2012年12月9日日曜日

成人世代  [本歌取り]


[中島みゆき作詞作曲『成人世代』の本歌取り]



(序歌)

夢やぶれ
いずこへ帰る
帰る夢
帰る夢さえやぶれゆく
わが生はすでに真夏を過ぎき


(本歌)

手をのばせば届きそう
あいかわらず
テレビの歌のうたう夢
雑誌の折り込み
電車のポスター
不幸なのはじぶんだけ
みんなみんな幸福そうで
ちきしょう火つけたるべえと
マッチ擦る
つかのま海に霧深し
身捨つるべき祖国はありや
ねえや、やっぱり
しらけてく
春夏秋冬じんせいの
ただに過ぎゆく
浮き世なるらし

(反歌)

寂しさのきらら生きむか木枯らしのこころ澄みゆく世紀の末を




*中島みゆきの詞句と寺山修司の短歌との不倫あり。そこにもちろん駿河が加わっている。すなわち3P。注意されたし。


参考動画




◆この本歌取りは、1995年に書いたもので、個人雑誌『Nouveau Frisson』42号に掲載した。多少の修正を施した。

◆「夢やぶれ / いずこに帰る」という歌詞は印象的で、なんとなく口ずさんでいる時期があった。若い若い頃で、まだ、ろくに夢を定めてもいないのに、先んじて「夢やぶれ…」と口ずさむ快感を覚えていた。
彼女の歌には、もとを糺せば『王将』などにすぐに遡れるような演歌調のサビが必ずあって、それが、いつまでも古い心情を持ち続ける日本人の耳にこびりつく。曲調は違うが、ようするに演歌なのだ。演歌というのは、さらにもとを糺せば、農耕歌のようなもので、心の苦労を抱えて鬱屈しそうな時でも生活を進めるための励ましの歌であり、近代社会の中での感情生活推進の作業歌である。中島みゆき、すなわち、土俗。こういう印象をむかしから持っているが、もちろん、これは悪い意味で言っているのではない。
 大学の頃、友人の引っ越しを手伝っている時、アパートの隣りの学生が中島みゆきを延々と聴いていて、それがずっと聞こえていた。そんな時代だった。中島みゆきか、荒井由実か、という時代だった。いつもいつも時代は「右傾化の危機」にあり、社会に事件は絶えず、殺人も大事故も絶えず、実際には、いまとなにが変わっていたわけでもなかった。
 中島みゆきのものでは『蕎麦屋』がいいが、なかなかベストアルバムのたぐいには入らず、Youtubeにも本人の歌唱は載らない。いまや、ネットで容易に見つかる歌こそが生きのびる時代になったのに、歌謡曲の世界があまり管理をきびしくしていると、がっさりと忘れられていくぞ、と思う。ファンはともかく、ふつうの若者たちには、もう関係のないむかしの歌手、と映っている。損して得取れ、でいくべきなのに、商売が下手な業界である。



2012年12月8日土曜日

悲しくてやりきれない [本歌取り]

 [サトウ・ハチロー作詞 / 加藤和彦作曲 / ありたあきら編曲 / ザ・フォーク・クルセダーズ『悲しくてやりきれない』(1968)の本歌取り]



かなしくて
かなしくて
とてもやりきれない
こころの
森ふかくの沼を
ふかくふかく
もぐって
もぐって
とうとう詩へむかったと
言い伝えておくれ
もつれた夢の
かなた行く
白い雲よ
空よ
かがやきよ





参考動画
加藤和彦+北山修+坂崎幸之助ヴァージョン2002
沖縄三線ヴァージョン 城南海+坂崎幸之助植村花菜ほか
オダギリジョー・ヴァージョン
奥田民生ヴァージョン
カラオケ風ヴァージョン
「あの素晴らしい愛をもう一度」 加藤和彦+北山修+坂崎幸之助ヴァージョン2002
「童神」城南海+古謝美佐子 佐原一哉




