2026年4月6日月曜日

「私」から発して「私」からはなれていく


 


定住の家を持たねば朝に夜にシシリイの薔薇やマジョルカの花

斎藤史

  


詩人の山本かずこが

「〔同時代〕としての女性短歌」に

「不快な女の『病』」という文を寄せていた

 

詩人たちが

女性歌人たちに苛立つ際の

典型的な反応のひとつが述べられていて

1992年発行のものを前にして

今さらながらの感を禁じ得ないとはいえ

面白かった

 

「私」から発して、

「私」からはなれていくのが文学表現だとおもっているので、

いい作品は

歌をかかない人の「私」とも重なって、

歌いつがれていくのではないのか。

 

という

詩に接している人たちに共有されるはずの

というより

書き手としてであれ

読者としてであれ

フィクションや創作的言語表現全般に関わる人たちに

ひろく共有されているはずの

根本の根本を

山本かずこは吐露しているが

これが

女性歌人たちには共有されていない

ということに

彼女は驚いている

 

河野裕子の作った短歌

「垂直にふぐりといふは垂るものか鋭く繊き男と思ふ」

をめぐって

江川麻子が

「決定的に失敗作」である

と断じるあたりをめぐって

山本かずこの考察は動いていく

 

今では

あまり目にすることのできない文章なので

ここに全編を引用しておこう

 

 

不快な女の『病』   山本かずこ

 

さいきん必要があって、短い期間ではあったけれど、そしてきわめて限られた女性の作品ではあったけれど、短歌を読んだ。読んでいくうちに、いくつかの書物と出会ったが、そのなかの一冊に「歌うならば、今』(而立書房)というのがあった。今から八年前(一九八四年)、京都YMCA国際文化センターで開催された「春のシンポジウム」における全発言を収録したものである。「あとがき」によると、このシンポジウムは、女性の、しかも個人による企画・主催によるもので、この種の催しとしては、短歌史上初めての試みなのだそうだ。私はこれを読みすすむにつれて、そのすさまじさに、驚き、ドキドキして、どうしてかはわからないのだけれど、イライラした。


 出席している女性歌人の名前は、一連の書物を読んでいるうちに見知った名前が多かったから、短歌の世界では、実力は知らないけれど、名前だけはよく知られている方なのだというぐらいにはわかった。その中堅どころ、そして新鋭というポジションにいるとおもわれる方たちのディスカッションを読んでいて、「でも、これは今から八年前のことなんだから」と何度もおもいながらも、現代短歌の世界の女性のかきての、女としての「病」を感じた。さっきのイライラした感情は、赤裸々な女のナマな「病」にいきなりつきあわされた、そのことの不快さにつながるのだろう。

そして、この種の「病」というのは、八年たったからといって、よくなる種類のものではない、ともおもった。さらに驚いたことは、短歌とは他人の読み方を気にしたり、ときには受け入れたりしながら成り立っているもののような気がしたことだった(そういうつもりでかいたのではない、こういうつもりでかいたのだ、と自己解釈をしなければ気がすまないことも含めて)。私には、それは作品そのものがいつかすることであると、おもえるのだけれど、まるでひとつの歌をめぐって裁判をひらいているかのような印象を受けたのだった。文学とは無縁の場所にはいりこんだような気がした。デイスカッションのなかで、裁判にかけられていた短歌は「性」に関する歌が多く、特に「新進気鋭の若者たち」と紹介された人々の口から〔声明文〕が読みあげられているのだった。 江川麻子という人が河野裕子という人の「垂直にふぐりといふは垂るものか鋭く繊き男と思ふ」という歌について「男性からは非常にうけるのだけれども、女性からは総スカンを喰らってしまうという一群の作品があ」る、としてこの歌をあげていた。この「総スカン」を喰らっている理由のひとつとして「鋭く繊き男」という表現をあげ、「男というものが鋭く美しいのではなく、この男は鋭く美しい、つまり私の男はいい男(笑)、こういう構図なのです。しかも、自分の男を肯定しながら、それを所有する自分自身を肯定する、したり顔が、同性の目には見えてしまう」といっている。

