仏教の唯識派と中観派は
ホトケを信じるというような
甘い盲信への傾斜と異なり
厳格な知的分析の要求される哲学で
ここをたっぷりと学ばなければ
仏教の核心に触れたとはいえない
というより
仏教は信仰行為ではなく
どこまでも分析と再総合の知的な哲学であって
哲学行為を行いながら
心身と霊とそれらの超越場との統合を試みつつ
さらには
いわゆる聖と俗との領域や
清と汚濁や
善と悪
物質と非物質の完全な同一視を実現する霊的ヨーガ実践であって
手をあわせて念仏を唱えれば済む
というようなものでは
まったくない
心理学であるとともに
深層心理学でもあれば精神分析学でもある唯識は
ひとりのヒトが
なぜ
物質と偏った不自由な習俗の世界に生まれ落ちるのか
そのカルマや因縁や縁起をも含み込んだ
宇宙構造心理学となっている
アーラヤ識という概念にすっかり馴染むと
そういえば
「アーラヤ識」を意味する「ālaya-vijñāna」や「आलयविज्ञान」の
「アーラヤ(ālaya)」に
雪や氷を意味するサンスクリット語の「hima」が付くと
「himālaya」となって
ヒマラヤ山脈のことになるのだと
ちょっと
よけいかもしれない話も
視野に入ってくる
ヒマーラヤの話などが
よけいなことだというのは
とにかくも
たえず
次のような考察に立ち返り続けないと
いけないからだ
もろもろのものはどのようなものでも
どこにあっても
いつでも
みずからも
他からも
自他のふたつからも
さらに無因からも
生じたものとして認められない
龍樹(Nāgārjuna)
『中論(Mūlamadhyamaka-kārikā)』 第一章第一偈
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