親しかった死者の骨を
ぼくは書斎の机の前に置いている
写真と
位牌と
水器と
線香立ても
いっしょに置いてある
毎日
水を取り換え
線香を焚いて
その人のことを
生かして戴いてありがとうございます
と神道の神に感謝する
それだけのことで
なんの不思議もないが
それだけのことを
毎日
あたりまえに続けていることが
それだけのことを
まったくしない人々とは
まったくの
別世界に
ぼくを生きさせている
頑張っている
のだという
それが夢なんだ
という
これだけは譲れない
とかいう
どうしてもやり遂げる
のだとかとも
人よ
やっぱり
きみらの思いは
よくわからないよ
どうせ死ぬのに
たゞ
しばらく地上にふらふら居るだけで
どうして
いけないのか
夢とか
頑張るとか
やり遂げるとか
そんな幻の杖なしで
どうして
きみらは立っていられないのか
動かないでいられないのか
陽や月や星を見ているだけでは
満足できないのか
よくわからないよ
つまらないのは
人ばかりというわけでもないが
会いたい人などいないし
また会いたい人などいないし
ひさしぶりに会いたい人などいないし
死んだらあの世で
もう一度会いたいという人も
ほんとうは
ひとりもいない
見る
見える
聞こえる
聴く
感じる
思う
考える
動く
する
…それらの直接目的補語を
事細かに聞かされたり
読まされたりしても
うんざりするだけだし
他人にもそんなことはしたくない
報告文や報道文や説明文や解説文なら
そのようなこともするだろうが
それ以外の言葉の使い場所でまで
やる必要はないだろう
そんなこと
現実という
いんちきの映像集成から逸脱しようとしていた頃
からだから出て
心や考えからも出て
頭頂がすっ飛んだような感覚になった時
それを感覚しているじぶんも
いんちきの集成体だと即座にわかって
そうか!
感覚する者であるかぎり
あろうとするかぎり
逸脱することはできないのか!
と雷のように知った
悟り
というものがないこと
ありえないことは
その時
つよく知った
悟りがない時こそ
むしろ
“それ”にもっと近い
悟りがなければ
悟ったとか
悟りに近づいたなどとは思わないから
逆に
悟りは近くにあることができる
夢が夢の本質を夢見することは可能か?
夢が覚醒することは正気の沙汰か?
物質は夢
不在は実
内臓に左右されるうちは
ダメだぞ
とアントナン・アルトーなら言うだろう
内臓と糞尿の違いに拘泥しているうちは
ダメだぞ
と
内臓と糞尿…
しかし
どちらも内臓や糞尿でないものとして
用いている語
「今日は大大大大便を垂れなさったか?」
「今日は大大大大便を垂れまして御座います」
けっこう!
真空もダークマターも
汝の大大大大便にしみじみと睦み入ったで御座ろう
じぶんのことがどうでもいいぐらいだから
他人のことなど…
他人などと呼んでみているが
じゃあ
じぶんのことは
自人と呼んだらいいのか
自分という漢字表記もへんなもので
なんで「分」なんだろうと思う
なんで「他分」じゃないんだろうとも思う
他人は「人」で
自分は「分」で
慣れというものはこわい
根本からヘンだというのに
ナンセンスな表記を
平然と使い続けてしまっている
字は魔
使えば使うほど
振り廻され
最後は居士だの大姉だの
いちども馴染んだことのない字並べに
落ち着いていこうとする
字は魔
空がすっかり曇ると
地上は布団をかぶった子どものようになり
これからが盛大な
ひとりのお祭りさわぎに
なりそうな
宇宙から
逃れたくて
こんなちっちゃな球に
こびりつきに
来たんじゃ
なかったっけ?