2026年9月1日火曜日

堀辰雄の「斑雪(はだれ)」

 

 

 

僕はそれでもよかつた。

いま、自分たち人間のはかなさを

こんなに心にしみて

感じてゐられるだけでよかつた。

堀辰雄 『大和路』

 

 

 

 

 

現代の日本の文章はたいてい冷たく

嫌いである

 

小説の文章も基本的に冷たいし

SNSやネットのさまざまな文も冷たい

 

この「冷たさ」を

どのようなものかと確定し

どこからこの「冷たさ」が来るのか

と長々と考察してみたい気もするが

そういうことは未来の批評家たちに任せよう

もっと「冷たさ」に満ちた文章で

怜悧に解き明かしてくれるだろう

 

つらつら

こんなことを思いながら

ふと

堀辰雄を開いてみる

 

たとえば

19433月の「斑雪(はだれ)」

『信濃路』の中の一篇*

 

その冒頭

 

「冬になって、雪がふつたら、すぐ知らせて下さい。そのときはきつと一人ででもやつて來ますから。……」
 その山の村にとうとう居残つて冬を越すことになったK君夫妻に僕はその秋のなかばその村を立ち去るとき、さう云ひ残していつた。
「……けさほどから急に雪がふりだしてゐますの。この分では大ぶ積りさうですので、主人が早くお知らせした方がいいと申しますから、これからこの手紙をもつて雪のなかを郵便局まで一走りいたします」ーー萬里子さんからさう云ってよこしたのは、もう十二月も末近かつた。
 僕はまへから雪の信濃路を見たがってゐた學生のM君を誘つたり、一しょに往く筈だつた妻の都合が悪かつたりして、すこし出かけるのに手間どり、妻だけ二三日あとから來させることにして、漸つとその小さな冬の旅に出たのは、それから四五日たつてからのことだつた。……
 ゆふがたに著いたその山の村には、敷日まへの雪はもう殆ど消え、林の中などにところどころわづかに雪らしいものが残ってゐるきりだつた。
そんな一つの林の奥に、K君たちが冬ごもりをしてゐる山小屋がある。
「まあ、よくいらつしゃいました」その小屋の中から飛びだしてきて僕たちを出むかへた萬里子さんは一とほり挨拶がすむと、さも困つたやうに大きい目をしてまじまじと僕の方を見ながら言つた。「ーーでも、もうすっかり雪がなくなってしまってゐて。なんだか……」

「いやあ、なんぞはどうでもいいですよ。」

僕はあわてて手をふりながら、それを遮つた。
「こなひだの雪は午前中ふつたきりでしたの。大ぶ積つたことは積りましたけれど、午後から日があたつて見る見るとけていつてしまふので、あんな手紙なんか出してしまつて、気が気でありませんでしたわ。――でも、まだあそこいらには少しばかり残つてゐますの。」
 もう薄暗くなり出してるる林の奥のはうにまだいくらか残雪が何かの文様のやうにみえるのを、萬里子さんはすこし気まり悪さうにして示した。
 僕はもうそんなものはどうでもよかつたが、すつかり葉が落ちて林の中がどこまでも透いてみえたりするのを珍らしさうに見てゐるM君におつきあひして、その儘しばらく三人でそこに立つて見てゐた。そのうち小屋のかげからボブが飛び出してきた。
「ボブ、駄目よ・・・」萬里子さんはその人なつこい犬が泥足でもつて僕のはうに飛びかからうとするのを、すばやく捕まへた。

 

 

ぼくが思う現代日本語の

たいていの文章の

嫌な「冷たさ」が

堀辰雄のこの文章にはない

 

それは

なんであろうか?

 

堀辰雄の文章にはなにが残っていて

現代の日本語の文章は

なにを失ってしまったのか?

 

ときどき読み返してみると

堀辰雄の文章はけっして名文ではなく

うまくない

 

読点を付けずにこんなに繋げてしまうんだ

驚かされることもある

 

まさか

彼が親しんだプルーストの文章の

真似ではあるまい

 

それにしても

堀辰雄の文章のこの味わいは

なんだろう?

 

そう思いながら

時どき

ページを開き

繰り

考え込むのではないが

ちょっと瞑想に似た時間を過ごしたり

してしまう

 

この文章の終わりのほうで

堀辰雄は

セガンテーニを思い出しながら

こんなことを書いている

 

 

そんな調子でいくら歩いていつても、野遷山が原は盡きさうもない。もうかれこれ一時間ぐらゐは歩いてゐるだらう。腹もへつてきてゐるし、もうおしやべりをする元氣もなく、二人とも泥だらけになつた靴をただ重さうに運んでゐるきりになつた。――さうして僕はもう口には出さずに、昔小さな本で讀んだことのあるセガンティニの美しい生涯などを考へつづけてゐた。セガンティニには、アルプスの高原の自然のなかにーーいはば人間の住める自然のぎりぎりの限界のやうなところに人間を置いて描いてゐるやうな繪が多いが、その繪がどれもこれも妙に人なつこい。人間の世界から離れれば離れるほど、そしてそこに描かれてあるアルプスの風景がいよいよきびしければきびしいほどセガンティニの繪のもつてゐる人なつこさはいよいよ切實になってくる。――そこにセガンティニの繪の寫眞を見ただけでも、僕たちが何か心を動かされるものがありはすまいか。……さうだ、僕がさつき草原に立つた木をしみじみと見てゐるうちに、ふいと何か思ひ出せさうで思ひ出せずにゐたもの、そのために知らず知らず心を一ぱいにさせてゐたもの、それはそんな木の或る恰好ばかりではなしに、かういふ高原のなかに生を得てゐるすべての小さな生きもののもつてゐる深い味なのだ。それらのものは、ちよつと見ると、何か近づきがたいやうな孤獨の相を帯びてみえるけれど、それらのものほど人なつこいものはないのだ。それほど切實に、存在の本質にあくがれてゐるものはないのだ。……

 

 

「いよいよ切實になってくる」

「人なつこさ」

を堀辰雄はここで語っているけれども

これは

読み手のほうでわかったつもりになっている

「人なつこさ」という言葉のふつうの意味を

いったん外して考えないといけないような「人なつこさ」だ

 

「ふいと何か思ひ出せさうで思ひ出せずにゐたもの」

「そのために知らず知らず心を一ぱいにさせてゐたもの」

「それはそんな木の或る恰好ばかりではなしに、

かういふ高原のなかに生を得てゐるすべて

小さな生きもののもつてゐる深い味なのだ」

などと表現を並べながら

「ちよつと見ると、

何か近づきがたいやうな孤獨の相を帯びてみえるけれど、

それらのものほど人なつこいものはない」

と進めていき

「それほど切實に、存在の本質にあくがれてゐる」とまで

さらに堀辰雄は進めていっている

 

ふつう

ここでこれを「人なつこさ」とは

呼ばないだろう

 

他の言葉で

言おうとしたほうが

いい

 

ところが堀辰雄は

ここで

「人なつこさ」

などと

言うのだ

 

わかりやすいようでいて

非常にむずかしい

堀辰雄の微妙さがこういうところから

来る

 

つねに忙しく働き続けの知が

それゆえに

取り逃がしていて

忘却しているとさえいえそうなもの

 

それでいて

知の裏側につねに充溢していて

「心を一ぱいにさせて」いて

「切實に、存在の本質にあくがれてゐる」もの

 

これを

「人なつこさ」

呼ぶような

考えの進め方や

書き方を

たぶん

冷たい文章の現代は

忘れて

しまっている

 

 

*堀辰雄 『大和路・信濃路』 (人文書院、昭和二十九年)




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