ふつうの人生では与えられぬほどの
尋常ならぬ規模で
功なり名を遂げ
さらに
巨大なおまけ付きとして
すべてを失って
フランスから追放され
島流しの身となったナポレオンが
弟のリュシアン・ボナパルトに
こう書いている
ぼくは人間というもの本性にうんざりしてしまっているんだ。
偉大さなるものにもうんざり。
感情など干からびてしまっているんだよ。
栄光など無味乾燥なものでしかない。
29歳でぼくはすべてを汲み尽くしてしまったのだ。
このあとぼくに残っているのは
ためらうことなく
エゴイストになってしまうことだけさ。
中東征服の際
ナポレオン・ボナパルトがガザでなにをしたか
探しかたが足りないのかもしれないが
いろいろ探してみても
あまり詳細には残っていない
しかし
ガザから70キロほどの距離で
自動車でなら一時間ちょっとで着く
ヤッファ(いまはテル・アヴィヴに含まれる)では
ナポレオン軍とオスマン帝国軍とのあいだの
壮絶残忍な戦いぶりが記録されている
ナポレオンが送った使者は拘束され
拷問され
ひどくいたぶられた後に去勢され
さらには斬首されて
首は城壁に突き立てられた
強力なナポレオン軍はただちにヤッファを陥落させ
ナポレオンは
使者が残虐に殺された報復として
オスマン側の統治者アブダラ・ベイを処刑し
街の徹底的な略奪と女性たちへの強姦を許可した
従軍していたナポレオンの義理の息子
ウジェーヌ・ド・ボアルネは敵軍捕虜の助命を約束していたが
アルバニア人からなる
2440人から4100人といわれるオスマン側の捕虜のほとんど
ナポレオンは射殺したり銃剣で刺し殺させた
徹底した合理主義者であるナポレオンは
報復のために多数の捕虜を殺したのではなく
捕虜を抱えることで軍の力が削がれるのを嫌い
捕虜を解放した際に敵軍の兵力が増強されるのも防ぐ必要があって
多数の捕虜を殺処分するのを選んだのだった
ナポレオンの合理主義は
味方であるフランス軍兵士たちにも向けられる
ヤッファに近い
フランス軍司令部を置いたラムラでは
伝染病が発生し
フランス軍が壊滅するほどになった
地元住民にも甚大な被害が出た
病気で重体になり
兵力として役に立たなくなったばかりか
撤退の際にも足手まといにしかならないフランス兵たちを
ナポレオンは殺処分する決定をする
致死量のアヘンチンキを傷病兵たちに与えるように求めたが
これには医師団が抵抗し
思いとどまらせた
フランス軍が敗退し
パレスチナを放棄した後に
オスマン帝国側についていたイギリス軍が入り
ヤッファの城壁は修復され
その後は
ナポレオンの旧敵のアッコの太守ジェッザー・パシャの支配下に
ながく置かれることになった
このあとぼくに残っているのは
ためらうことなく
エゴイストになってしまうことだけさ。
じぶんが担当することになった
地上での仕事において
徹底的に合理的に振舞い続けた男の
人生の最後にあたっての振舞い方のポリシーが
この言葉に
凝縮されることになった
のか?
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