2023年11月15日水曜日

ナポレオンのヤッファ攻囲戦


 

 

ふつうの人生では与えられぬほどの

尋常ならぬ規模で

功なり名を遂げ

さらに

巨大なおまけ付きとして

すべてを失って

フランスから追放され

島流しの身となったナポレオンが

弟のリュシアン・ボナパルトに

こう書いている

 

ぼくは人間というもの本性にうんざりしてしまっているんだ。

偉大さなるものにもうんざり。

感情など干からびてしまっているんだよ。

栄光など無味乾燥なものでしかない。

29歳でぼくはすべてを汲み尽くしてしまったのだ。

このあとぼくに残っているのは

ためらうことなく

エゴイストになってしまうことだけさ。

 

中東征服の際

ナポレオン・ボナパルトがガザでなにをしたか

探しかたが足りないのかもしれないが

いろいろ探してみても

あまり詳細には残っていない

 

しかし

ガザから70キロほどの距離で

自動車でなら一時間ちょっとで着く

ヤッファ(いまはテル・アヴィヴに含まれる)では

ナポレオン軍とオスマン帝国軍とのあいだの

壮絶残忍な戦いぶりが記録されている

 

ナポレオンが送った使者は拘束され

拷問され

ひどくいたぶられた後に去勢され

さらには斬首されて

首は城壁に突き立てられた

強力なナポレオン軍はただちにヤッファを陥落させ

ナポレオンは

使者が残虐に殺された報復として

オスマン側の統治者アブダラ・ベイを処刑し

街の徹底的な略奪と女性たちへの強姦を許可した

従軍していたナポレオンの義理の息子

ウジェーヌ・ド・ボアルネは敵軍捕虜の助命を約束していたが

アルバニア人からなる

2440人から4100人といわれるオスマン側の捕虜のほとんど

ナポレオンは射殺したり銃剣で刺し殺させた

徹底した合理主義者であるナポレオンは

報復のために多数の捕虜を殺したのではなく

捕虜を抱えることで軍の力が削がれるのを嫌い

捕虜を解放した際に敵軍の兵力が増強されるのも防ぐ必要があって

多数の捕虜を殺処分するのを選んだのだった

 

ナポレオンの合理主義は

味方であるフランス軍兵士たちにも向けられる

 

ヤッファに近い

フランス軍司令部を置いたラムラでは

伝染病が発生し

フランス軍が壊滅するほどになった

地元住民にも甚大な被害が出た

病気で重体になり

兵力として役に立たなくなったばかりか

撤退の際にも足手まといにしかならないフランス兵たちを

ナポレオンは殺処分する決定をする

致死量のアヘンチンキを傷病兵たちに与えるように求めたが

これには医師団が抵抗し

思いとどまらせた

 

フランス軍が敗退し

パレスチナを放棄した後に

オスマン帝国側についていたイギリス軍が入り

ヤッファの城壁は修復され

その後は

ナポレオンの旧敵のアッコの太守ジェッザー・パシャの支配下に

ながく置かれることになった

 

このあとぼくに残っているのは

ためらうことなく

エゴイストになってしまうことだけさ。

 

じぶんが担当することになった

地上での仕事において

徹底的に合理的に振舞い続けた男の

人生の最後にあたっての振舞い方のポリシーが

この言葉に

凝縮されることになった

のか?





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