◆この本歌取りは、1995年に書いたもので、個人雑誌『Nouveau Frisson』42号に掲載した。

◆サトウ・ハチローは、たとえば、まどみちおなどのように、数少ない近代日本の完璧な詩人のひとりであり、彼の歌詞の翻案をするのは僭越もはなはだしい。本歌取りということなら許されるだろう。
 完璧な詩人とはなにか。詩を文学によって暗めたり、汚していない人ということである。詩歌といえばすぐ「文学」を連想し、それと連動させるようにと、まだまだ多くの近現代日本人が洗脳されてしまっているが、詩ほど「文学」と正面切って対峙する言語配列もない。詩は逸脱、逃亡、流出、溶解、韜晦などのそぶりをつねに本質とする自由そのものの永久運動であり、固着や権威化の強硬な傾向を本質とする「文学」とはまったく相いれないものである。 
 この歌の彼の歌詞はすべてを伝え切っており、変更すべきこともないし、いじるべきところもない。そのため、あくまで原詩の不朽の存在感を前提として、そのあとに余韻のようにつぶやくような言葉を並べるのがふさわしい。本歌取りが、軽く、言い過ぎない短いものにされたのは、こういう事情があったからだ。

◆今になってみると、加藤和彦が2009年に62歳で自殺してしまっていることが、やはりいろいろと感慨を呼ぶ。鬱病だったというが、傍から見れば幸福と安楽の人生高原にいるかのようだった彼にして、自殺。
鬱病とはそういうものかとも思わされるが、しかし、ポップスに魂が飽いたのではないか、とも思う。いつまでも軽音楽に浸っているわけにはいかない、と強く動くものがなかったか。動くためには、とりあえずは、今の心身と生を脱ぐことから始めたらどうか、と決断したものがなかったか。… 自殺はつねに創造的なものだからである。自決とか、自裁とか、禊と言ってもいいだろう。自分から死に向かう行為は、生をないがしろにする行為でもなく、生を粗末にする行為でもない。生と死と自死の糸のからまりは微妙で、粗雑なヒューマニズムふうの無思考的思考では全く掬いきれない。

Youtubeには『悲しくてやりきれない』のいろいろなヴァージョンがあり、それぞれに面白い。聴きやすいものが欲しい時にはオダギリジョーのものもいいし、奥田民生のぶっきらぼうな独自性もいい。しかし、城南海が加わっての沖縄三線ヴァージョンは特にいい。沖縄の心情の流れにとても合うところのあった歌だと気づかされる。

◆『悲しくてやりきれない』をときどき思い出して感じるのは、(…この歌がそこまで到っているとは全く言えないものの、しかしながら、そこへの指差しにはなっていると思えるのは…)、日本の哀しみとさびしみは美しい、ということである。
われわれは、けっきょく、日本の哀しみとさびしみに帰って行けばよい。
たとえば深山の闇、そこに降る雪や雨に、人界の知も方位感覚も失っていくような底知れない滅びと孤独の感覚、その先の先にさらに無限に続いていくような哀しみとさびしみの中に、体も心も引きちぎれて、ほつれて、散っていくのが、われわれ皆の辿っていく避けられない行く末であり、これを救いと思えるようになるほかには、われわれの魂に救いのようなものはない。
 たぶん、この国においては、この哀しみとさびしみを心に蔵して喜びとすることをこそ、愛国という。他にはないように思う。



2012年12月7日金曜日

花嫁 [本歌取り]

[北山修作詞 / 端田宜彦・坂庭省吾作曲 / 青木望編曲 / はしだのりひことクライマックス『花嫁』よりの翻案]

参考動画・音楽




なにもかも捨ててきた
と思うことの
こっけいさ
賭けたり
燃えたり
という修辞に馴染んだ
いのちという語
それこそ捨てて
走るべきなのよね
花嫁
なんて
ばかみたい
野菊の花束と
あのひとの写真なんて持って
夜明けの町へ
夜汽車で走るのに
酔ってたあたし
ばかみたい
あのひとも捨てよう
酔ってたこころも捨てて
故郷も親も理性も計画も安定も
捨てたんだもの
ついでよね、この際
捨てちゃおう
あたしも捨てちゃおう
いのちも捨てちゃおう
汽車が速くなったわ
ドアどっちかしら
あたまから飛ぶんだ
気持ちいいだろうな、この音
がきっ、と砕けて
捨てるんだ、そのとき
せかいぜんぶ
うちゅうだってぜんぶ




