2025年4月30日水曜日

顔やすがた

 


 

顔やすがたというのは

おもしろく

悲壮で

恐ろしい

 

乗りに乗っていて

好調で

メイクを自在にコントロールできる

アイドルや俳優でもないかぎり

今日のじぶんの顔やすがたを

じぶんにすっかり気に入るようにこしらえられるひとなど

ほとんどいないだろう

 

ということは

顔やすがたは

ほとんどのひとにとって

じぶん自身の顔でもなく

すがたでもない

ということ

 

じぶんの顔でない顔をして

じぶんのすがたでないすがたをして

ほとんどのひとは

じぶんを

今日も演じている

 

ほんとうのじぶんは内面に

とか

こころに

とか

精神に

とか

言うなかれ

 

それらだって

ほんとうのじぶんかどうか

わかりはしない

どこかの時点で巣くうようになった

よそ者や

借りものに

すぎないかもしれない

 





広い荒野にぽつんといるようで

 


 

 

フォーク・クルセダーズの

というより

北山修と加藤和彦の

『あの素晴らしい愛をもう一度』を

なんとブラザーズ・フォアがカヴァーしていた

 

https://www.youtube.com/watch?v=bxL1ql21Xks

 

これに

すこし驚きつつ

1971年の

発表当時のライヴを聴き直したりする

加藤和彦のギターが

繊細で

しかるべきところで強く

自在に踊る

 

https://www.youtube.com/watch?v=vNEdh1TehTU

 

三番目にあたるのか

 

 広い荒野にぽつんといるようで

 涙が知らずにあふれてくるのさ

 

という歌詞に

この頃

惹かれるようになった

 

日本の詩は

1970年代には

フォークソングと歌謡曲とに

住み処をすっかり移してしまったが

 

 あの素晴らしい愛をもう一度

 あの素晴らしい愛をもう一度

 

というくり返しには

1971年の

詩の最大の達成があった

 

こう書き直したら

もっと

はっきりする

 

 あの

 素晴らしい愛を 

 もう一度

 

 あの

 素晴らしい愛を 

 もう一度

 

YouTubeには

1970年代の京都の風景を

『あの素晴らしい愛をもう一度』に付けて

出している人がいる

 

https://www.youtube.com/watch?v=2kbuQb98_AY

 

味があって

これがとてもいい

学生運動で大学が焼かれている映像もあるが

当時のテレビニュースでは

よく放映されていた

お馴染みの光景でもある

 

あの頃

わたしは子どもで

時代にまったく参加していなかった

上の世代や

上の上の世代を

ただ見ていただけだった

たぶん

ろくに見てさえいなかった

 

わたしはいまも

時代にまったく参加していない


むかし見ていた

上の世代や

上の上の世代は

死に絶えつつあって

下の世代や

下の下の世代や

下の下の下の世代は

どうやら

生きていながら

死んでいるように

見える

 

 広い荒野にぽつんといるようで

 

と言葉にしてみたい気持ちが

この頃

よくわかる





2025年4月28日月曜日

大衆・民衆・人民による政治的支配

 

 

 

オーストリアでは人間は男爵から始まる。

 メッテルニヒ

 

 

 

「民主主義を守れ!」

「民主主義を守るために…」

などと声を張り上げている候補者を見ると

バカも極まっているな

と思う

 

この現代でもっとも愚かなのは

「民主主義を守れ!」とか

「民主主義を守るために…」とか言うことが

なにか素晴らしいことをしているかのように思い込んでしまう輩だろう

 

民主主義は「デモクラシー(democracy)」の訳語なので

遡ればギリシャ語にたどり着く

「デモ」は「δμος」で「民衆・大衆・人民」あたりの意味だし

「クラシー」は「権力・支配」を表わす「 κράτος」を源とする

だから「デモクラシー」は

「大衆・民衆・人民による政治的支配」ということで

こんなことは高校までにだれもが習う

 

なぜ「民主主義を守れ!」がバカかというと

現代の日本政治にあっては

どっちにどう傾こうが

形式上は「大衆・民衆・人民による政治的支配」は崩れないので

「民主主義を守れ!」と叫ぶ必要がまったくないからだ

どっちに転がろうが

この国は救いようもなく「大衆・民衆・人民」の場であり

さらにいえば「愚民」の国である

政治的スローガンは無数にあれど

「民主主義を守れ!」だけは必要がないというのが

この国の現状だろう

さらに言えば

「大衆・民衆・人民」や「愚民」のなかに

しっかりとあなたや私が場所を占められるかどうか

保証のかぎりではない

「大衆・民衆・人民」や「愚民」は

かならずや文化大革命を引き起こすのだし

クメール・ルージュ的な虐殺をやらかすのだし

もっと近いところではアメリカ民主党的愚昧LGBTQをやらかす

関東大震災の朝鮮人虐殺など朝飯前に引き起こす

 

いや

そういうことではない

「民主主義を守れ!」という叫びは

個々の国民の声や意見や望みがしっかり政治の場に通り

政策に反映されていくような状況を守れ!

