2024年5月1日水曜日

だれにも届かないことば


 

 

だれにも届かないことば

というのが

ますます大事になってきている

 

そう感じる

 

スマホだの

タブレットだの

そんなパソコンもどきが

大量に巷に出まわったあげく

ものを書く仕事をしているのでもない

書くのなどそう好きでもないはずのひとびとが

四六時中

ことばを記して送ったり

写真を見たり撮ったり

映像を見たり撮ったりと

まとめて言えば

「表象」っていうやつの

享受だの

作成だの

送信だのに

まことに

いそがしい時代となった

 

ことばやその他の表象には

子どもの頃からかまけていたので

ご多分に漏れず

それらをよく見ているけれども

そうしながら

痛タタタタ!と

痛切に感じるのは

SNSなどでミニことばを書くひとたちが

つねにSNS

SNSという部落に

SNSという世間に

媚びて書いてしまっている

ということ

 

いつも

見てもらおうとしている

読んでもらおうとしている

だれかに届かせようとしている

 

ひょっとして

誤解されるんじゃないか?

過小評価されるんじゃないか?

貶されるんじゃないか?…………

 

そこが臭い

 

かっこわるい

 

ああ、ダサい

 

そんなことでは

ことばは

指先で文字になっていく途端に

想定されるっぽい読み手を相手にした幇間にしか

ならない

あるいは

電波芸者?

 

電子文字や

電子表象を使いながら

そこまでして

幇間になりたいのだろうか?

電波芸者になりたいのだろうか?

いつかは名取りになり

師匠にも

なっていきたいのか?

 

どうして

だれにも届かないような

届いたとしても

どう受け取られても

無視されてもいいような

無責任この上ない

言いたい放題の

わけのわからないことばを

ポイ!と

電子界隈に投げ出したりしないのか?

 

だれにも届かないことば

読まれる気もなければ

理解なんてこの世でもあの世でも

あり得るわけないでしょ?

と悟り切ったところから出てくることば

お化粧もしなければ

語法も文法も適当なことば

かといって

「超越」とか「アバンギャルド」とか

「新しい」とか「すごい」とか

そんな中二病に冒されてもいないことば

 

どうして

そんなことばを

投げ出さないんだか

 

せっかくの

無限の電子界隈だというのに

無限の電子海や

電子森だというのに

 

電気が泣くぜ

電波が泣くぜ

周波数が泣いちゃうぜ

 

 




萬物一府。死生同狀。

 

 

 

『荘子』外篇

天地篇第十二

こうある

 

 

先生がおっしゃった。

 

道というのはな、万物を覆い、かつ、載せるものじゃ。

その大きさといったら果てしがないのう。

君子たる者、心を空しゅうして、それに学ばなければならんぞ。

 

人為を加えずに行なうこと、これを天という。

人為を超えてことばを発すること、これを徳という。

他人を愛してその利益をはかってやること、これを仁という。

不同を同に統合すること、これを大という。

行ないにわざわざ異を立てないこと、これを寛という。
ものごとの多様性をそのまま受け入れること、これを富という。

もちまえの徳を堅持すること、これを紀という。

徳がしっかり確立すること、これを立という。
道に順応すること、これを備という。

外界の諸事によって心を乱されないこと、これを完という。

 

君子たるもの、この十種のことをはっきりと理解するなら、

心にはゆったりとした包容力が出て、

勢い盛んに万物と歩みをともにすることであろうな。


このような人は

黄金などは山中に埋め

珠玉などは深淵に沈めて

財貨など求めず

富貴などには近づかず

長寿を楽しむわけでもなく

早世を悲しむわけでもなく

栄達など誇らず

貧窮を恥じることもないのじゃ。


当代の利をかっさらって私有とすることもなく

天下に王者となっても自己をひけらかそうともしない。

万物は一体のもの

死生は同質のもの

と考えるのじゃ。

 

 

 

夫子曰。

「夫道。覆載萬物者也。

洋洋乎大哉。

君子不可以不刳心焉。

無爲爲之之謂天。

無為言之之謂德。

愛人利物之謂仁。

不同同之之謂大。

行不崖異之謂寬。

有萬不同之謂富。

故執德之謂紀。

德成之謂立。

循於道之謂備。

不以物挫志之謂完。

君子明於此十者。

則韜乎其事心之大也。

沛乎其爲萬物逝也。

若然者。

藏金於山。

藏珠於淵。

不利貨財。

不近貴富。

不樂壽。

不哀夭。

不榮通。

不醜窮。

不拘一世之利以爲己私分。

不以王天下爲己處顯。

顯則明。

萬物一府。

死生同狀」。

 

 

『荘子』も外篇や雑篇に来ると

荘子本人のものではない

われこそは荘子主義者なりと自負する

後世のひとびとの文章ばかりになる

だからあまり価値はない

と考えるひとも少なくないが

ここに載せてみた

天地篇第十二の一節などは

なかなか

おおらかな教えとなっていて

荘子本人の言葉でなくとも

気持ちのいい文となっている

 

こんな一節を

のんびりと読んで

心に響かせたりするひとも

今の世には少ないことだろうから

こんなふうに

即興で訳し直してみて

備忘としてみたりもする






ウッキー! ウッキー!

