2024年4月30日火曜日

なんといってもベトナム戦争

 


 

  恥かしや亡き跡に、姿を返す夢のうち、

  覚むる心は古に、迷ふ雨夜の物語、

  申さんために魂魄に、うつりかはりて来たりけり

   世阿弥 『忠度』

 

 


 


 

陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地・東武方面総監部で

三島由紀夫が割腹し介錯されて死んだのは

昭和4511251213分頃だったという

享年四五

森田必勝が続いて果てた

享年二五



昭和451213日の毎日新聞にかつて載った

三島由紀夫の解剖所見を読みながら

私はパンを二枚焼いて

イタリアの有名な

ココア入りヘーゼルナッツスプレッド「ヌテラnutellaを塗って

食べた

350g入りの大きめのボトルである

これはふつうのスーパーマーケットでは扱っておらず

カルディで扱っている

イタリアのスプレッドとはいえ

このボトルの裏を見るとオーストラリア製となっており

「ヌテラ」はすでに国際化しているものと見える

輸入は日本フェレロである

 


「ヌテラ」については

かつてイタリアから輸入していた業者と話したことがあった

旧友のイタリア通の溝渕美枝子と

イタリア文化会館のパーティーに出た時

イタリアとの通商を行なっている人々と会い

いろいろな話を聞かされた

イタリア人は「ヌテラ」なしには生きられないと聞かされ

そこまでイタリア生活を知らなかった私は驚かされた

ひとつ外国があれば

そこに繋がって情熱を傾けたり

生計を立てている多くの日本人がいる

この時も

その一端を

二時間ほどだったか

見せられた

 

 

三島由紀夫

十一月二十六日午前十一時二十分から午後一時二十五分、慶応大学病院法医学解剖室・斎藤教授の執刀。死因は頸部割創による離断。左右の頸動脈、静脈がきれいに切れており、切断の凶器は鋭利な刃器による、死後二十四時間。頸部は三回は切りかけており、七センチ、六センチ、四センチ、三センチの切り口がある。右肩に、刀がはずれたと見られる十一・五センチの切創、左アゴ下に小さな刃こぼれ。腹部はヘソを中心に右へ五・五センチ、左へ八・五センチの切創、深さ四センチ、左は小腸に達し、左から右へ真一文字。身長百六十三センチ、四十五歳だが三十歳代の発達した若々しい筋肉。

森田必勝

(船生助教授執刀死因は頸部割創による切断離断、第三頸椎と第四頸椎の中間を一刀のもとに切り落としている。腹部のキズは左から右に水平、ヘソの左七センチに深さ四センチのキズ、そこから右へ五四センチの浅い切創、ヘソの右五センチに切創。右肩に〇・五センチの小さなキズ。身長百六十七センチ。若いきれいな体をしていた。

 

 

私が焼いて食べたパンは

スーパーマーケット「三徳」の調理部門「シェフワールド」製の

「イギリスパン」である

「イーストフード・乳化剤を使用していません」と書かれていて

食パンの中では比較的余計な味が少ないパンで

さっくりと焼ける

スーパーマーケットのパンとしては

良質な部類と思われる

 

 

三島由紀夫の親友で

当時

警視庁の機動隊警備課から離れて人事課長だった佐々淳行は

上司の土田国保から命じられて

陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地・東武方面総監部へ駆けつけた

 

すでに

三島由紀夫も森田必勝も

果てた現場に着いた時のことを

佐々淳行は

こう語っている

 

 

現場に着くと「脈はあるのか、体温は」と、牛込署の三沢由之署長に訊いた。すると「ちょっと課長、来てください。これで息があると思いますか」と言う。宇田川信一管理官の「三島由紀夫の首と胴体の距離、約一メートル」という現場からの無線連絡が最も的確だった。
すさまじい現場だった。赤絨毯の上を遺体近くにすすむと、靴の下がジュクッとした。血を吸い込んでいた。遺体には楯の会の制服がかけられていた。まだ現場検証前だったが、それを外して見た。三島さんはものすごい精神力と鍛えた腕力で、脇腹まで切りまわしていた。日本刀の関の孫六は介錯で前へ流れて床を叩いたのか、ひん曲がっていた。床に三島さんと森田の首が並べられていた。三島さんはすごい形相だった。舌が歯の間から出ていた。首の後頭部が斬り込まれ、切り口はギザギザとして、支えるものがないと転んでしまう状態だった。

(伊藤圭一「文藝春秋」平成131月号)

 

 

三島の首は目を見開いたままだったが

「それではあんまりだということで、現場の写真を撮るときに気丈な自衛官が目をつぶらせてあげた」

とも

佐々淳行は語っている

 

 

私は

パンを食べた後に

ミックスナッツもすこしつまんだ

これは

後楽園のTOKYO DOME CITYに入っているカルディで買ったもので

KALDIの「素焼きMixed Nuts」のBIG SIZE袋であり

「食塩・油不使用」となっている


 

