新約聖書の
放蕩息子の帰還のところで
「父」は
行いの良い「兄」に
どう言ったか
兄は父にむかって言った、
『わたしは何か年もあなたに仕えて、
一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、
友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。
それだのに、
遊女どもと一緒になって、
あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、
そのために肥えた子牛をほふりなさいました』。
すると父は言った、
『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、
またわたしのものは全部あなたのものだ。
しかし、このあなたの弟は、
死んでいたのに生き返り、
いなくなっていたのに見つかったのだから、
喜び祝うのはあたりまえである』
「ルカによる福音書」 15・29-32
このたとえ話では
戻ってきた放蕩息子の意味のほうへ
気を取られてしまいがちだが
主軸はあくまで「兄」への教えのほうにある
帰還した「弟」は
ただの触媒にすぎない
神である「父」への不満を
「兄」が述べてしまっているところに
いちばんの注意点がある
「いつもわたしと一緒にい」て
「わたしのものは全部あなたのものだ」と
神である「父」から言われるほどの「兄」は
神である「父」との間にまったく分断がないのだから
神である「父」への不平不満など
一切持つべきではないはずなのに
放蕩息子の「弟」が帰ってきて
それに対して「父」が子牛を屠って祝っただけで
だらだらと
不平不満を述べる体たらくである
この場合の「兄」のように振舞っては
神の全的な受容ができていないことになってしまう
「あなたはいつもわたしと一緒にいるし、
またわたしのものは全部あなたのものだ」と
神から認められてもいるのだから
神がなにをどのようにしようが
「兄」は不平不満なく受容しないといけない
ほかの対し方をしても
神の為すようにしかならないからであり
不平不満を述べたところで
事態は一切変わることはない
そういう地上の掟についての教えが
このたとえ話の中心である
このたとえ話を語る時
イエスは少し迷ったであろう
「兄」と「弟」という言葉を使ったが
「兄」は「あなた」であり
「弟」は「あなた」以外の他人たちであると
つけ加えておこうか
どうしようかと
イエスはこうも迷ったであろう
帰還して祝われたものの
放蕩息子の「弟」はふたたび出て行ってしまったと
この話につけ加えて
要点があくまで
「兄」である「あなた」の意識の持ち方についての教えにあると
もっと明瞭にわかりやすくしておくべきかと
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