『祖堂集』は
現存する最古の禅宗史書とされ
五代南唐の保大十年
すなわち
952年に編集されている
編者は
泉州招慶院の
静・筠二禅徳による
禅が
シャカ以降のさまざまな仏教の展開の後に
ひとつの宗派として出現したのではなく
そもそも
シャカを含む過去の七人の仏から始まっているもので
シャカから始まる仏教よりも
さらに古く
淵源から流れ出してきているもの
と提示しているのが
この書の特徴で
インドや中国の祖師たちを経て
編者の時代までの256人の問答を収めている
この『祖堂集』の冒頭には
「七仏」
という章があるが
ここが面白い
いかにも素直に
この世のすべてや
この世の生のむなしさが
語られている
禅も
仏教も
そもそもは
やはり
この世のあまりのむなしさや
変転のはやさ
出現と消滅のめまぐるしさを前にして
また
そのなかに逃れようもなく身を置いての
驚きと
おそれと
おののきと
無力感から
始まったのだろう
と思わされる
シャカに至るまでの
六人の仏たちの歌「幻人のうた」を
簡単に見ておこう*
第一ビバシ仏(偏眼仏)
わが身は
もともと無相のところより生を受けていて
あたかも幻人が
さまざまの形像を現わし出しているのにひとしい。
幻人は心も意識ももともと空である。
罪も福もすべて空で、
何もとどめようがない。
第二シキ仏(肉髻をもつ覚者)
もろもろの善心を起しても、もとより幻にすぎず、
もろもろの悪業をつくってもやはり幻である。
わが身はうたかたのごとく、
心は風のごとくで、
幻人が現わしだしたものには、
根もなければ実体もない。
第三ビシャフ仏(遍一切自在仏)
地水火風の四つを仮りて、わが身となし、
心ももともと無生で、対象にかかわり合って存在するにすぎぬ。
対象が無くなると、心もまた消えて、
罪も福も、幻のように現われてはまた滅する。
第四クルソン(所応断仏)
わが身に実体はないと知ることが、仏を見ることであり、
心は幻にすぎぬと知ることが、仏を知れる人である。
肉身も精神現象も、もともと空しいものだと悟れる人こそ、
まさしく仏と別なき人である。
第五コナーガマナ仏(金色仙仏)
仏は肉身を見ないでも、仏であると知られる。
真に知があればよいので、そのほかに仏はない。
知恵あるものは罪業の空なることを知って、
心やすらかに生死を怖れることがない。
第六カッサパ仏(飲光仏)
生きとし生けるものは、本性がすべて清浄である。
はじめから無生であるから、滅すべきものはない。
この身そのものが幻のように生じたもので、
幻の変化のなかには、罪も福もない。
第七釈迦牟尼仏(シャカ族出身の聖者)
幻の変化には、原因もなければ生ずることもない、
それらはすべて自然であって、
そんなふうに見えているにすぎぬ。
存在はすべて、
自から幻のように変化して生まれたのでないものはない
のであり、
幻の変化は生まれたものでないから、
何の畏れるべきものもない。
『祖堂集』冒頭の
これら
「七仏」の歌を読んでいると
旧約聖書の
あの「コヘレトの言葉」の響きが
すぐに
思い出されるだろう
文化的な接触が
どこかであったに違いない
シルクロードを通じて
伝わってきた「コヘレトの言葉」を
『祖堂集』の編者たちは知っていたかもしれないし
もっと古くに
仏教世界と旧約聖書世界は
文化的に相互に認識しあっていたかもしれない
「コヘレトの言葉」を
これも
はじまりの部分だけだが
抄出して
思い出し直しておこう
コヘレトは言う。
なんという空しさ
なんという空しさ、すべては空しい。
太陽の下、人は労苦するが
すべての労苦も何になろう。
一代が過ぎればまた一代が起こり
永遠に耐えるのは大地。
(……)
何もかも、もの憂い。
語り尽くすこともできず
目は見飽きることなく
耳は聞いても満たされない。
かつてあったことは、これからもあり
かつて起こったことは、これからも起こる。
太陽の下、新しいものは何ひとつない。
見よ、これこそ新しい、と言ってみても
それもまた、永遠の昔からあり
この時代の前にもあった。
昔のことに心を留めるものはない。
これから先にあることも
その後の世にはだれも心に留めはしまい。
(……)
わたしの心は知恵と知識を深く見極めたが、
熱心に求めて知ったことは、
結局、知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎないということだ。
これも風を追うようなことだと悟った。
知恵が深まれば悩みも深まり
知識が増せば痛みも増す。
(……)
*『禅語録』(世界の名著18、中央公論社、1978)の柳田聖山訳によった。
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