スーパーで買える安い食パンを
ちょうどいいぐあいに焼いて
すこし前に冷蔵庫から出して置いた
やわらかくなったバターを塗って
端っこから少しずつ齧るのが大好きで
こんなシンプルでいながら
こんなうまいものはないと思うし
こんな軽い幸福感もないと思う
いろんなところに住んだが
どこの住まいでも食卓で
午後のはやいうちとか
夕暮れのちょっと前とか
齧るよろこびを堪能したなあ
濃く重くなってきた夕陽が
ソファやテーブルクロスに当たったり
トーストに当たって幸せだったなあ
スーパーで買える安い食パンを
ちょうどいいぐあいに焼いて
すこし前に冷蔵庫から出して置いた
やわらかくなったバターを塗って
端っこから少しずつ齧るのが大好きで
こんなシンプルでいながら
こんなうまいものはないと思うし
こんな軽い幸福感もないと思う
いろんなところに住んだが
どこの住まいでも食卓で
午後のはやいうちとか
夕暮れのちょっと前とか
齧るよろこびを堪能したなあ
濃く重くなってきた夕陽が
ソファやテーブルクロスに当たったり
トーストに当たって幸せだったなあ
エレベーターから降りる時のことだった
世間では「○○な時間を生きる」といった表現がよくなされるが
あれは全く間違っている
そう強く気づいた
時間を生きるのでなどなく
時間はわたしによって生きられたり
生きられなかったりするようなものではなく
時間こそがわたしを生きている
時間のほうこそが主体で
たまたま
このわたしなども指の先の爪の伸びるようにして生きてみている
わたしは
などと自己認識せず
わたし、時間は
などと自己認識するほうが正確なのだ
あまりにはっきりと
こう気づいた
気づいてみれば
いろいろなことが明瞭になってくる
遅すぎたといえば
あまりに遅すぎた認識の獲得だが
ようやく
この地点に来た
じぶんが主体であるかのように妄想する幻想を時間に譲渡して
ようやく
すべてがほんとうにはじまる
現実が一つ崩れたあとも、すぐに別の現実が結晶しはじめて、
新たな秩序を作りだすという観念に、いつのまにか
馴れはじめている自分に気づいた。
三島由起夫『奔馬』
「不仕合せの時草臥るる者は益に立たざるなり」
と
『葉隠』にはある
はなはだしい表現矛盾にもかかわらず
この土俗社会によって
自粛を求められ
強いられ
家に閉じ籠もりがちになるのを余儀なくされて
パソコンばかりに向かわされて
間接的な教えや指示を受け続けの学生たちともずっと
関わり続けているが
中には
こんな状態をずいぶん真に受けて
疲れてしまったり
やられてきてしまったりしている者もいる
そんな学生たちに
個別に
ひそかに
こんなことを言い添えることも
ある
理性や知性に関わる「勉強」は、どちらにしても「閉じ籠もる」
学生にとっては、じつは、今のような時期というのは、
情報過多も極まり、
あなたが法学部だからということでもないけれど、
教科書にまとめられた説明など、嘘っぱちですからね。
原典にはまったく違う印象があり、
自分の頭の中に、
コロナの嘘やインチキも、ぜひ、
今はナチス政権下のような情報戦争状態にじつは入っています。
ウルリヒ・ヘルベルト「第三帝国」などを参考にしながら、
ナチス時代とソ連のスターリン政権下の社会の検討は、今後、
テレビや御用コメンテーターや御用学者、
そういえば
『易経』第二十九の卦〈習坎〉
には
こうある
「困難に出会った際、人が誠実であれば、
また
ジョン・リリーは
『サイクロンの眼』で
こう言う
「われわれは、われわれ自身をこえて成長するために、あるいは、
また
カルロス・カスタネダ『ドン・ファンの教え』で
ドン・ファンは
「その道はこころheartを持っているか?