この20年ほどのあいだに

アーモンドやクルミなどを別々に買ってきてつまんでいたのが

だんだんとミックスされたものを買うようになった

ナッツの摂取にも

私なりのなかなか複雑な個人史があるが

そこのところは大胆な省略と編集を旨とする詩歌形式では

語り得ない

垂れ流しのよう饒舌な散文でしか

語ることはできない

 


ところで

KALDIの製品の生産者や販売者を見ると

「キャメル珈琲」と書かれている

もともと喫茶店向けのコーヒーの卸売り店で

妙に私に親近感があるのは

世田谷代田駅にほど近い世田谷区代田2丁目318号に

この店があったためだった

KALDIは「キャメル珈琲」が作り出したブランドで

1号店である下高井戸店の1986年出店以降に店数を増やした

 

世田谷の代田に住んでいた私の視野に

「キャメル珈琲」の名は

知らず知らず入っていたし

新宿に出るのには世田谷代田駅も最寄り駅のひとつだったので

駅周辺の風景の中に

この店名も見ていた


 

KALDIを利用するようになったのは

下北沢店に頻繁に通うようになってからだが

とりわけエレーヌ・グルナックが

下北沢のKALDIを好んだ

彼女は「カルディ・ファーム」と呼ぶのがつねだった

三軒茶屋に私が移り住んでからは

キャロットタワーの1階に入ったKALDI

ほぼ毎日のように見に行く店となった

少し賞味期限の迫った商品をセール販売することが多く

買う予定もないのに

ちょっと立ち寄ったために

たくさん買って帰ることも少なくなった


 

世田谷を発祥地とするKALDIには

私が王子神谷に住んだ期間は遠ざかったが

都心に越してきて後楽園のTOKYO DOME CITYが近くなって

たまたまKALDIを見つけてからは

なにかというと散歩がてらに寄る場所のひとつになった

 


三島由紀夫は

19701125日に死ぬ前に

池袋東武百貨店で「三島由紀夫展」を催した

1112日から17日の短い展覧会だが

幼かった私はこの時

母と東武百貨店に立ち寄り

この展覧会の中を歩きまわっている

子どもにはなんの興味も持てない催しだったが

おとなしく付いてまわった


 

大人たちが集まっているところがあって

隙間から覗くと

バッタに似た丸刈りのオジサンが座っていて

サインかなにかを書いていた

子どもにはつまらない光景だったし

すぐ目の前にいるそのオジサンも

おもしろそうなひとには見えなかった


 

1125日の朝日新聞夕刊には

陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地・東武方面総監室の中に並べられた

三島由紀夫と森田必勝の首の写真が載った

私の家では当時朝日新聞をとっていたので

子どもの私もそれを見たが

この生首がたしかにあのオジサンのものかどうか

そこまでは見定められなかった

あまり鮮明でない写真で

しかも脱ぎ捨てられたかぶり物のように小さい頭だった

 


しかし

子どもの私は

翌日木曜日から

三島由紀夫ごっこをくり返すことになる

先生がいない時の教室で

教壇の上に上がって

なんやかやがなり立てて

教壇の上や

教壇を飛び降りた床に座って

「えい!」

と刀で切腹するふりをして

「おい、介錯しろ!」

と友だちに頼み

頼まれた友だちも気合いを入れた声を出して

「えい!」

と刀で首を切るふりをするのだ

役柄を友だちどうしのあいだで交替しあい

何人かで

飽きもせず切腹し続ける

 


1970年は

こうして

こんな遊びをくり返しながら

終っていったものだった

 


9月13日まで

大阪で万国博覧会が行なわれていた年で

なにかと浮かれた年だったが

万博が終ってしまって

まさに『宴のあと』よろしく

日本中がちょっとさびしく

むなしくなってしまった感じの頃に

三島由紀夫は盛大に後夜祭をやらかしてくれたように

子どもたちは感じた

 


だいぶ経ってしまった現代のひとには想像もつかないだろうが

1968220日から24日の金嬉老事件

1968年から1969年の東大紛争や日大紛争

1969720日から21日のアポロ11号の月面着陸

1970331日のよど号ハイジャック事件

1970315日から9月13日の大阪万博

1970年1125日の三島由紀夫切腹事件

その後の連合赤軍の活動とクライマックスたる

1972219日から28日のあさま山荘事件までは

完全に連続した日本劇場での一連の出し物のように

子どもたちには感じられていたのだ

 


三島由紀夫という人は

どうみても

サービス精神旺盛な

茶目っ気たっぷり

かつ

いたずら精神に富んだ人だなあ

というのは

感じざるを得なかった

 


おっと

忘れてはいけない


 

