見るべきほどのことは見つ
平知盛
春日井健に
死ぬために命は生(あ)るる大洋の古代微笑のごときさざなみ
という歌がある
あらためて意味を取るまでもないが
海のほとりで
寄せ来るさざ波を見ていると
死ぬために命は生まれるものなのだ
と確信する
古代のギリシア彫刻が浮かべている微笑みのようなさざ波が
自分の足元に寄せ続けているよ
といった歌意だ
詩歌はもともと
生きかたの方針を述べるものでもあって
春日井健は
いにしえの詩歌の用い方に
うつくしく
潔く
忠実であった
わたしの場合は
死ぬために生まれるものだ
とは考えないものの
もう
いつ死んでも惜しくない
という心境には
25年以上前に達している
バッハのBWV1055を聴いてから
それも
何度も何度も聴いてから
じぶんの生の頂点は
まさにBWV1055に
まさにここにのみ
ある
と思った
他にも頂点はあるのではないか?
そう思って
バッハのあらゆる協奏曲を聴いたし
彼のほぼ全部の作品も聴いた
とりわけ協奏曲はわたしの好みなので
さまざまな演奏家の録音を
飽きもせず
CDで買い集めた
チェンバロ協奏曲やヴァイオリン協奏曲は
どれも狂人のように好きだが
とんでもない爆発力とシャープさで
トレヴァー・ピノックの1980年録音版が最上と思う
1990年の終わり頃は
一日のうちの数時間はかならず
バッハのチェンバロ協奏曲を聴いていた
音楽鑑賞というような高尚な言い方をする必要はない
あきらかに中毒であり
音楽中毒
チェンバロ中毒
バッハ中毒であった
これが切れると精神が保てない
日に何十回もくり返すBWV1055やその他によって
脳はあきらかに変容した
その後
ふいにベートーベンの後期ピアノソナタに
痛く執着する時期が来たが
28番から32番までのすべてが
澄み切った水のように脳髄に染み込んでいった
バッハばかりだった脳の
変身の時期を生きている実感があった
いまは
BWV1055を毎日聴かずともよくなったが
ときどき聴き直すと
これがわたしの頂点だという思いは
やはり変わらない
なにをしようと
どこに行こうと
なにを達成しようと
どんな悦楽に恵まれようと
BWV1055以上のわたしは
わたしのあり得べき像として存在し得ない
BWV1055に出会って以降の
25年以上のあいだ
出会うものや経験するもののすべてが
いつも嘘くさく
はかなく
軽薄で
さびしく
わびしいものにしか思えなかったのは
どれもBWV1055には及ばないからだった
すでに
じぶんの頂点を経験した者には
すべてが余生でしかない
21世紀に入ってからの時間と空間のすべては
本演奏の終わった後のアンコールに過ぎず
死を待つ家でしかなく
さらに言えば死後の世界でしかない
BWV1055を聴いた!
すでに
何度も何度も
たくさんの演奏家のものを聴いた!
十分に聴いた!
まだまだ聴くだろうけれども
しかし
わたしは聴いた!
平知盛ふうに言えば
「見るべきほどのことは見つ」であり
『夜の果てへの旅』の最後の
ルイ=フェルディナン・セリーヌふうに言えば
「もうなにも語ることはない」であり……
そうして
ボスポルスのパルナケス王に勝利して
「来た、見た、勝った」とローマに書き送った
カエサルふうに言えば
この世に来た!
BWV1055を聴いた!
真のわたしをすでに実現した!
とまで
躊躇なく
わたしは言える
生の目的が
これで
ただこれだけ
ただBWV1055だけで
すべて
成就し切ってしまっているわたしは
ああ!
なんと単純にして
素朴極まる
幸福者であろうか!
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