蒸し暑くって
イヤになっちゃうような
残暑の暑さを
ペッタラペッタラ
舐め上げ続け
ねめ上げまくりたらして
映画『リング』(中田秀夫、1998)を
日に10分から20分ずつ
ノッタラノッタラ
見直していた
そのことを
自由詩形式で
ちょっと
書いた
竹内結子の
死
のことに
談は及んだ
ついでなので
もうちょっと
『リング』について
書いておく
今度は
核心部分についてだ
『リング』では
貞子の呪いが
貞子謹製特製ビデオを見た人に
かかっていく
ビデオを見終わると
どこからか電話がかかってきて
受話器を取ると
変な音が聞こえる
こわ!
と思って電話を切っても
もう死へのスイッチが入ってしまう
ぴったり一週間後には
テレビが勝手に点いて
ドジョウが出てきて
じゃなくて
貞子が出てきて
こんにちは!
となる
貞子の顔が
あまりに恐いので
誰もが
恐怖に顔を引き攣らせ
心臓麻痺を起こして
死んでしまう
ビデオを見なければいいのだが
万一見てしまった場合
死を免れるには
ビデオをダビングして
他人にも見せる必要がある
見せられた他人は
やはり自分でもダビングして
さらに別の人に見せる
そうしないと
貞子が出てきて
こんにちは!
となってしまう
昔はじめて『リング』を見た時
こりゃあ
生ビデオのすごい販促だナ
と思った
貞子の呪いを避けるためには
日本屋内に限っても
少なくとも
全人口分の生ビデオが買われることになるわけで
こりゃあ
TDKとかソニーとかが
原作者の鈴木光司に頼んだんじゃないか?
と考えた
生ビデオ一本分の金銭の移動が
しっかりと
カスタマーからビデオ制作会社へと移動するわけで
こりゃあ考えようによっては
マルクスあたりが喜びそうなネタだ
と思った
個人としては
生ビデオ一本分ぐらいの出費で
定子の呪いから逃れられるのならば
まあ
騒ぐほどの損失でもない
もっとも
ダビングにはビデオデッキがふたつ必要なので
そこのところの手回しをどうするか
ダビング屋に頼んだら
他人の手でダビングすることになってしまうので
たぶん自分の手でみずからダビングしないといけないはずだから
けっこう手間がかかるだろうが
まあ最悪の場合でも
ビデオデッキをもう一台余分に買うことになる程度で
けっこうな出費ではあるものの
それで生きのびられるなら
まあ安いものではある
きっと
問題はべつの面で発生してくるだろう
貞子ビデオのコピーがどんどん見られていくに従い
このビデオの話は世間に広がっていくから
せっかくダビングしても
そのビデオをだんだん人が見てくれなくなっていくに違いない
「これって、あのビデオでしょ? 見るの、いやだわ」
「そうじゃないってば。かわいい子犬のビデオだからさ」
「そういって騙して見させるつもりでしょ?」
「大丈夫。ぜんぜん違うビデオだからさ」
「とにかく見ないから。持って帰ってよ」
といったような会話が
日本中でひっきりなしになされるはずで
せっかく生ビデオ代を出し
ビデオデッキ代まで払っても
あれよあれよという間に一週間が経ってしまって
貞子が出てきて
こんにちは!
となりかねない
そうなると
『リング』の問題の所在は
《せっかくダビングしたビデオを如何にして他人に見せるか?》
という
セールスマン的
というか
香具師的
というか
そっち方面の課題に移行することになる
これを
『リング』問題の変質
と呼んでおこう
さらに
だ
ダビングしたビデオを
なんとかうまく他人に見せ続けていったとしても
まだ見ていない人の数が
本当に少なくなっていった場合には
見せる側は
見せる相手を探し出すのに
相当な苦労を抱え込むことになる
事が事なだけに
「まだ見てない人! 連絡してください!」
なんていうやり方はできない
見ていない人は
世間をぐるぐるまわっているビデオがどんなものか
もうよくわかっているから
沈黙して
最後に見た者たちが死滅していくのを待つことになる
ここで
『リング』問題はさらに変質し
最後に見た者たちを死滅させて延焼を食い止める方策問題
へと移行していく
ま
このくらいにしておこう
このくらいまで考えてくれば
『リング』は
現代の社会問題や国際問題全般に適応できるような
基本的視座を提供してくれる複合体であることが
よく見えてくる
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