2026年5月6日水曜日

pratitya-samutpada すなわち依存性(縁起)

 

 

 

 

もし本性というものがないならば

変化というものは何ものの変化であろうか?

ナーガールジュナ 『中論』15・9

 

 

 

 

 

ナーガールジュナの『中論』の最初にあるのは

次のような礼拝の詩頌で

仏教哲学内の者にふさわしく

たしかに彼はブッダに対して礼拝しているのだが

ブッダのどの点に重点を置いて

崇敬しているのか

確認しておくべきだろう

 

pratitya-samutpada

すなわち依存性(縁起)。

これは

滅しもせず

生じもせず

断絶もせず

恒常でもなく

単一でもなく

複数でもなく

来ることもなく

去ることもない。

こうしたpratitya-samutpada

すなわち依存性(縁起)は

言葉の虚構を超越し

至福なるものだ

とブッダは説いた。

説法者の中の最上の人

ブッダに

私は礼拝する。

 

言葉の虚構性批判を旨とし

そうした言葉の虚構性による思惟を批判した

ナーガールジュナは

『中論』の第18章の5,7,9では

このようにも語る

 

行為と煩悩の止滅によって解脱がある。

行為と煩悩は思惟から生じる。

それらは言葉の虚構による。

言葉の虚構は空性によって滅せられる。

 

心の対象が止滅する時には

言葉の対象は止息する。

ものの本性は

涅槃のように

生じたものでもなければ

滅したものでもないからである。

 

他のものを通して知られることなく

静寂で

言葉の虚構によって論じられることなく

思惟を離れて

種々性を超える。

これが真実のかたちである。

 

虚構である言葉によっては

知られ得ず

言葉の虚構性によってのみ発生する思惟によっても

もちろん知られ得ず

行為と煩悩の界である現象界の

ありとあらゆる

さまざまなものを超えている

「真実のかたち」に触れ

帰り

浸り

成るには

成り直すには

現象界にあっては

虚構である言葉に虚構を以て対し

言葉の虚構性に依拠する思惟に言葉の虚構性を向かわせ

行為と煩悩の界に意図的な行為と煩悩を重ね

ぶつけていくことで

その界のシステムを中和させ

無化させていくべきだろう

 

これが言語表現の目的であり

極意であり

あらゆる行為の目的であり

極意でもある

 

 




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