ということだ

などと

小賢しい連中は反論するかもしれないが

それが望みだというならば

「民主主義を守れ!」という表現はふさわしくないのだから

用語選択から替えて出直すべきだろう

政治は言葉なのだから

しっかりと的確な用語を掲げ直すべきである

 

今の政治を実際に動かしているのは

一般市民や一般国民の声でなく

官僚や悪徳政治家の思惑や財界の裏取引や新興宗教団体だ

という意味で

「民主主義を守れ!」

と言いたい輩もたくさん存在しているようだが

官僚や悪徳政治家や財界人や新興宗教団体メンバーたちも

あくまで「大衆・民衆・人民」の一部なのであって

貴族でもなければ王侯でもない

「民主主義」という語は

貴族政や王政に対してのみ意味を持ちうる用語なので

経済面での貴族や王侯が現代でも実質的に存在するとはいっても

彼らの身分的な出自はあくまで

「大衆・民衆・人民」でしかないのであってみれば

どうひっくり返っても

「民主主義を守れ!」などという状況錯誤表現だけは使えないはずだ

 

これは日本ばかりに限ったことではなく

全世界がバカなのだと言えるが

ヨーロッパなどには本当の貴族や王侯が今もいるので

「民主主義を守れ!」はまだ意味を持ちうる

とはいえ「民主主義を守れ!」というのは

「大衆・民衆・人民」さらには「愚民」という人間のありようを

守れということなので

賢人政治を希うような人びとの立場からすれば

空恐ろしいことこの上ないとは言える

 





2025年4月27日日曜日

「快」を捨てよ!

 

 

 

多様なようでも

あらゆる人間は単一基準にのみ従っており

それは「快」ということである

 

「楽」や「安らぎ」や「興奮」や

さらに広げれば

「美」や「善」や「清」や「上昇」のようなものも数えられそうだが

それらはみな「快」に含まれる

「自由(感)」や「平等(感)」や「連帯(感)」なども「快」に含まれ

「連帯(感)」の一種である「共同体(感覚)」なども当然含まれるので

社会的感覚や政治的感覚のすべても「快」の中に包括される

もちろん「愛国」や「郷土愛」などは「快」の一種でしかないわけだが

翻って「個人主義」や「利己愛」や「引きこもり」なども

やはり「快」のヴァリエーションでしかない

 

見方を変えれば

これは「快」の奴隷であり

「快」による支配を受け入れ続けていることでしかない

地球上ではいろいろな経験や認識や判断が可能なようでいながら

実際に起こることは「快」に向かおうとする運動に限られる

 

この限界づけの偏狭さに痛切に気づいた者は

「快」への方向性を固定された生からの逸脱や脱出を試みたくなる

ひたすら「快」でない方向へという意識な運動を開始する

 

はじめは「快」から外れた「不快」の領域へ

おずおずと踏み込んでみるところから始まるだろうが

やがて「楽」や「安らぎ」や「興奮」の否定を開始し

「美」や「善」や「清」や「上昇」の破壊に着手し

「自由(感)」や「平等(感)」や「連帯(感)」などの理論的否定に到り

「共同体(感覚)」から「愛国」や「郷土愛」などに至るまでの

全否定に行き着く他ないだろう

 

もちろん「個人主義」や「利己愛」や「引きこもり」なども

根源的な否定の対象とならねばならないが

さらには

さまざまなモノ(偶像/幻影)に「価値」を見出そうとする心的傾向の

根絶にまで至る必要がある

 

もし端的な短いスローガンが必要となるなら

「快」を捨てよ!

「快」の価値化を根底から捨てよ!

「快」のみを生の理由とする根源的愚昧から出よ!

ということになろう

 





2025年4月24日木曜日

心のむさきことなきように

 

 

 

江戸時代の金物彫刻の大家

土屋東雨に

次のような言葉がある

 

何事も技術を好くいたし候わば、

心のむさきことなきように、

これ第一なり。

細工人は、

一生貧なるものと心得、

常に心のよごれぬようにいたし度候

 

わかりやすい

よい教えといえよう

 

「心のむさきことなきように」

「常に心のよごれぬように」

 

他の細かな技術論を言うより

教えとして

いちばん的確かもしれない







「ぼくのとなりにおける」というだけの

 

 

 

死とはなにか。

 

たとえば。

きみはいま此処にいる。

ぼくのとなりに。

 

あっちの椅子まで行って

座ってごらん。

 

そう。

それでいい。

 

きみは歩いて行って

さっき「あっちの椅子」と呼んだ椅子に

(いまは「そっちの椅子」だ)

座っている。

 

そこから

ぼくのほうを見てごらん。

 

ぼくのとなりに

きみは見えるかな?

