だれが仏なのですか
だれが仏でないのですか
ペ・ヨンギュン 『達磨はなぜ東へ行ったのか』(1989)
若い頃の
馬祖道一は
坐禅ばかりしている
それを見て
仏法の器である
と見たからであろうが
南嶽懐譲が
瓦磨きの
あの有名な話を吹っかけた
葛藤集にある話である
瓦を磨いて鏡にしようと思う
と南嶽懐譲が言うと
馬祖道一は
磨いたって瓦は鏡にはならない
と答える
これが南嶽懐譲の策で
それじゃあ
坐禅したって
仏にはなれない
と話を持って行く
坐禅を学ぶならば
禅は座臥に関わらない
坐仏を学ぶならば
仏に定相はない
何物にも執われぬ法においては
取捨があってはならぬ
坐仏に著すれば
仏を殺すことになる
坐相に執われれば
理に達したことにならない
仏に定相はない
というのは
どんな時にも忘れてならない真理なのに
あまりに忘れられがちな真理だ
きれいに整序されて
埃ひとつない家で
心おだやかに
静かに日々を送るのは
もちろんよいが
ダニどころか
ゴキブリやネズミも
そこらに潜んでいそうなゴミ屋敷も
仏の相である
これは
じつはそういう現場に立てば
仏の相のひとつとして
つよく迫ってくるのだが
思いのなかでは
そんな光景は仏とは真逆であると
否定してしまいがちになる
物や光景や出来事に
浄穢はなく
美醜はなく
卑賤はなく
まさに
仏に定相はない
魂の根底にまで
これが染み込むまで
人間は
仏ならざる(と見える)多様な光景を
さんざん見せつけられる
仏に定相はない
と
根っこの底の底まで染み込んでくると
おもしろいことに
整理された環境や
埃の少ない環境などが
自然に
身のまわりに集まってくる
仏に定相はない
いかなる物も光景も出来事も仏だ
と心根に染み込んでくると
逆に
身のまわりをきれいに整序し
埃や塵を残しておかないようにし
心おだやかに
静かに日々を送ろうとする
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