私は、正直にいって、びっくりした。「私」から発して、「私」からはなれていくのが文学表現だとおもっているので、いい作品は歌をかかない人の「私」とも重なって、歌いつがれていくのではないのか。江川という人の発言は、そこまでが射程にはいっていない、とおもったのである。それに、作品の出来不出来云々の前に、私の男はいい男と心底おもってそれをかいてどこが悪いのだ、という形式を超えての素朴な疑問もある。なおも江川という人は「男性に向かって演技しているこの作品の構造が女性の読者にはつぶさに見えてしまうので、この作品はつまらない」のだ、という。「決定的に失敗作」である、とも。
 この発言は「女性の読者」という衣を借りてはいるけれど、「女性の読者」とは、すなわち自分のことだというのがよくわかる。なぜなら、最低限、私などはそうはおもわないからだ。「女性の読者」などという、正義を振りかざしたような物いいをしないで、「私」はいいとはおもわない、といえばいいのではないか。そのほうがよっぽどすっきりする。よっぽど美しい。この江川という人の発言を受けて、佐藤よしみという人もまた「河野さんは感覚的な人だから、無意識に男うけする歌をつくっている部分があると思います。それは今後、私たちがビシビシ斬っていく中で、河野さんだから変わっていくだろうと思うわけです」と滑稽きわまる判決をいい渡していた。このときの「私たち」も、やはり「私」といったほうがいいのに、とおもった。「私」へのこだわりは、まさに短歌的課題ともつながるのではないか、と門外漢ながらそうおもった。


 すべて一冊の本を読んでの感想文にすぎない。河野裕子という人に義理だてしなければならないなんの理由もないのももちろんだ。


 ただ、性の描写について、私は敏感に反応する自分をあらためて確認したといえばいいのだろうか。それにしても私が(現代)詩を選んでいるのは、いっさいのモチーフや主題は通じなくてもいいけれど、詩をうまくかきおわったとき、「この放出した感じだけは伝わるはずだという希望をいだく」(吉本隆明『詩とはなにか』)、つかのまの至福にあるのだとおもう。


 その気分は私にとって手放せないものだ。そして私なら性の描写はこんなふうにやる。願わくは、「私のいい男」をもつ女性に読んでほしい。

 

あなたの

汗の はげしい

雨を浴びながら する

夏の行為のあいまには

ベッドのそばに立って

かたちのいい
美しい

あなたのお尻を見せてちょうだい

それから そのまま

なんどでも ゆっくりと

私の方を向いて

(あなたが ほんとうに男であってよかった

(私が ほんとうに女であってよかった

目に見えるものからも

目に見えないものからも

目をそらさないで きょうの

私は

そのことだけが言いたかったのだと思う
(「夏の行為」  詩集『愛の行為』所収)*

 

 

最後の「夏の行為」は

元の文章では

行数節約のためにスラッシュを使ってまとめられていたが

ここでは

詩のかたちに復元しておいた

 

「私たち」を平気で使い続ける

というか

平気で「私たち」という虚構の砦に籠もってしまう歌人たちに比べ

詩人たちは

「私」という軽装か

あるいは

味方のまったくいない孤絶さを拠点として

言葉を紡ぐ傾向がある

 

この両者のスタンスの違いは

とほうもなく大きいとも言えそうだが

私には

じつはたいした違いはないとも見えてならない

 

山本かずこと違って

私は和歌も短歌もおいしがって喰らうので

歌人たちの趣向も癖もよくわかって面白がっているつもりだが

そうではあっても

女性歌人達に対する山本かずこの苛立ちも

やはりよくわかる

 

自由詩も

短歌も

俳句も

論文も

エッセーも

おちゃらけ文も

戯文も

メモも

なんでもおもしろがる私からすれば

より射程のひろいドンファンになればいいだけのこと

と見えもする

 

山本かずこは

ミッドナイトプレスの岡田幸文氏の夫人で

岡田幸文といえば

かつては詩誌『詩学』の編集長であり

後には詩誌『ミッドナイトプレス』の編集長でもあった

岡田幸文氏からは

『ミッドナイトプレス』への詩の依頼を何度かもらい

まずい詩を寄せさせてもらった

外苑前のハウル(Howl)で

朗読会やレクチャーをする時にも

よく聞きにきてもらった

夫人の山本かずことも

そんなおりに出会ったものだった

 

その頃は

山本かずこは着物を着ていたので

着物雑誌『美しいキモノ』で編集者をしていた私の妻の頼みを伝えて

雑誌に出てもらったことがある

いつの年のいつの号だったか

もう覚えていないが

探せばどこかに必ず見つかるだろう

 

2019年に69歳で亡くなった岡田幸文氏について

山本かずこが記した

『岡田コーブン ただ、詩のそばで』**

まだ読んでいなかったので

ついさっき

注文したところだ

 

次の土曜日か日曜日には

たぶん

届いているだろう

 

 

 

 

*「〔同時代〕としての女性短歌」(河出書房新社、1992,pp.306-307

**『岡田コーブン ただ、詩のそばで』(ミッドナイト・プレス、2024)




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