 

見えないよね。

きみはいま

そっちの椅子に座っているから。

ぼくのとなりには

いま

きみはいないから。

 

これが

きみの死だ。

 

ぼくのとなりにおける

きみの死だ。

 

さっきまで

此処

ぼくのとなりにいたきみの

ぼくのとなりにおける

きみの死だ。

 

どの死も

どこかの場所や時間における

死でしかないように

単に

「ぼくのとなりにおける」

というだけの

きみの死だ。

 





2025年4月23日水曜日

スーパーマーケットの腐敗臭


 


スーパーマーケットで

排水溝から立ち上ってくる腐敗臭が臭うのは

稀ではない

 

特に

春から初夏にむかう季節には

それまでよりも雑菌の繁殖が増すので

どこの排水溝からも

ドブ川の臭いのようなものは

立ちやすくなる

 

毎日のように寄るスーパーマーケットで

今夜はそんな臭いがしていた

ちょっと臭うという程度ではなく

その場にいたくなくなるほどの臭いで

精肉売り場から鮮魚売り場にかけて

逃げ場がないほどに充満していた

 

ドブ川の臭いを超えている

肉や魚の断片にくわえ

魚の血などが排水溝に流れ込んだものの

管や網のあちこちに付着して

腐敗していっている様子が想像された

 

しかし

本当に気になったのは

こうした臭いの充満ではなかった

 

わたしはいったん

精肉売り場や鮮魚売り場を離れ

パンや惣菜や酒類の売り場にまわって

その後でもう一度

鮮魚売り場や精肉売り場に戻ってみた

 

驚かされたのである

 

ついさっきまで

あれほどひどく臭っていたのが

わずか数分ほどの後に

まったく臭わなくなっていたのだ

 

その短い時間内に

強力な換気が行われたとは思えない

精肉売り場からひと続きになっている鮮魚売り場まで

あれほどひどく腐敗臭が立ち込めていたのに

たったの数分でそれが消えるわけがない

 

低級霊が現われたり

通過していく時の臭いのことを

思い出した

ひどい腐敗臭やドブ川の臭いなのだが

それは物質的に漂っている臭いではないので

霊が去ってしまえば

嘘のように消える

 

それだったのではないか

と思われた

 

もちろん

初夏にむかう時期ならではの

排水溝の臭いも

実際にあったのだろうが

これほど短時間で

なんの臭いもしなくなってしまうというのは

やはり

物質的な臭いだけではなかったのではないか

と思われた

 

わたしの思い込みかもしれないし

微妙なものである嗅覚に関わるものなので

決めつける気はない

 

ただ

スーパーマーケットに行く前に

ちょっと見ていたYouTubeのなかで

しゃべっているYoutuberの背後やわきに

半透明の妖精のような霊体が

しばらく浮遊しているのを見たので

おやおや

ずいぶんとはっきり見えているけれど

このYoutuber自身はまったく気づいていないな

と思ったりした

 

Youtubeのようなネット経由の動画上でも

こんな霊体が見えてしまうように

じぶんもなったかと

すこし驚いた後の

スーパーマーケットでの

臭気体験だった

 

 



仏に定相はない

 

 

 

 

だれが仏なのですか

だれが仏でないのですか

ペ・ヨンギュン 『達磨はなぜ東へ行ったのか』(1989)

 

 


 

若い頃の

馬祖道一は

坐禅ばかりしている

 

それを見て

仏法の器である

と見たからであろうが

南嶽懐譲が

瓦磨きの

あの有名な話を吹っかけた

 

葛藤集にある話である

 

瓦を磨いて鏡にしようと思う

と南嶽懐譲が言うと

馬祖道一は

磨いたって瓦は鏡にはならない

と答える

 

これが南嶽懐譲の策で

それじゃあ

坐禅したって

仏にはなれない

と話を持って行く

 

坐禅を学ぶならば

禅は座臥に関わらない

坐仏を学ぶならば

仏に定相はない

何物にも執われぬ法においては

取捨があってはならぬ

坐仏に著すれば

仏を殺すことになる

坐相に執われれば

理に達したことにならない

 

仏に定相はない

というのは

どんな時にも忘れてならない真理なのに

あまりに忘れられがちな真理だ

 

きれいに整序されて

埃ひとつない家で

心おだやかに

静かに日々を送るのは

もちろんよいが

ダニどころか

ゴキブリやネズミも

そこらに潜んでいそうなゴミ屋敷も

仏の相である

 

これは

じつはそういう現場に立てば

仏の相のひとつとして

つよく迫ってくるのだが

思いのなかでは

そんな光景は仏とは真逆であると

否定してしまいがちになる

 

物や光景や出来事に

浄穢はなく

美醜はなく

卑賤はなく

まさに

仏に定相はない

 

魂の根底にまで

これが染み込むまで

人間は

仏ならざる(と見える)多様な光景を

さんざん見せつけられる

 

仏に定相はない

根っこの底の底まで染み込んでくると

おもしろいことに

整理された環境や

埃の少ない環境などが

自然に

身のまわりに集まってくる

 

仏に定相はない

いかなる物も光景も出来事も仏だ

と心根に染み込んでくると

逆に

身のまわりをきれいに整序し

埃や塵を残しておかないようにし

心おだやかに

静かに日々を送ろうとする