すでに
たくさんの現代日本語を並べてきたので
いつ止めてもよい
特性にはかなり接してきたから
現代日本語は
茄子の表面のカーブのようだと思う時もある
色まで
茄子のあの濃い紫紺色のようだ
と感じもする
明日どこまで
茄子の表面を流れていこう?
とひとりの水滴が思う
そうかい?
ぼくはいつも通りに
架橋の上の
レールをなめらかに走っていくよ
とモノレールは言った
でも
なるべく軋み音を立てないように
明日は
心がけてみようかな?
と
言った
すでに
たくさんの現代日本語を並べてきたので
いつ止めてもよい
特性にはかなり接してきたから
現代日本語は
茄子の表面のカーブのようだと思う時もある
色まで
茄子のあの濃い紫紺色のようだ
と感じもする
明日どこまで
茄子の表面を流れていこう?
とひとりの水滴が思う
そうかい?
ぼくはいつも通りに
架橋の上の
レールをなめらかに走っていくよ
とモノレールは言った
でも
なるべく軋み音を立てないように
明日は
心がけてみようかな?
と
言った
小津安二郎の映画では
作中人物が
カメラにむかってしゃべることがある
その点について
観客であるこちらも
映画のなかに引き込まれるようだ
と言ったり
映画の外のこちらに
しゃべってくれているようだ
と言うひともいる
ちがう
作中人物は
あくまで
べつの作中人物にむかって
しゃべっているので
映画の外にいる観客に
しゃべっているのではない
つまり
観客であるこちらは
作中人物によって発話対象として認められているかのようでも
じつは作中人物において「私」を失っている
観客である「私」は存在を認められていないのである
作中人物のおしゃべりを受けるカメラは
もちろん観客ではないし
「私」ではない
カメラは「私」の無視される構造そのものであり
作中人物の意識に「私」は存在せず
もちろん映画に「私」は在りえようもない
映画を見ることは「私」の不在を見せつけられることであり
さらにいえば
映画は「私」の不在証明だ
若いひとが
幼少期のじぶんが撮られたビデオを見ていると
はたして
ほんとうに実在した時間だったのか
疑問に思うこともある
と言っていた
とても鋭い指摘だと思う
映像の中で
たよりなげに歩いている小さな子
からだの揺れぐあい
なにかを拾って
それを握った手を
カメラのほうに向けるしぐさ
それらは
ほんとうに実在したのか?
ほんとうにじぶんだったのか?
ほんとうに
そこから今のじぶんまで
なにか繋がってきているのか?
たよりなげに歩いて
揺れて
なにかを拾って
それを握った手を
未来
と呼ばれ
未来
と見なすことにされている
カメラの
遠い遠いむこうにいる
じぶん
と見なすことにされている
目に
むけている
その子
文字は
死の国への門であり
読むことは
死そのものである
文字を並べた人物の顔や姿には
まったく興味がない
知りたいと思わない
ただ文字の並びだけがあればよい
そこに人間はいらないし
文字を並べるに至った経緯など
文字の並びの中に
感じとれる程度でよい
古典が素晴らしいのは
文字を並べた人物の顔や姿が
連れ添って来ないから
読むことは
人間から
ひたすら
遠ざかろうとする企てであり
血も
潤いも
温かみもない
しかし
意味のレースの重なりの
夢と印象と概念のミル・フイユの
隙間隙間を
経めぐり続ける
量子化
地代が高いからか
ヘンな高ピーぶりのためか
神楽坂は商品の値段が割高で
ものを買うにも
なにか食べるにも
不快にぼったくられている感が強い
しかし
神楽坂6丁目のスーパー「よしや」や
その向かいの八百屋「丸木屋」には
けっこう安い商品があるので
少し歩いて買い物に行く
キャベツも白菜もレタスも高い昨今
特に「丸木屋」では安いものを売っていたので