◆子供の頃の流行り歌の中でも、『花嫁』は印象深い歌のひとつだった。
「♪花嫁は夜汽車に乗って嫁いでいくの…」と始まる劇的な歌詞は聞きやすく、子供にもわかりやすく、曲もピッタリで、「♪命賭けて燃えた恋が結ばれる」瞬間に向かって夜汽車で急ぐ花嫁が“かっこよかった”。「♪帰れない、なにがあっても。心に誓うの」なんて、なかなか思う機会はないだろうな、と子供心にも思ったものだが、自分でも、嫁いでいくわけではなくても、「♪帰れない、なにがあっても。心に誓うの」なんて言う機会がないものかな、と家と学校と遊びのくりかえしの日常の中できょろきょろ探してみたものだった。
いまでもいろいろな部分を思い出して、心の中で曲を追ってみたりするし、たまに懐メロ気分になると掛けてもみる。ただ、全曲を最初から聴いてみると、『花嫁』はたしかにまだいいほうだとはいえ、この時代の若者たちのものは悠長すぎて、思わせぶり過ぎて、そのままでは聴いていられない。ほんの数分の曲なのに、もったらもったらし過ぎていて、早回ししてサビの部分だけを聞いていたりする。悠長な流れを楽しんで聴いていられるのは、(もうちょっと時代は古いものの)、媚態たっぷりの園まりの『逢いたくて逢いたくて』ぐらいのものだ。
もちろん、時代だけでこの「もったらもったら」感は語れるものではなくて、いつの時期のものであれ、さだまさしの「もったらもったら」ぶりは我慢できない。たいしたこともない感傷性を生むのにあんなに悠長にひっぱられても困る、といつも思う。さだまさしが、さだまさし的なるものが、悪いけれど、本当に、本当に嫌いなのである。歌が始まる前から、もう飽きてしまう。
フリードリッヒ・ヴィルヘルム・シュヌアー演奏のベートーベンのピアノソナタ第28番の第2楽章や、第29番の第1楽章のような瞬発力のない曲は、正直なところ昔から堪え難かった。もちろん、バッハの『イタリア協奏曲』の、これはやっぱりグールド演奏のあの第3楽章の爆発的な生の輝きのさまでもいいし、もっと優しげながらもメンデルスゾーンの第4交響曲《イタリア》の第1楽章のいきなり頂点!感のようなのでもよい(『イタリア』は、アンドレ・プレヴィンのものもよいかもしれないが、フランス・ブリュッヘン指揮の18世紀オーケストラの古楽器演奏のものがいい音を出している)。
あえて「もったらもったら」感で勝負しようというのなら、ワーグナーで来てくれ、とやはり思う。これでもかというほどの長いながい演奏のクナッパーツブッシュによる『リエンツィ』序曲など、恍惚と打ち震えんばかりの「もったらもったら」感である。


参考動画・音楽(文中の演奏者のものは見つからないことが多いが、グールドとクナッパーツブッシュは見つかった)

園まり「逢いたくて逢いたくて」
ベートーベン ピアノソナタ28番第2楽章
ベートーベン ピアノソナタ29番第1楽章
バッハ イタリア交響曲 第3楽章 グレン・グールド演奏風景
バッハ イタリア交響曲 第3楽章
メンデルスゾーン 交響曲第4番《イタリア》 ジョージ・セル演奏
ワーグナー 「リエンツィ」序曲 クナッパーツブッシュ演奏
ワーグナー 「リエンツィ」序曲 レヴァイン演奏


◆この翻案は、1995年に書いたもので、当時ひとりで作っていた雑誌『Nouveau Frisson』42号に掲載した。オウム事件後の、裂け目があっけらかんとできたような日本であり、東京。そんな中で、古い歌謡曲の翻案になぜか夢中になっていた。捨てても捨てても、逃げても逃げても、後から後からこびりついてくるような交友や遊びが多過ぎ、忙し過ぎ、今から思えば個人的に人生の頂点のひとつにいた時期だった。
 翻案はあの頃の心境の中でやはりなされていて、「なにもかも捨ててきた/と思うことの/こっけいさ/賭けたり/燃えたり/という修辞に馴染んだいのちという語/それこそ捨てて/走るべきなのよね」などと書いたり、「酔ってたあたし/ばかみたい」などと書いていながらも、今から見れば、ずいぶん「酔ってた」時期だった。だいたい、精神的な事柄について、捨てるべし、とか、酔うのはだめだ、とかいう方向でものを考えたり書いたりするというのは、つまりは若いということである。捨てようが、持ち続けようが、酔おうが覚めようが、そんなことはどうでもよい、そういうことが、若いとわからない。生のフォーカスを向けるべきところを絶えず間違う。
 …で、今はわかるようになりました、などと言ってしまうほど、私は人はよくない。だいたい、それなりに辛苦も退屈も延々と経ながらわかったことを、簡単に無料で書いてなどやるものか。人にはいつも嘘を言っておけばいいのだし、真実を言おうにも私自身の頭も心も舌もまちまちの勝手な方向に動くだけで、言えたためしがない。だからこそ、嘘でもいいから真実を捏造したいもの、とも思う。とりあえず、いくらかは若くなくなる…というのは、こういうことでは、ある。