この時期の最大の出来事は

なんといっても

えんえんと続いていたベトナム戦争だった

1970年までに

民間人を含めてベトナム側は300万人以上死亡し

米軍兵士は58220人死亡し

カンボジア人は27万人から31万人が死亡し

ラオス人は2万から6万人が死亡している

アメリカは大平洋戦争で使った弾薬の2.4倍をベトナムで使い

7200万リットルの枯葉剤を南部の70ha に撒いた

少なくとも1975年までは戦争は続き

毎日毎日戦火のニュースが新聞やテレビで報じられ

ベトナムと比べれば

日本国内のごたごたなど

なんでもないように見えたものだった

しかも当時は

戦争の悲惨を伝える露骨な死体写真や虐殺写真や処刑写真などは

当たり前のように新聞や雑誌の誌面を飾っていた

三島由紀夫の生首写真が不鮮明で

なんだかはっきりしないのを見てがっかりしたのも

ベトナム戦争のたくさんの報道写真に

あまりといえばあまりに負けていたためだった

 


三島由紀夫という人は

ひょっとして

ベトナム戦争の巨大さとニュースバリューに負けまい

としたのではないか?

などと

思わないでもないのだ


 

でも

あんな冴えない生首写真で幕切れとなるのなら

開高健や日野啓三のように

彼もじかにベトナムの戦場に取材に行って

他人の生首をネタにして

高見順の『いやな感じ』を超える戦争ものを書いたらよかったのに

などと思うが

あたまデッカチ過ぎ

こころデッカチ過ぎる彼には

やはり

ムリな相談だったかもしれない






黄帝と広成子

 

 

 

『荘子』外篇

「在宥篇第十一」のなかの話

 

 

天子の位に就いて十九年経った頃

黄帝は

教えを乞うべく

空同山にいた広成子に会いに行った

 

広成子は

至上の道を体得している

と言われていた

 

しかし

広成子は

黄帝をうすっぺらな口先だけの者と難じ

なにも教えなかった

 

拒否された黄帝は

天下の支配を棄てて

静かな庵に

白い茅を敷いて

三ヶ月

閑居した

 

そうして

ふたたび広成子に会いに行き

いかに身を修めれば長生きができるかと

尋ねた

 

この質問は

広成子の気に入ったらしい

 

広成子が答えた

 

「では、そなたに至上の道を説いて聞かせるとしよう。

至上の道の精髄は奥深くてほの暗く

上の道の極致はおぼろでひっそりとしている。

目と耳のはたらきを閉ざして

神を静かに保っていれば

肉体もおのずと正常になろう。

もし静かで清らかな境地を保って

肉体を疲弊させず

精気を動揺させなければ

それで長生きできるだろう。

目で何も見ず

耳で何も聞かず

心で何も感知しなければ

そなたの精神は肉体を守ろうとし

肉体はそこで長生きできるだろう。

内なる心の平静に留意し

なる事物への関心を閉ざすのだ。

知識の多さは滅びのもととなる。

わしはそなたのために太陽の彼方にまで昇り

かの陽の気の根源にまで行きつこう。

そなたのために深く暗い地底の門に入り

かの陰の気の根源にまで行きつこう。

天地にはそれぞれの機能があり

陰陽にはそれぞれの収蔵力がある。

つつしんでそなたの身を守ってゆけば
万物はおのがじし繁栄するだろう。

わしは唯一の道を守りつつ調和に身を処してきた。

だからわが身を修めること千二百歳にして

わが肉体は少しの衰えも見せないのだ」。

 

広成子は

さらに言った

 

「かの至上の道は窮まりないのに

人々はみな終わりがあると思っている。

かの至上の道ははかりしれないの

人々はみな限りがあると思っている。

ただわしのこの道を体得した者が

上は天の王者となり

下は地の王者となるのだ。

わしのこの道を体得できなければ

では日月の光を仰ぐだけで

下では朽ちはて土くれとなるばかりだ。

今もろもろの存在は

みな土から生じて土に返る。

だからわしはそなたを去って

窮みなき門に入り

果てしなき世界に遊ぶことにしたい。

わしは日月と輝きを均しくし

地と生命を共にする。

わしを前にして立てば

至道と一体となり

わしから遠ざかれば

闇に閉ざされるだろう。

人々はことごとく死滅しても

わし一人は生きながらえるだろう」。

広成子は

無為自然の道を体得した寓意的な人物で

老子のことともされる

 

『史記』五帝本紀には

「黄帝西のかた空同に至る」とあり

黄帝が空同山に至ったという説話が

あったことがわかる

 

ともあれ

広成子の教えでは

「目と耳のはたらきを閉ざして

神を静かに保」つことや

「目で何も見ず

耳で何も聞かず

心で何も感知しな」いことに

もっとも重要なポイントがある

社会ばかりか

自然現象もふくめて

地上に展開されるあらゆる現象を棄てよ

ということで

ここまで明瞭に

『荘子』外篇で語られているのが

おもしろい

 

 

 



 

*『荘子』外篇「在宥篇第十一」の訳は、ちくま学芸文庫(2013)の福永光司と興膳宏の訳をいくらか変えて用いた。