よく買いに行った
向かいにある「よしや」は
神楽坂にある店だから高値で売っているだろうと思い
ながいこと入らないできたのだが
今年に入ってふと入ってみたら
意外にも安いものが多く
魚もいいものを売っているし
酒の取りそろえもすごい
これは
ちょっと歩くのに時間をかけても
週になんどか行くべし
と考えを改め
店の「よしやカード」まで作ってしまった
こんなちょっとしたことで
神楽坂に対するイメージが変ってしまうのだから
町というのは不思議なものだ
この「よしや」のとなりには
文悠書店という本屋があるが
じつは数十年のむかし
大学生の頃
わたしはここで3年ほどアルバイトをしていた
レジ係や本の整理や出し入れや掃除まで
なんでもやったが
日曜日などは店頭にワゴンを出して
文具や小物を売ったりもした
当時のこのあたりの人には好かれて
わたしが休んだりすると
「あのお兄さん、今日はいないの?」
などと他の店員が聞かれたりしたという
かつてのバイト先の周囲に
ちょっとながなが歩いてまでして
わざわざ買いに行きたくなるような店があり
神楽坂通りの坂を上って
目白通りまで渡って通っていくことになったわたしとは
「お釈迦さまでも気がつくめぇ」
などという思いが湧いてきてしまう
なんだか奇妙な縁で
学生時代に嵌まり込んでいた歌舞伎のなかの
あの『与話情浮名横櫛』のセリフ
死んだと思ったお富たぁ
お釈迦さまでも気がつくめぇ
よくまぁお主ゃぁ 達者でいたなぁ」
も浮かんでくる
「死んだと思ったお富」ばかりが
どんどん増えて
すっかり世間の様相も
変わりはてたこのご時世のなかに
浮かんでくる
一月も終わりに近くなって
二月が近づいてくる今ごろの季節も
なかなか魅力がある
寒さが募るとはいうものの
水気をふくんで
しっとりした寒さとなっているし
深夜などに耳を澄ますと
冬の終わっていく音が
かすかに聞こえるように感じる
そろそろ咲きはじめそうではあるが
もうちょっとのところで
梅もまだ咲かないのがいい
咲けば見てまわりたくなるので
忙しくなってしまう
いったん梅が咲き出すと
辛夷や木蓮や桜や桃や杏など
次々と咲き出すので
忙しくてたまらない
桜が終わる頃には
柳ももうやわらかな緑に芽吹いて
牡丹や芍薬や藤の時期が来る
あっという間に初夏となり
薔薇も咲き闌けて
夏にまっしぐらに進んで行く
これといって
まだ花の咲き誇らない今の時期の
しっとりした水気と
ひんやり感が
心身をしずめてくれて
とてもよい
地球上の各所では
大事件だの重大事案だのが目白押しというのに
日本列島の中は
中居クンだの
フジテレビだのの
超小ネタを
大ごとであるかのようにゴタゴタさせて
世界に目が向かないよう
盲目にされているかのようだ
中居クンを
時限爆弾として仕掛けておいて
こんなふうに
目くらましとして爆発させて
ニッポンジンの目に
煙幕を張っているんだろうね
そもそも
中居クンと女性とのあいだになにがあったのか
不明確で
中居クンが払ったという9000万円も
本当かどうか不明確だとすると
いったいなんのために騒いでいるのか
わからなくなる
中居クンと女性が示し合わせての
大茶番かもしれない
ともあれ
カメラが入っての
2回目の生会見報道は長々と続き
11%を超える視聴率を獲得したというのだから
フジテレビは今後
問題生会見専門番組になれば
つねに高視聴率を獲得していける道が開けるわけで
ひょっとしたら起死回生のチャンスかもしれない
それにしても
中居クンによって
相手女性が直腸を傷つけられたとか
どうとか
というのを聞くと
ウィリアム・フォークナーの
『サンクチュアリ』を思い出してしまう
「玉蜀黍の穂軸が使われたってのになあ。
この町の連中ってのは
どんな人間なんだろうな、ええ?