その道を歩み続けるとか、
その道はこころを持っているだろうか? もしそうであれば、その道はよきものである。
もっとも、どちらの道もどこへもみちびきはしない。
しかし、一方はこころを持っており、
そうして
もちろん『老子』(上篇、第十二章)
では
「賢者は感じるところに従い、見るところには従わない。
短いことばで
やりとりをするうち
詩歌のはなしなど
出てきて
詩というものは
ほんとうは
どんなものでしょう
と
問われるでもなく
問われないでもなく
持ち出されて
ふと言っておきたくなったのは
説得しない
説得しようとしない
ことば
なのかな
と
いうことだった
説得の
説得の思いの
あまりのなさに
異様な驚きを覚え
痺れるようになってしまい
それが
いつまでも
見えないところで続くような
そんなことば
なのかな
と
その時は
ふと
愚かな人には、ただ頭を下げよ
カール・ポランニー
愚かさとは、結論せずにはいられない心の動きよりなる
ギュターヴ・フロベール
あぶないウイルスが広がったとか言われ
話すときに口から飛ぶ唾に
そのウイルスはいっぱい入っているからとか言われ
だからひとと会うときにはマスクをして
ウイルスが飛ぶのを防がないといけないとか言われた
2020年
ぼくはほとんどマスクをしなかったけれど
ついにウイルスに感染しなくて
アルコールを手につける消毒もしなくて
日常生活はいつもより平穏で
まあ悪くなかったな
2020年って
そう思って
年を越えたのでした
2020年の2月3月の頃までは
それでも
するようにしてたなぁ
マスク
あの頃はウイルスの出現を信じてたし
人間が地球環境を痛めつけ続けているものだから
いろんなウイルスが報復してきても
ぜんぜんおかしくないと思っていたから
ちょうど花粉症の時期にも重なって
マスクは花粉避けに有効だから
するようにしてたなぁ
マスク
4月のはじめ頃
ヒノキ花粉が少なくなるまでは
でも2020年の4月中には
ウイルス騒ぎがインチキだとわかっていたので
初夏をむかえて暑い日も出る頃は
もうマスクなんてしなくなっていた
どうしてインチキがわかったかって言えば
それはそれ
情報収集の時間と忍耐力が違うもの
1日24時間は数台の端末で情報収集し続けで
少なくとも8時間ほどはウイルスのことだけ追う
そういう2020年だった
情報というものを
どれは真
どれは偽
と判定するのはシロウトのすること
ことに自分の専門外の領域についての情報は
そもそも真偽を定める尺度を持たないのだから
真偽判定をすること自体がナンセンス
だから
いちいち真偽判定をしようとはせず
とにかく多量の情報を意識の中に流し続ける
ウイルス学者や感染症学者が言っている情報も
政府機関が発する情報も
市井の科学マニアが出してくる情報も
ウイルスはM567星雲からの超小型宇宙兵器だと断じるような
どんなにアホらしく見えるトンデモ情報も
とにかくすべてを自分の意識に通して
記憶領域や無意識領域に投入させておく
そうすると
ある程度以上の情報量になったあたりで
個々の情報間にかならずそれなりのメタ構造が浮き上がってくる
比喩的に言えばおのずと構造主義的分析が起動し
いわば情報領域における一般意志のようなものが形成されてくる
これはルソー的アプローチによるいいかげん説明だが
ヘーゲル的アプローチによるいいかげん説明をしようとするならば
たいていの人が読み終えない『精神現象学』の後半の概念で言えば
すべての「本質の本質」の浮かび上がりということになる
もちろんレヴィ=ストロースが使った構造主義的炙り出しという認
十分といえば十分なわけだが
どんな怪しい曖昧なトンデモ情報でさえ
他の多量の情報の中に投入すれば価値ある機能をしてくれる
いわば偽情報というものの構造的有用性ということになるわけだが
この有用性を発揮させるには
まずは途方もなくタフなアットランダムな多量情報への
意識のさらし続けが必要とされる
早急な結論づけを避け続けて
