2023年6月1日木曜日

田口まさ

 

 

小津安二郎の映画『晩春』(1949)で

笠智衆演じる父親役の周吉と

杉村春子演じる妹の田口まさが

連れ立って

鎌倉の八幡宮に参詣する場面がある

 

田口まさは財布が落ちているのに気づき

縁起がいいから

と言って胸元にしまい込む

 

そこへ巡査が歩いてくるので

あわてて

逃げていくように急いで進んでいく

 

べつにお金に困っている人でもないのに

ちょっとおかしな行動に見えるが

「縁起がいい」という考えから

しばらく財布を持っていたいということかもしれない

 

人には

小さなものでも自分の所有物にしたい

といった心根も

あるにはあるので

そんな心理が働いたとも見える

 

けれども

この場面を何度となく見て思うのは

気持ち悪い…ということだ

 

見知らぬ他人の財布を拾うなんて

気持ち悪い…

とわたしは思ってしまう

 

まして

胸元にしまい込むなんて…

 

拾った財布にある程度の金が入っていて

それが自分のものになるのなら

得をしたと思う

という考え方もあるだろうし

警察に届けて幾らかのお礼が来たりするのも

得をした

といううちに入るのだろう

 

しかし

財布というのは

どんなものであれ

持ち主の日ごろの思いが向いている物で

非常な執着のある対象でもある

 

そんな財布を拾うということは

持ち主の思いや意識を引き受けるばかりか

執着まで背負い込むことになるので

なんて気持ちが悪い…

などと

どうしても思ってしまう

 

拾得物として警察に届けるから

拾ってしばらくのあいだ保持するというのなら

こちらの気分と財布との間には

人助けや当然の善行といった思いがベールとなって

こちらに財布の波動が染みてくるのを防ぐ

 

映画『晩春』は

のんびりした良き時代の

良き人びとを描いた映画に見えるが

一見すると朗らかな父思いの良き娘に見える

原節子演じる紀子の心の底に

近親相姦そのものの異常なまでの執着があるのが

中盤以降に露呈してくる恐ろしさがある

 

財布を拾って喜び

縁起がいいから…と胸元に入れてしまう

叔母の田口まさのこんな行動も

じつは異常な人間であることをそれとなく示しているのか

などと

思い過ぎたくなってもしまう

 

その程度のことを

神経質に嫌に思うのも

人間社会で生きる上ではどうかしている

と言えるだろうが

潔癖だった志賀直哉あたりだったら

「嫌な気がした」などと言って

お得意の断罪をするかもしれない

 




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