あんたたちを怒らせるにゃあ、何をしたらいいんだい?」
ちょっと痛快なのは
中居クンといい
彼のカマを掘ったジャニーさんといい
これまでのニッポンの30年40年以上の精神を染めてきた連中が
みんな性的異常者だったことで
こういう連中に浮かされてきた女子どもや
彼らを利用しまくって
まわりにたかって儲けに興じてきた大人たちの魔界が
ニッポンの核心にして本質であった
ということ
つまり
この30年40年ほどは
ソープランドのただの泡のようなものだった
ということ
このニッポンでは
だれひとり
生きたなどとはいえない
浮薄な泡踊りをしていただけ
ということ
1月20日は大寒だったが
その週は東京周辺では6度から12度
さらには14度ぐらいあって
すっかり春めいていたが
最低気温のほうがぐんぐんと下がって
4度だの3度になってきて
一日の温度変化の中では
すこし寒く感じられる時も増えてきた
2月3日は立春となり
暦の上では春のはじまりとなるが
だいたいこの頃は
一年のうちで
いちばん寒くなると決まっている
そのあたりになると
わが家でも
暖房を入れたりするだろうか?
というのも
この冬もとうとう
一度も暖房を入れないで
今に到っているからだ
夕暮れになる頃
温度が急に落ちて
すこし寒く感じることもあるが
東京では
わざわざ暖房を入れるほどではない
一枚着重ねれば
そんな寒さはやり過ごしてしまえる
夜が進めば
むしろ
寒さは和らぐものでもある
猛暑が極まって酷暑だといわれた
昨年の夏も
わたしはとうとう
冷房を使わないで終わったが
この冬も暖房を使っていないので
冷暖房費はまったくかけていないで
一年を過ごしている
冷暖房を使わないぞ
と意固地になっているわけではないので
使ってもよいし
実際ちょっと使った年もあったが
それでも
冷暖房を使いっぱなしの人たちとは格段の差で
ひと夏に数日とか
一冬に数日程度の使用に過ぎない
わたしからすれば
どうして今の人びとが
四六時中
冷暖房を付けているんだか
わからない
現代の社会を
まったく自分の時代と感じないのも
そんなところに
どうしても
合点がいかないからで
みんな
なにを甘えてんだか……と
どうしても
思ってしまう
日本列島には
大げさに考え過ぎないでいても
どうしたって
大地震や噴火や津波が
これからも襲い続けるのだから
電気も水もガスも下水も食糧も止まった時に
ちょっとでも耐性を発揮できるような
精神と体力と慣れとを
養っておくしか
生きのびる道はない
過度に冷暖房を使い続け
それに馴染んでいく生き方などは
単に滅びの道を邁進しているだけのことだろう
うちは冷暖房をガンガンつけて生きてます
というような家は
親子三代や四代ぐらいが
どの程度
生存していけるか
見ものだろう
冗談ではなく
マジで
甘えていてはいけない
その住まいの洗面所は非常にひろく
6畳以上はありそうで
中央が開けていて
周囲に
流しやトイレが配されている
中央に
水たまりができている
おや?
と思って
どこから水が?
と探すうち
洗面所の窓のむこうに見える河の水嵩が
いつのまにか
ずいぶん増しているのに気づく
洗面所の窓枠の下に
よく見ると
装飾的な隙間がいっぱいあり
ふだんはそこが
換気の役割もしているが
今は
河から流れてきたらしい水が
洗面所の中に入り込む隙間となってしまっている
河の水嵩がさらに増せば
こちらに入り込んで来る水も増えるだろう
洗面所内で留まっていてくれればいいが
廊下にまで溢れてくるかもしれない
さらには家じゅうに
流れていくかもしれない
窓枠の下の隙間を
どうにかして埋めたいと思うが
隙間はいっぱいあり過ぎて
そう簡単には埋められそうにない
どうしたものか?
と考えるうち
スッと意識が覚めていって
見ていたのは
夢だったとわかった
今住んでいるところとは
まったく違うので
自分が経験するかもしれないことでは
ないだろうが
きっと大雨や洪水で
今年
どこかで
こんな経験をする人たちが出るのだろう
その人たちの見るものを
先に見てしまったかな
と思われた