流入してくる情報を理知領域で飲み込み続け
そうして精神が本来持っている
構造主義的本質看取能力を起動させること
思い出されるギュスターヴ・フロベール
「愚かさとは、結論せずにはいられない心の動きよりなる」
先端科学の成果で世間では権威と見られる科学論文誌にあっては
10年もすれば論文の9割が誤っていたとわかり
いつのまにか消えていっているという
人間精神はものそのものを扱うことができないので
あらゆる思考は表象によってのみ行われるが
表象化の手段や過程はまた別の科学と仮説によってのみ準備され機
科学知はすべてが表象から成っていてそもそも永遠に仮説でしかな
2020年に煽られたウイルス騒ぎを構成した仮説の山は
はて
はてはてはて
どのくらいすれば誤った表象作業の結果だったと暴かれ
偽情報の堆積に過ぎなかったと露呈されるだろうか
2021年においても未だに
ガリレオの主張は世間にひろく受け入れられてはおらず
製薬会社の御用学者や御用医師や大企業用広告ボックスたるテレビ
天動説を連日連夜がなり立てているようだが
ただひとり賢者であろうとするのは大いなる狂愚である
ラ・ロシュフーコー
あす開戦となっても
たぶんわたしは驚かないと思う
アメリカは必死に中国との緊張をさらに高めようとしていて
他方中国は長期計画で日本をウイグルのように侵略しようとしてい
しかも政府の命令一下に人民解放軍兵士に瞬時にかわる中国人が
日本にはすでに公然たる工作員として大量に入り込んでもいるのだ
米中の板挟みになって新宿でふいに中国人による日本人狩りが始ま
やはりわたしは驚かないと思う
ついでに大地震の後などに朝鮮人殺しが池袋で始まっても
以前にもあったことだし
と驚かないと思う
あまりにたくさんの理不尽なことを見聞きし
体験もしてきたので
子どもの頃から青年の頃まで育み守ってきた人間への信頼や
なにか温かみのようなものへの期待や
夢や希望のようなものまでが死に絶える人生を
静かに送ってきたから
さまざまな仕事から仕事へと移った後
20代で大きな進学塾に身を置くことになり
国力倍加の恐いものなしの狂騒のバブル期ということもあったから
そこでは「必勝」
竹刀を持って教師が教室をまわるような日常が常態だったが
学校よりもはるかにマシな教師たちも多く
奇妙な混交状態が見られる面白い場所でもあった
しかしとんでもない教師はとんでもなさにおいて図抜けており
そこで働き始めて数ヶ月もしない時に見た吉崎先生の言動は
わたしを深いところから変えたもののひとつとなった
社会科専門の吉崎先生は他の教師たちからはひそかに憲兵と呼ばれ
彼とのわたしのふだんのつき合いにはべつに問題もなく
生徒らに対していつも怒っているちょっとうるさい先生としか見え
しかし彼が教員室に呼び出した小学六年生への常軌を逸した対応を
なぜ彼が憲兵と呼ばれるのか納得がいった
呼び出されたその生徒をわたしは教えていなかったが
よく勉強のできる生徒でもあれば頭のいい生徒なのも知っていた
授業後に吉崎先生に呼び出されたのは
きっと子どもならではの小さな悪戯かなにかを
友だちどうしの間でやったためだろう
わたしの席は吉崎先生の席からふたつ離れていたが
その生徒への叱責の様子はすべてが見えた
教師たちが授業時間外で行ういつも通りの生徒指導と思い
はじめは話の内容を聞いてもいなかったが
どうもヘンなことを吉崎先生が言っているとわかってきて
済んだ授業内容を記録するペンをとめて彼のほうを見た
生徒はどうやらキリスト教徒らしいが
おれは虚妄を信じるキリスト教徒を絶対に許さないと吉崎先生は言
だいたいキリストが奇跡を起こしたとか
マリアがあのようにキリストを生んだとか
よほどのバカかペテン師でなければ信仰することなどできまい
おまえの家は揃ってキリスト教徒だそうだが
どうしてそこまでバカになれるのかおれにはわからん
とにかくキリスト教をやめるかどうするか今ここで決めろ
さあどうするんだ?
バカ信仰をやめるのかどうか、どうするんだ?
