多様なようでも
あらゆる人間は単一基準にのみ従っており
それは「快」ということである
「楽」や「安らぎ」や「興奮」や
さらに広げれば
「美」や「善」や「清」や「上昇」のようなものも数えられそうだが
それらはみな「快」に含まれる
「自由(感)」や「平等(感)」や「連帯(感)」なども「快」に含まれ
「連帯(感)」の一種である「共同体(感覚)」なども当然含まれるので
社会的感覚や政治的感覚のすべても「快」の中に包括される
もちろん「愛国」や「郷土愛」などは「快」の一種でしかないわけだが
翻って「個人主義」や「利己愛」や「引きこもり」なども
やはり「快」のヴァリエーションでしかない
見方を変えれば
これは「快」の奴隷であり
「快」による支配を受け入れ続けていることでしかない
地球上ではいろいろな経験や認識や判断が可能なようでいながら
実際に起こることは「快」に向かおうとする運動に限られる
この限界づけの偏狭さに痛切に気づいた者は
「快」への方向性を固定された生からの逸脱や脱出を試みたくなる
ひたすら「快」でない方向へという意識な運動を開始する
はじめは「快」から外れた「不快」の領域へ
おずおずと踏み込んでみるところから始まるだろうが
やがて「楽」や「安らぎ」や「興奮」の否定を開始し
「美」や「善」や「清」や「上昇」の破壊に着手し
「自由(感)」や「平等(感)」や「連帯(感)」などの理論的否定に到り
「共同体(感覚)」から「愛国」や「郷土愛」などに至るまでの
全否定に行き着く他ないだろう
もちろん「個人主義」や「利己愛」や「引きこもり」なども
根源的な否定の対象とならねばならないが
さらには
さまざまなモノ(偶像/幻影)に「価値」を見出そうとする心的傾向の
根絶にまで至る必要がある
もし端的な短いスローガンが必要となるなら
「快」を捨てよ!
「快」の価値化を根底から捨てよ!
「快」のみを生の理由とする根源的愚昧から出よ!
ということになろう