2023年7月26日水曜日

過客


 

月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。

舟の上に生涯をうかべ馬の口とらえて老をむかふる物は、

日々旅にして 、旅を栖とす。

松尾芭蕉 『奥の細道』

 

 


ぼくがいま住んでいるのは

東京のど真ん中の一区画のビジネス街で

皇居も見えているし

国会議事堂も

東京タワーも

つねに見えている

 

いま

これを書いている机からも

カーテンを開ければ

夜の東京タワーのあかりがよく見える

国会議事堂のあかりはもう消されているが

皇居が暗く静まっているのも見える

 

偶然ここに住んでみて

ごく当たり前に

毎日こういう風景が見えるようになってから

じぶんの中からはっきり消えていったのは

どこかに旅行に行きたいという気持ちだった

東京に旅行に来る人たちが見たい風景を

日常的に見ることになってみると

結局じぶんの住まいにいて周囲を眺めるのが

いちばんの絶景なのが実感されるようになった

ほかの土地へ旅行に行くと

ホテルのこの部屋の窓からの風景はいいとか

ちょっと外に出るとあのあたりがきれいですとか

いろいろ勧められたりするものだが

いま住んでいる自室から見る都心のほうが

よほど素晴らしい風景に見えて

風景という点ではもう最高のものを手にしたと言える

 

そんな実感だけで

どこかへ旅行に行こうという気持ちが消滅したのだから

ぼくにとって旅行というのは

ずいぶんと浮薄な泡に過ぎなかったとよくわかった

 

ここに住むようになってから

大げさに言えば

ぼくの思想も感性も完全に変わってしまった

東京はイヤだとか忙しなくてイヤだとか

そういうことを言う人は都心に住んでごらん

と本気で思ってしまう

毎日仕事に出る際や買い物に出る際に

新宿も渋谷も池袋も上野も品川も秋葉原も通過せずに

皇居まで歩いて10分や15分程度で行けるところに

まずは住んでごらん!

と言いたくなってしまう

新宿や渋谷や池袋や上野や品川や秋葉原のような雑踏は

都心には絶対にないのだ

ぼくなんかよりもみんな大金持ちなのだから

本気で住もうと思えば出来ないはずはない

都心まで30分も1時間もかかるところに住むなんて

それはきっと家族や子どもを持つという

価値のない紋切り型の通俗趣味に打ち込んだからだろう

あるいは他人には価値のまるでない仕事を

さも意義のある何事かであるかのように思い込んで

そのために経費をかけるために安い郊外に住むことにしたのだろう

どちらにしてもただの人生上の小さな個人的趣味に過ぎず

そんなことで偉そうに人生を背負っているつもりになるなよな

と思ってしまう

仕事の価値なるものも

認め合い褒め合う仲間がどんどん消えていってみれば

よほど社会のためになる仕事以外は

ほぼ10年で薄らぎ

30年もすれば跡形も残らなくなる

だいたい

すでにあなたがたは

今の時代

すっかり忘れ去られてしまっているじゃないか?

 

なにをしようが

どう生き甲斐を感じようが

そんなことはあなただけの個人的なちっちゃな

かつ時代に制約され過ぎた価値観の中のこと

その価値観のなかで終始駆けずり回って

数十年の人生をじぶんはよく生きた!と思い込むのも勝手だが

あなたがなんと思おうとも

他人も後世も知ったこっちゃない

 

ことしの暑い夏の数十日も

東京のど真ん中の一区画のビジネス街で

皇居も

国会議事堂も

東京タワーも

毎日ごくふつうに見ながら過ごすほうが

ぼくにとってはおもしろいし

いい夏だと魂に刻まれると思う

こんな風景とともに生きていく期間も永遠ではないのだから

ぼくは二度と戻らない瞬間を生きているとよく知っている

二度と戻らないその瞬間に

皇居や

国会議事堂や

東京タワーなどが焼き付けられるのは

ぼくのちょっとした軽佻浮薄なブランド志向を喜ばせる

低レベルの心情かもしれないが

そんな低レベルの心情も永遠ではないから

これも人生の旬の味わいとして

ぼくは楽しんでいるのだ

 






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