2023年5月26日金曜日

BWV1055

 

 

見るべきほどのことは見つ

 平知盛

 

 

 

春日井健に


死ぬために命は()るる大洋の古代微笑のごときさざなみ

 

という歌がある

 

あらためて意味を取るまでもないが

 

海のほとりで

寄せ来るさざ波を見ていると

死ぬために命は生まれるものなのだ

と確信する

古代のギリシア彫刻が浮かべている微笑みのようなさざ波が

自分の足元に寄せ続けているよ

 

といった歌意だ

 

詩歌はもともと

生きかたの方針を述べるものでもあって

春日井健は

いにしえの詩歌の用い方に

うつくしく

潔く

忠実であった

 

わたしの場合は

死ぬために生まれるものだ

とは考えないものの

もう

いつ死んでも惜しくない

という心境には

25年以上前に達している

 

バッハのBWV1055を聴いてから

それも

何度も何度も聴いてから

じぶんの生の頂点は

まさにBWV1055

まさにここにのみ

ある

と思った

 

他にも頂点はあるのではないか?

そう思って

バッハのあらゆる協奏曲を聴いたし

彼のほぼ全部の作品も聴いた

とりわけ協奏曲はわたしの好みなので

さまざまな演奏家の録音を

飽きもせず

CDで買い集めた

チェンバロ協奏曲やヴァイオリン協奏曲は

どれも狂人のように好きだが

とんでもない爆発力とシャープさで

トレヴァー・ピノックの1980年録音版が最上と思う

 

1990年の終わり頃は

一日のうちの数時間はかならず

バッハのチェンバロ協奏曲を聴いていた

音楽鑑賞というような高尚な言い方をする必要はない

あきらかに中毒であり

音楽中毒

チェンバロ中毒

バッハ中毒であった

これが切れると精神が保てない

日に何十回もくり返すBWV1055やその他によって

脳はあきらかに変容した

 

その後

ふいにベートーベンの後期ピアノソナタに

痛く執着する時期が来たが

28番から32番までのすべてが

澄み切った水のように脳髄に染み込んでいった

バッハばかりだった脳の

変身の時期を生きている実感があった

 

いまは

BWV1055を毎日聴かずともよくなったが

ときどき聴き直すと

これがわたしの頂点だという思いは

やはり変わらない

 

なにをしようと

どこに行こうと

なにを達成しようと

どんな悦楽に恵まれようと

BWV1055以上のわたしは

わたしのあり得べき像として存在し得ない

BWV1055に出会って以降の

25年以上のあいだ

出会うものや経験するもののすべてが

いつも嘘くさく

はかなく

軽薄で

さびしく

わびしいものにしか思えなかったのは

どれもBWV1055には及ばないからだった

 

すでに

じぶんの頂点を経験した者には

すべてが余生でしかない

21世紀に入ってからの時間と空間のすべては

本演奏の終わった後のアンコールに過ぎず

死を待つ家でしかなく

さらに言えば死後の世界でしかない

 

BWV1055を聴いた!

すでに

何度も何度も

たくさんの演奏家のものを聴いた!

十分に聴いた!

まだまだ聴くだろうけれども

しかし

わたしは聴いた!

平知盛ふうに言えば

「見るべきほどのことは見つ」であり

『夜の果てへの旅』の最後の

ルイ=フェルディナン・セリーヌふうに言えば

「もうなにも語ることはない」であり……

 

そうして

ボスポルスのパルナケス王に勝利して

「来た、見た、勝った」とローマに書き送った

カエサルふうに言えば

この世に来た!

BWV1055を聴いた!

真のわたしをすでに実現した!

とまで

躊躇なく

わたしは言える

 

生の目的が

これで

ただこれだけ

ただBWV1055だけで

すべて

成就し切ってしまっているわたしは

ああ!

なんと単純にして

素朴極まる

幸福者であろうか!

 

 




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