ほぼこんな内容のことを本当に吉崎先生は言っていた
これって信教の自由の侵害というやつじゃないかと思ったが
それ以前にふつうならあり得ないような異常な言動で
ここまで本当におかしい振舞いを吉崎先生がするのははじめて見た
驚いてわたしは周囲を見て他の先生たちの様子を窺った
知らんぷりをして机に向かっている人もいれば
時どき吉崎先生のほうを見ながらニタニタしている人もいて
雰囲気としては「また始まった……」
こういう突っかかりぶりとやり過ぎぶりが
吉崎先生は「憲兵」だという形容になっていくわけかと思ったが
白紙のA3のコピー用紙を出してくると
そこに十字架をマジックで描いてそれを床に置いてから
吉崎先生はさらに信じがたいことを生徒に迫った
踏み絵っていうのを教えたよな
ほら、ここにおまえらがバカみたいに大事にする十字架を描いた
これを踏め
踏み絵してみろ
そうしたら許してやる
はやく踏め、ほら!
十字架を踏んだらいったい何を許すというのか?
生徒がキリスト教徒だという罪を許すとでもいうのか?
それとも生徒がやったらしい悪戯かなにかを許すというのか?
あまりに異常なために逆にどこまでも冗談と見えもする振舞いで
まっとうに「信教の自由の侵害ですよ」と介入したら
冗談を理解しない者だと言われかねない微妙な雰囲気もあって
わたしはそのまま止めもせず吉崎先生と生徒を見続けた
周囲の先生たちがあいかわらずニタニタして聞いていたり
意に介さない様子で自分の仕事を続けていたりしていて
その環境では新入りのわたしとしては動きづらいこともあったし
吉崎先生がただの一教室の社会科教師であるだけでなく
数十の教室を擁するこの巨大な進学塾の社会科主任で
教材から学力テストから一手に制作してきている人物でもあったこ
その職場では吉崎先生は実力者であり権威者でもあったので
わたしが簡単に口を出せる相手ではない雰囲気があった
十字架を踏めと言われた生徒は
立ったままニヤニヤして体を揺らしながら
いつまでも踏まないでいるので
吉崎先生は「ほら、はやく踏めってんだよ!」と言う
生徒はそれでもニヤニヤしながら
首を横に振って踏まないでいる
憲兵吉崎はしつこく「さあ、踏め!」「はやく踏め!」と言う
生徒はとうとう口を開いて
「踏まない」と答えた
答えながらニヤニヤし続けていたり
急にニヤニヤをやめたりする
憲兵吉崎は「踏まないで許されると思ってるのか?」と言う
生徒はやはり「踏まない」と言いながら
あいかわらずニヤニヤしたり
ニヤニヤをやめたりする
現代の日本ではあり得ないような光景を目の当たりにして
いったい何が起こっているのだろうか?
これを冗談事と思えないわたしの許容量が小さすぎるのだろうか?
などとあれこれ思いながら
時代錯誤のこの憲兵の出現や
周囲の先生たちの慣れきったニタニタ笑いや
意に介さない全くの無視の態度の中にいて
頭がぐるぐるまわり出すような感じになっていった
いま思い返せば憲兵吉崎の現出は
ふつうと見える人間が異常でもあり異様でもある目撃例の第一で
その後わたしは多くのその人たちなりの異常者たちや異様なる者た
次々と新たに見つめ続けていくことになった
いま現在の2021年時点でわたしの周囲にいる人間のほとんどが
憲兵吉崎よりもはるかに異常で異様であるように見えるのは
わたしの見方のどこかが狂ってきてしまっているのか
それとも古い夢のようなモラルや理想で頭が硬くなってしまってい
どんどん新しくなる時代について行けなくなったためだろうか
ラ・ロシュフーコーの言葉がどうしても思い出されてくる
「ただひとり賢者であろうとするのは大いなる狂愚である」
この狂愚の時代に賢者であろうなどとは
もちろん思ってもいないのだが
それにしても
小学六年生にして
まるでメルヴィルの描いた書記バートルビーに学びでもしたかのよ
あの生徒のニタニタ笑いや
あの体の揺すりや
声を荒げて言うわけでもなく
きっぱりと自己主張しているわけでもなく
反抗的になどまったく聞こえない
あの「踏まない」は
何十年も経って思い出すと
ずいぶんと
見事なものだった
と思えてくる