 

 

 

来るぞ

来るぞ

大災害が

 

と言う合唱に和するわけではないけれども

空気のなかに

崩壊と混乱と虚無が

濃厚に混じり入ってきているのを感じる昨今

さまざまな映像で記録されたあの東日本大震災を

ときどきは思い出しておくほうが

やはりいい

 

こわいのは

大地震などよりも

秩序と平静を特徴としてきた日本を

一気に戦国時代に引き戻すであろう人心の燃えあがりのほうだろう

こちらはもう

抑えようもなく発火が近づいている

 

明治以来の制度に寄生して

美味い汁を吸ってきた者たちが

子どもや家族まで

惨殺されていくのがこれから10年ほど見られるが

そんな光景に恐れをなさないように

冷たく落ち着いた心を保てるようにしておこう

 

なあに

大丈夫大丈夫

世界中の戦乱にも虐殺にも

気持ちをこれっぽっちも乱されずに

平然と無視を決め込んできたニッポン人民なのだもの

この列島内で

ふたたび人間狩りや火つけや強奪が横行しても

おなじ平常心で無視を決め込めば

いいだけのこと

 

ところで

ちょっとメモしておくが

いわゆる人工地震のたぐいや

隕石を落すたぐいの攻撃などしなくても

大規模の停電さえ引き起こせば

容易に大都市の攻略は可能になるので

これからは

こちらの方法が各地で行なわれることになるだろう

……とは

その筋から聞き及んだお話

 

あかりもなくなる

電磁調理器も止まる

エレベーターも動かなくなる

心電図も酸素吸入器も止まる

電話も止まる

トイレの給水装置も止まる

洗濯機が止まる

電車も止まる

入浴施設が止まる

ガソリン給油設備も止まる

テレビも止まる

スマホの給電もできなくなる

あらゆる伝達手段が止まる

水道設備も止まる

人力以外の運送のすべてが止まる

……………………

 

都市生活者は切り立った柱の林立する

岩場に生きるサルのように成るほかなく

腕や脚の筋肉やバランス能力を

早急に発達させるほかには

生きのびる手段はなくなるだろう

なにもかも

神の慈愛にあふれたスパルタ教育と受けとめて

ウッキー! ウッキー!と

楽しみながら

喜びながら

太古の類人猿生活に戻ってみるほかない

 

 

 

https://youtu.be/-PPE72_n48M?si=ButHOcPYHS374gvt

 

https://youtu.be/oRHtF4EzrE4?si=ZB1WaTKqyjYEPYYe

 

https://youtu.be/WFk8nPcvrA4?si=ugazPTXW4_5jqUAY

 

https://youtu.be/0E2Q7kr4L2c?si=IQDjUUN2kuDAhAQ6

 

https://youtu.be/zxm050h0k2I?si=Zjmttpu8MvlvJMIh

 

 

 


押しギリ


 

六月二十五日、朝鮮に動乱が勃発した。

世界が確実に没落し破滅するという私の予感はまことになった。

急がなければならぬ。

三島由紀夫『金閣寺』(1956)

 

 

 


 

切腹した三島由紀夫の首を切り落とす際

三島の首に

四回も

刀を振り当てなければならなかった

 

介錯を任された森田必勝も

うまくいかない森田から刀を引き継いだ

古賀浩靖も

慣れない者が食肉処理をする時のような無様な切り方に

堕していくほか

なかった

 

三島由紀夫の親友で

当時警視庁の人事課長の任にあり

上司の土田国保から命じられて

陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地・東武方面総監部へ駆けつけた

佐々淳行は

三島由紀夫の切腹の時のありさまを

遺体の状態から推察して

このように

想像している

 

腹に突き立てた刃の先が深く体内に押し込められ、

それが膝から上の半身に

痙攣によるはげしい上下前後動をもたらした。

 

時代劇にあるように

きれいにスパッと切れたわけでは

まったくなかったのだ

 

床に残った血の飛沫の跡、

そして

森田に代って介錯した古賀が血を浴びていないことからして、

さいごは押しギリだった可能性がある。

 

刃を引くことで切れる日本刀で

押し切りをして

どうにか首を切断したというのは

一世一代

世紀の切腹ごっこの大団円としては

いかなるものであったか?

 

三島由紀夫のあとに切腹し

頭部切断を求めた森田必勝の場合にしても

 

古賀が介錯した森田は、

最初から刃を包丁のように使っての押しギリだっただろう。

というのだから

情けない

表面上のパフォーマンスにしか意味のあり得ない

“やらかし”なのだから

せめては

本当に首尾よく一太刀で首を落とせる程度に

森田も古賀も腕を磨いてから

決行すべきだっただろう

どうしても急ぐ必要があった……

などというのは

この場合理由にならない

生涯ただのパフォーマーであるに過ぎなかった三島なのだから

視覚的に映像として現出するものにおける完璧さのみを

求めるべきだったはずなのだ