2018年5月27日日曜日

困っちゃうよね やっぱり

 
政治でも他の組織でも
深いところで根腐れしてしまっていて
もうどうにもならぬ日本である
こんな事態に立ち至ったのははじめてのことで
むかしはこうではなかった

…という世間の声に
なるほど
とは思うものの
どうにかなっていた頃というものが
はたして
この国にはあったのか
と思案してみると
かなり怪しい気がするので
今はひどい時代になってしまったという声には
やはり
そうぴったりと付いてはいけない

たしかに西欧流の政治機械を適切に用いるのは下手くそで
自由も平等も連帯も粗雑にしか運用できず
西欧流のもののすべての根幹をなす個人主義と政治参加主義は
しっかりとは個々人に染み込んでいない

だがいわゆる西欧流というやつだって
今のヨーロッパやアメリカを見てもろくに機能してはおらず
むかし掲げてみた御大層な看板のようなもので
日本よりはもうちょっとはうまくやっているものの
この先さほど楽観できるような状態ではない
なにかというとヨーロッパはいい
アメリカはいい
という学校秀才的言辞はもう全く有効ではないので
だからこそ日本の現状の批判はより困難になってしまっている

とにもかくにも
電車はほぼ決まった時間に来るし
だいたいの食べ物はやり過ぎ感はあってもほぼ衛生的だし
路上で急に射殺される可能性もずいぶん低いままで
買い物をするにも問い合わせするにもさほど不愉快でもなく乱暴でもない
これだけでもどんなにすごい幸運かは外国に出ればわかるが
こういう幸運や達成と
政治や他の組織の根腐れぐあいとの関係はどうなのか
というところについての適切な批判がほしいわけであって
ひとまとめに日本はもう終わった
民主主義の終焉だ
国としては機能していない
などといきなり言語表現上のクライマックスに飛翔しようとされて

困っちゃうよね
やっぱり



人をどんどん捨てていくということが

 

だんだんと自慢話に傾いていく人を聞いているのは
男であれ女であれ
年齢がどうであれ
いろいろと込み入った物思いをさせられるので
不愉快なものである

自慢も
滅多にないような大きな話なら
それはそれで情報としての価値が出てくるので
こちらも聞きでがあるのだが
こちらを聞き手とする程度のそんじょそこらの人たちに
さほどの稀な事態があったはずもないので
語れば語るほど自慢の底は割れてくる
しかも結局は過去のお話に過ぎないとなれば
誇らしげに語る目の前の人のみじめさはいっそう際立ってくる

自慢話などする必要がないほど
いま美しい人や
しとやかに静かに自らの魅力のなかにうつむきがちになっている人
次々と楽しいことを追っているさなかの人たちと会うのが好きなの
自慢話をする人たちからは
自然と距離を取ることになる
それでいいと思う

若い頃はむりにも付きあい続けて
それがたしなみだとか
人情だとかと
義理堅いところがずいぶんあったものだが
どれもこれも
ただの時間の無駄であった
だれもかれもが
つまらないことに拘泥しているだけの
ただの小者であった

人をどんどん捨てていく
ということが
よく生きるためには
本当に
本当に
必要である



福原麟太郎の手紙

 
ある人へ宛てた福原麟太郎の手紙を読んでいたら
「御筆硯お忙しき御様子、御壮健を祈ります」
とあって
「筆硯」という言葉など
わたしは手紙でもメールでも使い慣れなくなっていて
なんとも情けないことだと思われた
辞典で調べたら「筆硯」とも「筆研」とも書くようで
書簡文で分筆にしたがう人の起居などにいうとある

「筆健」という言葉もあるが
こちらは詩文に達者なことをいうので
使用される文脈はまた異なるだろう
「健筆」の場合も同様らしい

いずれにしても
メールだの
ましてやLineだのでは
あまり縁のない言葉になってきている

午後にすこし時間のできた頃
すべき他のこともせずに
こんな言葉のいっぱい織り込まれた書簡集を
ゆっくり読んでいて
どれも内容というほどの内容もないものだったが
なんだか
人生というのはこんなふうにこそ過ごすべきものと
ひさしぶりに
しみじみ感じたものだった



2018年5月26日土曜日

上田柳村こと上田敏



柳村こと上田敏は四十一歳で亡くなっている

その英語力についてはラフカディオ・ハーンに
英語を以て自己を表現する事のできる一万人中唯一人の日本人学生
と絶賛され
フランス語力については大翻訳家山内義雄に
「上田先生のフランス文学は独学ですけれども、
「アレは、だれかがいっていたが、
「何百年に一人という語学の天才じゃないですか」
と賛嘆され
もちろん世間一般には
訳詩集『海潮音』『牧羊神』の名訳で知られている

河井酔茗に頼まれて詩人森川葵村が
『海潮音』に入っているボードレールの詩「薄暮の曲」について
上田敏に解説を求めに行ったことがある
その際に上田は
「此の詩の形式は一見、普通の四節に分れた十六行の詩としか見えぬが、実は仏文学にPantoumと称へる東洋の詩の形式を取ったものである」
とも加えたらしい

明治時代にあって
ボードレールの詩について
こんなところまで解説できるということが
どういうことを意味するか
これはいくらかでも外国の詩歌を詳しく読もうとしたり
解釈しようとした者ならば
容易に理解できる
平成の現代にあって
訳詩や解説本のいくらでもある環境にいる者にも
詩歌という蕾を今の自分たちの目の前で香しく開花させるような
目配りのある解説を適確に加え得るかとなると
なかなかに難しい

学識の尋常ならぬ広さと深み
知と文学的感性のレベルの高さに
怖ろしくさえなる
上田敏である



2018年5月20日日曜日

また恋文したくなってきている



ひとにわかりやすいものを書くひとたちの
書いたあれこれ
ちょっと時間つぶしのあいだに
読んでみていて

…やっぱり
辟易してしまった

わかりづらいものへ
わかり得ないものへ
ことばを並べながら手さぐりしていく
高原の空気のようなひとたちへ

また
恋文したくなってきている



あたらしい出会いの時に

 
じぶんの思い
そのまゝを
交流の基盤として押し出してくるところが
配慮を欠いた人たちなのだな
と思わされる…

おたがい
じぶんの思いからも
記憶からも
いまの生活のありようからも
すっかり踏み出して
よろけながら
不確かに
個性も
人格も
失ったところで
他人との交流はするほかないというのに

あらたな交流の場で
じぶんでそれがじぶんと思っている看板など
平気で
出してくるなよ



ブラウンのあの革靴にしようかな

 

履いていくの、ブラウンのあの革靴にしようかな
しばらく履かなかったから
きのう
磨いておいたし

そう思って
靴棚から出してみると
足を差し入れて履いた後のように
両方とも
靴紐が結んであった

きのう磨いたばかりだから
わかっている
靴紐を結んだりしていなかったのは

出かける前の玄関で
急に変化したふしぎな空気のなかに
しばらく
立ち続けてしまう

履いて出かけることにしたけれど
これを履くように
と示されたのか
これ
もう履いちゃっているよ
と誰かに
示されたのか

わからないまゝ
はじまっていく一日