年には

忌野清志郎が「完全復活祭」を行なった

武道館で

 

ニガヨモギの味のようでも

添加物いっぱいのジャンクフードそのものでも

あらゆる経験は

学び

 

  ♪春夏秋冬 

生まれかわると

わかれ際 

きみに教えられた

 

教えられた

かな?

 

教えられる

かな?

 

  ♪二人セゾン

二人セゾン

春夏で恋をして

二人セゾン

二人セゾン

秋冬で去っていく

いっしょに過ごした季節よ

後悔は

してないか?

 

武道館

見下ろし

くりかえして

聴いているうちに

 

「二人セゾン」

終わって

 

おなじ

欅坂46の

「サイレント・マジョリティー」***

再生は移った

 

偶然が偶然でないこと

“神”の

つねなる介入

……に

気づかされるのは

こんな時

 

  ♪ひとが溢れた交差点を

どこへ行く?

似たような服を着て

似たような表情で

 

群れのなかに紛れるように

歩いてる

だれかと違うことに

なにをためらうのだろう

 

先ゆくひとがふり返り

列を乱すなと

ルールを説くけど

その目は死んでいる

 

ずいぶんと

「サイレント・マジョリティー」は

直截だ

歌商売の中心にある人びとでさえも

70年代や80年代や90年代を滅ぼされて

硬直老化階級差支配今だけ金だけ自分だけの平成の

安倍セゾンに

首をいつのまにか絞められて

茹でガエルされてきていることに

恐れをなしたか

 

  ♪きみはきみらしく生きていく自由があるんだ

大人たちに支配されるな

はじめからそうあきらめてしまったら

ぼくらはなんのために生まれたのか?

夢をみることはときには孤独にもなるよ

だれもいない道を進むんだ

この世界は群れていてもはじまらない

Yesでいいのか?

サイレントマジョリティー

 

どこかの国の大統領が

言っていた

声を上げない者たちは

賛成していると…

 

選べることが大事なんだ

ひとに任せるな

行動しなければ

Noと伝わらない

 

きみはきみらしくやりたいことをやるだけさ

One of themに成り下がるな

ここにいるひとの数だけ道はある

じぶんの夢のほうに歩けばいい

見栄やプライドの鎖に繋がれたような

つまらない大人は置いていけ

さあ 未来はきみたちのためにある

No!と言いなよ!

サイレントマジョリティー

 

若者向けポップスの

ど真ん中で

こんな歌詞がメインの電波に乗っていたことに

あらためて

驚く

 

かつて大人たちに反抗し

群れから外れ

One of themに成り下がるのを嫌悪した

今どきの大人の一部が

ずいぶんと

必死に

今どきの若者たちに

呼びかけている

 

呼びかけている

ふりか?

これも?

歌商売の?

 

若者の

反抗的な一部に

購買層を

開拓するための?

 

何台も飛んでいるヘリコプターが

うるさい

 

あ、

また

“神”の

つねなる介入?

ふいに

思い出される

ドストエフスキー

 

『罪と罰』

ラスコーリニコフを尋問する時の

ポルフィーリー判事

小林秀雄訳で


    「私はもうお了いになった人間です

そりゃまあ感じもあるし

同情もあり

何や彼やちっとは心得た人間かも知れませんが

しかしもうお了いになった人間です

だが

あなたは違う

生きなければならない

問題は監獄にはない

あなた自身にある

あなたに信仰がないのは

私も承知している

しかし大丈夫

生活が導いてくれます

今のあなたには空気が足りない

空気

空気がね」****

 

何台も飛んでいるヘリコプターが

うるさい

 

 




*二人セゾン

https://www.youtube.com/watch?v=mNpPQXMgtmw

 

**歌詞のかなづかいは、適宜、変更して載せてある。

 

***サイレントマジョリテイー

https://www.youtube.com/watch?v=DeGkiItB9d8

 

****小林秀雄「『罪と罰』について」(1948)かなづかいは現代かなづかいに直して引用した。