中高年に
山頭火の俳句が人気があるように
山崎方代の短歌も
けっこう読まれていた時期があったが
それももう
十年
二十年
むかしのこと
時代
というものの容貌が
根底から変わってしまった昨今では
どうなのだろう?
大勢のうしろの方で近よらず豆粒のように立って見ている
大きく振りかぶった短歌より
こんなふうに
ポソッとつぶやかれるように言われたほうが
ヒュッと入ってくる
というのが
ことばの表現のふしぎなところ
死ぬほどの幸せもなくひっそりと障子の穴をつくろっている
机の上にひろげられたる指の間をむなしい時が流れているよ
一生をこせこせ生きてゆくことのすべては鼻の先に出ている
寂しくてひとり笑えば卓袱台の上の茶碗が笑い出したり
机の上に風呂敷包みが置いてある 風呂敷包みに過ぎなかったよ
ちょっと
いじけ過ぎている
と
やはり
思わされるときがある
中島みゆき
なんだな
山崎方代も
フォークソングなんだ
「むなしい時が流れている」も
「寂しくてひとり笑えば」も
世俗にむけて伝わりやすい言い方を
ちょっと
安易に選びすぎている
とも思う
「豆粒のように立って見ている」も
かたちに
嵌めすぎている
「豆粒」って
それ
あなたの感想ですよね?
などと
現代なら批判できそう
こういう傾向で行く場合は
饒舌に走ると効果が出て来る
音数の決まっている短歌では
饒舌と言ったって
はじめから限界があるから
左右に揺れる感じを大きく出して
感情を揺り動かす表現を入れていくほかない
そうすると
紋切り型の世俗表現を使った際に出てきがちな
表現の痩せ感を
減らせる
こんなにも湯呑茶碗はあたたかくしどろもどろに吾はおるなり
一度だけ本当の恋がありまして南天の実が知っております
茶碗の底に梅干の種二つ並びおるああこれが愛と云ふものだ
これらが
代表歌とされる理由は
やはり
あるのだ
自嘲も
これらにはない
自己像のマイナス方面への限定も
むなしさごっこも
さびしさごっこも
そうして
「しどろもどろ」
などという言い方の
ことばとしての
おもしろさ
音の楽しさへと
ひとを
ふたたび誘ってくれる
ことば
って
やっぱり
音を口から出す
楽しみだし
音をあれこれ思う
おもしろさ
だよ
なぁんて
思い至ると
ああ
穗村弘になっちゃうのね
たとえば
体温計くわえて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ
「キバ」「キバ」
ねむりながら笑うおまえの好物は天使のちんこみたいなマカロニ
ハーブティーにハーブ煮えつつ春の夜の嘘つきはドラえもんのはじ
サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい
0 件のコメント:
コメントを投稿