2012年12月6日木曜日

クロチルド・ド・ヴォ…*


 

《内心つよく感じている狼狽をまき散らすなんて
偉大な心にはふさわしくないこと…》**

クロチルド・ド・ヴォ…

オーギュスト・コントに熱愛されたが
結核で早逝した女

大言壮語のロマン主義の時代のさなか
なかなかに
決然たる控え目さの
称揚

あのコントを
神秘主義に導こうと努めたらしいが…

しかし《偉大な心》という思いは
偉大な心には
ふさわしくない…

クロチルド・ド・ヴォ…

三十で死んだ
まだ若かった女よ
心が偉大である必要はない…

《偉大》などという表現を
自分に着せようともしないことだ…

控え目さを
いかに謳おうとも
大言壮語のロマン主義から
ついに脱せなかった女…

クロチルド・ド・ヴォ…

コントのほうが
はるかに先へ行った、ということか…

神秘主義、…?
実証主義、…?

先へ行く、
とは、
どういう、こと?…

クロチルド・ド・ヴォ…





*Clothilde de Vaux (1815-1845)
**Il est indigne des grands coeurs de répandre le trouble qu’ils ressentent.



2012年12月5日水曜日

もう、だめ



 
つよがりはけっこう得意で
美しいものなんかいらないとか
やさしさなんか身近にあるのは恥だとか
楽しみを求めるのもヘタレだとか
思いつづけてきた

ところが最近はだめ

OOO展だ
と見ると
はなはなはなはな…
と美術館へ引き寄せられてしまう
モーツアルトの断片を聴くと
うぉなうぉなうぉなうぉな…
と音楽店に引き込まれて
未知の演奏のCDを探していたりする
遠ざかるようにしていた古書店にも
おがおがおがおが…
と吸い込まれて
古い歌集や句集をそっと繰っていたりする

もう、だめ

都美術館の
人を馬鹿にしたインチキの
メトロポリタン美術館展まで見てしまったよ
テレビのヴァラエティ番組みたいな
なんだ、ありゃ
って感じのめちゃくちゃな展覧会だったが
面白いものもあったな
って思っちゃったりしてるんだから
もう救いようがない

もう、だめ



2012年12月4日火曜日

まだ行く

  


東京の電車も
少し込んでくると
滅びの香りが
深く漂うようになった

小金が入ってくる
期待のあったうちは
まだごまかせたが
べったりした虚無が
もう誰の喉元でも
なまぐさい口を
開いている

この先
いいことはもう
なにもないと
わかってしまって
初老の心や
老い募った心が
血色の悪い
乾いた肌をして
しがみついている
吊革

かなりの不快にも
辛苦し黙り続け
行く先といっては
もう
衰え果てた鶏のように
生きたまま
ミンチにされてしまう
粉砕機の穴のなか

それなのに
ろくに声も立てず
まだ行くのだ
どこまでも
どこまでも
―といっても
もう終わりはそこだが
まだ行く
まだ行く
まだまだ他人に
悪すぎる人と
思われないようにと
じゃまな奴と
嫌われないようにと
生物としての悲鳴さえ
押し殺しながら
まだ行く
まだ行く


2012年12月1日土曜日

わたしのなかを




体調や天候に
気分も感じ方も
考えさえも
大きく影響されるのなら

つまりは
わたし
体調も天候も

まだ明るい午後というのに
冷え込んで
寒そうにすくんで
草にいる小鳥ら

それでも
半ズボンで
駆けていく子ら

わたしのなかを
草にいたり
駆けていったり

小鳥ら
子ら

わたしのなかを