2016年11月27日日曜日

それだけのことを



親しかった死者の骨を
ぼくは書斎の机の前に置いている

写真と
位牌と
水器と
線香立ても
いっしょに置いてある

毎日
水を取り換え
線香を焚いて
その人のことを
生かして戴いてありがとうございます
と神道の神に感謝する

それだけのことで
なんの不思議もないが

それだけのことを
毎日
あたりまえに続けていることが
それだけのことを
まったくしない人々とは
まったくの
別世界に
ぼくを生きさせている



やっぱりよくわからないよ



頑張っている
のだという
それが夢なんだ
という
これだけは譲れない
とかいう
どうしてもやり遂げる
のだとかとも

人よ
やっぱり
きみらの思いは
よくわからないよ

どうせ死ぬのに
たゞ
しばらく地上にふらふら居るだけで
どうして
いけないのか

夢とか
頑張るとか
やり遂げるとか
そんな幻の杖なしで
どうして
きみらは立っていられないのか
動かないでいられないのか
陽や月や星を見ているだけでは
満足できないのか

人よ
やっぱり
きみらの思いは
よくわからないよ



ほんとうはひとりも



つまらないのは
人ばかりというわけでもないが

会いたい人などいないし
また会いたい人などいないし
ひさしぶりに会いたい人などいないし
死んだらあの世で
もう一度会いたいという人も

ほんとうは
ひとりもいない



そんなこと


見る
見える
聞こえる
聴く
感じる
思う
考える
動く
する

…それらの直接目的補語を
事細かに聞かされたり
読まされたりしても
うんざりするだけだし
他人にもそんなことはしたくない
報告文や報道文や説明文や解説文なら
そのようなこともするだろうが
それ以外の言葉の使い場所でまで
やる必要はないだろう
そんなこと




2016年11月23日水曜日

今日は大大大大便を垂れなさったか?


  
現実という
いんちきの映像集成から逸脱しようとしていた頃
からだから出て
心や考えからも出て
頭頂がすっ飛んだような感覚になった時
それを感覚しているじぶんも
いんちきの集成体だと即座にわかって

そうか!

感覚する者であるかぎり
あろうとするかぎり
逸脱することはできないのか!

と雷のように知った

悟り
というものがないこと
ありえないことは
その時
つよく知った

悟りがない時こそ
むしろ
“それ”にもっと近い
悟りがなければ
悟ったとか
悟りに近づいたなどとは思わないから
逆に
悟りは近くにあることができる

夢が夢の本質を夢見することは可能か?

夢が覚醒することは正気の沙汰か?

物質は夢
不在は実

内臓に左右されるうちは
ダメだぞ
とアントナン・アルトーなら言うだろう

内臓と糞尿の違いに拘泥しているうちは
ダメだぞ

内臓と糞尿…
しかし
どちらも内臓や糞尿でないものとして
用いている語

「今日は大大大大便を垂れなさったか?」
「今日は大大大大便を垂れまして御座います」

けっこう!
真空もダークマターも
汝の大大大大便にしみじみと睦み入ったで御座ろう




字は魔



じぶんのことがどうでもいいぐらいだから
他人のことなど…

他人などと呼んでみているが
じゃあ
じぶんのことは
自人と呼んだらいいのか

自分という漢字表記もへんなもので
なんで「分」なんだろうと思う
なんで「他分」じゃないんだろうとも思う

他人は「人」で
自分は「分」で
慣れというものはこわい
根本からヘンだというのに
ナンセンスな表記を
平然と使い続けてしまっている

字は魔
使えば使うほど
振り廻され
最後は居士だの大姉だの
いちども馴染んだことのない字並べに
落ち着いていこうとする

字は魔



宇宙から逃れたくて


 
空がすっかり曇ると
地上は布団をかぶった子どものようになり
これからが盛大な
ひとりのお祭りさわぎに
なりそうな

宇宙から
逃れたくて
こんなちっちゃな球に
こびりつきに
来たんじゃ
なかったっけ?