2025年3月3日月曜日

導く必要はなく導く先もない


  

 

真に重大な哲学的問題は自殺ということしかない

とアルベール・カミュは書いていたが

これをもじって言えば

真に重大な人生の問題は

霊界や幽界に自由に出入りできる能力を持てるかどうかしかない

とわたしは断言する

 

生まれる前と死んだ後への見通しや見晴らしを持てない生は

ほぼ

なんの価値もない

それは

目かくしをされて砂漠に投げ出されるのに等しく

どの方向にどれだけ進もうとも

なにひとつ正しくなく

砂漠を抜け出せもせず

砂漠に投げ出された意味も掴めない

 

安手の宗教かぶれが

よく

「今+此処」というテーゼを

決め手のように持ち出してくるが

わけがわからなくて悶えるあげくに「今+此処」を持ち出してくるのと

生死や時間や存在を超えた視野を得た者が「今+此処」と言うのとでは

当然ながら価値はまったく異なる

 

いや

どんなに前後左右の位置情報を把握し切り

最終解脱者として周囲ばかりか全宇宙の全容を把握した者とて

ある瞬間には「今+此処」にしか在ることはできないだろう

と考えるならば

一見賢い理屈を語っているように見えても

そういう思考者はやはり誤っている

最終解脱者の「今+此処」は

「今」以外のあらゆる時間の共時を意味しており

「此処」はあらゆる場所の同時存在を意味している

つまり「今+此処」ではないのが「今+此処」であって

最終解脱者は「今+此処」などとはもう語らなくなるだろう

 

それでは

最終解脱者はどのように人びとを導くのか?

 

ここに

陥りがちな問題がもうひとつ

口を開ける

 

最終解脱者は

教えたり

導いたりすることはない

 

その無意味さを知っているからである

 

あらゆるところに道があり

あらゆるところが平等に到達点であるから

どうして

ある道を特権化したり

ある地点を優位に見たりする必要があるだろうか?

ある状態を他の状態よりもよいとか

悪いとか

評価する必要があるだろうか?

 

ない

 

導く必要はなく

導く先もない

 

教えるべきことがもしあるならば

教えられる者のほうにも

無限に教えるべきことがあるだろう

 

最終解脱者は

解脱していない者の側の解脱を

繊細に感知する

 

解脱していないことの解脱が

ありありと感じとれ

解脱者はそこに

拝跪するのである

 

 




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