Je est un autre.
Arthur Rimbaud
ぼくはひとりの他者だ。
アルチュール・ランボー
「私は私である」
などと
馬鹿そのものとして
愚鈍の極みとして
平然と言い放ったり
思い込んでいたりする人間のかたちをした下等動物もいる
しかし
もちろん
「私は私である」
という
認識
は
そもそも最初から
そして
どこまでも
破綻しているので
「私は私である」
と
平然と信じている者は
想定しうるかぎりの最高度に狂っており
精神崩壊している
しかし
そういう狂人を一般人であるかのように扱っている
のが
社会と呼ばれるキチガイ病院であり
社会なるものの不可避的な狂性は
そこからこそ来ている
「私は私である」
わけがない
のは
簡単な事実の提示で即座に証明される
たとえば私の背
たとえば私の内臓や細胞の内部
たとえば発せられた先の私の声
たとえば受けとめられる際の私のまなざし
それらが
私を構成する重要な一部であるのは事実であるのに
私はそれらを絶対に認識できないし把捉できない
つまりこれらにおいて私の認識は崩壊しており
私は私を統括的に把捉できていない
私は原理上私という全体に対する最高認識者でなければならないが
この原理が機能する瞬間は一度としてない
私を統括する私というのは幻想であり夢であるに過ぎず
よって
「私は私である」は成立しない
私にとって
私は
どこまで行っても他者でしかない
他者でしかない者を
私などと呼んでしまうばかりか
私と認識しようとし
私を把捉しようとし
私を統御しようとしてしまうところに
人間のあらゆる錯誤と悲劇と喜劇と無意味さが発生する
むしろ
私を完全に放棄し
私と発語することさえ捨てて
数十年ほど動いて死んでいく動物となるほうが
はるかに幸福な感覚動物として地球滞在をすることができる
ラカン精神分析では
確実に私の一部でありながら
私自身が把捉できないものを「対象a」と呼ぶ
ラカンにおいての「対象a」の代表格は
乳房
糞便
声
まなざし
である
「対象a」は
私の私性を崩壊させるべく
たえず私から発せられる攻撃であり
私に寄生し
私そのものでもある他者性である
ラカンは
「対象a」を
という数式で表わした
人間の精神と存在の本質のすべてが
この数式をめぐる理解によって
はたして
過不足なく表明されたことになるのか
いわゆる神の前に
この数式のみを携えて進み出て
地上世界で
人間なるものを研究して
本質をこのように把捉してまいりました
と言って済ますことができるのか
人間学の考究に勤しむわれわれとしては
課題として
突きつけられ続けている
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